第24話

 およそ一週間ほどだろうか。学園祭の当日を迎えるまでの間に、健吾は多少なりとも冷静さを取り戻していた。あの少年が発していると感じた恐るべき気配については、紛れもなく自分自身の思い込みの産物でしかなく、単に彼が不可解な出現をしたせいで、混乱していただけに過ぎない。一見して不可能に思える超常的な手品を見せ付けることで冷静さを失わせ、その後の主導権を握るというのは、いかにもよくある手口だった。

 少なくとも健吾はそう考え直すことができたし、出現と消失の方法はわからないにせよ、何か手段があったに違いないことは確信していた。

 それと同時に、彼の告げた指示に対して、馬鹿馬鹿しいという思いを抱くようになっていた。子供が尊大に、しかも指示内容としては至極単純で尊さの欠片もない、学園祭へ行けというものだ。それが未来とどう繋がるというのか。

「……どう繋がるんだろうな」

 そう思いながらも、しかし健吾が呟いたのは、まさしく北信州大学の正門前だった。

 あの予言かお告げを受けた時から、健吾は様々に反発し、反論や否定を頭の中で並べ続けていたのだが、それでも当日になればそれに従ってしまったのだ。

 ただ、それも少年に対して全幅の信頼を寄せたわけではない、というのが健吾の主張でもある。ただ今まで、こうした催しに部外者として参加することがなかったのは事実であり、未来を大きく変えるかどうかは別として、新たな経験の一つにはなるだろうと思えたのだ。あの少年の言葉は、所詮は子供の悪戯か、あるいは新手の客引きに違いない。ならばそれに引っかかってやるのもいいだろう。恥も少しくらいは刺激になるかもしれない。

 加えて北信州大学というのが、恋人である沙織の出身校であることを思い出したのも、足を向けさせた要因の一つだった。

 その大学について、健吾は長野に来るまで、いや沙織と出会うまで知らなかったのだが、沙織との交際が始まったおかげで、彼女からいくらかの関連する話を聞くことができていたし、そのうちのいくつかは記憶していた。

 ただ、沙織自身は母校にいい思い出がないのか、あまり深く語ろうとはしなかったし、話題を逸らすことさえあったほどである。思えば大学を卒業した直後であっても、彼女の口から学祭の話が出ることはなかった。そのため、健吾は沙織を誘わないのみならず、ここへ来ることを悟られないようにしなければならなかった。

 チープとも言える作りのアーチをくぐり、キャンパスの中に足を踏み入れると、そこには若さと活気に溢れ、確かに刺激と呼べるかもしれなかった。普段は学生たちが闊歩しているはずの通りを、今は外部の人間が占拠し、当の学生たちは通りの両端に模擬店を構え、客引きの声を上げていた。

 大学名の書かれた白い屋根を持つ店の多くは、人目を惹こうと趣向を凝らした装飾が成され、通りに奇妙なカラフル模様を作り出している。時には誰かが逆転の発想とでも言ったのか、あるいは装飾よりも中身で勝負などと言ったのか、白いテントのままである店も見かけられたが、それもまた色合いの一つとして溶け込んでいた。

 学び舎を横目にそうした道を歩くというのは奇妙なもので、加えてそこに老若男女が集った上、それら全てが自分の全く無関係であるなら、なおのことだった。

 他の一般的な祭り行事とは全く違う、独特な賑やかさがある。あるいは、それは模擬店を構える学生たちも含めて誰しもが参加者であり、良く言えば商業的なものを感じさせないためだろうか。悪く言えば学生たちの遊びに金を払っている、という捕らえ方もできるのだが、この雰囲気にはそれだけの価値があるのだろうとも思えた。

 ただ同時に、健吾にとってそうした雰囲気は、自らが無為に失った時間を思い知らされるようでもあった。この奇跡的とも言える前向きとした混沌の騒ぎをどこか遠くに見つめ、自分だけが切り離された異空間を歩いているのではと錯覚してしまうのだ。

 実際のところ、年齢からすればそう大きく違っていることはなく、達観するほどの人生経験を積んでいるとも言いがたいのは自覚していたが、それらを飛び越えたなんらかの奇妙な雰囲気――ここに集っている学生たちと自分とでは、全く別の時間、時空、存在であるのではないか、などと感じてしまったのだ。

 それは恐怖にも似たものであり、健吾の中に様々な感情を湧き上がらせた。あるいはそれも、あの少年が言っていた刺激というものなのかと思ってしまうが、すぐにかぶりを振って否定する。健吾はどうしようもない孤独感を抱きながら、時には感覚を共有したがって、いくつかの模擬店に立ち寄ることもあったのだが、結局は格別なものもなく、最終的にはただ歩き回るだけになっていた。

 やはり期待する価値はなかったのかと落胆したのは、三十分ほども歩いた頃だろうか。人混みに紛れ、足が重く、また時には立ち止まってぼんやりを校舎を見上げることもあったため、半周ほどしかできていないのだが、今すぐ引き返して帰るべきか、それともこのまま一周した方が早いだろうかと考え始めていた。

 そんな時である。あまり立地がいいとは言いがたい、裏門とも離れた奥まった校舎の陰のような場所に、ある模擬店を発見した。そこに置かれた立て看板には、お好み焼きの文字と共に、『北信硬式テニスサークル』と記されており、紺色の練習着らしきものを着込んだ数名の男女が、客寄せや調理に忙しく動き回っているようだった。

 ただ、健吾が注意を惹かれ、目を向けたのは実際のところ、そのどうということもない、平凡な模擬店にではなかった。むしろそれとは正反対とも言える木陰に隠れるようにして、ひとりの少女が立っていたのだ。そして彼女の見つめる先にあったのが、テニスサークルの模擬店だっただけのことである。

 彼女がいる木陰は、傘のついたテーブルやベンチを置き、フードコートや休憩所として利用するようにしてある小スペースのようだった。いくつかの木々が並ぶ中、そこに背をもたれかけさせ、さも少しそこで休んでいるだけと装いながらも、ちらちらと肩越しに模擬店を覗いていたのだ。

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