第7話
それが実際に、少年の仄めかした通りのものであるのなら、これによって解答を見つけ出す方法を心配する必要がなくなり、同時にただ数字や文字の羅列を覚えるだけでよく、それですらなんらかの手段によってカンニングすることが難しくないと思えるはずだった。
しかし実際のところ少年の幻覚が落としていった紙は、悟の部屋に元々落ちていたものという可能性があるだろう。
なにしろ幻覚であるのだから、それ以外の可能性が全くないとさえ言える。
そしてそうであれば、紙を手に取り、開いて、確かめたとしても問題などあろうはずがない。それによって落胆するなら早い方がいいに違いないし、そこに愚かしさなど感じる必要もないだろう。
悟は理論的な考えによってそう結論付けていたのだが、その紙は拾い上げて数日が経過しても、未だにぴったりと閉じられたまま机の上の片隅に置かれていた。
何度か手にかけようとはしたし、開こうと紙の端に指をかけたこともある。しかし悟がそれをいざ実行しようとすると、急激な恐怖に似た未知の不安が襲ってきて、すぐさま手を離さざるを得なかった。
やむを得ず受験勉強を再開することになったのは、それでも紙が気になると共に、紙から離れるのがどうしようもなく危険な気がしてしまい、せめて常に視界に収めておきたいと思ったからだった。
しかし当然、勉強には今まで以上に身が入らなくなり、悟の目は何度となく紙の方へと向けられてしまった。
そこにあるだけで強烈な存在感を与えてくると共に、幻覚である少年の、幻聴である言葉が何度も思い出され、そこに暗示された紙の中身が頭を何度もよぎるのだ。
それは恐るべき悪辣な誘惑であり、あるいはその紙を開くことで、中身がなんであれその誘惑に誘われてしまうような気がして、悟は恐るべき悪魔に睨まれ、足を掴まれているような心地のまま机の前に縛り付けられていた。
「あんなものは、幻覚に過ぎない」
口に出して、煩わしい苦悩を振り払おうとすることもあった。幻覚に違いないのだ。
またそうでなくとも、自分を欺こうとする、なんらかの、大袈裟に言うならばある種の刺客のような人物である可能性はないのか。
あるいはそうまで陰謀論を強調せずとも、これが罠であり、紙を開くことでなんらかの不利益が確定してしまう可能性はないのか。
今まで他人を欺いていたからこそ、そうしたものを疑うべきであり、欺き、見下してきた自分が今は逆に欺かれ、見下されているのではないかと思えば無性に苛立ちが湧き上がり、反骨心によってその紙を閉じたまま燃やしてしまうべきだとすら考えた。
ただ、悟はそれを実行するだけの勇気も持ち合わせていなかった。
言い訳を付け加えるのなら、暴力的な手段によって紙を破棄するということは、なによりも彼が幻覚ではなく、現実の人間だと認めてしまうことになるからだ。それはどうしても避けなければならないと思えた。
悟はそうした別の葛藤を植え付けられる形で、何度となく同じ苦悩を繰り返しながら……やがて試験当日の朝を迎えた。
結局、紙は一度も開けなかった。
ほとんどノイローゼの状態にされながら、それはまだ机の隅に置いたままになっている。
悟は試験会場へ向かう直前、もう一度その紙の方へ目をやった。
「欺くことは簡単だ。全ての解を知っていれば、それと気付かれることもない」
そんな声がどこからか聞こえてきて、悟は慌てて部屋の中を見回した。しかし当然だが誰もおらず、それが自分の口から発せられた自分の声に間違いなかったと気付くのは、一分か二分ほどが経過した後のことだった。
そうしてまた、折り畳まれた白い紙を見つめるのだ。
筆記用具や、受験に必要なものは全て鞄に納めてある。悟はそれと白い紙とを見比べて、やがてゆっくりと、恐る恐る紙の方へ手を伸ばした。
触れてみても、それはただの紙に違いなかった。
触れただけで恐るべき知識の奔流が頭に流れ込んできたり、なんらかの警告音が発せられたりすることなどない。単なる、重さを感じない一枚の紙に過ぎない。
悟はそれを酷く震える手で掴み上げると……
机の引き出しを開け、そこへ乱暴に紙を押し込んだ。叩き付けるように引き出しを閉じ、何に対してかわからない罵声を吐き、なんらかの口惜しさに毒づきながら、悟は部屋から逃げ出した。
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