第16話
松原が目を開けた時、今度はなんの痛みも感じなかった。あるいは全身に激痛を覚えていたのかもしれないが、それは目を開けると同時に急速に消え去り、いっそ不気味なほどの平静さを保っていたのだ。
思考力は未だ失われたままだった。何が起きているのか全く理解できない。目を開けているはずだが、頭は全ての状況把握を拒否していた。
ただその代わりのように、全身には血ではなく冷や汗がびっしりと滲み、自分の身体と服とをくっ付け、不快な感触を脳に伝えてくる。
「ここは」
そうしてようやく、松原は自分の身体を見下ろすくらいの動作を思い出した。
極端に疲弊しているが、それでも身体が動かせるというのが、酷く不自然なことのようにさえ思えてしまった。軋むことも、なんらかの痛みを感じることもなく首は動いたし、暗闇の中でも目はそこにある自分の身体を映し出した。
暗闇の中である――
ただし今までのような、恐るべき邪悪な気配を発する部員たちの姿しか見えない暗黒ではなく、現実的な夜の暗さだった。星明りと、どこかから届く街灯や家の光が、暗闇を青白いものへと変えていたのだ。
そのおかげで、松原は次々と自分の置かれている状況を理解し、把握することが可能だった。いつの間にか思考力も取り戻している。
まず真っ先に周囲を眺めやり、そこが自分の住むアパートの、自分の部屋であることを認識した。自分は普段使っているロフトベッドに寝かされていて、下りてみれば家具の類も全く見慣れたである。部屋の奥にある掃き出し窓にはカーテンが掛かっていなかったものの、おかげで町の景色を簡単に見ることができた。変わりない風景である。
続いて改めて自分自身を見やる。
着ているのはテニスサークルの練習着ではなく、愛用している寝巻きだった。汗を吸って多少の重さと煩わしさを増しているが、それ以外の異常はない。日付は部員たちに残酷な条件を突きつけ、帰宅した日からまだ辛うじて変わっていない。
どれも、どこも、なんらおかしな点はなかった。寝巻きをめくっても肌には傷一つついていないし、なんらの怪我もない。全身、どこも健康そのものである。
しかしそれこそがおかしいとも言えたが。
「いつの間にか帰ってきて、寝てしまっただけ? それで、あんな夢を見た?」
松原はそう推測した。あの奇怪な少年と再び出会った頃から、帰宅までの記憶が一切ないのだが、あるいはその時点でも夢だったのか。
思わず松原は、小さな声で引きつった笑い声を上げていた。あの恐るべき責め苦が夢であったことへの安堵と、そうとは思えない現実感の中で混乱し、笑うしかできなくなったのだ。息を詰まらせたような笑い声を、不気味に夜の中に響かせてしまう。
しかしそうしながら椅子に座り込んだ時、それに押し出されるように何かが板張りの床に落ちた。松原は笑い声を止めて、それを手で拾い上げる。というよりも、それを拾い上げてしまったがために、笑い声を止めざるを得なくなってしまったというべきか。彼女は目を見開き、明確に息を詰まらせ、一瞬凄まじい吐き気と眩暈に襲われたし、思わず周囲を見回してしまった。
そこにはやはり見慣れた景色以外に何もなかったが、それでもその奥に、なんらかの恐怖が隠れ潜んでいるのではないかと疑い、青白い世界を視線でなぞっていった。
何も見つけられないのが不可解で、不気味で、不自然なことのように思ってしまう。松原は改めて、自分がうっかり手にしてしまったものを見下ろした。握力がなくなった手の平にすっぽりと収まるそれは、紛れもなくテニスの硬球だった。
何者かの血にべっとりと濡れて、赤黒く変色したボールである。
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翌日も北信州硬球テニスサークルの練習は行われた。
そこにはしっかりと、松原を除けば八人の部員がいる。彼ら、彼女らは誰しもいつもと変わりなく、苦々しい顔で練習に挑んでいた。
誰も、練習以外の内容を口にはしない。どれほど耳をそばだてても、昨夜に何かがあったことを仄めかす内容の話をする者はひとりもいなかった。
全くいつも通りの練習風景である。時折、見回りを行う松原に対して、不服に細めた目で一瞥するのもいつも通りではあった。
しかし部員たちはしばらくすると、その目を不服ではなく、怪訝なものへと変えていた。なにしろ松原が、練習中に一度も、誰にも声をかけないのだ。それどころか、見回りと言いつつもほとんど部員と目を合わせることもなく、反対に彼女の方が部員を避けているようでさえあったのである。
さらには雑用係に任命された男子部員が、律儀に行っている雑務の質問のために背後から松原に声をかけた時、彼女は明らかに飛び上がり、振り返った顔にはなんらかの恐ろしい怪物に遭遇した時のような、哀れみすら覚えるほど弱々しい恐怖の顔を見せたのだ。
加えて男子部員が怪訝に思って一歩近付こうとすると、彼女は慌てて飛び退いてほとんど涙を浮かべながら嫌がるように首を横に振り、なぜか突然、前日の条件を全て破棄する旨をまくし立てた。そして自主練習を言い渡すと、そのまま逃げるように、というよりも明らかに逃げる姿でコートから走り去ってしまった。
残された部員は全員が練習の手を止め、そうした横暴な部長の唐突な変わりように、怪訝と不審に首を傾げ、彼女の去った方角をしばらく見つめるだけになった。九人がそれぞれに首を傾げ、どうしたんだと不思議がる……いや。
そこにはひとりだけ微笑する者がいたのだが、それは誰にも気付かれることがなかった。
いずれにせよそれ以来、松原が再びサークルに顔を出すことはなかった。
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