第6話
カンニングを行う場合――と悟は考えを巡らせるようになっていた。
問題文の類を入手するのは困難なため、その場で解答を導き出せる別の手段が必要になるだろう。まして、それをいかに発見されないように実行するかを考えなければならないのだが、そうした悪逆な、他人を欺くための方向にであれば不思議と頭はよく働き、さほど苦労とも思わない気がしていた。
しかし危険が少なからずあるのも、悟は理解していた。
見つかってしまえばなおのこと大きな失態どころか、それ以上の大問題となるのは明白だった。単純な失敗などより、取り返しのつかない失望を買うことになるだろう。
悟の葛藤のほとんど全ての部分はそうしたものが占めており、他の、例えば罪悪感だとか、引け目や負い目だとか、後ろめたさといったものは、既に持ち合わせていられない状態に陥っていた。
ただ、あるいは深層心理の中で、やはりそうした背徳行為を自らの決心によって実行するということには、引け目ではないが、なんの言い訳をする隙もないという、恐怖や抵抗感のようなものは抱いていたのかもしれない。
そしてたった今感じ取り、聞き、目にしたものは、紛れもなくそうした心理と、不愉快で理不尽な気苦労によってすり減らされた精神が一種の発狂症状に見舞われた証であり、譫妄状態が作り出す幻覚に違いなかった。
その証拠に、悟が最初に気付いたのは気配や雰囲気といった妄想の類であり、それを意識した直後に声が聞こえたのだ。
「苦しい?」
悟はその瞬間に総毛立ち、振り返らなければならなかった。そしてそこで、紛れもない幻覚を見たのだ。今まで何もなかったはずの、誰も出入りしていないはずの自分の部屋に、それはいた。
白衣を着た少年である。小学生と中学生の狭間といった体躯のせいで、全く不似合いだと言える不恰好さだった。黒い髪は短いが、俯いているため目は見えない。口元から察せられる表情は微笑とも苦悶とも取れる。
悟がそうした幻覚を全く無視することができなかったのは、あまりに奇怪な幻覚であるためではなく、正反対に、それが紛れもない現実の光景であると強く認識させられたためだった。全く現実味を持たない現実が、悟を支配していたのだ。
「辛い? 助けてほしい?」
少年は続けて言ってきたが、ぞっとするような音声だった。鼓膜を震わせているのとは違う、不気味な音声の信号、あるいは少年の声を自らが記憶の中から引きずり出しているだけのような、全く不可解な感覚である。
さらに声そのものは少年のものかもしれないが、一般的な少年が無垢に問いかけてくるもののはずがない、ある種の詰問や糾弾、または拷問にも近い反響を持っていたのだ。
腹の奥底に響き渡り、全身を突き刺し、脳を揺さぶる振動があった。彼はその恐るべき魔的な声に、悟は耳を塞ぐのも忘れていたため、続きを聞かされることになった。
「助けてほしいなら、ボクが導いてあげるよ」
悟はほとんど全身を震わせるほどに戦慄していたが、それでも辛うじて「何を言ってやがる」くらいの憎まれ口は叩くことができた。たとえ舌が上手く回らず、反転させた椅子の背もたれにへばりついていたとしても、声だけは出たのだ。
もっとも、そんな凄みとも呼べないもので少年――というよりも幻覚が怯むはずなどなく、彼は怪物じみた恐るべき音声を、ゆっくりと発し続けていた。
「不正を行うために、背中を押してほしいと思っている。残された手段はそれしかなく、誰かのせいでそれを行いたがっている。自分では責任を負いたくない。成功すれば自分の手柄にできる。失敗するなら他人のせいだと言い訳ができる。それを吹聴することができるし、それは何より自分自身に対する強い言い訳になる」
「わかったようなことを」
「ボクはキミを救うことができる」
反論を全く無視するように彼は告げてきた。そして手を差し出してくる。そこには折り畳んだ一枚の紙の握られているようだった。
悟がそれを受け取るとも受け取られないとも付かず怪訝に見つめていると、少年はそのまま手を離し、紙をその場に落とした。部屋のフローリングに触れた紙は開かれることもないが、その中身を仄めかしたのは他ならぬ少年だった。
「同時にキミは、他者から差し出された手を明確に握ることも嫌っている。施しを受けることで、相手に見下されると感じてしまうから。今、ここにはなんらかの数字や語句が列挙された紙が目の前に落ちていて、キミはそれを偶然に記憶する。試験の時間中、その数字や語句を偶然に思い出すことがあるかもしれない」
「馬鹿にしてんのか、てめえは!」
とうとう声を荒げて言い返すが、少年はそれには何も答えなかった。
あるいは最初から会話などしていなかったかもしれず、悟は全く手応えのない不快な思いで、けれど床に落ちた紙を見下ろした。
白い紙だ。四つに折られ、手の平ほどの大きさをしている。紙にはなんら特殊なものは見えないが、全てを広げて光にかざない限りは透けることもないだろう。
「いや、違う。全ては幻覚のはずだ」
はたと思い出して、悟は顔を上げた。
そもそも少年は幻覚であり、存在しないはずである。自らの理不尽に狂わされた精神が作り出しただけのものに他ならない。その混乱が、わけのわからない言葉まで生み出してしまったのだろう。
事実、悟が顔を上げた時、そこには誰の姿もなかった。
まさしく幻覚であることの証明のように、少年の影も形もなく、扉は閉め切られ、そこから出ていった形跡も、机の横にある二階の窓から抜け出した形跡もない。
しかし悟が全く安堵することができなかったのは、もう一度床に目を落とすと、そこには確かに少年の手放した通りの紙が、そのままそこに置かれ続けていたためだ。
母親が声に気付いて心配したのか、「大丈夫?」と聞きながらノックの直後に扉を開けてくる前に、悟はそれを拾い上げ、手の中に隠し持ちながら「なんでもない」と愛想の良い顔を向けた。
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