第23話

狭い室内を嫌味なほど照らす白い照明に曝されたのは、他でもなく健吾と沙織が交際を始めた頃からの写真の数々だった。

 満面の笑みで写る、三年前の自分と恋人である。

 背景はどれも異なっている。最初の少しだけは東京や各県のテーマパーク、観光地などで、その後は長野での風景が主だったが、それは紛れもなく転勤のためだろう。

 住居を移してから最初に行ったのは、長野で行われたテニスの国際大会であり、それは彼女がテニス好きだと言っていたためだった。アルバムにもしっかりと、その試合会場をバッグにした、幸せそうな笑顔を浮かべるふたりの映る写真が収められていた。

 その他にも実際にふたりでテニスを体験したレンタルコートや、単純にデートスポット、果てはなんでもない近所の公園もある。行く先々で写真を撮っていたことが窺えて、加えて最初のうちに記されている日付は、ほとんどが定期的なものだった。

 ただ、アルバムの半分を超えた辺りからは、少し雲行きが怪しくなってくる。最初に感じたのは、ふたりの写真の写り方である。最初の頃はどれも大袈裟で、動きのある、時には他人が見れば薄ら寒いと感じるかもしれない、珍妙なものまであった。しかしそれが少しずつ大人しく、落ち着きある平凡なものに変わっていったのだ。満面の笑顔は変わらないまま、それはある種、ふたりともの成長の証とも言えたかもしれない。

 しかしさらにページを進めると、以前と同じ風景が目立ち、日付も不定期でまばらなものになっていった。表情からは大きな笑みが消え、どこまでも落ち着いた、笑顔ではあるものの平静としたものが多くなる。

 そして日付が現在に追いつくより数ヶ月も前に、とうとう何ページかの空白を残したまま、写真が尽きてしまったのだ。

「…………」

 健吾はやはり無言のままで、そっとアルバムを閉じた。溜息を落とすことはなかったが、細く長い息は吐いたかもしれない。そしてしばし、そのまま俯くように座り続けた。

 お互いに、真新しさを得ることができなくなっていた。それは間違いないだろう。

 例えば毎週一度デートに行けば、三年で一五〇近くにもなる。それが大袈裟だとしても、真実はその数をどれほど減らせるだろうか?

 二度、三度と同じ場所へ行くことになれば、二度目が一度目を超えることは、そう多くない。三度目はたいてい、過去二回の思い出の確認だ。そんなものはアルバムでも見ていればいい。アルバムを見て、当時を思い出して、そこへ行きたくなっても、実際に行ってしまえば思い出を汚すだけに他ならない。それがわかるようになれば、なおのこと選択肢は減っていく。

 そうなれば頻度も減り、頻度が減れば刺激も減るという悪循環に陥るのだ。

 単なる、恋人ができる前に送っていたのと変わらない日々であることを、健吾も沙織も感じていた。

 今はそこに習慣の一つとして、恋人に会うという項目が増えただけに過ぎないのではないか。幸せに惰眠を貪る時間を、別のものに変えただけの日々なのではないか、と。

 かといって全く楽しみがないわけでもない。それは当然のことで、通常の友人と会話をするのですら楽しく思うのだし、毎日顔を合わせる同僚との何気ない雑談ですら、楽しみに入れたところで不思議がる者はいないだろう。それに比較すれば、どれほど習慣化したとしても恋人が他人未満になることなどなかった。

 そして学生時代を終えたからこそ、こうした何事もない日々がどれほど重要か、ましてそこに気を張る必要のない相手がいるのはどれほど貴重で、喜ぶべきことか。それもわかっていたのだが。

 二週間前の出来事は全く思い出せなくなるが、一週間前の出来事は昨日のように思い出せる。そんな惰性の日々であることを、健吾は改めて突き付けられてしまった気がして、自分をこの恐るべき青いアルバムへと導いた、外部からに違いない悪辣ななんらかの意志に舌打ちし、立ち上がった。そしてアルバムを再び、今度は決して落ちてくることがないよう押し込むべく、その適切な場所を探そうとしたのだが……

 その時だった。

 重苦しい身体を渋々と、部屋の奥にある書棚の方へ向けると、そこにはいつの間にか、奇妙な少年が立っていた。

「苦しい? 辛い?」

 今まで全く存在しなかったはずの、不似合いな白衣を着た中学生のような少年である。彼はおぞましいほど淡々とした声音で、健吾が喫驚した声を上げたり、どこから入り込んだのかと怒鳴ったりするよりも早く、突拍子もなくそう尋ねてきた。

 それに全く理解が追いつかず、健吾は困惑して目を見開いたまま硬直した。巨大な肉食獣を目の前にしたかのように背中を粟立たせ、息を呑み、言葉を失い、思わずばさりとアルバムを落としてしまうが、構う余裕などないほどだった。そしてそうする間にも、その奇妙で薄気味の悪い、口元だけを微笑させる少年は言うのだ。

「闇雲に時間を塗り潰す、堂々巡りの惰性……そこから抜け出したいのなら、ボクが導いてあげるよ」

 健吾はそもそも、少年の存在についてまだ受け入れられていなかったのだが、それでもそうした奇妙なほど達観した言葉に、「子供が何を言うんだ」という反駁がよぎった。

 しかしそれもまあ口に出すことができなかったのは、やはりその少年が、異様なほどの迫力を持っていたからに他ならない。

 自分が冗談めかして想像した外部からの悪辣な意志などより、遥かに強大でおぞましく、また心底の邪悪を潜ませ、それを当然のものとしているような、得体の知れない、底の見えない人間外に思えてならなかったのだ。

 もちろんそれは奇怪な現象、ましてこの子供が巧妙な手口によって作り出したある種の手品によって植えつけられた錯覚と、感傷に浸っていたせいで引き起こされた奔放な妄想に違いないだろう。

 ただ、それでも奇妙なほど少年の声だけはハッキリと聞き取り、理解してしまうのも自覚していた。彼は不可解にも、「北信州大学の学園祭へ行け」と言うのだ。

「それはきっと強い刺激になる……未来を大きく変貌させるほどの」

 少年はそう告げると同時に、壁の中へ入り込むように姿を消してしまった。

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