第20話

 佐口が授かったのは、少年の持つ大仰で驚異的な、神性かあるいはその正逆の存在を感じさせる異様な気配とは全くかけ離れた、ごく簡単なものだった。

 さらに付け加えるなら、悪辣さや卑怯さを持つ小手先の、卑屈な人間による単純な助言に等しいと言えたかもしれない。

 その内容は、要約すれば「こちらから謝ればいい」というものだった。反抗すれば怒りを買うのだから、謙って一種の人情に訴えるのだ。

 もちろん深沢の現在の態度を考えれば、「何をいまさら」と取り合われないか、それ以前に全く覚えていないという、無視に等しい反応をされるかもしれないというのは、佐口にも容易に推測できた。

 しかしそれによって氷解するものがあると言われれば、それも全く間違っているとは言いがたかった。

 実際、佐口は少なくとも狂い始めた根源についてなんらかの決着を得なければならなかった。記憶になかったり、取り合われないようであれば、それでも構わないと思えたのだ。

 話を切り出すタイミングについて、指示があったわけではないが、やはり学校の昼休みになったというのは、それが紛れもなく因縁深いものであり、そこで決着を付けるのが最も自分の中で納得しやすいためだったと言えるだろう。

 佐口はおあつらえ向きにひとりで窓際にもたれる深沢を見つけると、話があると声をかけた。そして彼がこちらを向くと同時に、「あの時は悪かった」と頭を下げたのだ。

 根源の喧嘩が起きてから、ひと月か、それよりもやや短いといった程度だろう。それだけの日数を空けた出来事に対して謝罪してくる佐口を、深沢はしばしの間、きょとんと瞬きして見下ろしていた。

 そしてようやくなんのことかを理解すると、今度は呆れたという吐息を落とした。

 佐口はそれを、やはり「いまさらそんなことを掘り返すなんて」という取り合われることのない、無視に等しい意味だと捉えた。

 しかしそうした考えが全くの見当外れであり、最も楽観的な期待に満ちた自分勝手な妄想であることを、すぐに思い知らされることになる。

「ようやくわかったのかと思ったけど……やっぱり、まだわかってないみたいだな」

 深沢が言ってきたのは無視でも忘却でもなく、その時のことをハッキリと覚えているという証だった。

 そして苛立つ声音で、ある要求をしているのを、佐口は間違いなく感じ取った。

 少なくとも深沢は、佐口が頭を上げることを許さなかったのだ。

 後頭部を抑え付けられているような圧迫感を覚える。その上で深沢がどんな顔をしているのか、佐口にはなんとなくだが想像が付いた。紛れもなく見下しているに違いない。顎を上げ、細めた目だけを下に向けさせ、視線によって踏み付けてきているはずだ。

「和久井さんに言われたんだよな。立場ってのをしっかりわからせるべきなんだよ、特にお前みたいな奴にはよお」

 佐口は、反対に自分がどんな顔をしているのだろうかと、場違いにも考えてしまった。

 深沢の圧力によって押さえられ、誰にも見られていないはずの顔である。決して涙など流していないし、怒りの形相も浮かべていないだろう。力みは一切なかった。まだ脳が、事態に追いついていなかったのだ。ひょっとすれば、全くの無表情だったかもしれない。

 周囲がざわめき始め、恐怖と不安を持った喧騒になるのを、佐口はハッキリと聞いていた。どちらかといえば深沢の声の方が掠れ、ほとんど聞き取り辛いまでになるほどだった。

「ほら、なんでまだ立ってんだ? 謝らせてほしいと思うなら、それなりの格好しろよ」

 そのために、彼がそうしたなんらかの言葉を吐いて、膝につま先をぶつけてきた時、それがどういった意味を持つのかわからなかったし、ひょっとすれば触れられたという感触すら、実際にはなかったのかもしれない。下を向いていたおかげで、彼の足が伸びてきて、いやに鋭く自分の膝を叩くのを認識することができたに過ぎない。

 それに伴い、周囲からは悲鳴じみた声が上がるが、駆け寄ってくる音はしなかった。誰かが深沢に対し、「そのくらいに……」と言って近付きかけ、睨まれて後退するのを、佐口は奇妙なほど明確に感じ取れていた。それは自分の意識がどこか遠退き、肉体を離れ、自分自身の背中までも見通すようになったからかもしれない。

 もちろん、そういったことは紛れもない錯覚であり、聞こえてくる声や微かな音、あるいは願望を含む想像、思い込みの産物に違いないのだが、そのわりには奇妙なほど鮮明に見回すことができていた。

「和久井さんの舎弟には、これが遅くて病院送りにされた奴もいるんだよ。お前も同じ目に遭わないとわかんねえの?」

 深沢の顔だけが見えなかった。いや、自分の顔もだ。

 周囲では遠巻きな人垣を作るクラスメイトたちが、戦慄した怯える顔を向けている。廊下にいて声を聞きつけた無関係の生徒が何事かと教室を覗き込み、無関係なりの心配する顔、あるいは嫌なものを見たという表情ですぐに引っ込んでいく顔などがあった。

 しかし当事者である自分たちふたりの顔だけがなく、それが不思議でならなかった。そしてそれについて酷く冷静に思案し、恐らくは数秒以上、沈黙する時間を流した。

 ただし答えを導き出すほどの時間は与えられなかったらしく、佐口はそれを無理矢理に中断させられることになった。深沢がとうとう怒鳴ってきたのだ。

「さっさとやれよ! そういう愚図なところがイラつくんだよ!」

 先ほど膝を叩いていた足が大きくぶれて、しなり、足の側面に叩き付けられるのが見えた。一度ではない。二度、三度と、深沢は怒声を撒き散らしながら蹴り付けてきたのだ。

 女子生徒の誰かが絹を裂くような甲高い悲鳴を上げて、男子生徒の何人かが深沢を止めようと近付くのがわかったが、深沢の発する激昂の気配に気圧され、やはり途中で止まるのもわかった。とばっちりを受けたくない、という心境だろう。

 佐口はそうした中でも平静であり、震えてなどいなかった。少なくとも背中から見下ろす自分自身の目には、全く平然として姿勢を崩さない自分の姿が映っていた。

 しかし……何度目か蹴り付けられた膝が折れ、体勢を崩したことで、不意に視界が本物の目によって映し出されるものに戻った。そこでは自分自身の手が強く握られ、痙攣するように震えていたのだ。手の平に爪が食い込み、血が滲んでいるのが見えて、その力みが一瞬のことではないのを否応なく自覚させられた。

 深沢はさらに何かを言ったのかもしれないが、今度は何一つとして聞こえなかった。その時、佐口の耳には同時に全く別の、そして恐るべき声が響いたのだ。

 それは囁く程度の音声のはずだが、鼓膜が破れるのではないかという気がして、脳の奥底に電気めいた鋭い痛みが駆け抜けたほどで、深沢の蹴りなどよりも数段激しく全身を支配する、おぞましい少年の声音だった。

「これが、キミの相手取ろうとしていた意思。これが、キミの悲痛な苦悩が向かった先。辿り着いた先の未来」

 深淵というものを、佐口はハッキリと意識した。そこから黒い触手が何本も這いずり出て、自分の足に絡み付き、引きずり込もうとしているに違いない。ゆっくりと落とし穴に落ちていくような、悪臭漂う森林の奥深くにある沼の中に沈み込んでいくような、際限ない恐怖と暗澹たる思いが自分を支配していた。

 もはや他の音や、声や、あるいは蹴り付けられる衝撃や痛みも、全く感じなかった。ただ少年のおぞましく微笑した声だけが、鼓膜の奥から脳の中へと這いずってくるのだ。

 少年は最初から、全ての顛末を知っていたに違いない。

 その上で助言し、見せ付けてきたに違いない。真なる誘引を完全なものにするために、落とし穴に引きずり込んだに違いない。

「さあ、苦しいのなら助けてあげる。その感情を形にしたいのなら、ボクが導いてあげる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る