第15話

 「助けて」と再度告げようとするよりも早く、それは起きた。正面にいた二年生の女子部員があろうことか、手にしていたラケットを振り下ろしてきたのだ。

 彼女とはまだ何メートルかの距離があった。けれど次の瞬間、松原の目に映ったのは毛羽立った黄色い球であり、それが凄まじい勢いで、自分の腹に命中した。

 松原は無理矢理に息を吐き出さされ、ともすれば胃液まで吐き出されたのかと思うような悲鳴を上げて、椅子に縛り付けられたままの身体を折り曲げた。ボールが命中した腹の辺りにも縄がきつく巻きつけられているため、ほとんど動くことはできなかったが。

 松原はしばらく痛みに咳き込むと、キッと正面の部員を睨み据えた。まだ息を整え切れていない声で怒号を飛ばすためだ。

「何、するのよ! あんたが犯人だったわけ? こんなことして……試合に出場できなくなっても、いいっていうの!?」

「松原先輩……たまには練習に付き合ってくださいよ」

 返ってきたのは期待とは全く違う、無関係とも思える言葉だった。松原は困惑しながらも、かといってまだ怒りを消すことなく、再度吼え猛ったが、

「練習? 何を言ってるの……いいからこれを解きなさい!」

「手首を痛めていても大丈夫ですよ。私、正確なサーブを打てるようになりたいんです」

 その声がぞっとするほど平坦で、なんの感情も篭っていないことに、松原はようやく気が付いて息を止めた。自分の顔が青ざめていくのを自覚する。同時に目の前にいる部員の顔が、それよりも遥かに、薄暗い光のせいを遥かに超えた青白さを持っており、先ほどは機敏な動きを見せた腕が、完全に脱力し切っているのを目にしたのだ。

 彼女が「だから……」と言葉を接いだ時、松原はそれだけで引きつった悲鳴を上げるほどの恐怖を感じた。それはこの女部員が発する異様で、異常な気配に、とうとう気付いてしまったために他ならない。彼女は明らかに狂っていた。

 松原は、膨れ上がった風船が破裂し、ゴムの砕片となって舞い落ちた残骸の姿を想像した。この女部員は明らかにそうした、計り知れないなんらかの感情を増大させ、遂にはそれを極限まで達させてしまった気配を発していた。

 そしてまさしくそのものの無感情で、脱力していた腕を再び機敏に振り上げたのだ。

「先輩は的として、そこにいてくれればいいだけですから」

 またしても、打ち込まれた硬球が一瞬で松原の腹に突き刺さる。しかも今度は一度のみならず、二度、三度と立て続けに、あるいは皮や肉に隠された内蔵の各部位を狙っているかのように、次々と硬球を叩き込まれたのである。

 松原はその度に息を詰めた悲鳴を上げ、部員はそれを聞くたびに無感情で無感動な声と顔で喜んだ。そして「先輩の言う通り、本気なればできるものですね。本気で先輩にぶつけたいと思ったら、簡単にできちゃいました」と告げながら、女部員はそれを繰り返した。

 さらに松原はそれのみならず、恐るべきサーブの練習が途切れたと思ったら、次の瞬間にはなおさら直接的に、後頭部を殴打される感触を味わった。松原は脳が破壊されたかと思うほどの激痛だったが、幸か不幸か意識を失わせることもなく、倒れ込むこともできないまま振り返ると、そこにいたのは別の女部員だった。

 彼女は「私はスイングを速くしろって言われましたから。付き合ってくれますよね?」と、やはり無表情に問いかけながら、答えを待たずラケットを振り回してきた。そのため、振り向いた状態のこめかみにラケットのフレームが叩き込まれ、松原は今度こそ一瞬意識を飛ばしてしまった。

 正気を取り戻したのはそこからさらに二度ほど殴打された後のことで、女部員が無表情に笑いながら、トドメとばかりに大振りの一撃を加えてきた。それは完全に耳を打ち抜き、松原は三半規管の機能を阻害され、立ちくらみか眩暈のように視界を回転させながら倒れ込んだ。

 ただし倒れたと自覚したのはそれよりもまた後のこと。今度は二年生の男部員が、「走り込みの錘を探してたんですよ」と言って、石めいた感触の床を味わう松原の首に、何かを結び付けた。

 それが新たな縄であることはすぐにわかった。松原はそうして首にかけられた縄に、椅子ごと引きずられ始めたのだ。

 細かな凹凸のある石の床が身体に擦れ、服が破れ、肌から血が滲み出て、その傷口がさらに激しく擦り付けられることで、激痛は計り知れないものとなった。

 それでも最初、松原は口汚い罵声を吐き、抵抗する意志を見せていた。しかしそうした怒りの感情は、全く手を休めることのない彼らのおぞましさを浴びてすぐに挫け、混乱と絶望とに涙を流して悲鳴を上げながら、わけもわからぬまま悲鳴の合間に謝罪と許しを請う声を混ぜるようになった。

 取り分け彼女にとっては、事態の原因を理解できないのが辛いことだった。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、全く理不尽で納得のいかない謝罪を吐かされ、それでもなお続く責め苦に不条理の極みを感じなければならないのか。

 しかし何より理不尽なのは、自分がそのまま気を失えないということかもしれない。激痛に思考を混濁とさせながら、松原はそう考えていた。

 やがて……どれほどか。

 もはや松原が声を上げる力も失い、意識だけは異様なほどハッキリして、激痛を強く認識させられながらも、全ての思考がままならないという地獄めいた苦しみを抱くだけになった頃だろう。椅子は既に破壊され、縄も大部分がほどけているが、松原はもはやそれに意識を払うこともできない状態で、なんらかの抵抗や脱出を試みる力など全く残されていない中、彼女はとうとう、石床の力によって自らの血を自らの身体に塗り込めるという作業から解放された。

 彼女はもはや時折「どうして」と口の中で声で囁くだけになっていたが、部員たちはひょっとすれば、それを正確に聞き取っていたのかもしれない。ただ彼ら、彼女らの顔は最初の時よりも、幾分か感情が見えるようになっていた。口元にだけ、薄っすらとしたおぞましい冷笑を浮かべているのだ。

 地面に突っ伏す形の松原にはそれを見上げるだけの力など残っていないが、それでもその表情のままである声だけは聞こえてきた。彼女が雑用係に任命した、一年生の男子部員ふたりの声である。彼らはこう言うのだ。

「それじゃあ、松原先輩に言われた通り、最後の片付けは俺たちがやっておきますよ」

 そしてふたりは松原の頭と足の方にと分担して身体を持ち上げると、次の瞬間にそれを軽く、どこかへ放った。

 松原はその感覚をハッキリと、理不尽なほどハッキリと認識できた。自分の身体が一度持ち上げられ、宙を舞うと、真っ暗な闇の中で、しかし着地することなどなかったのだ。スピードを上げていく果てしない落下感、どこまでも落ち続ける永劫の深淵だけが、思考力を失った頭の中に不可解なほど明確にイメージされて、彼女はそれに抗うこともできず、最期の悲鳴を上げたのだ。

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