夏休み、天国と地獄。

そのいち。

 七月二三日。

 ついに夏休みになってしまった……。

 終業式とやたら長いホームルームを終え、僕は今日でお別れになるだろう憩いの席で、溜め息混じりに俯いた。ちらりと隣を見やれば、終礼と共に足早で去って行く深月さんの後ろ姿が目に留まる。今日はこの後すぐにバイトだと、先程鷲塚さんと話していたので、その為だろう。


「はあ……」


 愛しの深月さんの隣の席。それを失うことは、実に悲しいことだ。しかし僕の憂鬱は、それだけが原因ではない。

 先日、流されるままに決定してしまったダブルデート――のようなもの――の計画は、実に順調に進んでいるらしい。鷲塚さんの許可、深月さんの許可まで下りて、あとは詳しい日程を決めれば良いというところまで進んでいるのだとか。具体的に何をするかはその時までに決めるそうで、今朝、深月さんに「柴田は何が良いの?」と聞かれた。具体的に何ということはないけど、泳げないから海はパスと言っておいた。凄く恥ずかしかった。

 学校が休みの日に、深月さんと会えることは嬉しい。これ以上無いくらい嬉しい。むしろ夏休みという長期休日。一日、二日の登校日こそあるものの、三〇日を越える期間、深月さんに会えないなんて、地獄そのものだ。それを少しでも緩和出来るのだから、嬉しくない訳が無い。

 しかし……しかし、いざデートと銘打たれると、今の自分で良いのかと不安になってしまう。亮君曰く、そんなことを気にする前に自分をアピールしろとのことだが、アピール出来ることすら無いように思うのだ。だって僕は、未だ彼女に無能と言われたキモオタのままなんだから。不安しかない。


「はあ……」


 僕は何度目かの溜め息を吐いて、ゆっくりと荷物を纏める。

 それを終えて視線を上げれば、教室の前方から、亮君と鷲塚さんが二人一緒に歩いてきていた。


「純、行くぞ」

「う、うん」


 鞄を肩に担ぐようにして、促してくる亮君。鷲塚さんは彼の後ろでスマホを弄っていた。

 あまり待たせるのも悪いと、僕は纏めた荷物を肩掛けにして、立ち上がる。よしと改まれば、鷲塚さんがにっこりと笑いかけてきた。


「よし。んじゃ、先ずここ行ってみよっか」


 そしてスマホを見せてくる。

 そこには『ヘアサロン』の文字。

 あれからすぐ、鷲塚さんはそういう面の信用が出来るんだと、亮君に説得されて、僕が意中の女の子の為に痩せようと努力していることを話した。

 普段から異性の目を引くらしい彼女の洒落っ気は、亮君の服装も全て決める程なんだとか。今よりも見かけを改善したいという僕の望みは、彼女の協力無しでは中途半端に終わるだろうと、他でもない亮君から言われた。一応彼もかなりのお洒落さんではあるのだけど、鷲塚さんには遠く及ばないそう。聞くところによれば、ファッション雑誌からスカウトされて、断るということを、既に五、六回やっているらしい。


「髪は染めちゃダメなんだよね? んでもって、亮みたいなパンクはNG。なるべく大人しめで、かつ格好悪くないようなもの。予算は二〇〇〇〇円」


 以前僕がした注文を、反芻する鷲塚さん。

 その間もスマホを顎に当てて、可愛さをアピールすることを忘れないあたり、実に頼り甲斐がある人物だろう。あとは亮君が言う通り、彼女の口が堅いことを祈るばかりだ。まあ、幼馴染の彼が言うのだから、間違いないだろうけど。

 僕は鷲塚さんに改まって、こくりと頷いた。どうしても心の中で疑ってしまうことを、少しばかり罰悪く思いながら、「出来る?」と、問い掛ける。

 すると彼女は、スマホを持っていない手で、僕の腕を軽く叩いてきた。大して痛くないそれは、どうも励ましてくれるような雰囲気だ。続いてにっこりと笑う姿は、流石校内で一、二を争う程の美人と謳われる人物。取り繕っているようには見えないのに、まるでテレビの中にいる美人さんのような笑い方だった。


「任せなさいって。あんたが頑張ってるのは亮からよーく聞いてるんだし。私は頑張ってる奴の味方だよん。私もコーデとかデザインの道に進みたいから、その練習にもなるしね?」


 まるで太陽のような笑顔を浮かべる鷲塚さん。

 きっと僕が深月さんに心を奪われていなければ、夜が眠れなくなる程に目に焼きついたことだろう。それ程魅力的で、綺麗な人だった。

 他のクラスメイトや、美人だと噂の人物さえ、有象無象にしか見えない僕だけれど、鷲塚さんだけは別かもしれない。彼女の美貌は、正に芸術的と言える。心がときめくのは深月さんだけだとしても、ふとした瞬間に、思わず息を呑む程綺麗なのだ。それこそ、彼女の笑顔で陥落しない男子が一体何人居るのか……是非とも知りたい。

 そんな美貌を持っていながら、心まで人を魅了するようなのだから、もう驚くしかない。あまり接したことがない僕の頼みを、『頑張ってるんだから』の一言で引き受けてくれ、折角の半ドンの放課後を費やしてくれようと言うのだ。もう頭が上がらない。

 本当にありがとう。そう言う他が無かった。

 お礼を言う時でさえ、吃ってしまう僕だけど、彼女はそんな事を気にした様子もなく、けらけらと笑った。


「いやあ、良いって良いって。柴田の目的はあらかた予想はついてるしねー」


 と、そう言う鷲塚さん。

 僕は思わずひっと声を上げて、固まった。それこそ、心臓を鷲掴みにされたような感覚。別に睨まれたり、凄まれたりした訳ではないのだけれど……彼女が言っている事は、あまり友達付き合いに慣れていない僕でも理解出来る。そもそも、亮君でも察知出来る事を、深月さんの親友である彼女が、察していない筈もないだろう。

 僕は頬を引きつらせて、辺りへ視線を泳がせた。

 未だ教室には多くのクラスメイトが残っている。それどころか、夏休みの前ということもあって、人気が高い鷲塚さんに声を掛けようとしてか、こちらの様子を窺っているような生徒もいた。


「あ、あの……そ、その……」


 僕は思わず両手を胸の前で開いて見せ、彼女に『降参』した。

 それ以上は此処で言及しないでくれ。暗にそう言うと、彼女は亮君がやるような、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。


「ま、先ずはその吃り癖からだね。試しに私のことは清子って呼びなさいな。ある程度は女の子慣れしないと、どんだけ取り繕っても魅力的には見えないぞ」


 語尾に星マークでもついていそうな調子で笑う鷲塚さん……もとい、清子……ちゃん。ちゃ、ちゃんで良いよね? ダメ? いや、これが僕の限界なんだけど。


「せ……清子、ちゃん?」

「宜しい。いきなし呼び捨てにしないあたり、柴田っぽさもあって良いと思うぞ」


 清子ちゃんはそう言って、けらけらと笑った。

 その後ろであまり喋ったことの無い男子達が、とんでもない形相を浮かべていたけど……まあ、クラスメイトなら大丈夫だろう。少なくとも、僕は怖い部類の人間だろうから。

 しかしながら、これは、あれだ。

 やっぱり、あれだ。

 疑う余地もなく、あれだ。


――亮君のとは別の特訓、始まっちゃった……。


 僕はそう悟って、死んだ魚のような目をした。


 僕等三人は、揃って同じ地域の出身だった。

 地区は離れているので、出身校こそ違うけど、贔屓にしている商業施設は言わずもがな。毎朝通う駅に併設している大型店舗だ。そこにはお洒落なブランド店こそないけれど、美容院や洋服店は一通り揃っている。予算的にも、ブランドものは有り得ないと言った清子ちゃんの勧めで、結局日常的に使っている施設へ行くことになった。

 先ずは頭髪を整えることに。今までは安い散髪屋で済ませていたけれど、「ワックスとかをつけた感じを見て覚えること」と、少しばかりお高い美容室へ向かった。

 予算の半分は吹っ飛ぶだろうお品書きに目を疑いながら、入店。爽やかな香りと、小粋な若い「いらっしゃいませ」の声。散髪屋でよく見るような初老の人物は居らず、若くて、お洒落な人達が、笑顔で挨拶をしていた。まるでホストクラブとか、キャバクラのような雰囲気――行った事ないけど――に、僕は息を呑むばかりだった。


「柴田は割りと強面だから、亮みたいな感じより、渋い感じが似合うと思うんだよね」


 小慣れた様子で、待合席にある雑誌を取り上げた清子ちゃん。後ろに続く亮君は、そのまま小さな丸椅子にどかっと座った。おろおろするのは僕ばかりで、店員さんもこちらの事情を察したのか、にこやかに待ってくれていた。

 ふと見渡せば、今散髪中の人は一人だけ。対して店員さんは五人程居て、その内二人が、手持ち無沙汰な体で、僕達の様子を見守っている。そのどちらもがとてもお洒落な格好をしていて、正しく『リア充』だと一目に分かるような感じだった。

 微かな音で流れる洋楽。断続的に聞こえる鋏の音。そして、「うーん」と悩ましい声を上げる清子ちゃんの声。

 暫くして、清子ちゃんがよしと言って立ち上がった。

 ハッとして向き直れば、彼女は僕の前に雑誌を広げる。片方のページを指差していて、そこにはポケットに手を突っ込み、煙草を吸っている渋い紳士の姿。片側の髪は一センチ程で、トップともう片方の髪は五センチ程と長め。長い方の髪は纏まっていて、斜め後ろの方向に流れているような感じだった。


「普通の七三分けなんだけど、これなら櫛で梳かして、ワックスで整えるだけで済むから、簡単だと思う。どう?」


 清子ちゃんはそう言って、小首を傾げた。

 亮君のようなハリネズミっぽさは皆無。雑誌に映る人物は、紳士感溢れる顎鬚あごひげをつけていて、痩せている。その髪型をした際の自分の姿は、微塵も想像出来ない。とはいえ、僕が自分で注文した坊ちゃん刈りよりは、よっぽどお洒落だろう。

 僕は頷いて、お礼を言った。

 すると清子ちゃんは慣れた様子で店員さんを呼んで、「この髪型で。サイドは割りと梳いて、軽めにしてあげて下さい。長さの境目もくっきり分けずにお願いします。あ、あとワックスはありで。染髪は無しで」と、変な呪文のような追加注文をしていた。

 押しの強さはやっぱり予想通りというか、僕が敬遠したいと思ってしまうもの。だけど、彼女は決して有無を言わせずに事を運ぶのではなく、きちんとこちらの意見を聞いてくれるようだ。そう思うと、やはり亮君が彼女を――ゲスだ何だと言いつつも――認めている理由は、何となく分かる。敢えて言葉に直すなら、彼女は強引ではなく、『姉御肌』と呼ばれる気質なのだろう。少なくとも、『頑張ってるんだから』と手伝ってくれる彼女は、とても頼り甲斐があった。

 店員さんも店員さんで、僕みたいなお洒落デビューをしようという人間は見慣れたご様子だ。特に不審がる素振りもなく、席へ案内された。慣れた手付きでシャンプーをしてくれ、その後席を替えて散髪。僕が学生服を着ていたからか、よくある散髪中中の世間話は、夏休みについてだった。あまり話題を深堀り出来るような返事は出来なかったけども、店員さんは実に快く話を展開してくれた。

 夏と言えば、海派と山派で別れるよね。

 そんな話題から始まり、僕が山派だと言えば、今度はコテージ派か、キャンプ派かと話を進める。こういう話術は、きっと恋愛以外においても必要なことなのだろう。手元を動かしながらも、平然とやってのける店員さんは、実にプロらしい。僕は素直に感心した。

 そうこうしている内に、二度目のシャンプーをして、ドライヤーで乾かして貰う。ワックスでセットする時には、僕が初心者であると察してくれたのか、「手の平で軽く伸ばしてからつけようね。混ぜる時も手の平で混ぜてから使うんだよ」と、丁寧に教えてくれた。最後にスプレーで固めて、完了だそうだ。

 そうして改まった鏡に映るのは……うん。僕だけど僕じゃない。

 相変わらず人相が悪くて、ぽっちゃりとしているものの、アシンメトリー調の髪型のおかげで、どこか爽やかな感じに仕上がっている。特に左サイドの髪が極端に短いからか、坊ちゃんがりの頃よりも痩せて見えた。


「お風呂は朝? 夜?」


 僕が感心していれば、爽やかなショートヘアの男性店員さんが問い掛けてきた。

 鏡越しに見やって、僕は朝だと答える。すると店員さんは頷いて、ちゃんと乾かしてからセットすることと、ワックスを使った日は夜も頭を洗うようにすることを忠告してくれた。何でも、今まで大した手入れをしていなかった僕の髪は、細く、枝毛も多かったのだとか。ワックスをつけたまま眠ったりすると髪が痛むらしく、ケアは怠らないようにと言われた。

 会計の時には名刺を渡され、そこには今日切った髪型の情報が書かれていた。次に来た時、それを提示すれば、同じ髪型にしてくれるそうだ。ワックスを購入するかとも進められたけど、待合席から出て来た清子ちゃんが、勝手に断った。

 何故……。

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