そのよん。

 亮君にとって、鷲塚さんと深月さんのコンビは、天敵と言う他が無い様子だった。彼がこの世で唯一勝てないと言う家族へのコネを持つ鷲塚さんに、自分を全く恐れずに毒を吐いてくる深月さん。そんな二人と朝っぱらから出会し、心身ともに大ダメージを負った彼。言わずもがなだけど、学校へ向かう残りの道程では、二人に対する愚痴が大半を占めていた。

 朝と夕方ばかり通りが激しい車道を右手に見て、白いガードレールで仕切られた歩道を僕達は歩く。時間が早いから僕達の他に生徒の姿は少なくて、随分先には深月さんと鷲塚さんが肩を揃えて歩く姿も見えた。

 急勾配な坂道を登り、遠目に見える背が高い緑色のフェンスに囲われた敷地を目指す。そこまでは寂れた商店が列なっているのだけど、この時間帯に開店しているのなんてコンビニくらいだ。

 そんな小鳥のさえずりさえ聞こえてきそうな朝の閑散とした風景を濁す、前の二人には聞こえないぐらいに抑えられた声。


「ほんっと清子の奴卑怯だよな!? 純もあいつのがゲスだと思わねえか?」


 眉間にしわを寄せ、まるで足元に小石でも転がっているかのような勢いで、蹴りあげる風に足をしならせながら坂道を歩く亮君。随分と歩き辛そうな姿だけど、僕は大して気にもせずにうんうんと頷いて返した。


「だよな!?」


 僕が心の底から同情して――な、訳もなく。遠目な深月さんの背中をじっと見詰めながら生返事を返せば、彼は足をぶんと蹴りあげた。そこに本当にあったらしい石ころが蹴られて宙を翔び、少し先でカツンと音を立てて道路脇へ跳ね、側溝に落ちていく。


「深月も深月だ。朝からほんとウゼェ」

「そうだね。可愛いね」


 鷲塚さんと何かを話している様子の深月さん。相手の目を見て話すタイプの彼女は、僕に背中を見せていたとて、横顔が多く目に留まる。時折溢れる笑みや、左手で鷲塚さんの肩を親しげに叩く様など、細かな動作のひとつひとつがまるで光でも纏っているかのように、キラキラと輝いて見えた。

 何と言っても彼女の薄っぺらい夏服ブラウスの背に、少しだけ透けて見える水色のラインがヤバい。普段は白色なのに、こんな日に限って水色だなんて、本当に御馳走様です!


「純?」


 声を掛けられて、僕はうんうんと生返事を返す。

 僕は今忙しい。心の中の『深月さんファイル』にコレクションすべき彼女の目新しい表情を待ち、今に訪れるやもしれぬその機会を逃すべからずと目を凝らしているのだ。

 ああ、父さん。母さん。ありがとう。ゲームばっかしていたのに、僕の視力は未だ眼鏡を必要としない事が本当にありがたいよ。特に深月さんを見詰める時なんて、きっとマサイの戦士達より優れた視力なんだもの。健康に産んでくれて本当にありがとう!


「おい、純!」


 なんだか亮君が煩い。いつもの愚痴なら生返事で済むのに、今日に限ってやけに鬱陶しい。

 深月さんの登校時間は普段、予鈴の一〇分前だ。電車二本分早い僕達と通学中に出会すなんてとても珍しい。だからこんな機会は出来れば彼女をひたすら観察していたい。なのに何だと言うんだ彼は。

 僕は怪訝な表情を浮かべながら彼へ向き直る。と、同時に彼に肩を掴まれて――。


「ぶべらっ!」


 顔面に猛烈な衝撃を受けた。


「あ、わりぃ」


 特にダメージを受けたのは鼻っ柱。次いで額と唇。思わず足が止まった。打たれた顔を鞄で塞がっていない左手で覆い、何だと思って反射的に閉じた目を開いてみれば、亮君が左手をもて余したような姿で僕と同じく足を止め、目を丸くしていた。

 何なんだ一体。

 何故殴られた。

 と、思えば、キョトンとした風の彼はふっと吹き出し、途端に腹を抱えて笑い出す。


「わりぃ! 呆けてるみてえだったから、頬張ってやろうと思ったんだ。ははは!」


 唐突に殴られたかと思われたら、次の瞬間に笑われる。これは何と言う鬼畜展開なのだろうか? 僕は目を細めて恨めしげに彼をじろりと睨んだ。


「顔に食らったんだけど?」

「お前がいきなり振り向くからだろ!」


 あひゃひゃひゃひゃ。と言う音が似合いそうな、下品な笑い声を上げる亮君。僕の鼻がじーんと痛むのを知ったこっちゃない様子で、彼はツボに入ったと言わんばかりに声を上げる。

 いやあ、ほんと、見事に顔面。あひゃひゃひゃひゃ。

 なんて爽快に笑われたら、幸せな一時をいきなり奪い去りやがってと思う僕も、返す言葉そのものを無くしてしまう。しかしながら心の中には言い知れぬ憤怒が巻き起こり、むーっと彼を睨み続けるに至った。

 折角深月さんを見て癒されていたと言うのに、何なんだ一体。確かに生返事をしていたけど、それはそもそも話が長ったらしくて愚痴っぽい彼の話をまともに聞くと疲れるからだ。深月さんを見付けなくても生返事だし。何だって今日みたいな日に!

 ていうか今チラリと横目で見てみたら、深月さんもう行っちゃってたよ! なんて事をやらかしてくれるんだ彼は……。


「いやぁ、マジで悪かったって」


 流石に深月さんへの気持ちを伏せている手前、それをそのまま主張する事は出来ない。代わりのブスッとした表情を見せつけていれば、やがて彼は両手を合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべる。一発殴り返したい衝動に駆られたけど、まあそんな事を出来る訳もなく。

 僕は溜め息混じりに肩を落とした。


「もう良いよ」


 そして残り一分もかからない道程を再度歩み始め、横に並ぶ彼が笑顔で悪い悪いと僕の肩を叩いてくるのにげんなりした風に返して見せた。

 いやぁ、しっかし。なんて口火の切り方で再度愚痴が始まるんだろうと予期する僕。面倒見が良くて、裏表が無いっぽい彼の性格は友人として好意に値するけど、ぶっちゃけ愚痴っぽいのと話が長いのは面倒臭くて仕方ない。空手の帯を締めれば格好いいのに、どうしてこう普段は残念なタイプなんだろうか……。

 そんな風に心の中で彼に影響されたらしい愚痴っぽさを発揮すれば――。


「だってよぉ、お前が深月ウゼェよなつったら可愛いとか言うん――」

「ぶふぉっ!」


 唐突に先程の失態を指摘され、それが無意識だった僕は、盛大に吹き出した。彼の台詞を生返事で返すスイッチを入れようとした、正にその瞬間だった。

 僕の脳内に激震が走る。瞬間的に心臓の音が脳にまで響き、車道を走る車の音や、近場を歩く通行人の足音等が聴覚から遮断された。人は多分、こういう時を『凍り付くように』って表現するんだろう。僕が見ている世界もまさしく凍り付くようだった。

 亮君が足を止める。

 僕の肩に乗せられていた手がゆっくりと離れていく。その感触が、凍り付くように見えた世界ながらも、しっかりと時計の針は進んでいるんだと教えてくれた。

 亮君はまるで恐ろしいものを見たと言う風に目を丸く見開いて、かつて見た事がない程のパッチリとした双眸を作り出していた。震えだす唇で苦笑いと言う他が無いものを見せ、「え? は? ちょっ……」と、驚愕したと表すような言葉を箇条書きにするかのような雰囲気で並べだした。

 やがて彼は生唾を飲み干し、問い掛けてくる。


「マジ?」


 まるで嘘だろ? とでも聞くような姿だった。

 そこで僕は我を取り戻す。と、同時に、思考がフル回転した。


――別に亮君にはバレても良い。だけどここは早朝の通学路。こんな誰に聞かれているか分からない場所で答える訳にはいかない!


 そしてそんな答えに一秒も掛けずたどり着いた。

 ドクンドクンと高鳴る音と、背筋に伝う嫌な汗を無視。僕は如何にも平然な風を装って、溜め息までも吐きながら、実に端的に答えた。


「くしゃみだよ」


 するとどうだろう?

 亮君は「あ……」と声を漏らすなり、ぶはっと汚ならしく吹き出して、今度こそ咳き込むぐらいの勢いで笑い始めた。「だよなあ!」なんて溢すところを見るに、彼はきっと詐欺に引っ掛かりやすいタイプだ。


 相も変わらぬ白塗りの校舎。

 南、東、北の三方向に四階建てでそびえ建ち、西の方向には雛壇のような石造りの階段を経て、校舎がまるまる収まりそうな広大なグラウンドが広がる。全校生徒は五〇〇人程で、マンモス校ではないものの、敷地の広さに定評があるそうな。

 公立高校にしては設備が整っていて、男女比が若干女子に寄っている事も特徴だろうか。いやはや、その理由には今だからこそ僕も感謝する。

 この学校、女子の制服が随分と可愛い。夏はブラウスにモノクロチェック柄のプリーツスカートだし、冬は紺のブレザーに、黒と赤のギンガムチェックのプリーツスカート。序でにセーターもクリーム色のワンポイント付きだし、防寒着に私服のコートが許されると言う大盤振る舞い。

 まあ、夏の今は残念ながらそういう恩恵は薄いけどね。今から冬が楽しみにさえ思えるんだから、制服様々です。

 しかし残念ながら、校舎内の風景は女子の制服程、お洒落じゃない。学校らしく壁は白色が基調で清潔感があるものの、廊下の床は剥き出しのコンクリートだし、教室の床はただの板張りだ。一説には黒板じゃなくホワイトボードを使っている学校があるそうだけど、勿論この学校では古き善き黒板様をずっと拝まされる。そんな景色は言うまでもなく、僕が在籍する二年一組でも同じ。

 玄関がある南舎と比べて、半分くらいの幅の北舎二階。奥行きが狭い廊下には、二クラス分の教室が見えて、その風景といえばほんの少しだけ他の校舎の廊下とは違和感がある。でも、その要素をいざ探してみれば、教室の窓に天窓がある事ぐらいじゃね? ってなるのがオチでご愛敬。どんな学校にも微妙に得した気分になれるちょっと変わった教室ってあるよね。正しくそんな感じ。

 そしてそんな教室の扉はやっぱり在り来たりな引き戸で、それを開く亮君もやっぱり愚痴を溢しながらだった。


「ほんっとマジで女子って訳わかんねー」


 なんて溢す彼。頭の悪さはお墨付きで、教室に居る筈の当人に対する愚痴を未だ述べているんだから、きっと彼はある種の才能溢れる人物だ。

 ちなみに流石にここに至って僕は生返事をしたりしない。返す言葉をピタリと止め、ささっという形容が似合う動作で扉の前で佇む彼から三歩離れ、廊下で待つ。

 あれ? どうした?

 なんて見返してくる彼に、僕は両手を合わせて合掌。きっと彼は普段自分より遅くやって来る幼馴染みが、既にこの教室内に居る事を忘れているのだろう。そうに違いない。鷲塚さんと言う女子生徒の名前こそ知らなかった僕だけど、逆に深月さん以外の三次元の女子に興味がない筈の僕が、彼女の苗字をしっかりと覚えていたその理由は――そう、正に今から起こる筈だ。

 あっと溢して、彼がハッとするも時既に遅し。


「まだ言ってんのかゴラァ!」


 という叫びと共に、鷲塚さんの跳び蹴りが炸裂。亮君の腹にとても良い角度で、まるで爪先が突き刺さるかのようにして直撃した。即座に彼はノックバックして、「うげっ」という汚いえづきと共に、腹を抱えて膝を折る。

 ほら見ろ。

 僕はそう思った。

 筋骨隆々としている彼だけど、何の対策もなく跳び蹴りなんて食らったらそりゃあ痛いよね。ドンマイ。

 それにしても彼って奴は本当……見てくれはイケメンだし、根は真面目だし、家は道場ときて、更に幼馴染みに殴る蹴るの暴行を受けて尻に敷かれる。もうどう見てもギャルゲーの主人公だよね。ほんと、するよ。

 ふんと鼻を鳴らして彼を見下ろす鷲塚さん。先程腕に着けていたシュシュで髪をポニーテルにしてるけど、彼女も幼馴染み属性にぴったりな気性と言えるんじゃないだろうか?


「せ、清子。てめえ、朝から、ボディ……」


 まるで今わの際と言うかのような言葉と共に、石の床へ膝をついて腹を抱え、恨めしげに鷲塚さんの姿を見上げる亮君。その角度と言えば、きっとバッチリってやつだろう。

 僕は無言で合わせた手を更に高く上げて、恭しく彼を拝んだ。しかし心には彼を崇め奉る信仰心ではなく、これから彼に訪れるであろう悲劇に対する哀れみしかない。だって僕が崇め奉るのは深月さんだけだし。

 いや、まあ、それでも……ほんと、朝からギャルゲー主人公的な完璧補正お疲れ様っす!


「ちょ! 何見てんの!!」


 そう言って教室の中から半身だけ見えている鷲塚さんは、スカートの裾を引き伸ばすように左手で押さえ、ハッとして目を開く亮君へ右手を高々に振り上げた。

 ええ、そうです。

 ラッキースケベってのはちゃんと代償があるんです。気弱なヒロインなら逃げられるくらいで済む事もあるけど、基本は平手打ちとか突き飛ばされるとか、ご褒美に対する対価は身体的ダメージなんです。でも相手が幼馴染みで、加えて勝ち気な女の子なら……まあ、拳骨だろうね。


「お前のピンクパンツ見ても何とも思わねえよ!」


 そしてそんな矢先に、先程の苦悶はどうしたんだと言いたくなるような饒舌っぷりで彼が煽るものだから、鷲塚さんの顔は真っ赤になって――。

 うん。多分一昔前の僕なら、亮君になりたいって思ってた。

 朝から幼馴染みとギャルゲーのテンプレやるとかマジパネェっす。

 僕はそう思いながら、今度彼にギャルゲーをやらせて、こういうテンプレでの模範解答を勉強させるべきだろうと思った。勿論、間違いなく『不正解』をやってのけた彼が、今この場で流血するまで殴られたのは言うまでもない。

 オチがついてお後が宜しいようで。

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