そのご。

 このステーキハウスは、深月さんのバイト先だった。

 せめて入店する前に言って欲しかった。心の準備をする時間が欲しかった。亮くんが知っていたかは分からないけど、清子ちゃんが僕に教えてくれなかったのは明らかな意地悪だ。酷い。おかげで僕は「ハイ!」「ハイ!」と返すだけの木偶でくになってしまったじゃないか。

 ああ、でも、深月さんは相も変わらず可愛かった。文字通り息を呑んでしまった。いいや、それだけじゃない。普段は降ろしていて見えないおでこや、襟足に隠れているうなじ。どれを取っても色気抜群で、危うく昇天するところだった。色んな意味で。


「ねえ、亮。柴田、大丈夫?」

「いや、もう完全に飛んでる。試合で失神する奴でもこうまで見事な顔にはなんねーんだけど」


 おや、亮くんの見立てでは僕はもうぶっ飛んでいるらしい。

 察するに、二次元のアダルト動画の結末でよく見るアヘ顔なんとかっていう奴だろうか。いやあ、そんなまさか。さしもの僕とて深月さんを目に留めたぐらいで、ああはならないって。

 試しに亮くんにそう言ってみよう。

 ほうら、僕、全然元気。

 ミヅキヒナハカミデアル!

 あれ? 可笑しい。唇がぴくりとも動かない。にやけ顔から全くもって変わんない。

 おっと、マイブラザー。なーにを立ち上がっているんだい? どうして隣のお姫様へ「まあ見てろ」なんて得意げに言って、手を揉むようにパンパンと鳴らしているんだい? 肩まで回し始めて……おいおい、一体、その手でナニをナニしようってんだい。マイブラザー。キミのその拳は強きを挫き、弱きを守る為にあった筈だ。そうだろう?

 歯を食いしばれって?

 いいや、それは無理な話さ。僕の口角はぴくりとも動かねーんだ。

 おっと、それは事実だけど放っておけば治る。治る筈だ。治る筈だから、今の僕は死ぬ程疲れている連れだから、起こさないで。そんな良い笑顔で、僕の胸倉を掴まないで! いや、ちょっと、ほんと、ナニをするつもりなんだ! 待って。ちょっと、待って!!

 お願いだから待っ――。


「オラァ!」

「ぶげぁっ!」


 ばちこーん。

 と、とても良い音が静寂な雰囲気をぶち壊して響き渡った。

 いってぇぇぇえええ!!!

 顔面にめり込んだ手の平は硬く、そこに容赦のよの字もなかった。

 鼻が、鼻がもげる。いや、もげたかもしんない! マジで痛い。尋常じゃないレベルで痛い。

 打たれた僕はふごふごと言いながら呻く。手で顔を押さえて、痛みに叫びだしそうな衝動を何とか堪える。良かった。鼻はもげてない。変な方向にも向いてない。ただめちゃくちゃ熱く感じるだけだった。


「よっ。目、覚めた?」

「あぁぁあぁぁぁぁ……」


 一仕事終えたと言わんばかりに、今日一番の気さくな笑顔で確認してくる亮くん。

 大丈夫だ。本懐は分かっている。

 今の一発で今しがたの自分がどれ程ヤバいトリップをしていたかはよーく分かった。分かったけど、返事なんてとてもじゃないが出来やしなかった。


「いったそー。そこまでやんなくても良さそうなのに……」


 ほんとだよ!

 その通りだよ!

 もっと言ってやってくれ清子ちゃん!!

 何だってこうまで暴力的解決方法しか思いつかないんだ。この元ヤンキーは。いい加減僕も怒って……ダメだ。どうやっても負ける。筋骨隆々している彼に武力で訴えて敵う訳がない。


「全く。何やってんのよ。他のお客様の迷惑になるなら、追い出すよ? それとも警察呼ぶ?」


 と、そこへお冷を乗せたお盆を手に、溜め息混じりな様子で現れる深月さん。


「いやあ、純が暑さで頭やられちまってたみたいでな?」

「だったら病院でしょ。ていうかあんたみたいなのが殴ったら、それこそとどめ刺してんじゃん。脳みそまで筋トレしてんのか」


 お冷をテーブルに並べながら、横目に亮くんを睨みつける深月さん。

 この二人の気の置けないやりとりは珍しく映るけど、普段からあまり話さないだけで、付き合いの長さは清子ちゃんと同じなんだと言っていた。それもあって、彼女の口から零れた毒舌指摘は、いつも以上にしっかり的の中央を射抜いていた。脳みそまで筋トレ……うん。亮くんは正しく脳筋だ。

 テーブルにお冷を置いた深月さんは、お盆を脇に入れて、未だ鼻筋を押さえる僕の方へ向き直ってくる。やけに心配そうな顔をして、小首を傾げた。


「大丈夫? このアホヤンキーほんと手加減知らないから、痛かったでしょ?」


 唐突に問い掛けられて、僕は先程同様に頭が真っ白になる気分だった。

 何とか彼女の問いかけを理解して、首を縦に。大丈夫ではあるし、亮くんの張り手は痛かった。どっちも大正解だ。


「鼻血は? 出てない?」


 僕の手を取って、鼻を見せてと覗き込んでくる深月さん。

 その手は思ったより冷えていて、僕の体内で湧きあがってくる熱とは対照的だった。

 ホワ!? ホワァァアア!?

 好きな人に顔を凝視されるという一大事。

 未だかつて無い程接近している彼女の顔を観察する余裕すらなくて、首筋の筋肉が引きつってしまうような感覚を覚えた。もう頭の中なんてとっくに大パニックで、脳内でちっちゃな僕たちが桃色の花びらを撒きながら扇子を片手に小躍りしている気分だった。


「血は出てないね。でも、ほんとに大丈夫? 顔が真っ赤だよ。お冷飲みな?」

「だ、だだだだ、大丈夫。た、多分っ!」


 深月さんから手を離されて尚、両手をそのままにしていた僕は、文字通りお手上げだった。これ以上彼女に接近されると、今に心臓が爆発してしまうかもしれない。既に加速しきった鼓動は、脳にまで振動が伝わってくる程なんだから。

 そんな僕の決死の言葉が通じたのか、深月さんはくすりと笑って、ゆっくりと身を引いた。その後ちらりと清子ちゃんを見やって、彼女に「注文決まったら教えて」とだけ残して、足早に去って行く。その後ろ姿を呆然と見送る僕は、心臓の鼓動がやかましくって、周りの音なんか殆んど聞いちゃいない。どこからか「天然って怖いわー」なんて聞こえたけど、ほんともう、全く頭に入ってこなかった。

 とりあえず、深月さんの姿が見えなくなってから、亮くんにグッドサインを送っておいた。しかし彼は「あん?」と、不機嫌そうに小首を傾げていて、どうにも株は上がらないままだった。やっぱり彼の脳みそは筋肉で出来ているらしい。深月さんが僕を気に掛けてくれるようにああしたと思うには、どだい無理のある話だろう。

 それから僕たちは小一時間程、深月さんが働くステーキハウスで時間を潰した。清子ちゃんが大盛りのパフェを頼んで、太るぞと指摘した亮くんをぶん殴っていたりしていたけど、僕の視線は絶賛深月さんの後ろ姿に釘付け。働いている時の彼女は普段見せない笑顔で、とても愛嬌があった。人懐っこそうな顔をして注文を受ける姿は、見た目こそ幼いように見えるのに、普段よりずっと大人びて見えたんだ。

 やがて深月さんが裏に行ってしまうと、清子ちゃんがもうそろそろだと言った。スマホを取り出して確認してみれば、時刻は一七時前。彼女は夏休み中、朝一〇時からこの時間まで働いているらしい。

 お金が必要なのだろうか。

 僕は自分でも恵まれていると思える環境で育ってきたから、就労体験なんて生まれてこの方、学校行事でしか経験が無い。必死に働く彼女の姿は、ちょっとした別世界を垣間見ている気分だった。別に深い意味はないし、まさか彼女を蔑む訳でもない。だけど、亮くんや清子ちゃんは明らかに裕福層の人間で、二人と何のしこりもなく接している姿はちょっとばかし疑問があったりする。今の時代、貧富の差なんてものは、人間関係を縛り付ける理由になりもしないのは百も承知。ただ、なんとなく、深月さんは自分の為にバイトをしているようには見えなかったんだ。

 なんて、流石に贔屓目が過ぎるだろうか。

 バイトは学校で許可されているし、折角の長期休暇。自分の為に働いている同級生は多いだろう。むしろ僕のように全てを親からのお小遣いでなんとかしてしまえる人間の方が、ずっと珍しいと思う。だから、バイト事情ひとつ取り上げて、深月さんをマッチ売りの少女に見立てるのは、それはそれで失礼な話。家事だって自発的に手伝っているだけかもしれないし。

 僕がそんな風に思案に耽っていると、とんとんと机を打つ音がした。

 ハッとして面を上げれば、呆れ混じりな表情をした清子ちゃん。隣の亮くんは何事かをけらけらと笑っていた。机に指を立てているのは清子ちゃんで、彼女の目は僕を見据えていた。どうも僕が呼ばれていたようだ。


「うん? どうかした?」

「どうかしたじゃないって。そろそろ陽菜のバイト終わりだから、お店出るよって言ってるの。さっきからずーっと話し掛けてんのに、柴田ってば全然聞いてないんだから」


 呆れたような溜め息がおまけについてきた。

 彼女の隣では筋肉モリモリマッチョマンが目をキラキラさせながら拳を手の平に打っている。言わずもがな、「もう一発いくか?」とでも言いたげだ。何で暴力行為に少年のような目をして期待するのか。これが分からない。

 僕は苦笑まじりに両手を挙げて見せた。


「ごめん。もう痛いのは勘弁して」

「はいはい。行くよ」


 僕の抗弁を流すかのように、清子ちゃんが席を立つ。亮君も肩を竦めながら、顎で彼女の後を促してくる。素直に従った僕は、会計を纏めてやってくれている清子ちゃんを追い抜いて、先に店を出た。

 外はむせ返るような暑さだった。西日が鋭い事もあって、立ち眩みに似た感覚さえ覚える程。よく冷えた店内と比べたら、天国と地獄のようだった。


「うわ、あっちぃー」


 亮君も同じ感想を持ったのか、シャツの首元を掴んで、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。身体に纏わりつくようなむわんとした熱気の中、洋服で扇げる風なんてしれたもの。手を動かす労力と、その熱量で相殺だろう。僕は彼を後目に、店の入り口の脇にある駐車場の日陰へと逃げ込んだ。

 そういえば、昔何処かで『デブは暑がりである』という格言を聞いた事がある。肥満体型からある程度絞った今だから、これには反論しておこう。デブでなくても暑いものは暑い。ただ、デブだった頃と比べて、身体を動かす事が楽だからか、余分な辛さが無い。痩せると楽になるのは間違いないだろう。以前なら日陰に逃げ込む動作だけで、息切れしていたかもしれない。

 食事時ではない事が幸いしてか、駐車場はガラガラだった。エンジンを掛けている車もなく、店内程でないにしろ、凶悪な直射日光を避けてみるだけで随分と居心地が良い。まあ、それでも暑いけれど。


「やべえな、この暑さ。地球温暖化ってやつか」


 ぼやきながら僕の後に続いてやってきた亮君。

 彼が地球温暖化の何をどれくらい知っているかは兎も角として、僕は「全くだね」と同意しておいた。すると彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて、肩を竦めて見せる。


「ていうか純、日向に居た方が痩せれるぞ」

「痩せると同時に寿命も削られそうだから、流石に遠慮しておく」


 亮君のそれは分かり易い冗談だろう。

 むしろ、食事制限をはじめとする他のダイエットは絶対にするなと忠告したのは彼だ。

 僕は肩を竦めて返す。


「亮君こそ、シャツ脱いでポーズキメてきたらナイスカットって言われるよ」


 冗談まじりにそう言ってみれば、その言葉に彼は「おっ?」と言って、実に良い笑顔を浮かべる。そのままシャツの裾をたくし上げながら、踵を返した。

 ちょ! と、僕はハッとして手を伸ばす。


「冗談! 冗談だって!」

「うるせえ。止めるな。俺は脱ぐぞ!」

「何故!?」

「汗と日光で煌け、俺の爆弾筋肉!」

「何処で覚えたんだよ。そのヘンテコなノリ!!」


 シャツを捲りながら店の入り口へ戻ろうとする亮君。

 まるで古いギャルゲのギャグパートにありそうな悪ノリじゃないか。そう思いながら僕は彼のシャツを後ろから引っ張り下げる。

 としたところで。


「何しとんじゃコラァ!!」


 今まさに向かおうとしていた方向から、鬼のような形相でこちらへずんずんと向かってくる元お姫様。ギャルゲなら赤面しながら激怒といったシチュエーションのところだが、彼女は現実の幼馴染属性らしく、亮君の肉体美に何ら特別な感想を持たずにただただご立腹なご様子。難なら平然と見飽きたって言いそうだ。

 大股で向かってくる鬼姫様に、亮君はしかし、たじろぎ一つしない。


「あん? 別に良いだろ。見せて恥ずかしい筋肉はしてねえ!」

「清子ちゃん。ごめんなさい。僕が適当言ったら悪ノリしちゃって」


 開き直る亮君を引き留めながら、僕はさっさと釈明する。とすれば、「あっ、おめっ、ずりぃ!」と、彼からバッシングがあったものの、知ったこっちゃない。

 二対一を不味いと悟ったのか、舌打ち一つ漏らして、両手をシャツの裾から離して肩の高さに上げて降参する亮君。「へぇへぇ、悪うござんした」と、反省の欠片も見えない謝罪を述べた。

 勿論、それで清子ちゃんの怒りは収まったりはしない。

 お決まりの「もう! あんたはいつも!」なんて言葉から、指差し説教が始まってしまう。


「あ、すみません。店の前で絡み合うホモが女の子と痴話喧嘩してまして。景観に悪いので注意して頂きたく……」


 としたところで、背後から聞こえてくるソプラノボイス。

 愛しの声はしかし、聞けば勘弁してくれと嘆願したくなるような事を言っていた。

 待って。深月さん。本当に通報してないよね?

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キミの為にレベリングしてみた。 ちゃちゃ @Chacha-Novel

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