第5話

 現実を突き付けられたのは、それから間もなくのことである。

 父親の強い勧めによって、悟は面倒にも東上大学の模試を受けることになったのだが、そこで下されたのは下から二番目という、合格困難を明確に示すD評価だった。

 悟はそれに納得いくはずもなかったが、判定が覆るはずもなく、また覆したところでどうにもならなかっただろう。

 それでも両親に対しては、そうした非情な結果を上手く誤魔化し、特に母親を安心させ、自分を褒め称える溺愛に留めることは可能だった。

 ただ、問題は実際の評価に違いなく、悟はなんらかのもっともらしい理由を付けて志望校を変えるか、真っ当に勉学に励むかを選ばなければならなかった。それは本来であれば葛藤を引き起こすこともない、選択肢とも呼べないものだっただろうが。

 それでも悟に迷いが生じたのは、結局のところ己のプライドのために他ならなかった。志望校を変えればあの女には幻滅されるかもしれない。あるいはそれくらいなら進学後に彼女を切り捨て、また別の誰かを見つければいいだけとも言えるが、彼女が他人に言い回るのを止められないだろう。

「あんな女に見下されるなんて、許せるはずがない」

 悟はそう呟きながら後者を選び取ると、机に向かい、その日からは真実に勉学に努めなければならなかった。

 それが際限なく苦痛で、苛立たしかったのは、何よりも悟が今までその苦労を避けるのに熱心だったために他ならず、今もそうした意向が全く変わっていないために発生した自己矛盾が脳を二分させてくることに由来していた。

 しかしそれのみならず、そもそも身に覚えのない行動を起こしたせいでもあった。つまり今まであらゆる”勉強”というものに触れてこなかったため、そのための忍耐はもちろん、方法を見い出すことが困難だったのである。

 学問に関してのみでも、悟は自分の知識について把握できておらず、いわゆる”わからない部分がわからない”といった状況に陥ると共に、当然ながらその克服方法を見い出せず、身に着ける以前に意志を保つこともままならないという有様だった。

 そうした状態であったため、しばらくすると悟はすぐさま手を止めるか、最初から触れることもなく、今まで通りに女を連れて遊び回るようになっていった。

 その間、彼女にすら大丈夫かと心配されることがあり、悟にはそれが不愉快でならなかったが、余裕を返すと真っ正直に「やっぱり悟さんってすごいんですね」と尊敬してくるため、それも悪くないと思うようにすらなっていた。

 家族には多少の嘘や誤魔化しを混ぜたが、特に溺愛してくる母親を騙すことは容易であり、表面上は紛れもなく合格の気配を漂わせていた。ただ、父親が何やら心配そうであったのが気になり、悟に様々な意味での不安を与えたのだった。

 加えて、さらに時間が過ぎるたび、悟の中には今度こそハッキリとした焦りが生まれるようになった。学習についてはほとんど進展を見せておらず、学力が伸びている実感もなければ、結果としても現れてはいなかった。

 学校内で優秀な成績を修め、周囲から羨望の眼差しを浴びる時ですら、悟はそれによって、逆に煽り立てられる焦燥感を抱くのを自覚したほどである。

 しかし、そうまで追い詰められてようやく、悟は再び勉強に努めようとしたこともあったのだが、特に集中の面においては、どれほど参考書の問題文を目で追っても文字や数字は全てが網膜で上滑りして消えていき、あるいはそこで見た文字から連想されるものや、全く無関係の記憶、例えば街中で不意に聞いてしまった不愉快な会話や歌が突然に呼び覚まされ、文字を追う目とは切り離された脳が、それらの思考に支配されてしまうという、散漫な状態に陥ることがほとんどだった。

 時に声を使って認識させようとしても、それはただの音として鼓膜を震わせるだけで、意味のある語句として脳に到達することがなかったのである。

 夏はもちろん、秋も過ぎ、冬を迎える頃には、いよいよもって悟の焦燥や苛立ちは頂点を極め、思うようにならないもどかしさと、自分が嫌悪し、避けようとしていた状態に陥っている現実とによって、ほとんどヒステリックに机の上で頭を抱え、口惜しい怨嗟のように呻くほどになっていた。

 あるいはそうした状態でも対外的な面を崩すわけにはいかないという重圧と、いやましに高まる期待とが、なおさらそれを加速させたのかもしれない。

 おかげで家の中では時折、執拗に励ますと同時に合格の確信を持っている母親に対して強い口調を向けてしまうことがあるほどだったし、反対になんらかの懸念を抱えるような父親に対してはこそこそと避けることがあるほどだった。

 女やクラスメイトには、例えば東京ではあるものの難易度の低い大学を選ぶなど、誤魔化すためのいくつかの手段や言い訳も思い付けるのだが、いずれにせよそういったものは家族には通用しないだろう。

 実際のところ、例え受験に失敗しても家族の誰からも責められることはないし、表立って嘲笑されることもないだろうが、心中まではわからないと悟は考えていた。

 結局のところ悟に残された道は、諦めて失態を晒すか、それとも”諦めて”苦労するか、というどちらかだった。

「いや……待てよ」

 自室の机で頭を抱え、真っ白なノートを見下ろしながら、しかし悟はふと自分の思考に自分で食い下がった。

 頭の中に、ある考えが閃いていた。

 今の悟には苛立たしい苦労などより効率的で、合格を確実なものにする手段に違いないとさえ思えてしまう。

 あるいはそれは、邪な考えを持つものなら誰でも必ず一度は閃くものだろう――

 つまりは、カンニングだった。

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