第26話

「すみません。突然、こんなところに」

「いや。僕も同じようにキミを連れて行ったからね。話したいことがあるんだろう? 僕もキミの話が聞きたかったんだ」

 促すように聞くと、松原は身体の前で手を組み、その指を弄びながら言う。

「私、高校二年生なんですけど、この大学で調べたいことがあったんです」

「大学の学部で研究をする、という意味ではないのだろうね。大学自体について、気になることでも?」

「少し違います。もっと正確にするなら、ここに通う大学生についてです」

 松原が視線を動かしたのは、駐輪場から微かに見える、学園祭の中を走り回る学生たちの姿を目に映すためだっただろう。健吾も釣られて同じ方向を見やるが、特に変わった点は見い出せなかった。

「私……一年前に、付き合っていた人がいたんです」

 視線は戻さないまま、しかし彼女は目を伏せるように嘆息して語り始めた。

「彼は三年生で、私のことを守ってくれる頼もしい先輩でした。でも彼は私を裏切って、受験を終えると一方的に私を捨てて、そのままどこかへ行ってしまったんです。ただ、それでも私はどこか諦めきれなくて……」

「それがこの北信州大学だったと?」

「いえ、実はわからないんです。ただ彼はここを受験すると言っていたので、ひょっとすればと思って……彼も私と同じでテニスが好きだったので、見つけられるとすればテニスサークルだろうと。直接会いに行けば何か良くないことがあるかもしれないので、遠くから見ることしかできませんでしたけど……」

 どこかまくし立てるように言うと、松原は深く息を吐いた。今度こそ俯いて、健吾の方へと顔の向きを戻す。前髪に隠れて表情は窺えなかったものの、少なくとも明るいはずがないだろう。

「私、テニス部に所属しているんですけど、同級生や後輩たちにまで、虐めに近い扱いを受けていて……すごく不安で、どうしても誰かに頼りたいと思ってしまったんです」

 だからこそ、自分を裏切った恋人にでもすがりたがってしまった、と彼女は言う。その口振りや声音には、明らかな苦悩と辛苦が滲み、今にも泣き出してしまうのではと思えるほどだった。

 ただ、それでも彼女は実際に涙を見せることはなく顔を上げると、「だけどそれじゃダメですよね」と気丈に振舞おうとしているのか苦笑してみせたのだ。

「何をされても、ひとりで頑張らなきゃいけませんよね。そうでないと、社会に出てから困りますから」

 そして彼女は立ち上がると、気落ちして重くなっていそうな身体を無理矢理に跳ねさせ、座っていたポールパイプから飛び降りた。靴で地面を叩く音を鳴らすと、まだ座ったままでいる健吾に背を向ける形のまま、振り返らないままで謝ってくる。

「すみません。初対面の人に、こんな話をしてしまって」

「いいや、気にしなくていい。キミがそうして話をしてくれたのが嬉しかった」

「健吾さんって大人の雰囲気で、優しくて、つい甘えたくなっちゃったんです」

 その言葉を聞きながら、健吾は自分も立ち上がって松原の隣に並んだ。そして軽く背中に手を触れさせてやると、彼女は少し驚いた様子を見せたものの、怯えることも逃げ出すこともしなかった。それどころか戸惑いの中に期待を込めているような眼差しで、健吾の方を見上げてきたほどである。

 彼女がどんな心中でいて、何を望み、それを押し隠そうとしているのか、健吾には明確に理解できたような気がしていた。そしてそれこそ、彼女が初対面の相手にも関わらず自分の心苦しい過去を語った理由に違いないだろう。

 だからこそ健吾は、どこか不安そうに眉を下げ、瞳を揺らす松原に向かって、「僕にはキミの気持ちがわかる」と優しい声音で囁きかけた。そして驚く松原に対して、自分も友人から裏切られ、大きな怪我を負ったことがあるという過去を語りながら、自分が味方であり、同じ気持ちを共有できる理解者であることを示したのだ。そうして最後に、「僕の前では強がらなくていい」と告げると、彼女は一瞬の間を置いてから、とうとう表情を崩し、筋肉を強張らせ、堤防を決壊させたように涙を零し始めた。

 わあっと声を上げるほどで、彼女はそのまま健吾の方へ向き直ると、その胸の中に身体を飛び込ませた。額を付けさせ、震える涙声で、今の状況に気が狂いそうなほどの苦痛を感じていることや、ひとりでは耐え切れないことを吐露し、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかと、悲痛な本音を口にした。

 そうしてひとしきりの感情を吐き出し終えるまで、健吾はじっとそれを受け止め続けていた。その間、彼女の身体を強く引き寄せ、抱き締めたが、彼女は嫌がる素振りなど見せるはずもなく、どころかもっと強く健吾に身体を預けようとするほどだった。

 やがて松原は若干の落ち着きを取り戻し、涙をしゃくり上げながらも、酷い姿を見せてしまったと謝ってきた。健吾が気にするなと言って目元を拭ってやると、彼女は嬉しそうな、けれど躊躇うような、複雑な表情を向けた。

 そしてもう一度謝る言葉を口にすると、「このままだと健吾さんに迷惑をかけてしまいますね」と言い、自ら離れようとする素振りを見せた。しかし健吾には、それが本心でないことを理解できていた。彼女の気持ちが不思議なほどにわかるのだ。彼女が何を思い、何を与えられたがっているのか、そしてそれが健吾の望むものと不可解なほど合致しているのである。

 だからこそ健吾は躊躇もなく、確信を持って彼女を再び抱き寄せたのだ。

「キミをこのまま、ひとりにはさせられない。甘えたいのなら僕が受けて止めてあげるよ」

 頬が触れるほどの耳元で囁くと、彼女はまた涙を流したようだった。しかしそれは苦痛にではなく、「嬉しい」と言って頷いたのである。

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