そのよん。

 夕食時。広いリビングには食欲をかきたてるような香ばしい匂いが立ち込めていた。ダイニングキッチンから母さんが運んでくる皿には、緑色のサラダが添えられたハンバーグ。それが食卓には既に三つ並び、丁度母さんが最後のひとつを運ぼうとしている所だった。

 リビングの引き戸を開けて顔を出せば、仕事を終えて帰宅していたらしい父さんが僕に視線をくれる。洋室のリビングと繋がった和室にあるテレビを見ていたのか、食卓の脇にあるソファに腰掛けていて、入り口から真っ先に目に留まる所に居た。

 丁度帰ってきてすぐの一服をしていた所なのか、制服の上着だけを脱いで、ワイシャツ姿で足を組んでいる状態だった。


「おや、純也。体調はどうだい?」


 父さんはテレビへ手に持っていたリモコンを向け、消す。それを食卓の端に手を伸ばし、置こうとしていた。

 とすれば、その食卓には既に亜弥が座っていて、リモコンを父さんの手から受け取ってから僕の方を一瞥。彼女は既に部屋着としているのだろう肩出しのニットを着ていて、すぐに僕を見るのを止めて手元のスマートフォンへと視線を戻す。


「どうしたの?」


 父さんの質問に答えない僕。そんな姿を端から見ていた母さんはエプロンを脱ぎながら、僕の方へ近付いてきた。

 そこに至って、僕は漸く唇を開く。


「ご飯、いらない……」


 そして踵を返した。後ろから三人分のガタンと言う派手な驚き方をしたらしい音が聞こえた。ちょっと待てとかかる父さんの声も、今僕が言った言葉の真意を問うかのような亜弥の声も、大袈裟に病院に行こうと騒ぎ立てる母さんの声も、僕はどうでも良かった。

 今、この時、僕は家族の姿を見て思ったんだ。


――ここに深月さんが居たら。


 なんて。

 そしてそう思ってしまえば、頭の中で妄想が爆発する。根も葉もない話をでっち上げて、僕の脳裏で可笑しなストーリーが出来上がってしまう。

 例えばいずれ僕は父さんのような立場で、深月さんは母さんのような立場になるのかとか。例えばハンバーグを口にしたとして、その姿を見た彼女は僕を『痩せる気が無い無能』と非難するのかとか。例えば僕が彼女を恋人として連れてきたら、亜弥も少しは僕を見直すのだろうかとか。

 くだらない妄想が僕を襲う。

 そしてそれらは間違いなく今の僕にとって有り得ないと思う現実で、気持ち悪い自分が本当に呪わしくて仕方無くなる。ダメだ。無理だ。そう悟るのに胸の鼓動ばかりがドクンドクンと高鳴って、その脈に合わせて不確かな臓器がズキズキと痛みを覚えた。

 目が眩む。足元が覚束ない。吐き気がする。

 何時もは何と無しに上がっていく二階への階段が遠くて、遠くて。後ろから掛かってくる声が煩くて、邪魔で。

 誰かに助けて欲しいのに、誰にも知られたくなくて……。


「純也。しっかりしろ! おい!」


 気が付けば、後を追ってきたらしい父さんに支えられながら、廊下で汚物を口から吐き出していた。

 胸から止めどなく上がってくる衝動は本当に気持ちが悪い。止めようと必死になれど止まらなくて、震える喉を焼き尽くすかのように、熱い液体は容赦がない痛みを僕に刻み込む。腐ってるんじゃないかって思う程に臭い汚物はびちゃびちゃと音を立て、口を押さえようと反射的に出した手は見た目にも汚い事を僕に教える。


悪い見た目デブ気持ち悪い心オタクって――』


 ああ、また聞こえる。

 僕を蔑む彼女の声が、僕に何かを訴えている。

 目を瞑れば、身体の力が不意に抜けた。視界に映る瞼の裏側の色が、サァと波が引くかのように白く染まっていき、やがて真白となる。

 その中に、一人の少女。

 僕を見詰める、深月 陽菜と言う少女。

 美人でも不細工でもない彼女の顔は醜悪に歪み、やはり僕を蔑むようだった。

 手にはナイフなんて持っちゃいないのに、彼女にはとても鋭利な凶器が与えられているらしい。僕の心は彼女をひたすらに拒絶し、恐怖していた。

 怖い。

 深月 陽菜と言う人間が怖い。

 決して僕を好く事は無いと思わせる彼女の振る舞いが怖い。

 一挙手一投足が僕を殺すようで怖い。

 分かっている。これは妄想だ。

 だけどこれはあまりに現実的な妄想だ。

 優しくて可憐で、動向が読める二次元の嫁達のような、幻想的な何かじゃない。ただただ僕が恐怖し、目を逸らしてきた、三次元のだ。


気持ち悪無能すぎでしょ……』


 そして僕を侵す深月ウイルスから、とても鋭利なナイフが放たれた。不確かな臓器へと深々に突き刺さるそれは、もう何度目になる痛みか分からない。

 だけどその痛みは確かに僕へ訴えていた。


 何でこんなデブになってしまったのか。

 何でこんなオタクになってしまったのか。

 何でもっと早く気がつかなかったのか。


 めくるめくは後悔の嵐。今の自分へと辿り着く事に甘んじてきた自分への罵詈雑言。これまでの人生で一番大きな自己嫌悪。

 元より薄々と感じてきていた。だけど今までは癒してくれた二次元の嫁やゲームがいた。それらに没頭すれば、三次元なんて忘れ去る事が出来た。仮に今僕を悩ますものだってそれは同じだと思う。二次元が深月ウイルスに侵されていなければ、きっと僕は忘れる事が出来るだろう。平然とハンバーグを食べられるし、何時ものように気持ち悪くて無能すぎる僕に甘んじていられる。

 でも、その時間はもう終わった。

 もう僕に、逃げ場は無い。

 三次元の彼女から逃げる事は、もう出来ない。真白の世界で僕を見詰める彼女からは、もう逃げられない。いくら目を逸らしても、彼女はずっと僕を追い回すんだ……。

 目の前の深月さんは、何処か切な気に思えるように笑った。

 その笑顔の意味を、僕は知らない。



 翌日、僕は学校を休んだ。

 昨日は半ばサボるつもりだったのに、何の因果か本当に風邪をひいてしまったらしい。熱にうなされ、汗の不快感にうなされ、やがて目を開いた時にはもうお昼過ぎの時間だった。酷い頭痛と共に目覚め、デジタルな掛け時計を一瞥して日付と時間を確認。窓の外が明るい事も目視で確認し、今は倒れた次の日の午後で、自分が学校を休む事になったのだと理解する。

 不思議と頭は鮮明だった。昨日はあんなにも錯乱してたと言うのに、僕は自分の置かれている状況を比較的あっさりと理解したと言える。

 まあ、ここが病院でない事を考えると、母さんが風邪だと診断したのだろう。本当なら病院に連れて行かないとまともな診察が出来ないと言うのだけど、意識を無くした僕を担いでいくのは父さんがいても中々難しい。ならば救急車を呼ぶかとすれば、母さんは職業柄救急搬送を渋る。本当に必要な時以外に呼ぶと、医者が大変な目に合うんだとか。

 となると身体にこもる熱や、ズキズキと痛む頭、いがいがする喉と言うのは、正しく風邪なんだろうなと思う。

 なんだかなぁ……。

 僕は口を開いてごちるではなく、脳裏に言葉を並べた。ベッドに寝転がったまま薄く目を開いて、天井をじっと見詰める。そこに現れる深月さんの幻はしかし、昨日程怖くなかった。唇も開かれていないし、何故か三次元ではあまり印象に残っていない笑顔を浮かべている。見詰めているとドクンドクンと胸が音を鳴らすけど、昨日嘔吐していた時の鼓動と違い、身を焼き尽くすような凶暴さは感じなかった。

 そこでふと昨日の失態を思い起こす。深月さんにうなされていた滑稽な自分は、どうしてああなったのだろうかと思った。でも、昨日とは違い、クリアな思考は既にその答えを知っていたんだと告げる。

 落ち着いて考えてみればとてもシンプルな答えが出る話だった。そしてそのシンプルな答えから、それこそ今までずっと逃げてきたんだと思う。いよいよ自分が三次元に目的を持ったとするなら、そのシンプルな答えを実行に移せと、そう言っていただけな気がした。


――そう。痩せれば良いだけなんだ。


 オタクについては保留。これは僕の存在意義に近いし、今まで培ってきたものだから、これを簡単に捨てる事は出来ない。だけど常々感じていた自分の気持ち悪さは、きっと見た目が大半の理由だ。

 昨日の進藤君の話じゃないけど、見た目を整えた格好いいオタクだっている。そんな彼らと自分を比べれば、どっちがより気持ち悪いかなんて、満場一致で僕なんだから。

 そう思うと、僕は何となく理解出来た。

 僕は確かに深月さんの事を好きなんだろう。

 その理由は決して断言出来やしないけど、絶対に振り向かないと思える印象があるのに、彼女からの優しい言葉を欲している自分がいる。認められたいと思っている。それは間違いがなかった。

 でも、僕の体重は九〇を越している。生半可なダイエットで痩せられるとは思わない。あと少し伸びるだろう身長は、一八〇に近い父さんの身長を考えてみれば、まだ余地はあると思う。しかし身長一八〇センチないしまで伸びるとしても、体重は七〇キロ台まで落とさなければ、きっとこの腹は出っ張ったままだ。

 割と、ムズい。

 テレビでよく見るダイエット話を参考にしても、二〇キロのダイエットなんて相当な大事だ。それこそテレビに出られる気がする。

 僕がそんな風に思案をしていた頃、部屋の扉が二度ノックされた。


『純也。起きてるか?』


 声は父さん。僕は反射的に声を出そうとして、しかし昨日嘔吐した時に傷めたらしい喉は、声ではなく咳を吐き出した。

 ゲホッ、ゴホッという音がするや否や、僕の自室の扉は開かれる。あまりに喉が痛くて滲んでくる視界の先に、少し焦った風な姿をした父さんが映った。ハッとして身を起こそうとしたけど、そこで初めて酷い倦怠感に襲われる。

 起き上がろうとした身体はおろか、自分の身体を支えようと動かした腕が、やけに痛む。筋肉が凝り固まっているように感じて、そういや風邪をひいた時って筋肉痛になるんだっけかと思い起こした。


「起き上がるな。寝てなさい」


 そんな僕へ柔らかな声で言い放つ父さん。僕の両肩を押さえるその手は大きくて、ベッドに押し付ける力も労るように優しいものだった。


「うん。ごめん」


 咳に応じて喉の奥に引っ掛かっていたらしい痰が口に上がってきた。不快感を感じるけど、それを切っ掛けに僕は喋れるようになる。だけど言葉を吐き出した喉は、やはり痛みを覚えた。


「良いから。気にするな。母さんがお粥を作っておいてくれてるんだが、食べるか?」


 そう言って父さんは、僕の枕元に置いてあったタオルで僕の顔を拭う。どうやらそのタオルは元々僕の額に被せてあったらしくて、寝ている間にずり落ちたんだと思う。生乾きの嫌な臭いがした。

 僕はゆっくりと首を横に振る。空腹感がこれっぽっちも無かった。


「そうか。母さんは今日、仕事で居ないんだが、作り置きの粥はたっぷりある。いつでも言いなさい」

「うん」


 目元を拭われてクリアになった視界。父さんの目元に隈が窺えた。そういえば一昨日ぐらいに今日は休みだと言っていて、代わりに母さんが仕事だと言っていた。そう思い起こして、折角の休みを台無しにさせたんだろうと罰悪く思いながら、僕はこくりと頷いた。


「ごめん。ティッシュ欲しい」


 そして口の中に広がる嫌な臭いの痰を吐き出したくて、そうお願いする。父さんは嫌な顔ひとつせず、うんと頷いてティッシュを取ってくれた。何でかとは言ってもいないのに、二、三枚引っこ抜いた父さんは、鼻ではなく口に当ててくれた。

 父さんは、本当に僕を理解してくれる。こういう些細な時こそ、僕はそう思った。

 と、そこで僕はハッとする。

 聞くまでもなく亜弥は学校だろうし、母さんが居ないのならこの家には父さんと僕の二人きりだ。父さんにだからこそ出来る相談をするのは、今しかない。そう思った。

 ティッシュをゴミ箱に捨てる父さんの背を見ながら、僕は唇を開いた。ドクンドクンと高鳴る鼓動は、果たして視界の端をちらつく深月さんの幻想のせいなのか、人生初の相談事を緊張しているのか……。

 そんな事を考えながら、僕は端的に言った。


「父さん。僕、好きな子が出来たみたい」


 いがいがする喉の痛み。だけど今しか出来ない相談だ。僕は痛みをぐっと堪えた。

 父さんは「何だって!?」と少しばかり驚きを見せ、それでも抑えたような音量の声を漏らす。主題から述べた事が功をそうしたのか、普通なら寝てなさいと言われるだろうに、父さんは僕の枕元へ寄ってきて、僅かばかり笑顔を浮かべた。


「それは今しか話せないか?」


 正しく僕の心を汲んでくれる父さん。暗に母さんや亜弥に聞かれたくないかと問われた僕は、うんと頷いた。

 なら話してみろと言われて、僕は喉の痛みを我慢しながらポツリポツリと溢していく。

 好きな子はとても辛辣で、僕には好意的ではない事。気持ち悪い僕のままじゃあ、決して振り向かせる事が出来ないと思える事。それを知らしめるように、妄想が僕に鋭利なナイフを突き立てる事。

 痩せたい。と、そう思う事。

 僕の弁はあまり分かりやすいものじゃないだろうに、父さんはうんうんと頷きながら聞いてくれる。僕自身が不快に感じた事も、父さんは笑顔で聞いてくれた。その表情が僕を安堵させるようで、気が付けば僕は昨日一昨日の恥ずかしい事や、悪い事まで全部話してしまっていた。

 だけど父さんは聞き終えて尚、笑顔だった。

 そして僕に問い掛けた。


――純也。道場に通ってみないか?


 と。

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