第19話

 その後も何かにつけて、深沢は今までと全く変わりなく軽い調子で佐口をなじったが、佐口の方はそれに同じ調子を返すことが全くできなくなっていた。一度押し留めてしまったものを、いまさらに改めて発することは、佐口にとってそう簡単なことではなかった。

 しかしそうした堪忍によって、佐口の中には大きな疑問というか、苦悶というべきか、悩みが湧き上がってきた。

 つまりは、なぜ自分はこんな思いをしているのか、ということだった。

 喧嘩になることは徹底的に避けるべきだという考えは常に持ち続けているし、平穏に戻ったはずの現状をあえて破壊するような行為は愚かしいとさえ思っており、それに揺らぎはないのだが、かといって全てを許容する心を持ち合わせているわけでもなかった。

 佐口は決して公平的ではない、自分だけが貶され、それを返すことができないという状況や、それを作り出す深沢の言動を容認しているわけではなく、ただ堪えているだけに過ぎなかっただろう。

 そしてそれを自覚してしまったがために、なおさら苦悩することになったと言えた。

 加えてそうした感情を湧き上がらせるたび、必ずあの日の喧嘩を思い出し、理不尽さを思い出さざるを得なかった。我ながら執念深いと自覚するが、かといって全く無にすることはできずにいたのだ。

 彼が何を思って突然に極端な暴力性に目覚めたのか、そして何を思って、次の日にはそれまで通りの関係にすぐさま戻ることができるなどと妄想したのか。それを思い、帰路では道を強く踏み叩き、自室では枕やクッションの類を部屋の隅へと放り投げた。

 しかしそうするうちに、深沢はますますもって増長していくのを、佐口は確かに感じ取った。それは単純な思い込みや被害妄想などではなく、明白な事実に違いなかった。

 佐口が強くそれを感じたのは、またしてもある日の昼休みのことだった。

 他の友人たちと窓際の席に集まって雑誌を読んでいる深沢に、佐口は付かず離れずのような距離を置き、彼がケラケラと暢気に笑う姿をじっと見据えていたのだが、恐らくはそれがいけなかったのだろう。

 深沢は佐口の存在に気が付くと、視線の意味を考える配慮など持たず、笑い声ほとんどそのままに「いたのか、佐口」と声をかけてきた。そして次いで、

「丁度よかった。ちょっと飲み物買ってこいよ。美味いやつな」

「……なんで俺が?」

 返答に一瞬の間を要したのは、紛れもなく困惑したからだった。深沢があまりにも自然に、自分になんの役目を果たさせようとしているのかを理解したのだ。そして思わず口を出た言葉に、彼は明らかな憤懣を見せた。眼光を鋭くして、なんらかの暴力とまではいかないまでも、近しい気配を発しながら言うのだ。

「俺は忙しいんだよ、見りゃわかるだろ。いいから早くしろよ」

 そうして、彼はそれが覆ることのない絶対的な決定事項であるように、追い払うのと同じ動きで手を振ると、また友人たちと雑誌を読むことに熱中し始めた。

 佐口はそれに対しても、やはりどうしても強く反抗することができなかった。深沢の見せた目は暴力性を発揮する一歩手前のものであり、機嫌を損ねれば以前と同じ道を辿ることが明白だった。そのため、辛うじて代金について話をした際も、視線も向けないまま「後にしろ」と言われるだけで引き下がり、すぐに役目を果たさなければならなかった。

 自販機は近隣の文具店の側にあり、それを利用するために校内から抜け出すには教師に見つからないよう警戒しなければならず、教室のある二階への往復も含めて、数分以上の時間を要することになる。しかし深沢もそれを理解しているはずだが、息を切らせて戻ってきて佐口に対して最初に言ったのは「遅い」という叱咤だった。

 そうして不機嫌に、渡された缶ジュースを開けると、友人たちと談笑しながら一口含み、嘲るように舌を出した。

「うえ、これ不味いな。やっぱ味覚のない奴に頼むとダメだわ」

 深沢はその顔を、振り向いて佐口に見せ付けることこそなく、言葉も友人たちに向けたものだったが、それが佐口に対する配慮などではなく、また冗談めかしてあえて発したものでないことも明白だった。深沢はその缶ジュースを近くの窓から投棄して、友人たちと共に大笑したのだ。

 佐口は窓から離れていたため、その缶の行方を見届けることができたわけではない。しかし不思議と光景は鮮明に頭の中に浮かび上がり、同時に一瞬、その缶が自分自身を暗示しているのではないかという妄想に囚われてしまった。もちろんそれは明らかに己の淀み、歪んだ心がもたらした悪意的解釈に過ぎないのだが、それでも佐口はどうしても、そうした被害妄想を取り除くことができず、苦悩の種を増やすことになった。

 加えて、深沢が友人たちとの話を終え、多忙を解消し、明らかな閑暇の状態になった放課後。佐口は急ぎ、ひとりで校門を過ぎる彼を呼び止め、代金の話をしたのだが、彼は「細かい」だとか「しつこい」だとか「けち臭い」といった文言を並べ、最終的には「あんな不味いものを飲ませておいて」と支払いを完全に拒否して帰宅していった。

 実際、金額にすれば一〇〇円程度のことではあるだろう。

 しかし佐口はそうした深沢の態度に、金額よりも遥かに大きな不信感を抱き、彼の横柄さ、増長を確信しなければならなかった。

 そして同時に――

 佐口にとって明確な変化、あるいは転機と呼ぶべきものが訪れることになった。

 深沢が完全に見えなくなった頃、不意に声が聞こえたのだ。

「苦しい? 辛い?」

 背後からであることはすぐにわかった。喫驚して振り返ると、校門を挟んだ先に、黒く短い前髪で目元を隠すように俯く、自分よりも一つか二つほど年下だろう少年がいた。不釣合いな白衣を着込んでいるが、ひょっとしたらこの学校の生徒なのかもしれないと思える。ただし、今まで見かけたこともない。

 佐口は背丈の低いその少年をやや見下ろす形で、しかしそうして少年を観察することが冒涜的な行いのように感じてしまった。彼を目にするという、そのこと自体が人間の尺度にとっては禁忌に他ならない危険な行為ではないか、と思えたのだ。

 ただ同時に、そこから目を離すこともできなくなっていた。佐口は血が凍る思いで全身を硬直させる中、いやに耳の奥底で響き渡るような少年の声を聞かされることになった。

「抱えている拘泥がある。無視できない執着がある。抑え付けたい激情がある。葛藤と焦燥と憤懣で、気を狂わそうとしている」

 芝居掛かった調子だった。薄ら笑いを浮かべて、なんらかの害意や敵意を滲み出しながらも、それがこちらには向かっていない、奇妙な感覚である。それは大きな渦、暴風の只中へと引きずり込まれる気配でもあった。

 ただ、その中に身を委ねることには、不思議と恐怖を感じなかった。例えば全く別の軸に存在する、未知なる高位の存在から受ける救済のように思えてしまう。太古の昔や、現代においてもなんらかの深い信心を持つ者ならば、それを神のお告げと称したのかもしれないと思ってしまうほど、少年の奇怪な声音には異常なほどの引力があった。

 そうして反論をするどころか、肯定することすらおこがましい気配によって佐口が言葉を失い、急激に沸騰し始めたような体表に脂汗を滲ませる中。

 少年は凄絶とも言える笑みを口元だけで作り出しながら、その”お告げ”をさらに強固なものとするべく、再び口を開いたのだ。

「その感情を形にしたいのなら、ボクが導いてあげるよ」

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