そのなな。

 『生徒募集』なんて書かれた張り紙がされた鉄製の扉。そこに嵌め込まれた曇りガラスは真っ黒に染まっていて、室内の灯りが点っていない事を示していた。ふと、そういえば今日は師範が居ない日か。なんて思い出す。まあ師範が居たとしても基本的に僕の指導は亮君がやるんだけどね。彼の性格上、どうしてもスパルタになっちゃうから、小学生は着いていけないし、かといって大人を相手にするには尊大すぎるし、他に二人いる師範代と違って、余りがちな指導役だったらしい。

 その余りがちな師範代はさっさと鍵を開けて扉を開け、中へ入っていく。玄関口でお辞儀をして、礼儀、礼節を重んじようとする姿を見せるのは、彼の破天荒さは空手道場ここにおいて発揮されないと、まるでそう言うようだった。まあ、立場上当然なのかもしれないけど。

 パチン。という軽い音。亮君がスイッチを入れて、室内に点る灯り。階段のそれっぽさが嘘のように、室内の灯りはとても明るく、一点の曇りさえなかった。ここだけ見ればきっと古びたビルだなんて印象はこれっぽっちも抱かないと思う。

 対面には『空手道場』と大きな印字が鏡文字となって映る窓。その向こうは今正に日が沈んだところなのか、ほんの僅かな橙色を残した暗闇が広がっていた。右手には石造りの壁があり、左手は一面が鏡となっている。壁には張り紙がいくつかピンで留めてある他に、人物名鑑と言わんばかりな一枚の大きな木の札が掛けられていて、僕は門下生の欄に、亮君は当然ながら師範代の欄に明記されていた。まあ、本当なら亮君は件の事件の所為で、今現在『門下生』に格下げされている筈だけど、別に誰かがチェックしに来てクレームをつける訳でもなし、そのままにされている。師範が適当なのは現状から見て明らかだ。

 つんと香るい草の匂い。玄関口として靴の脱ぎ場が用意されている場所以外は、緑色と赤色の畳が敷き詰められている。まあ、畳なのは見かけだけで、中身は防音マットだって亮君が言っていたっけ……。

 赤い畳で囲われた試合場が二面もある広々とした空間で、亮君は鞄から道着を引っ張り出すなり服をさっさと脱ぎ始める。彼の鞄は部屋の隅にぶん投げられて、どさりと音を立てていた。


「純もさっさと着替えろよー」


 なんて声を漏らす亮君。うんと頷いて、彼に倣う。

 造りが雑居ビルのワンフロアを改装しただけだからか、この道場に更衣室は用意されていない。そもそも女子生徒は少ないし、彼女らが着替える時は同じフロアのトイレを更衣室にしているらしい。言わずと男子勢はおおっぴらに着替える訳で、亮君と二人の現状なら、尚の事気にもしないで着替えを始めた。


「そういやお前、随分がっちりしてきたな」


 その最中、僕へ投げかけられる亮君の言葉。

 突拍子のない言葉に振り返ってみると、自然に過ごしていては絶対につかないような隆起を惜し気もなく晒している彼の姿が目に留まる。こちらを振り返りながら、足許の道着を拾い上げるという体勢であるにも拘わらず、彼の腹斜筋は洋服のような薄い皺を寄せているだけ。勿論、腹筋は見事なセパレートのままだ。

 場所が場所なら、『ナイスカット』と言わざるを得ない。腹に板チョコでも貼ってんのかーい。


「筋肉モリモリマッチョマンな亮君に言われてもお世辞か嫌味にしか聞こえないね」


 ナイスカットの代わりに、僕はクスクスと笑いながら返事した。

 亮君はキョトンとした風な表情を浮かべてから、「何処のコマンド―だよ」とごちて着替えに戻る。折角褒めてやってんのに。と、そんな愚痴が聞こえてきそうな雰囲気だった。

 確かに四月の頃と比べれば全然違うだろう。ぽっこりとした腹は依然として変わりはないのだけれど、前みたいに動くたびポヨンと肉が波打つ様子は無くなった。硬い筋肉の上にあると言わんばかりに揺れ動く範囲が狭まり、力を込めれば目に見えて肉が凝縮する様子が見られるようになった。だけど未だ太っているには違いない……かな。

 対する亮君は、小麦色に焼けた四肢は勿論、全身が今にはち切れそうな程、ピンと張った筋肉の塊。先程見た通り、腹筋は当然のように六つに割れているし、肩が筋肉で盛り上がっていてなで肩にさえ見えそうな程。腕も足も筋肉の形が目に見えて判る程のムッキムキ具合。そう見るとやっぱり、先のお褒めはお世辞どころか嫌味にしか聞こえない訳だけど、彼は嫌味なんて頭の良い事は言わない。失礼だけど、それは確か。彼は脳味噌まで筋肉に侵されている。

 皮を剥げば近未来の殺人マシーンが出てきそうな彼の姿は、果たして激励か畏怖の対象か。僕は溜め息混じりになりながら道着を着た。

 ズボンを穿いて、紐で縛る。胴着を羽織って、紐で縛る。最後に白い帯を締める。こなれてきた動作を終えた頃には、既に亮君も道着を纏っていた。

 僕の道着は未だ新品特有の硬さが残るものだけど、彼が纏う道着は随分柔らかく見える。締めている黒帯だって色が剥げていて、白い下地が至るところで露呈していた。一四年という彼が費やしてきた時間を表すような、味のあるボロさだろう。

 よし、と亮君が拍手を打って、先ずは準備運動だと軽いストレッチを命じられる。

 ここで早朝に受けたノルマをワンセットやっても良いと言われているので、頷いて返した僕は当然のように過酷な筋トレを開始する。

 一面が鏡になっている方へ向き、畳に両手を着いて体をピンと伸ばした腕立て伏せの体勢。そこで回数は……と考えた僕は、ふと今朝言われた事を思い起こして小さなため息を吐く。ああ、そういや今朝一割増しにするように言われたんだった。と、そう気がついた。思わず悪態のひとつでも溢してやりたくなるけども、それは怠惰と言う名前の悪魔のささやきだ。そう思いながら腕を折って一回目の腕立て伏せを始めた。

 愚痴るな。やれる事はやるって決めたろう。

 そう言い聞かせながら、僕はこれまでの人生で積み上げてきた怠惰と言う名前の罪の象徴である脂肪をゆっくり燃焼させていく。でも、自ら己に言い聞かせる言葉なんてそんなに力は無いんだろう。すぐに『もう辞めたい』だとか、『もうしんどい』だとか、そう思ってしまうのが人間だ。

 腕立て伏せの回数が三〇、四〇、五〇と回数を重ね、やがて七〇を超えた頃。肩の疲労はまるで重石を乗せているかのようだった。息が荒くなってくれば、頭を支える首が強張るし、膨大な肉を平時から支えている腰の骨が軋んでいるようにも思える程。すると辛い、しんどい、もう辞めたいと、そうささやく声は徐々に大きく聞こえ始めてくるんだ。

 だけど――。

 脳内で反響する言葉に、何処からともなく深月さんが言う。

 『無能』と……。

 そんな言葉が聞こえれば、僕は折っては伸ばす動作を一時中断して、隣で同じ体勢をとっていた亮君を一瞥。するとそれがとどめとなって、悪魔の声は力を無くすように静まっていった。

 僕の倍よりも早いペースで繰り返される腕立て伏せ。おそらく回数は既に二〇〇を過ぎているだろう。亮君は僕に課した回数よりも遥かに多い回数を日々のルーチンワークにしていて、既に慣れている彼は飄々とした様子でそれを遂げてしまう。

 そんな彼の様子を見た僕は、今一度前を向いて正面にある鏡に写る自分へ言い聞かせた。


――幸せを掴む手を育てろって、父さんが言ってたじゃないか。


 ダメ押しと言わんばかりの言葉で悪魔のささやきは完全に静まる。よしと頷いて折った腕は、先程よりも軽やかに伸びてくれた気がした。



「右前屈ぜんくつ下段払い、構え」


 過酷な筋トレと柔軟体操を終え、僕は鏡に向かって両足を肩幅に開いた体勢で立っていた。そこへ飛んできた亮君の指示に言葉は無く、身体を動かす事そのもので応えて見せる。

 右足を左足へ引き寄せ、そこから摺り足の要領で歩幅より半分程広く前へ差し出す。ダンと音を立てて足を落とすと同時に右膝は直角に折り、左足は少しのあそびを残しながらも真っ直ぐに伸ばす。その動作と同時に右拳を左肩へと振り上げて、交差させた左腕に沿って振り下ろす。布が軽やかなバンと言う音を鳴らし、僕の右腕は右膝の真上で『受け』の構えを取る。左拳は腰の横へ収まり、僕はそれらの動作が終わると同時に正面へ向けて腰を据えた。

 右足を前にした『前屈立ち』に、右手を使った『下段払い受け』を複合した構え。空手の基本的な構えのひとつで、しっかりと出来ていれば体勢を崩されない立ち方と、右方向の下段蹴りを逸らす事が同時に出来るそうだ。まあどう考えても蹴りを腕で受けたら、腕が痛くなる訳だけど、そこは突っ込んじゃいけないらしい。


「そのままな。動くなよ?」


 僕が指示された構えをとれば、亮君が歩み寄ってくる。そして僕の周囲を一周してから、おもむろに僕の股の方へ手を伸ばし、垂れ下がっている白帯の裾を両手で引っ張った。

 前方にぐいと引っ張られて、僕の体勢は大きく崩れる。わあと声を上げながら、腰から左前へ倒れこみそうになるのを左足を差し出して、たたらを踏んだ。

 あ、崩れた。

 そんな風に自分を客観視しつつ、思わず肩を竦めて、崩れた体勢のまま亮君を見上げる。彼は悪戯っぽく笑いつつ、ドヤと言わんばかりにふんと鼻で笑っていた。


「腰が入ってねえ。形だけは出来てっけど、右足に体重乗せすぎだ」


 そしてそう講釈を述べる。

 言われて思い起こす。なるほど、もう少し左足にも体重を移して、低い体勢を維持しろって事だろうなと、そう思案する。すると僕が体勢を正す前で彼は「見てろ」と溢し、僕がやった『右前屈下段払い』を僕に側面を見せ付ける形でやってのけた。

 バシンと言う軽やかながらも大きな音が響き、彼の動作はピタリと静止。僕と同じ動作をやったというのに、しかし一目で全く違うと言えてしまう程に洗練された動き。正しく僕のものとは雲泥の差と言える様な、プロが見せる『魅せる』動きと言うものだった。


「良いか? お前は少し猫背のきらいがある」


 首だけを僕に向け、彼は上体を少し前のめりにした不恰好な姿に。


「こうして前のめりになるから前足に体重が寄っちまう」


 そして『受け』の手を解き、自らの右足を軽く叩いて見せてきた。

 僕はうんと頷く。


「前よりは大分様になっちゃいるが、前のめりな体勢が癖にならねえように気をつけねえとな」

「わかった。腰をもう少し後ろで据えて立てば良いのかな?」


 そう問いかければ亮君はおうと頷いて、正しい姿勢へと戻る。そして今度は腰に両手を当てて、軽く左右に腰を回すような動作をして見せた。


「あとは腰がこうしてふらついてっから、それもちゃんと直す事だ……腰は?」

「正面に向けて据える事」

「オーケー」


 そんな風に講釈を受けながら延々と構え、突き、蹴り、受けを練習し続けた。

 空手と言えば『組み手』や『型』ばかりを練習するものだと思っていたけれど、それをするには基本の動作が全てきちんと出来るように定着してからなんだとか。基本が大事なのは当然の事なんだけども、間違った事を覚えて『組み手』なんてすれば、自分だけじゃなく相手を怪我させる事もあるそうだ。正しく自己防衛と競技としての技を習得出来ないうちは絶対にやらせねえと、亮君はそんな風に言っていた。

 ならば『型』は? と、一度だけ聞いた事がある。

 すると亮君はその時肩を並べて歩いていた僕の腕をぐいと引いて体勢を崩すやいなや、腹部への軽い膝蹴りと、背中へ当たるか当たらないかといった寸止めの肘打ちをしてきた。思わず僕が呆気にとられれば、彼はすぐに僕を解放してから溜め息混じりに教えてくれた。


『型は組み手より大事だ。基本として教えていない技だって多い。寸止め空手って馬鹿にされがちだけど、型は寸止めじゃダメな時に使う技。つまり確実に相手を為の技だってある』


 例えばナイフを構えた悪漢に出会わした時や、一対多数で戦わねばいけない時等、護身術が本当に必要となる時は『組み手』のように相手が素手で自分と一対一であるとは限らない。そういう時になって必要になるのは前屈立ちでもなければ、一本を取る技術でもない。相手を無力化し、返し刃で確実に倒せる技が必要になってくる。その為の『型』だ。亮君はそう言っていた。

 まあ、要するに、僕にはまだ早いって事だろう。


「あ、そうだ」


 ある時、僕はぽつりと溢した。指導を受け、それを反復練習として体に定着させる訓練をし始めて数分の頃合い。師範が居る日なら小学生の子らが集中力を切らし、わいわいと声を上げながらおふざけ半分で訓練をしている頃合いだろうか。そんな風に思いつつ、僕は何処か寂しさを感じる現状に言葉を放り投げて見せた。


「あん?」


 と、亮君は僕の構えをチェックしながら言葉を返してくる。怪訝さを思わせながらも律儀に返してくる様子と言えば、きっとここに二人しか居ない状況じゃなければ「真面目にやれよ」なんてらしくもない言葉を吐き出すのだろうと、そう思わせる。不意に僕の脳裏へ、そう言ってすごんでしまって沙紀君……だっけ、小学生の男の子を泣かせてしまって、おろおろしていた彼の様子が思い起こされた。まあ、彼が暇な師範代であるその理由だろう。

 何処か可笑しくなって、僕は微笑みながら溢す。体が汗を流していて苦しいものの、心はなんだか余裕を感じていた。


「今度の日曜、父さんとゲーセン行くんだけど、亮君も来ない?」

「ああん? ゲーセン?」

「そうそう」


 授業中に何言ってんだこいつ。なんて視線を受け取りながらも、僕は右足の前蹴りを繰り返しつつ言葉だけで肯定する。別段、二人っきりな時は大して気にもしないでくっちゃべりながらやる事なんて珍しく無い。気楽にやろうぜ、なんて事は暗黙の了解だとも言えた。


「良いけど」


 そう溢しつつ、亮君は含むように笑い始めた。くっくっくと声まで漏らす様は、僕が何か失態でも犯したと言わんばかりの様子だ。

 うん? と、小首を傾げて、蹴りを繰り出す足を止める。向き直ってみれば、彼はいやいや何でもないと言うかのように首を横へ振って、しかし言葉を続けて見せた。


「いや、お前の親父さん付きなのがなんか可笑しくって」

「え? ダメ?」

「ダメじゃねえけど……」


 少し予想外な指摘だった。けども言われてみれば確かに……。とも思う。

 そんな僕の様子を知ったこっちゃないのか、亮君は苦笑いと共に再度唇を開く。


「ほんと、お前面白ぇわ」


 そして毎度御馴染みな台詞を言われた。

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