そのさん。

 その日、僕は珍しくお昼ご飯のお弁当を残した。

 珍しくって言うか、お弁当を残すなんて、生まれて初めてかもしれない。それぐらい朝の自覚症状はショッキングで、当然な事のように授業にも身が入らなかった。おまけに一日中顔が真っ赤だったらしくて、教師から心配された。授業中ずっと、何となく深月さんの背中を視線で追っていて、丁度そんな自分を自覚して嫌気がさした頃合いだった。僕は心配されたのを幸いに、体調が悪いと主張して学校を早退した。

 去り際にちらりと見た深月さんは、早退なんて珍しい事をする僕なんかではなく、黒板を見ていた。僕になんてまるで興味がないと、彼女の後ろ姿はそう語っているようだった。

 トボトボと歩く帰路。

 普段ならゲームをしながら歩いていても、呆けて歩く事はない。我ながら慣れたもので、ゲーム画面を見ながらでも障害物をキチンと避けて通る。なのにこの日、僕は二度も人にぶつかった。ゲームをしていないのにも関わらず、だ。

 心が重い。

 身体も重い。

 風邪でも引いたんじゃないかってぐらいに、身体が熱を持っていた。不意に深月さんの顔が脳裏に過れば、ドクンドクンという脈の音と共に、体温が更に上昇していく気がした。

 深月さんの容姿は整っているものの、決して可愛く思う程ではなかった。なのに、今日の彼女は何故か可愛いように見えてしまっていた。ふと視界に入ればそう思っている自分がいた。更に彼女が他の女子生徒と仲良さげに会話していれば、僕自身には愛想を振り撒くだなんて想像もつかないのに、彼女の声で優しい言葉を作ろうとする脳内の自分がいた。

 どうしよう。今日の自分は気持ち悪さが倍増しになっている気がする。

 普段なら混み合っている筈の空いた電車に乗り、ガタンゴトンと揺られる感覚に身を委ねる。不意に電車の窓を見れば、トンネル内の暗がりを背景に、丸い不細工な顔が映っていた。いつもよりも人相が悪いように見えて、より一層気持ち悪く見える。態々こんなものを確認させる電車の窓が、とんでもなく憎らしかった。


――デブでオタクとか、無能すぎでしょ。


 ふと脳裏に過る彼女の言葉。その時、その瞬間を僕は焼き付けるように覚えていたらしく、淀みないボイスで再生される。録音機器さえ驚きの完璧な再生に、胸がドキリと音を鳴らした。

 気持ち悪いとは言われていない。

 だけど彼女の鋭利な言葉は確かに僕を罵倒していた。

 デブな見た目を揶揄して、オタクな心を揶揄して、使えないとバッサリ切り捨てる言葉。僕と言う人間を正しく全否定じゃないか。

 なのに彼女に対する恋心は多分間違いがない。そういう経験が無い自分でさえ、間違いなくこれが恋なんだと断言出来る程の衝撃だったんだ。むしろ世間一般で間違っていたとしても、これは確かに僕の中で恋だった。

 だけど理由が分からない。

 何だって僕を全否定するような辛辣な発言を平然と述べる子が好きなのか。この先、彼女の人生にさして関わり合いが無い筈の僕に、態々言う必要がある罵倒だったとも思えない。こればかりは前言撤回して、性格が悪いとさえ感じてしまう程だ。

 僕はドエムじゃない。だって言われたら嫌だったもん。快楽的な何かは全く感じなかったし。

 となると見た目?

 いや、これもない。あんなモブAに一目惚れする程、僕は目が残念じゃない。むしろ二次元と言う名前の天国のおかげで、僕の目はとても肥えている筈だ。今日に限っては本当に可愛く見えたけど。

 顔は変わってないのに、どうしてだろう。記憶の中の彼女の容姿の『印象』は大して何とも思わないのに、今思い起こす彼女の姿そのものはとても可憐に思えるんだ。別に化粧をしていた訳でもなし。服装だっていつもと同じ制服だった。強いて言うなら催眠術にでも掛けられた気分。これが恋心補正ってやつだろうか……。

 結局、考えても考えても分からなかった。


「はぁ。帰ってギャルゲでもやろう」


 そして自宅の最寄り駅に着く頃になって思考を放棄して、僕は誰にも聞こえないような声でそう溢した。

 気にしなければ良いだけなんだ。

 恋の諦め方は知らないけど、気持ちの一種ならフェードアウトって方法がある筈だ。物語はそこにああだこうだと理由を付けるし、僕もそれを彷彿して不安になったけど、よくよく考えればその筈。他の好きな事をやっていれば、自然と彼女の事は忘れられるだろう。そう思った。

 だから駅からの帰路では、何のタイトルをやろうかだなんて、そう考えていたんだ。


――これから訪れる悲劇を知らずに。


「ただいま」


 そう言って自宅の玄関の扉を開ける。すると廊下の奥にあるリビングの扉の向こう側から、「え?」と言う声が聞こえてきた。


「あら、純。どうしたの?」


 そして僕が踵を擦り合わせて靴を脱ごうとしている時に、あまりに早い僕の帰宅に驚いたらしい母さんが、リビングの扉を開けてやって来た。非常勤の医者だから、母さんが日中家に居るのはさして珍しい事じゃない。

 僕は脱いだ靴を揃えて、首を横に振った。


「体調不良。早退した」

「珍しいじゃない」

「うん」


 そして母さんが出てきたのをこれ幸いに、僕は玄関で鞄を開く。中から取り出したのは弁当箱の包みだった。


「ごめん。残した」

「えぇ!?」


 僕が差し出した包みを受け取りながら、母さんは目を丸くする。亜弥が母似なんだと思わせるような綺麗な顔立ちが台無しになる程、その顔は驚愕していた。おそるおそるといった風に弁当箱を振って、中からグチャッと言う音を聞き、それを今度は唖然とした顔付きで見詰めている。


「嘘。今から雨でも降るのかしら?」

「もう寝るね」


 母さんのひょうきんな言葉に突っ込む気力も無くて、僕は力なく告げる。そして母さんに弁当箱を預けたまま鞄を持って、廊下の横にある二階への階段を上がって行った。


「晩御飯は?」


 トボトボと歩く僕の後ろ姿に、母さんはようやく僕の体調を危惧きぐしたのか、そんな事を聞いてくる。非常勤とは言え母さんは医者だから、あまり心配させるとすぐに病院へ連れて行かれるだろう。

 そう思うと無下に答えるのも不味い気がして、僕は足を止めて振り返った。今年で四〇過ぎにしては若い容姿の母さんに、薄く微笑んで返す。


「お肉食べたい」


 本来なら晩御飯を食べれるかどうかの質問だったろう。しかし敢えてそう返せば、母さんは安堵したかのようにクスリと笑った。


「本当にしんどかったら言いなさいね?」

「うん。ありがとう」


 まあこうしていればあまり心配はされないだろう。今は何よりも気を晴らしたいのだから、ゲームをしていて怒られるのは嫌だ。部屋に来られるのはあまり望ましく無い。

 とはいえ、パソコンをしていれば、万が一母さんが様子を見に来た時に不味い。鍵を掛ければ外から開けられないけど、体調が悪い日には鍵を掛けないのが約束で自室を貰っているんだ。鍵を掛けていれば怪しまれるし、部屋に様子見に来た母さんから咄嗟に隠せるとすれば、ポータブル端末しかない。

 言わずと知れた事。ポータブル端末はエロい要素がほぼほぼ無い。本当にプラトニックで健全的なお話達だ。R指定も僕の年齢で大丈夫なものばかり。

 いや、別にいいか。気晴らしだし。

 むしろ昨日のショッキングな映像が頭に残ってるから、絶対にそういう事は出来ないし。

 僕は自室に入ると、鞄を学習机に置いて、すぐに制服を着替え始めた。学ランを脱ぎ、ワイシャツを脱ぎ……ふと目に留まる自分の出っ張ったお腹。


「デブ……か」


 その脂肪の塊を右手で軽く叩けば、まるでプリンを揺らしたように波打った。我ながら凄い脂肪の塊だ。

 一〇〇キロを越したら流石に不味いとは思う。いや、今でも見てくれは十分に不味いんだけど、体調的に。

 だけど深月さんが揶揄したのはおそらく見た目で……。


「いや、どうでもいい」


 僕は首を横に振って、脳裏に浮かぶ彼女の姿を振り払った。胸の内でドクンドクンと煩く騒ぐ心臓も無視だ。

 そんな事よりさっさと着替えてゲームをやろうじゃないか!


――そして僕は地獄を知る。


 ベッドに入り、横になって、肩まで布団を被る。音量を廊下には聞こえないように調整。母さんが入ってきた時にゲームをやってたら怒られるだろうし、すぐに隠せるようにしておく。そこまで終えてから僕はゲームの電源をオンにした。

 先ずプレイしたのは僕の嫁代表がいるゲームだ。元々はパソコン用のソフトで、それが家庭用にR修正を入れられて移植されたものだ。これのパソコン版もきちんと持っているのだけど、敢えてポータブル版も揃えているあたり、僕がこのゲームに掛けている愛情がよく分かるだろう。

 僕の嫁はこの中でもロリ枠な黒髪ツインテールの女の子。めちゃくちゃ可愛いし、甘えん坊な所にグッと来るものがある。筈だった。

 プレイして数分で、僕の目は点になる。唖然と口を開けて、目をパチパチと瞬かせて、更に新たに着こんだスウェットの袖で目を擦る。ポータブル端末の画面には愛しの僕の嫁が映ってる筈なのに……。


 あれ、可笑しいよ?

 これ本当に僕の嫁?


 全然、これっぽっちも、可愛く見えない。それどころか作画に色々物足りなさを感じてしまう。こんな感覚は長いオタク歴で初めてのものだった。

 黒髪ツインテールはいらない。髪をほどいてから少し短くして、更にもう少し毛束感が欲しい。んでもって眉と睫毛は短くて、目は一重に。鼻筋は……今のまま。唇は今より小振りが良い。首はもうちょっとしっかり肉付けて――。


「あ……」


 脳内で僕の嫁の作画を修正するうち、不意に僕はハッとした。出来上がりつつある脳内の『僕の嫁・改』に対して、何とも不本意な感想が出てきた。

 この『僕の嫁・改女の子』、深月さんだ。


――うわぁぁぁあああぁあああ!!


 有り得ない。有り得ない。有り得ない。あんなパッと見冴えないモブAが何で僕の嫁に!? 何で!? ホワイ!? ナゼ!! て言うか深月さんは僕の嫁じゃないよっ!!

 脳内で騒ぎ立てる僕が居た。だけど昨日のショッキングなあの瞬間みたく、身体を以って騒ぎ立てる程の元気は無かった。思わず壁に頭でもぶち当ててやりたい衝動は、代わりに大きな溜め息を誘発した。

 仕方無く僕はゲームを消す。


「はぁ。ソフト換えよ」


 そしてゲーム機と一緒に持ってきたブック型のゲームソフトケースを開き、目ぼしいタイトルを探す。お目当てはすぐに見付かった。まだクリアしていないRPGだ。

 気晴らしなんだしレベル上げレベリングでもしてれば良いと、そう思った。

 でも。


――なんかヒロインがボブカットだから深月さんみたいに見えてやる気失せたっ!!


 僕は即座に恐怖の対象とさえなりつつある深月さんを見付け、再度ソフトを変更する事になる。

 しかしその後も。


――こ、これもヒロインドエスだから深月さんのボイスで脳内再生余裕っす!!


 さらに。


――うわぁぁぁあ!? 音ゲーでも現れるのか深月さん! 何でキミが太鼓叩いてる姿を想像出来ちゃうのさ僕は!!


 そして。


――うわぁ……。シューティングの救出キャラが尽く深月さんになって見える……。


 最後に。


――うぅぅ……。もうだめだぁ。何でこのゲームミッション失敗の台詞が『無能ね!』なんだよ。無能は深月さんの口癖だよぉ……。


 やるゲームやるゲームに深月さんを見付けてしまう。もう面影を見るだけで即座に脳内で彼女の毒舌っぷりが発揮されるのだから、怖くて仕方ない。さながらこのゲーム達は『深月ウイルスに感染して侵されてしまった』とでも言いたいところだ。

 SAN値ピンチも真っ青。

 果てしない絶望に襲われて、僕は今に発狂しそうだった。

 もうだめだ。

 この世の終わりだ。

 柴田 純也と言う人間のおしまいだ。

 僕は確かにそう思った。

 大好きなゲームの尽くに彼女は現れる。不意に出会し過ぎて、深月ウイルスにかかっていないゲームを探す事さえ億劫になる程だった。

 これは確かに地獄で、これは確かに悲劇で、これは確かな自分の絶望。恋愛と言う未知の病気にかかったというより、深月 陽菜と言う残虐無比な三次元女子の面影に追い掛け回されるホラー的な何かだった。そして最早間違いなく、自覚してその翌日とは思えない、いきなりすぎる末期症状。


――死にたい。


 本気でそう思った。でも、本気で思った所で、それを実行出来るかと言えば『ノー』で。そんな胆力があったら、自分はとっくに真人間だった訳で。


「うん。寝よう……」


 僕はゲームをベッドの脇に置いて、目を瞑った。

 その瞬間。

 僕の脳は僕の命を削るような行為を行った。


『デブでオタクとか。無能すぎでしょ』

「うわぁぁぁあああぁあああ!!」


 今度こそ叫んだ。

 もう、無理だった。

 僕の脳までも深月ウイルスに感染して侵されていた。


 だけどその後、地獄は始まったばかりだと、僕は知る事になる。

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