そのご。

 朝から亮君がボコボコにされるというショッキングな筈の風景だけど、今が朝じゃなければ大して珍しくなかったりもする。流石に彼が鷲塚さんの下着を見てしまったくだりは珍しいけど、深月さんが二人のやり取りを『夫婦喧嘩』と揶揄したのは中々的を射ている。

 となれば僕が取るべき行動はひとつだった。


「ほ、程々にしてあげてね」


 そう溢して二人のやり取りをスルーするだけなのだ。後ろの出入口を二人のやり取りで占領されているので、前の出入口に迂回する事にはなるけど、たったそれだけで良いとも言える。巻き込まれるのはご免だしね。

 そうして何処か後ろ髪を引かれる気分で歩きだせば、鷲塚さんは左手を握って親指だけ立てたグッドサインを向けて返してきた。同時に浮かべられていた笑顔と言えば、おそらく僕でなければ男心をくすぐられるんだろうなと思える実に可愛らしい笑顔。深月さんウイルスにかかっている僕には『効果がないようだ……』っていうテロップが出るんだろうけど。

 まあでも、この二人は夫婦と言うより、仲の良い姉弟か兄妹じゃないかなと思う。二人がイチャラブしてるなんて想像つかないし。


「純の薄情者ぉッ!」


 悲鳴の合間でそんな声が聞こえたけど、僕はスルーを決め込んで前の出入口へ向かう。むしろその女々しい叫びのおかげで僅かにあった罪悪感も綺麗さっぱり無くなった。最早振り返る事も無い。

 だって僕に空手の指導をしてくれる彼こそが、『女には手を上げるな』だとか『弱い奴を守る為に拳を振るえ』だとか言っているんだもの。僕より強い彼を、態々教えに反して守ろうだなんて思わないね。うん。まあ、それを逆手に取って、なんだかんだ言いつつも反撃してこない彼を、何の躊躇いも無くボコる鷲塚さんは相当鬼畜だけど。


「ふう」


 そんな事はさておき。

 僕は白塗りの引き戸の前で胸を撫で下ろす。

 亮君と違って、想い人が既に登校している事を理解している僕は、きちんと心の準備を済ませる訳だ。脳内で自らに落ち着けと言い聞かせ、ドクンドクンと高鳴る胸を左手で押さえて小さな息を吐く。

 目の前の扉は縦に細長いガラスが嵌め込まれている。廊下側の他の窓は曇りガラスだけど、教室の前後にある扉についたガラスに関してだけはそうじゃない。毎日の掃除の時間できちんと拭かれていて、中の風景をしっかりと認められる。

 僕は目を凝らして、そのガラス越しに麗しの深月さんを探す。あまりじろじろと覗くのは挙動不審に見えるだろうし、あくまでも一瞬。しかし僕はすぐに彼女を見付けた。

 探す……と言いながら、探すまでもない。彼女は自分の席で椅子を横に腰掛け、後ろの出入口をつまらなさそうに眺めているようだった。言うまでもなく鷲塚さんと亮君のやり取りを呆れまじりに観察しているのだろう。

 ドクンと高鳴る胸。背筋にじわりと汗が滲むような感覚を覚えて、僕は再度息を吐く。そろそろこうしているのも可笑しく見えるだろうし、否応なしに覚悟を決めなくてはいけない。

 とはいえ、本来なら彼女と同じ空間にいるぐらいじゃ、こんなにも僕は神経質にならない。最後のチェックとして鼻水が出ていないかとか、腸内環境が悪魔の悪戯を犯さないか等、そんな事まで気にしたりするのは、少し特別な理由があった。


――よし、落ち着け、僕。変な事はしない。アイム、ピースメイカー!


 変な常套句を心の中で唱え、僕は至って普通の様子を心掛けながら、教室の引き戸を開けた。集まってくるクラスメイトの視線こそ気にせず、僕は一直線に窓際の後ろの方へと向かう。視線の先には、僕をちらりと一瞥してくる深月さん。

 そう、正しく僕は深月さんの方へ歩いていく。

 教室の一番後ろの列。窓際からひとつ席をおいて、彼女は座っていた。僕を認めた後の視線はすぐに鷲塚さんの方へ戻され、僕が彼女を見ていた事に何の疑問も無い様子だ。

 それもそうだろう。

 窓際の空いた席は、まさしく僕の席。つまり深月さんの隣の席が、僕の席なのだ。

 月一の席替え。まさに羅漢仁王像とでも向かい合うかのような心持ちで引いたくじは、四月に座っていた席と、同じ席を示していた。しかしそのくじは同時に、先にくじを引いていた深月さんの隣である事を意味していて、僕は立ったまま気絶しそうになる程の衝撃を受けたものだ。

 惜しむらくは七月という暦。僕は生まれて初めて夏休みと言う有り難かった筈の長期休日を呪った。二三日までの幸せだなんてあんまりだ! と。しかしながら想い人の横の席とは中々に地獄と隣り合わせで、不意に腹がぐうと音を立てれば恥ずかしいし、屁でも出そうになればひたすらな心頭滅却を心掛けて身体に苦行を課さねばならない。まさに紙一重な天国と地獄であり、早く過ぎ去って欲しい二三日間でもあった。

 まあその二三日間の半ばを越えた今となっては、残り僅かな日々を惜しむ気持ちが勝っているんだけれど。ほんと、夏休みとか要らないよ。一日中ゲームが出来るって夏休みを心待ちにしていた頃の自分に、全部あげてしまいたいくらいだ。

 隣の席とはいえ、特別彼女と交わす挨拶さえなく、僕は自分の席に荷物を置く。ドクンドクンと高鳴る鼓動を煩わしく思いながら、木にパイプが付けられただけの座り心地が悪い椅子を、成る丈音を立てないように引いた。そして腰掛け、ゆっくりと前へ詰める。

 ガタガタと鳴る椅子の足が木目を打つ音を呪わしく思いつつ、視線を少しだけ右に逸らして深月さんを一瞥。相変わらず僕の様子には興味無いようで、机に左腕で頬杖を突きながら、こちらに背中を向けていた。ブラウスにはやっぱり水色のラインが透けている。

 ホッとするやら、何となく寂しいやら。あと、ご馳走様です。

 小さな溜め息と共に雑念を捨て、僕は学生鞄を開く。ボストンバッグと言える程の大きさな鞄の中は、ごわついた白い服が目立つ。今日の放課後に向かう道場で着る為の道着だ。これは当然ながら今は必要ない。しかし、これを出さねばその下に埋まっている教科書とノートを出せない。

 僕は帯で一纏めにしてある道着を引っ張り出そうと手を入れた。

 丁度、そんな折りだった。


「ふわぁ」


 と、声が聞こえて、不意に視線を右へ。

 思わず胸がドキリと音を立てた。

 僕に背を向けている体勢から左へ顔を逸らし、両手を重ねて、口は勿論、鼻までも覆っている姿。ぱっちりとしている筈の目を細め、少しばかり目尻に光るものを滲ませていた。

 深月さんが欠伸をしていた。ただ、それだけだ。

 だけど即座に彼女はハッと目を開く。そして口元を両手で覆ったまま、彼女の視線はその恥ずかしい姿をしっかりと凝視していた僕へと真っ先に向き直ってきた。


「あっ」


 両手に遮られ、僅かばかりくぐもった声。急いで目線を逸らし、鞄へと向こうとした僕だったけど、彼女の声の方が早かった為にそれは出来なかった。見ていた事を既に悟られているのに、視線を逸らすなんて出来なかった。

 な、なんて言おう……。

 不意に見てしまったものは仕方ないし、『じろじろ見んなよ気持ち悪い』だなんて事は言わない人だとは思う。だけど間違いもなく彼女が恥ずかしいと思っている事を見てしまったから、そう言われても可笑しくはない。

 と、兎に角何かしら弁明をせねば!

 そう思うと即座にゲームの世界での経験則が、僕の脳内に展開される。こんな状況でこんな展開のゲームはと検索をかけ、導き出された光景はしかし、深月さんという毒舌キャラクターに対して相違があるものばかりだった。

 二次元。その世界での毒舌キャラクターと言えば、ほぼほぼツンデレの四文字が着いてくる。だけど深月さんはツンデレじゃない。むしろどっちかと言えばクーデレだ。デレた事無いけど!

 となるとどうすれば!?

 どうしようもない!!

 目が合ってから僅か一秒。僕の思考はどん詰まりに行き着いた。それどころか彼女の目は今日も深く澄んだ黒色をしているだなんて、深月さんウイルスによる誇張と言う名の脚色が成された現実逃避までし出してしまう始末。

 そんな僕の前で、深月さんは罰が悪そうに肩を竦めた。


「朝から変なもの見せてごめん」


 そして恥ずかしげに口元を覆ったまま、くぐもった声でそう溢す。手で覆いきれていない頬が、朱をさしたような色になっていた。

 僕は咄嗟に現実逃避を止めて、首を横に振るう。変なものじゃないと思うし、むしろこっちこそ見てしまってごちそうさ……じゃなくて、ごめんなさい! と心の中で述べる。

 いや、そんな事はどうでもいい。何か言わないと!


「せ、せせ、生理現象。ぼ、ぼ、僕も……あ、欠伸するし!」


 そして何とか弁明をと意識して吐き出した言葉。述べられたのはそれだけだった。しかしその答えを受けた深月さんは、ハッとして視線を泳がす。焦った風に口元を覆った手を離し、教室を見回していた。

 あれ?

 可笑しな事言っただろうかと僕が戸惑えば、やがて深月さんは目を細めて、僕へ身体ごと向き直ってきた。

 露になった頬はやっぱり朱がさしていて、恥ずかしげに見えた。薄く開かれた唇は白い歯を覗かせていて、色付きは良くないのに艶やかに映る。唯一印象的な瞳は、僕を睨むかのように細められていて、そこで彼女の次の言葉が罵倒である事を僕は何となく察した。


どもりすぎ。声でかすぎ。晒し刑ですか……」


 意識して出したらしい低い声で述べられ、僕は背筋を嫌な汗が伝うのを感じた。怒られた。そう理解するのにほんの一秒だってかからなかった。

 そう。焦るあまり大声で彼女の失態を周知に晒してしまったのだ僕は。これは不味いと、身体中の肌が粟立つような感覚を覚えた。


「あ、えと、ごご――」


 バッグに突っ込んだままの手を抜き、椅子が大きな音を立てるのも構わず乱暴に彼女の方へ向け、手を合わせて軽く頭を垂れる。


「ごめんなさい! そ、そんなつもりじゃ」


 と、するとガタンと言う椅子の音が即座に響く。

 へ? とその音に疑問を持った僕がすぐに頭を上げれば、彼女は膝丈のスカートを両手で押さえながら、椅子をほんの少し引いていた。ぴったりと閉じられた膝は、決して細くないものの、なんだかとっても素敵に見える肌色で……。


――シマッタ! このアングルはっ!!


 生足を一瞥した僕はハッとする。

 決して先程の亮君程しっかり覗き込むような体勢ではないけど、合わせた手が無かったら不審極まりない角度ではあった。

 ふとすれば未だすったもんだとやり合っているあの二人と同じ展開になってしまうと、脳内の僕が騒ぎ立てた。待て。むしろそうなっても御褒美は御褒美ではないか? いや、見るべきものを見ていない以上、殴られ損だ。僕はドエムじゃない! いや、そんな事よりこれは不味い。不味すぎる。好感度メーターだだ下がりだ!

 として、焦った僕が更に見上げた深月さんの顔は、先程の欠伸が相当恥ずかしかったのか真っ赤になっていた。


「ちょっと……」

「み、見てないよ?」

「ならいいけど」


 そして端的に交わされる言葉。

 ドクンドクンと高鳴る胸の音は、何かしらの背徳感を訴えているけど、僕が見たのは彼女の生足だ。決して彼女が割愛したであろう目的のブツじゃない。むしろ彼女の下着を直に拝みでもしたら、僕は即座に気絶する自信がある。

 僕をあっさりと許した深月さんはふうと息を吐いて、まるで自らに冷静になれと言い聞かせるように左手で胸を押さえた。その姿に僕は少し呆気にとられる。と言うか、見惚れた。

 薄手のブラウスなのに彼女の胸はあまり存在感を主張しない。少しばかり透けて見える水色の下着だって服を張らせていないようだし、手で押さえられて始めてその色合いがくっきりと目に留まるような感じだ。だけどその清楚な振る舞いは、彼女が普段溢す辛辣な言葉とかけ離れていて、とても愛らしく感じる。

 言葉ばかりは乱暴なのに、彼女の動作には小さな優しさが垣間見えるのだ。取り乱しているのは僕なのに、恥ずかしいのは彼女なのに、口を突いて出る悪態を自ら飲み干そうとさえ見えるその動作は、何となく僕の心を落ち着けるようだった。

 次いで彼女が微笑んで僕に向き直ってくるものだから、さっき怒った風に見せたのは大して怒っていなかったんだと悟る。そう思えば、僕の中で彼女に話し掛けてみようかだなんて案が浮かぶのだ。

 でも普段、僕は彼女に対して必要以上に話し掛けたりはしない。それはそもそも自分が気持ち悪い自覚があるし、吃り癖が恥ずかしさを助長するから。元から他人と普通な会話が出来ない僕は、大好きな彼女に自分から話し掛けるなんて、とてもじゃないが出来やしない。気持ち悪がられたり、彼女を怒らせたり、そんな事を予期すれば欲より恐ろしさの方が勝ってしまう。

 だけどこの日、僕は彼女が自分を落ち着けようとするような動作に、不思議と心が安らいだ。

 ゆっくりと唇を開けば、声は自然と出たんだ。


「いつも」


 そう口火を切った。

 掛けられた声に反応して、再度僕に改まってくる深月さん。今に視線を逸らそうとしていたけれど、再度目が合えば、僕の胸がドキリと音を鳴らす。でも、それも生唾ひとつ飲み干せば喉の震えは静まった。いける、これならちゃんと喋れる。そう自覚した。


「もっと遅いもんね?」


 僕はそう問い掛けた。

 すると深月さんは少しばかり目を細める。でもその目付きは先程のような怪訝さを孕んではいなくて、何処か柔らかさを感じる風。まるで「そうだね」とでも返してくるような雰囲気だった。

 彼女は微かに微笑んで、こくりと頷く。


「今日は清子が鶏かってくらい早くに目が覚めたらしくて、いつもより早く呼び出されたのよ」


 ドクンドクン。と、胸が高鳴る。

 僕、今始めてまともに深月さんと喋れてるかもしれない。吃り癖も殆んど出てない!

 そう実感しながら、ゆっくりと彼女に悟られないように深呼吸。吃らないようにと脳内で数回に渡って言葉を反芻はんすうしてから、一句ずつ丁寧に吐き出していく。


「いつも、鷲塚さんと?」

「うん」

「付き合い長い、とか?」

「無駄に小学校からだね」


 何処か慈愛染みた視線を向けてくる彼女。優しく答えてくれる言葉は、決して長い返答ではないけど、とても心地好く感じた。

 そうか。

 と、そう気付く。

 彼女から女の子らしい持ち前の明るい声を向けられたのは、今が初めてなんだ。

 思わず嬉しくて、にやけ顔が出そうになる。けど、それを何とか堪えながら、僕は再びゆっくりと深呼吸をした。どうかこの会話を途切れさせないようにと、そう願いながら次の言葉を探す。そして見付かった言葉を、やはり丁寧に吐き出した。


「昨日、遅かったの?」


 と、聞けば、彼女は「へ?」と目を開いて小首を傾げた。そのキョトンとした風な唇を薄く開いた姿は初めて真正面から見る表情で、思わず胸がドキリと音を立てる。

 深月さんは視線を宙に浮かせ、ああと悟ったような声を漏らした。


「昨日の夜?」

「あ、う、うん。そう」


 少し吃り癖を出しながら答えれば、彼女はクスリと笑って見せた。うんと頷いて、肩を竦めてから、小さく唇を開く。


「私、バイト三昧だから、そもそも帰るのが遅いのよ。掃除して、洗濯物して、晩御飯作って、宿題まで済ませれば、いっつも夜中なんだよね」


 唇を尖らせながら、彼女は悪戯っ子のように笑う。初めて聞いた彼女の生活環境に、思わず耳諭くなりそうになるけど、大した間柄でもない僕はそんな事を突っ込める訳もなく。

 ただ、ただ、愛らしく愚痴を溢す彼女が可愛くって仕方なかった。胸がドクンドクンと高鳴る音が、彼女に聞こえてしまうんじゃないかってくらい大きくて、恥ずかしくて死んでしまいそうとさえ思えた。

 そんな僕が言葉を返せなければ、彼女は少し視線を逸らして、僕の鞄を見詰める。


「柴田も頑張ってるんだってね」

「へ?」


 漠然とした言葉に、僕はドキリとしながらありきたりな疑問符を返す。すると深月さんは、にっこりと笑った。


「空手。清子がよくあの外道野郎に着いてってるって褒めてたよ」


 外道野郎って亮君? とは思いつつも、僕はそんな事を殆んど加味せずに目を真ん丸にしてしまう。彼女が笑いながら言ってくれた言葉は、まるで、そう、僕を労うような――。


 そして、そこが僕の限界だった。

 彼女に労われた瞬間、僕の脳がついにショートした。何を言ったか覚えてなくて、ただただ目の前でコロコロと表情を変えながら、笑っている深月さんの姿を見詰めているばかりだった。

 変な事を言ってませんように。

 そう思いながら、幸せな一時を脳と言う記録媒体に音声無しの映像を焼き付けた。

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