二章

第10話

■2

 北信州大学は市内、あるいは県内においてまでならば、知名度を持った大学だと言える。

 校風や学科に目立ったものがあるわけではなく、取り立てて優秀な功績があるわけでもないが、この大学を母校とする大昔の著名人の中にふたりのプロテニスプレイヤーが存在したことから、テニスサークルが注目されていた時期がある。そうした影響によって、現在においてもそのサークル数は多い部類となっている。

 ただし今となっては有名無実化したと言うべきか、真っ当に活動するものはごく僅かでしかないというのが、地元民にとって知られる数少ない特徴だった。

 そのごく僅かなうち、最も歴史深く、最も小規模なのが、『北信硬式テニスサークル』を名乗るものだった。

 部員は九名で、部室は設立当初こそ存在したものの、現在では他のサークルに奪われている。部室の奪い合いにおける騒動は当然、苛烈なものだっただろうが、それが行われたのは十年以上も前のことで、現在所属する部員たちには全く無関係であり、彼ら、彼女らはごく自然とキャンパス内にある教室を借りてミーティングを行っていた。

 その日に借りることができた教室は、階段状に長机が並ぶ一般的なものだったが、九人の部員には広すぎるものでもある。しかしまさかそれを補うためではないだろうが、教室内には恐るべき怒号が響いていた。

「どうなってるのよ、あんたたちは!」

 ひとりの女が叫ぶと同時に、教壇に左手を叩き付ける。それによって教室全体が跳ねたのではないかと思うほど硬い音が鳴るが、そのほとんどは女の声でかき消されていた。

「こんなこと許されると思ってるわけ!?」

 教壇に立っているのは女である。歳は二十を超えたところだろう。長い黒髪を首の辺りでまとめ、平静としていれば大人しそうに見えるだろうはずの顔を、今は凶悪な怒りの形相に変えていた。

 服は紺色で統一されたシャツとズボンという練習着であり、胸元には小さくサークル名が刺繍されている。これはサークル内では共通のものであり、教壇の前に並んで座らされている残る八人の部員たちも、その全員が二年、あるいは一年生だが、年齢も男女も関係なく同じ格好をしている。

 彼らは一様にやや俯き、しかし目を逸らすことが許されないように、上目遣いに教壇の上の女を見つめていた。少なくとも表面上は、じっと女の怒鳴り声を聞いていたのだ。

 女は背後のボードを手で示した。そこに貼られていたのは二枚のトーナメント表である。その意味は、この場にいる誰しもがわかっていただろう。だからこそ今、女が怒鳴り散らしているのだから。

「優勝どころか入賞もなし? たった二回勝つだけのことなのよ! それができないの!?」

 中野市テニス大会と銘打たれた、地元の大会である。これといった名誉があるわけでもないが、同大学の別のテニスサークルや、周囲の学校からの参加者もあり、それらにとっては競合者相手に実力を示す機会でもあった。

 しかし三十二人ずつの名前が連なるトーナメント表には、当然ながら北信硬式テニスサークルの部員たちの八人の名前も入っているものの、そのどれもが初戦、あるいは二回戦でバツ印が付く結果となっていた。

 女はそれを何度も左手で叩き、紙をくしゃくしゃにしながら言うのだ。

 この日のミーティング中、あるいはそれ以前からも、何度も繰り返している、部員たちにとっては不愉快にも馴染み深い話だったが。

「このサークルは全国大会でも入賞経験もあるほど、伝統と周囲の期待を持っているの。他のお遊びサークルとは違う、本気で取り組むための場所なのよ。私はそれに感銘を受けてここに入ったし、そのために今もこうしてマネージャーをやってるの」

 そうして女は右腕の手首を上げて見せてくる。そこには目に見えるような、なんらかの特別な異常があるわけでもなかったが、部員は全員がその意味を知っていた。彼女は四年生が引退し、唯一の三年生である自らが部長を引き継いだ直後に手首を負傷して、それからは部長兼マネージャーとして活動しているのだ。こういったことも彼女は何度となく、武勇伝の如く部員たちに語り聞かせていた。

「私はこの怪我のせいでテニスができなくなったけれど、その分もみんなに頑張ってほしいと思って、あえて厳しく言っているわけ。わかる? これはサークルのためでもあるし、みんなのためでもある。この経験は必ず社会でも役に立つんだから、感謝してほしいくらいよ。だけど私はそんな感謝なんか望んでいない。それよりも今は本気でこのサークルに取り組んでほしいの」

「松原部長。俺たちはずっと真剣にやっています」

 部員の男が堪りかねたのか、異議を唱えて椅子を蹴りながら立ち上がった。声こそ荒げていないが、視線は紛れもなく憤懣に満ちている。しかし部長である女、松原はそれを真っ向から受けながらも即座に、反抗的な、恐らくは年下である男の部員に対して、自らの不満の方をより強く前面に押し出し、それで覆い尽くすようにしながら嘆息すると、後ろ手にトーナメント表を指差した。

「あのね。本気でやってれば結果はついてくるの。そうじゃないってことは、つまり自分では本気でやっているつもりでも、まだどこかで甘えてるのよ。そんなこともわからないの? 文句を言うなら、結果を出してからにしなさいよ」

 まくし立てられた男は、結果について触れられればやはりどうすることもできなかった。それでもなんらかの反論をしようと口を開くが、それに先回りするように松原は続けた。

「言っておくけど、私はこんな地元の小大会以外でも、しっかり結果を残してるわよ。優勝こそ逃したけれど、入賞は何度も経験してる。むしろ、だからこそみんなには、私を超えるような結果を出してほしいのよ。わかる? 繰り返すけど、私がこれだけ言っているのは、みんなのためなのよ」

 念入りに言い聞かせ、男が渋々と着席するのを見届けると、松原はそれでようやく満足したらしい。「わかればいいのよ」と得意そうに追い討ちをかけてから、今後の練習についての話題へと移っていった。

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