第14話
目を開けた松原が最初に感じたのは、頭痛だった。
ずきずきと、外から内に向かって響く痛みである。何者かに殴られたせいだろうと、松原はまだどこか朦朧とする意識の中ではっきりと直感した。そしてそれは今でもまだ続いているのではないか、とさえ思ってしまう。
しかし実際には、少しすればだんだんと痛みは治まっていった。そしてその代わりにようやく、視覚からの情報に頭を向けることができる。
周囲は暗闇だった。自分の身体も見下ろせないような黒一色である。暗幕を下ろした部屋、いや明かりのない森の奥にある廃工場だろうかと考える。なんとなしに、その暗闇は広大な気がした。
とはいえ、だとしてもなぜ自分がこんなところにいるのか。誰かに殴り倒されたことは間違いないのだろうから、その犯人が自分を連れて来たのか。なぜそんなことをしたのか。犯人は誰なのか。
意識が明瞭になると、そうしたいくつもの疑問が頭の中を駆け巡った。
そして次いで、不可解にも凄まじい疲労を覚えている身体を動かそうとして、全くそれが叶わないことを知る。
思わず顎を下げ、目を向ける。
もっともそこは変わらず暗闇であり、自分の身体に何が起きているのか、視覚からは情報を得られなかったが、感触で理解することはできた。
硬い縄か何かで、恐らくは椅子に縛り付けられているのだろう。真っ直ぐに座った体勢で、腕を背もたれの後ろに回されたまま固定されているようだった。足は、椅子の脚に繋がれていて、もがくこともできない。体重移動で倒れ込むことはできるだろうが、それでどうなるとも思えない。まして暗闇の中では、足元に何があるかもわからないのだ。
「だ、誰か!」
幸いにしてか、口を塞ぐものは何もなかった。これが誘拐の類であるなら、あまりにも楽観的だと言えるだろう。あるいはどれほど声を出されても問題にならない、松原が推測した通りの森の中にある廃工場であるという証なのかもしれない。
「誰か、いないの! 助けて!」
それでも一応、松原は声を上げた。なんらかの望みにかけたというより、それで犯人を呼び戻せるかもしれないと考えたための方が大きいだろう。
松原はこうしたあまりに唐突で、非現実的な、自分とは無関係だと思っていた恐るべき事態に遭遇したことで混乱してはいたが、反対にそれが唐突過ぎたがために、正確に自分の危機を認識することができず、一種の他人事として冷静さを保つことができていた。そして同時に、声を出すことができるなら犯人と会話し、ある種の説得を試みることもできるだろうという、非現実的な過信までも抱いたほどだった。
「誰もいないのなら、私は勝手に逃げるわよ! こんな縄、ほどくくらい簡単なのよ!」
あからさまな嘘でも、ひとしきり叫ぶ。その声はやはりかなり遠くで反響しているらしく、しばしの間を置いてから自分の耳に戻ってきた。
しかしその跳ね返り方は奇妙で、およそ真っ当な壁や天井のように垂直、あるいは水平を保っておらず、幾何学的な人知を超えた角度によって形成されており、さらにそれが常に流動しているのではないかとさえ考えてしまうような、不気味な現象だった。
そうしたものは紛れもなく、暗闇という恐怖が作り出した奔放な妄想に違いないのだが、松原はそれでも奇怪な反響を聞くのが嫌になって、一度口を閉じた。
しかし、しばらくするとその代わりとばかりに、別の音がやはり不可解な反響を示しながら現れたのだ。
それは足音だった。
石の道を歩くような、硬いものである。ただしひとりではなく、何人分も存在していた。加えて松原が恐怖したのは、それが反響のせいのみならず、松原を取り囲むように、全方位から、全て同じ速度でゆっくりと近付いてくるということだった。
松原はどうにかその足音の主を発見できないかと、暗闇の中でいまさらに息を潜め、目を凝らすことに熱心になった。もちろん、なんらの光もない黒一色の中ではどれほど力もうと、目を細めようと、あるいは逆に見開こうと、叶うものではない。
ただ、それでも不意にその望みが叶ったのは松原の力によるものではなく、急に薄明かりが照らされたからだった。
どこからか浴びせられる壊れかけのスポットライトか、あるいは各人が持った使い古した電池の懐中電灯のように、ぼんやりとした光がいくつも現れた。足音の人数分と同じ数だろう。その光は全て、それらの人間の顔から腰辺りまでを浮かび上がらせていた。
全員が見慣れた顔である。それは紛れもなく、北信硬式テニスサークルに所属する、八名の部員たちだった。しっかりと揃いの練習着を着込み、今まさに練習を終えて帰ってきたばかりとでもいうように、薄っすらと肌に汗が滲み、練習着もそれを吸って重みを増しているように見える。
松原はそれを見て、ほんの一瞬だけ歓喜を抱いた。ここはあのレンタルコートがある森の中で、今までは目に付かなかったものの、部員たちが自主練習のためか、なんらかの理由でこの建物らしきものを見つけ出し、自分の声を聞いて駆け付けてくれたのだ、と。
しかし、それが全くの空想、あるいは都合のいい理想でしかないことを、彼女はすぐに思い知らされた。
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