第9話

 試験を終えて悟が帰宅したのは夕方近くになった頃で、正答を導き出せたと確信を持てるものが多かったわけではないことに苦悩し、最初は玄関の戸に鍵が掛かっていないことや、自分が開け放っていた部屋の扉が閉まっていること、机の引き出しが僅かだが朝よりも開いていること、その中に押し込んだはずの紙がなくなっていることにも、全く気付くことができなかった。

 気付かされたのはそれよりも後のことで――病院で全ての事情を聞いた時である。

 それは母とは全く無関係の、スピード違反と信号無視による、町の一角にある交差点での衝突事故だった。

 ただ、母は不運にもそこに居合わせてしまい、巻き込まれたのだ。衝突された車が、母のもとへ突っ込み、はねたのだということを、悟は病院で父親から聞かされた。悟は紛れもない絶望と混乱とを抱き、長く立ち尽くす他にできなかった。

 病院から戻った後もやはり同様だった。時間の感覚など全くなくなっていた。さらに言えば、思考力のほとんど失っていたのだろう。やがて正気を取り戻すまでの間、悟は自分が何をしていたのかを全く覚えていなかった。

 正気を取り戻したのも自然なものではなく、父に呼び出された後のことだ。悟は最初、どうして自分が父の部屋にいるのかと疑問に思ったほどである。

 父は書棚で埋め尽くされた窮屈な書斎にある椅子に座り、堅牢そうで大袈裟な木製の机を横にしながら、悟と向かい合っていた。膝の上で組んだ手に額を押し当て、目元を隠しているようですらある。その様はどこか、幻覚で見た少年を思わせたが、気配は全く別の、疲弊と絶望に包まれていた。

 いずれにせよ父は悟の精神状態に気付いたのか、根気強く、一度話したことを再び繰り返してきたらしい。

 悟にとって、それは初めて聞く言葉ではあった。組んでいた手をほどき、机の上に置かれていた一枚の、ぼろぼろになった紙を持ち上げながら言うのだ。責める口調では一切ないが、憔悴しきった声音で。

「これに見覚えはないか?」

 悟はそれを見やり、愕然としてまた意識を飛ばしそうになった。

 辛うじて堪えたのは奇跡だったかもしれないし、不運だったかもしれないし、なんらかの手による悪意だったかもしれない。

 いずれにせよ悟は紙を見やったまま、全身を硬直させなければならなかった。何も理解したくなかったが、試験勉強中とは全く正反対に、理不尽極まりなく、目に入れるだけで確実に脳が理解してしまう。

 その紙は紛れもなく、少年が落としたものだった。

 中身に見覚えなどないが、そう直感できたのはやはりなんらかの悪意の仕業かもしれない。悟はそれを見て、紛れもなくそれが悪逆な、人を欺き貶めるための罠であり、得体の知れない恐怖を乗り越えてでもすぐさま焼却するべきだったのだと確信した。

 なぜ自分はそれを手元に置き、さらには試験へ向かう際、手に持つか、どこか遠くのゴミ箱へ捨てなかったのだろうか。

 母がそれを見て、息子を気にするあまり不吉な連想をしてしまったことは間違いないだろう。だからこそ父も悟を呼びつけ、責めるではなくただ問うてきたのだ。

 その紙には記されていたのは、入試当日の日付と、それが終了した後の時間と、試験会場からそう遠くない場所を示す住所だった。

 そしてこう続いている――

 『伊勢崎悟の悪行は、そこで全てが暴かれる』

「…………」

 悟は何かを答えたり、声を発したりするどころか、そうした発想に至ることすらできず、ただ呆然と立ち尽くした。

 もはやそこに、少なくとも苦悩はなくなっていただろう。それどころか、全てが消えていた。思考が失われれば、悩みなど生まれるはずがない。

 だからこそ、少年は悟の背後で薄っすらと笑っていた。

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