第8話

 やけに荒々しく扉が開かれ、何か恐ろしい怪物にでも追いたてられるように家を飛び出していった息子を、母は開けっ放しにされた玄関の奥から見送った。

 玄関の戸を閉めるのは億劫だったが、開放しておくわけにもいかず、極力音を立てないように閉じる。家には他に誰もいなかったが、あえて鍵はかけずにおいた。なんらの意味もないはずだが、そうしなければいけないような気がしていた。

 彼女はそれから、そっと二階への階段を上っていった。

 三人の息子にはそれぞれ個人の部屋を与えており、長男から順に階段に近い部屋が割り当てられている。そのため、廊下の一番奥にある開きっ放しの扉が悟の部屋であることはすぐにわかった。

 そこへ近付くことに妙な恐怖を抱いたのは、心配のあまりに違いないと彼女は結論付けた。悟は紛れもなく優秀であり、彼が遊びたがることを仄めかさなければ、兄たちと同じく私立の進学校へ進ませたに違いない。

 さらにはそこから外れた今でさえ、彼女にとっては心配などする必要もないはずの、優秀極まりない自慢の息子のひとりに違いなかった。

 しかし彼女にとって、悟は優秀で心優しいに違いないのだから、なんらかの危険の兆候を隠され、見落としてしまっている可能性があると、心底から案じていたのだ。ほんの少し前には奇声を聞き、それは実際のところは難問を解いた歓喜の声だったと説明されたのだが、今までにないことで、不安は高まっていた。

 それを発見したところで、いまさらに何ができるかはわからないのだが、自分の愛情は息子になんらかの好影響を与えるに違いないと信じていたし、心優しい悟もきっとそれを受け取ってくれるはずだと確信していた。

 やがて彼女はその意思疎通に酔い痴れ、ほとんどそうした危険の痕跡があるに違いないと思い込むようにまでなって、廊下を進む足が酷く早くなってしまうほどだった。

 そのため、実際に部屋の扉から中を覗き見て、そこに強い悔恨と懺悔を抱かされる息子の主張が何もないことに、場違いにも拍子抜けの落胆を抱いたのである。

 もっともそれで心配が全く消えるわけではなかったが、それでも彼女は失意を減じて部屋の中へ入っていった。タンスは全く荒れていない。書棚もきっちりと整頓されている。いくらかは歯抜けのような隙間が見つけられるが、それは紛れもなく悟が弛まぬ努力を続けていた証に違いなく、参考書の名前が記された大小の本が、用途を終えた誇らしささえ感じさせるように、机の上に積まれていた。手に取ると、それは紙質が変化したと思うほどよれているようだった。

 母はそれに安堵とも応援とも、また別には苦悶ともつかぬ複雑な感情を抱き、本を全く元のままに戻した。

「悟なら間違いないわ。あんなにいい子なんだもの」

 息子のいない部屋でそう呟いたのは、紛れもなく自分の不安のためであることを彼女は自覚していたが、それを声にすることで、不安をより確かなものにしてしまうような気もして、すぐに口を閉じてかぶりを振る。大丈夫だと信じるのなら口にする必要はないはずだという思いが湧いてくる。

 しかし同時に、思うような結果を出せなかったとしても優しく迎えなければという気持ちも湧き出していた。

 彼女は我が子を信じきれない自分にもう一度かぶりを振って、俯いた。

 するとそこで、引き出しが僅かに開いているのを発見した。

 そして同時、その中から不可解にもくしゃくしゃになった紙の端が飛び出しているのを見つけることができた。

 母はそれを見た瞬間、心臓が握り潰されるような恐怖を抱いた。胃液が逆流し、血の気が引き、背筋が粟立つ。

 それがなんであるのか、まだ推測すらもできなかったのだが、何か恐るべき息子からの危険な兆候ではないかという思いが、瞬間的に再発してしまったのだ。

 あるいは期待や歓喜まで含まれていたのかもしれないが、彼女自身はそれを自覚できなかっただろう。その紙を手に取るのに躊躇はあったともなかったとも言えるが、少なくとも何もしないまま立ち去ることはできなかった。

 彼女は恐る恐る手を伸ばし、その紙の端に触れた。なんのこともない白い紙だが、真新しさは感じられる。

 それを抜き取るのにどれほどの時間を要したかわからない。それでも彼女は丁寧に、慎重に紙を開いた。

 そして同時に言葉を失い、意識が白むのを自覚した。

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