そのろく。

 深月さんは可愛い。

 心の底からそう思う。

 決して万人受けするような愛らしい容姿でなければ、殆んどの人にとって彼女は『普通の女子』代表だろう。可もなく不可もなく、平々凡々な見た目だと、きっと誰もがそう言うに違いない。特別抜きん出て可愛らしい一面なんて無いし、一般論では『モブA』以外の何ものでもないのだろう。だけど、僕の視界に映る彼女ばかりは、決して『モブA』なんかではないのだ。

 愛らしい大きな双眸そうぼうが宿す黒色は、長い時間をかけて磨き抜かれた黒真珠こそ、こんな色合いなのではないかと思わせる。小振りな鼻筋には年頃の人に見られる毛穴の黒ずみなんかないし、整った形と言うよりは、『この形こそ基準なんだ』と主張したくなる程。唇だって平坦だからこそ輪郭のシャープさを際立たせていて、華奢な身体つきに対するバランスをちゃんととっている。首筋がしっかりしているのだってそうだ。だからこそ彼女のシルエットは華奢なのに、もろく儚くは見せない。二次元のような繊細さは不要だと、そう仰っておいでなのだ。

 ああ、深月さん。

 キミを絶えず称え続けるような何かになりたい。出来ればこの世界中の男性全てに生まれ変わって、全員揃って彼女の前で一生ひざまづき、彼女こそが神と崇めるべき存在だと世界中に知らしめたい。世界中の女性が彼女に憧れを抱き、羨望の眼差しを送るかのような立場を用意してあげたい。


「おい、純……」


 ああ、なんでそんなにも可憐で尊いのですか。どうしてこんなにも神々しく感じるのですか。否、答えは既に知っています。深月さんが神だからです。彼女の事をおそれ多くも『モブA』とか言っていた頃の僕よ。今すぐ死んで詫びろ。お前こそ『モブF』あたりだろう。四月の僕よ。産まれるところからやり直してこい。

 ああ、深月さん。深月さん。深月さん。


「おい!」


 深月さんの可愛さは世界一ィッ!!


「純!! 聞けよゴラァッ!!」


 ミヅキ・サン・ワンダーランドに迷い込んでいた僕を、三次元リアルへ呼び戻す謎の声。ハッとする心持ちよりも、「不届き者め、何奴!?」と怪訝に思う心を臆面もなく表現し、憎憎しいと黙して語る表情を浮かべ、僕は目を開く。すると目を開いた僕の視界を二つに割る小麦色の――。


「ウボァッ!!」


 辺りは橙色に染まっていた。生温い風に煽られたカーテンが大きく孤を描き、その度に規則正しく並ぶ机が夕暮れ時の色合いに染まる。波の寄せて返す姿と似た雰囲気で、その橙色は広がったり狭まったりを繰り返していた。視界の正面には金色のハリネズミ野郎。辺りには白いブラウスや白いシャツの人達がいて……シカシ深月神ハ既ニ此処ココラズ。

 正しく一撃。僕の眉間に打ち込まれた手刀は、まるで思念に通用する刃でも持っていると言わんばかりに、僕の幻想をぶち壊す。それと同時に感じる身体の痛みによって僕の意識は急速に現実味を帯び、今正に考えていた事が急に嘘っぱちな風に思えて熱が冷める。ハッとすれば、とはこの事だろう。しかし暴力によるそれの代償は大きく、打たれた眉間から眼球の裏側にまで響くような痛みを感じて、僕は絶句。掠っただけの鼻っ柱でさえ、鼻腔が圧迫されてつんとした痛みを覚えた。

 思わず苦悶の声を漏らしながら、一瞬だけ見えた犯人の顔を彷彿する。

 いや、まあ、亮君だけど……。僕に攻撃するような人物は彼だけだし、垣間見えた景色が学校の教室ならば、僕に進んで話しかけるのも彼しかいないだろう。自分で言ってて悲しくなるけど、ここはミヅキ・サン・ワンダーランドでもなければ、僕は全人類を指導する深月教の開祖でもない。色々残念な妄想を繰り広げているだけの残念なキモオタだ。そして真に不本意ながら、深月さんも神ではない。


「ったぁー」


 打たれた眉間から響く痛みに、思わず瞼と眉の丁度境目をそれぞれ手で押さえる。視界を遮る自らの腕を疎ましく思いつつも、僕は目の前で今に舌打ちでもしそうな風に見える亮君を憮然と見返した。視線が合うなり、彼は「はぁ……」と溜め息を吐いて、疲れ果てたと言うかのように肩を落とす。


「今朝とおんなじ理由な? もう授業終わったぞ」


 今朝と同じとは、打たれた理由だろう。そういえば登校の最中にも彼の平手を顔面に受けた覚えがある。あれは中々に痛かった。今の手刀よりは全然マシだったけども。しかしながら、何だって彼はこんな暴力的なんだ。女性に対しては口調こそ悪いものの決して手は出さないというのに、僕に限っては何故にこんなにも平然とぶっ叩くのか、本当に疑問だ。

 って、あれ?

 チョットマテ。

 僕は思わず痛みを忘れ、目をぱちぱちと瞬かせながら彼を見返した。疑問符を乗せた言葉が不意に溢れれば、彼も彼で「ん?」と怪訝そうに顔をしかめながら聞き返してくる。

 混乱しそうになる思考を抑えようと、僕はこめかみを押さえながら端的に聞いた。


「学校、終わってるの? もう?」

「お前何言ってんの?」


 そして返された言葉は、正に彼の口を突いて出たと言うような感想。決して僕の問いに答えてはいない。しかし、最早怪訝そうにというより、今に『こいつ頭大丈夫か?』とでも言いそうな表情の彼は、肩にボストンバック型の学生鞄を担いでいた。それは休み時間や移動教室で持ち運ぶようなものではないし、即ち彼が今しがた告げた今が放課後であるという事の証明に他ならないだろう。

 いやはや、我ながら驚きだ。授業をまともに受けた覚えがない。

 僕は顔をしかめて数度頷きながら、彼に右手を差し出して軽く開いた手の平を提示する。待ってくれ、理解をする。と暗に語れば、彼は小首を傾げながら「お、おう?」と返してきた。その様子を確認してから視線を落とし、何も置かれていない自分の机の上を見据え、それから横目に今はもう帰ってしまったらしい深月さんの席を一瞥。次第に少しずつ思い起こされる、今日という無駄にした一日の風景。

 今朝、僕は深月さんと初のまともな会話をした。それはとても心地よく、甘美な時間だった。出来る事ならば一生涯あの一時に閉じ込められ、そのまま人生の終わりまでの時間を過ごしたいと思う程の幸福だった。本当に深月さんは可愛くて、彼女のあの愛らしい笑顔が僕に向いていたあの瞬間にこの大宇宙に幾つもの世界、及び神が誕生した事だろうと――待て、落ち着け僕。とても重要な事ではあれ、今これについて思考すれば、再び目の前の不届き者にぶん殴られる。

 ふうとため息をひとつ溢す。クリアになってきた思考は、正しい答えをきちんと覚えていた。

 一時間目、数学。黒板を見る代わりに深月さんの横顔を彼女に悟られない程のペースで横目に見ていた。とても可愛かった。ノートに黒板の複写は行われず、写しているフリをしながら書いていたのは深月教による深月フリーカーの為の深月さんバイブル。神ハ深月 陽菜デアル。二時間目以降も全く同じ。休み時間は鷲塚さんと楽し気に話す彼女をやはり観察していた。因みに今日のお昼ご飯は白米もハンバーグも砂糖の塊のように感じた気がする。

 うわぁ……。

 我ながらヤバイ。何がヤバイって、一日中トリップしていた事は勿論だけど、それを誰にも異常だと悟られなかった事が一番ヤバイ。僕って人間は普段から気持ち悪い奴だと自覚しているけど、一日中トリップしていても周りから『異常』と揶揄されないって、幾らなんでもずば抜けすぎだろう。亮君は休み時間を含めて基本的に爆睡してるから日中あまり話さないし仕方ないにしても、先生達は……あの、僕今日何も勉強してませんよ? 深月さんの仕草なら数学の公式よりもしっかりと脳に刻み込まれましたし、深月教の戒律は煩悩と同じ数だけ創りましたけど。


「純?」


 一日を思い起こして自分の気持ち悪さを再認識した頃。待ちきれなくなったらしい亮君が再度怪訝な表情を浮かべながら話しかけてきた。ん、と返しながら向き直れば、彼の頬には今さっきまで寝ていたと言わんばかりな痕が付いている事に気が付く。

 僕は溜め息混じりに肩を竦めて笑った。


「亮君と同じで僕も寝てたみたい」


 本当はそんな事ないのだけれど、学校で学ぶべきものを全く学ばなかったのだ。寝てたと言ってもあながち間違いではないだろう。ある意味白昼夢を延々と見ていたのだし。

 僕の言葉に亮君は肩を竦めてから、唇を尖らせ、額に皺を寄せるという少し可笑しな表情を浮かべた。珍しいじゃん、と暗にそう言うようだった。次いで鼻でふんと笑って、彼は早く帰る用意をしろと言うかのように僕の前で手を素早く扇ぐ。


「道場でボケてっと怪我するぜ?」


 呆れたように溢す彼。僕はうんと頷き返して、使われなかった教材とノートを机の上に出した。そして手早く荷物を纏めれば、亮君と肩を並べて学校を後にするのだった。


 自宅の最寄り駅へ着き、僕達は朝方に亮君が歩いてきた方の出口へと出る。今朝とは別の石橋を渡り、車の通りばかりが多い道に降り立てば、僕の自宅がある方向とは真逆の方へ進む。

 右手に舗装された斜面を見つつ、左手には片側二車線の道路。駅舎から徒歩五分と離れれば、景色はすぐに住宅街のそれ。今歩いている道こそ大きな公園と住宅街の境目といったところだが、右手の斜面を登れば数えきれないマンションの数が並んでいる。ここまで聞けばこの歩道も活気があるように聞こえそうだけど、決して田舎ではない街のホームタウンと言えば、安価の市営バスが一〇分おきに走っているものだ。学生の身分でもなければケチる金額でもなし、車の通りばかりで人通りが少ない道程だった。

 そんな薄気味悪い通りを、相も変わらず愚痴っぽい亮君と肩を並べながら歩く事二〇分。やがて気味の悪さを象徴するような微妙な臭気が無くなり、駅の商業施設程に栄えてはいないものの、それでも夕暮れ時の賑わいを見せる商業区画へと辿り着く。高層住宅の三階までを施設にしているスーパーがあり、対面の通りにはファミリーレストランや病院、郵便局等が並ぶような、住宅地特有のごちゃごちゃとした風景。勿論、この景色を越えてしまえば、再びマンション群が待っている。

 午後五時を過ぎようかというこの時間。人々の往来は激しく、やはり主婦や学生が目立つ。身体が大きい僕達は、人にぶつからないように少しばかり気を付けながら歩き、やがて人波の切れ目――スーパーを過ぎた所で路地へと入る。

 大通り程では無いものの、やはり商業施設が並ぶ路地。そこを抜ければ、やがて商業施設の群れからハブにされたようにぽつんと佇む雑居ビルが見えてきた。最近になって漸く見慣れてきたそのビルは、見た目にもボロい。なんでもその昔この地方を襲った大地震より以前から建っていたらしく、その震災にて負ったらしい傷跡が、今でも外装に小さく残っていたりもする。強固な鉄筋コンクリート製だから倒壊する事は早々有り得ないらしいけど、やはり見た目のボロさだけは如何とし難くて、うち捨てられたかのような印象を抱かせた。一応ビルの窓には空手道場とは別の階にダンス教室の文字もあるけど、やっぱり『空き物件あり』の広告が一番目立っているのだから詮無い話だ。哀愁が漂うとは、正にこの事かもしれない。

 空手道場に通うようになって早三ヶ月。僕は日曜日以外の週六日間というペースで、そこへ通っている。普通は週三日とからしいし、師範はそれぐらいのペースでしか来ないのだけど、色んな事情が絡んで週六日通えていたりする。例えば道場があるこの雑居ビルは亮君のお父さんが所有しているのだけど、ボロすぎて空手道場のフロアに他の借り手がいない事だとか。亮君が一応師範代――暴力事件により、自粛中――なので、師範が居なくても僕をこっそり指導出来るだとか。脱ヤンキーを宣言された彼のお父さんが、切っ掛けになった僕の為なら好きにしていいと言っているだとか。ほんと、色んな事情だ。まあ、そのおかげで僕は随分早いペースで上達しているらしい。当然、まだ白帯だけど。

 亮君に先導されて雑居ビルの中へ。お世辞にも設備が整っているとは言い難く、エレベーターなんてものも無いので、名前ばかりで誰も駐在しちゃいない管理人室の前を横切って、当然のように階段へ。剥き出しのコンクリートをスニーカーの裏で打ちながら、薄暗い階段を一段一段昇っていく。

 このビル、灯りはところどころ切れていたりする上に、無事なものも基本的に汚れてくすんでいる。手すりだって踊り場の角っこを触れば得体の知れない謎の液体が付着したりするし、絶対に人間よりも蛾や蜘蛛の方が多く居るとも思う。もうわざと古ぼけた雰囲気を維持しているんじゃないかって疑いたくなる程だ。

 そしてこんな場所でも亮君の愚痴は続いていて、彼が漏らす言葉が木霊こだまするように反響。それが余計に廃れた風な装いをそれっぽく見せ、夕暮れ時という微妙な時間帯も合わさって、いよいよ心霊スポットでも探索しているかのような心持ちになる。なんて事を以前亮君に話したら、悪戯っぽい笑みで「ここ、出るぜ?」なんて言われたっけ。勘弁して欲しい。

 道場がある三階に着いたのは、僕がそんな事を思い出して、後ろが気になり始めた頃だった。

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