四章
第22話
■4
交際から三年も経てば、相応の安定というか、マンネリのようなものを抱くことがある。まして、それが日々新しい発見と希望に満ちていた学生時代であるならともかく、落ち着きと安定とを強要され始める年齢となれば、単なる習慣化してしまうのもやむを得ないことと言えるだろう。あるいはその習慣化こそが、世間の要求する落ち着きというものだとさえ言えた。
健吾が沙織と出会ったのは二十六歳の時である。東京から長野へ転勤した健吾が、自社の面接を受けにきたに違いない、どうやら気落ちしているらしい女子大生――つまり沙織を見つけ、声を掛けたのが始まりだった。
その時は、性別的な下心というよりは、もう少しだけ純粋な気持ちだっただろう。ただ、そうしたきっかけによって、次第に性別を意識するようになっていったことは間違いない。健吾は沙織の持つ儚げな雰囲気に、沙織は健吾の持つ穏和そうな雰囲気に興味を抱き、浅からぬ交流が始まったのだ。
健吾の勤める会社は長野県の西部にあり、一方で沙織の住まいである実家は北部にあるため、彼女は交際をきっかけとして西部に移り、健吾の住むマンションに程近いアパートを借りることになった。就職については当初、諦めず再度健吾と同じ会社を受けたいと望んでいた沙織だったが、健吾の薦めもあって別の場所を選ばなければならなかった。
交際が始まった頃、沙織の中にあったのはひょっとすれば羨望や憧れの感情だったかもしれない。健吾は四つだけとはいえ年上であり、学生という保護区から恐るべき広大で無慈悲な大海原へと漕ぎ出ることになったばかりの沙織にとっては、最も頼りになる先輩に他ならなかったのだ。
沙織は健吾の知識や経験に導かれることを望み、それによって社会を見回していった。当初、彼女の目はまさしく日々新しい発見と希望に満ちていただろう。仕事上でも成功による歓喜はもちろん、失敗による落胆も、怒りも、学生時代のバイトとは全く違う気配を持つ、真新しい自分自身の経験として流れ込んでくるのだ。
もっとも最初は真新しい経験が多すぎるあまり、その整理に自分の身体や頭が付いていけず、混乱したり狼狽することもあったのだが、健吾の助けを借りることで、それをやり過ごす手段を身に付けていくことが可能だった。息を抜く場所も、環境への適応も、また仕事上の具体的な悩みやその解決も、同様に健吾に助力を受けていた。
さらに健吾との恋愛も同様であり、それもまた学生時代とは違った雰囲気の恋愛の形として、新生活と共に強い刺激になっていたことは間違いなかった。
そうして沙織は少しずつ仕事や環境に慣れていき、やがて己の身の置き場所、行動の取り方を理解すると、それらを一つずつ習慣化させていく作業に入ることができた。
そして三年も経過する頃には……健吾との恋愛もその中に含まれたのだ。
一方で健吾にしてみれば、人を導く立場を持つというのは紛れもなく愉悦であり、またそれによって沙織が成長していく様を間近で見ることができるのは幸福だった。
健吾は過去、誰かに従えられて過ごしていたことがあり、それによってそうした上の立場の人間に付き従う満足感と同時に、反対に誰かを付き従えさせるという優越感を抱きたいという思いを持つようになっていた。そこに現れた沙織は、まさしく理想通りとも言うべき儚さを滲ませており、あるいは就職活動を控えた大学生のそれだったかもしれないが、彼女を守護したいという思いが芽生えたのだ。
そして思い描いた理想のまま、沙織は自分に付き従い、守護されることで幸福を得ているに違いないように見え、健吾は紛れもない充実を得たと言っていいだろう。
ただ同時に、問題はまさしく、彼女がそうした健吾の守護と教育によって成長を見せたことにあるとも言えた。成長は即ち、守護を必要となくすのだ。守るべき状況は減り、教えるべきことも少なくなり、時にはごく小さいながらも、沙織の方が経験に秀でる分野まで出現することになった。
三年も経てばそうしたことは当然として多くなり、その結果、健吾は次第に沙織との生活に価値を見い出すことが容易ではなくなっていった。
「…………」
健吾は自宅であるマンションの、書斎と寝室を兼ねた部屋の中で、それをいまさらのように改めて感じていた。
それはある日の夜、持ち帰った仕事を仕上げ、一息つこうとした時、偶然にも書棚からアルバムを落としてしまったせいだった。中に入っていたのではなく、書棚の上に雑多に置かれていたものが、本を抜き取る際の僅かな振動で滑り落ちてきたらしい。
もっと正確に言うならば、多く落ちていた本の類の中に、それを発見したのだ。四畳かその程度しかないスペースにベッドと書棚と書き物机を置いたせいで、残る床は自分が歩くだけの幅しかない部屋である。それを埋め尽くそうとする、買っただけで忘れ去っていた本や、紙の詰まったクリアファイル、中身のないバインダーなどの落下物を拾い上げていて、最後に残ったのがアルバムだった。
見慣れたはずの、しかしすっかり忘れていた無地の青いハードカバーをしたアルバムである。健吾はそれに、無性な悪寒というか怖気のようなものを感じ取ったものだ。それはその中に詰まったものが健吾に何を自覚させるのか、直感したために他ならないだろう。
しかしそれでもベッドの横に座り、恐る恐る表紙を開いてしまったのは、自分を貶めようとするなんらかの外部からの悪辣な陰謀や、その力によるものに違いないと、健吾は感じていた。事実、健吾はその瞬間、アルバムを覗くことを促す恐るべき邪悪な誘惑を聞いた気がしたのだ。そしてそれに抗うことができず、従ってしまったに過ぎない。
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