そのご。
次の日、僕は父さんに連れられて、地元の空手道場に向かった。この日も風邪で学校を休んだけど、初日は見学だけだからと、父さんが母さんを上手く説得してくれたらしい。仕事が終わるなりすぐに帰ってきて、着替えもしないままに僕を車に乗せ、家を後にした。
真っ黒なクラウン。父さんの几帳面さの表れか、とても綺麗な車内。ゴミが落ちてないのなんて当然で、まめに洗車しているから、窓や車体にはくすみひとつ無い。肌色の座席は僕が中学生の頃に買った当初から変わらぬ柔らかさで、そこらにある安物のソファなんかよりよっぽど座り心地が良い。
前に乗った時は少し離れたゲームセンターに行こうとした時で、随分と久しく感じる。その時は甘い香りの芳香剤だったけど、今は柑橘系の匂いが漂っている。新鮮味のある爽やかさは、今から見知らぬ所へ行こうと言う僕のコミュ障を落ち着けるようで、これが僕の不安をかきたてる事はなかった。不思議と落ち着いているって、そう言う気分。
「俺が空手を始めたのも、お前の年頃だったよ。なに、高校生で遅いと言う事はない」
父さんはハンドルをきりながらそう溢す。その表情はとても穏やかで、僕の落ち着いた心を更に穏やかに保つようだった。僕はうんと頷いて返す。
昨日、父さんに提案されたのは格闘技の道場に通う事だった。警察官は剣道か柔道の初段以上を持たないとなれないらしいから、始めこそ僕は身体の大きさを活かせる柔道を勧められるものだと思った。だけど父さんが僕に勧めたのは『空手』。職業柄、今は確かに柔道をやっていて、それやるに伴って辞めたらしいけど、父さん自身が空手の有段者なんだとか。あまり過去の話をしない人だから、僕はこの時初めて知った。
『痩せたいのなら柔道より空手だな。柔道は体重を増やしてしまうし。剣道でも良いけど、空手の方が『ツテ』がある』
昨日の父さんはそんな風に溢した。そのツテがどんなものかは教えてくれなかったけど、それが発揮されてか、まさかの翌日に見学と言うスピード入門だ。帰ってくるなり唐突に連れ出してくるんだから、その実僕も驚いたものだ。
でも、思い立ったが吉日と言うよね。実際に思い立ったのは昨日だけど、まだ僕の中で燃え始めたやる気はこれっぽっちも冷めちゃいない。身体こそ
思い起こすは父さんの弁。
『格闘技は肉体と同時に心も鍛える。だからお前の体型を何とかしたいと思う事も、深月さんという子に怯える心も、鍛えてくれる事だろう。更に父さんは引きこもりがちのお前が外に出てくれるのは嬉しい。一石三鳥だ』
そんな風に溢した父さんは、やっぱり何処かにこやかだった。決して学校をサボろうとした僕を叱りつけたり、恥ずかしい事をした僕を蔑んだりはしなかった。この父さんが居る限り、僕は安心できるんだろうと、そう思えるぐらいの包容力だった。
「さ。着いたぞ」
地元の駅が最寄りとはいえ、僕が住む地域とは全く違う場所。風景そのものが、僕が住んでいるような閑静な住宅街というものではなくて、高層マンションばかりが建ち並ぶ集合住宅地というもの。公園が近いのか、子供の声が何処かしらから聞こえてきて、夕暮れ時特有の賑わいを思わせる。
大きな道路からは少し離れていて、機械的な喧騒はあまりない。だけどファミリーレストランやファーストフード店が並ぶ通りはすぐそこに見えて、不便な場所という風でもない。
父さんが車を停めた場所は、そんながやついた住宅街と商業施設の一画を陣取るかのように、周りの雰囲気からは少し浮いた建物。ここらでは唯一に思える雑居ビルの駐車場だった。
思わず僕は首を傾げる。
「こんな所に道場があるの?」
すると父さんはクスリと笑って頷いた。
「俺が管轄してる地域だよここは。それに、ここに通っている生徒と仲が良くてな」
まるで含むような言い方だった。もしかすると昨日言っていた『ツテ』の事かもしれない。
エンジンが切られているのに車内灯が点いていると主張する音がクラウンから漏れる。それを気にしない風で父さんは後部座席へ身体を伸ばし、鞄を取り上げる。そしてその中から一枚の紙を取り上げて、僕に手渡した。
それは道場に入る為の申請書。名前の欄は勿論、住所や既往症等の欄までしっかりと埋められている。父さん特有の角張った荒々しい字だけど、事細やかに迷いなく書かれた様子のそれは、まるで僕の背中を押すよう。
「初めは辛いだろう。だけど俺は父としてお前の手を引いてやれる時間は、
そしてぽつりと溢された言葉に、僕はハッとして父さんを見る。だけど父さんは僕の方を見ていなくて、ハンドルを抱くように抱え、遠い眼差しで駐車場の壁を見ていた。
僕の視線に気が付いてか、父さんは笑顔を浮かべて向き直ってきた。
「お前がオタクだろうと気持ち悪かろうと、俺は父としてお前が大事だよ。だけど周りの人まで父と同じ気持ちを持たないと思うお前の考えは、残念ながら正解だとも思う」
そして告げられた言葉に僕はこくりと頷いた。
父さんは今、大事な言葉を僕にくれようとしている。そんな予感があった。だから出来る限りキチンと聞きたくて、太い身体を
父さんは満足そうに微笑む。
「この世界はお前の好きな世界とは違って、生きていくにとても苦しい世界だ。努力だって常に報われるとは限らない。正義だけが正しいとも限らない。けれど――」
そこで父さんの表情がすっと波が引くように笑みを失う。僕をじっと見詰める瞳には、とても暖かみを感じるのに、真横に引かれた唇は何処か寂しげにも見えた。
「幸せは向こうからやって来ない。己の手を伸ばし、その両手で掴みとるものだ」
だからその為の両手を今から育てよう。父さんはそう言って僕の頭を大きな手で撫でてきた。僕は頷いて返す。
頑張る。と、そう言った。
父さんはとても満足そうに笑ってくれた。
道場は雑居ビルの三階にあった。車を降りて気が付いたけど、窓には空手道場と大きく書かれていて、思わず僕は先程の自分へ、ちゃんと確認しろよ無能と言ってやりたくなった。そしてそう思って、早くも無能という深月さんを連想する言葉に浸っている自分が気持ち悪くて仕方なかった。
だけどそんな僕も今日で最後にしよう。
僕は父さんの後ろに続いて、コンクリートが剥き出しになっている階段を上がる度、そう心に決意を固めていく。カツンカツンと言う父さんの革靴が石を打つ音を聞きながら、その背をゆっくりと追いかける。
今まで一度としてまともな運動をした事がない僕だ。夢を見るにはあまりに身体が出来ちゃいないし、希望を持つにはあまりに現実を知らなさすぎる。だからきっと何度も辞めたくなるだろう。だけど僕は、絶対に辞めない。
それは深月さんに怯える心の為じゃなくて、ただただ純粋に己を恥に思う心を実感したこの数日間で導きだされた答え。せめて胸を張れる何かが僕は欲しいと、確かにそう思ったんだ。
やがて小粋な掛け声が聞こえ始める。一段、一段と階段を登る度にその音は近くなって、ドクンドクンと胸を打つ音も大きくなった。視界の外れをちらりと見てみれば、半透明な女の子が見えた気がした。
『無能すぎでしょ……』
見てろ。
深月さん。
例え妄想でも、現実でも、君にもう無能だなんて呼ばれない僕になってやる。胸を張って恰好をつけられるぐらいになるまで、決して挫けてやるものか。
僕の前で父さんが道場の扉を開く。
聞こえていた掛け声が更に音量を増し、凄まじい熱量を肌で、耳で、感じた。僕が今まで一度も三次元で耳に、目に、した事の無い世界。
「おう、来たな。柴田!」
「へ?」
そこで僕は、改めて出会うのだ。
金糸のような色の尖った髪型。細い目に凶悪さが垣間見え、どうにも威圧的に感じる悪人面。爽快とも思える白い胴着に、正しく肉体を凶器とした証の黒い帯を巻いた姿。
生涯の親友となる、ヤンキー男。
――進藤 亮次。
僕は呆気にとられるばかりだった。
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