第十二輪 花が開くとき
潮風に抱かれた砂が地表に舞う中、ふたりの歌姫は向き合っていた。互い、銃は持っていない。ふたりが望んだ戦場には、それは野暮だったのだ。
「懐かしいわね。あの時も、ふたりきりだった」
「そうね。実力差も、埋められなかったみたい」
ふふっ。アイリスは湿った頬に笑みを作った。
「あのころであれば、私にも弱さがあったかも。ねえ、そんなことはどうでもいいの、始めましょう。歌より繊細で、秘めごとより深い私たちの時間を」
それに答えるのに、言葉はいらなかった。レナは一歩踏み込むと同時に残り足を蹴り、右の拳を繰り出す。その手を滑らかな動作で払うと、アイリスは背中からレナの腰に手を回し引き寄せた。虚をつかれたレナは振り向こうとするが、アイリスの腕力は彼女の想定をはるかに超えていた。
「愛してるわ、リラ」
向けられた頬に口づけをし、背後から吊り上げる。そのまま地面に叩きつけんと後ろに跳んだ。浮かされたレナは全身で反動をつけて拘束から逃れる。手持ち無沙汰になったアイリスは即座に手を地面について、レナの首に脚を回した。
「ほら、もっと私を感じて」
「早い、これほどとは」
三角絞めが決まる前に振りほどき、右から後ろを振り向いた。アイリスはすでに体勢を立て直しており、左足で上段蹴りを繰り出す。即座に死角を選択するところを見ても、アイリスの格闘技術は高い。その速さはレナに右手での防御を選ばせた。隙を残さぬよう距離を取り、アイリスは再度ラッシュを仕掛ける。一手一手が相手の命をまっすぐに狙い繰り出される。徒手ではあるが、凶器が飛び交っているようだった。
喘ぎにも似た声が、アイリスの口から漏れ出す。
「いいわ、あなたの命。愛おしい、食べてしまいたい」
「自分が食べられないよう、気をつけなさい」
貫手の要領で致命の一撃を狙うアイリスと、高速の拳を振るうレナ。間合いはない。二人がぶつかるエネルギーは音や熱とともに砂浜に溶け、優しく波がさらっていく。その姿は舞うようでもあり、夜伽のようでもあった。互いに素肌のまま激しく打撃を繰り出しながらも、傷どころか赤みを帯びることもない。
そのはじめはどちらからだろうか。息も乱れぬふたりは、歌い始めていた。それが全く同じものであることは、決して偶然ではないだろう。二十年の時を経ても色あせることはなかった。
奏でられる旋律の中で、世界でも比類ない声を持つはずのアイリスは戸惑っていた。目の前にいる「歌姫」に心を奪われてる自分が、確かに存在するのだ。過去はいざ知らず、この世界に生きる者の中で、歌姫は自分にしか許されない称号であるはずなのに。
「あなた、その声」
砂漠の歌姫の噂と声はある旅人の耳にとまり、彼女の知らぬ広い世界で浸透していた。ジェラール砂漠には、今もレナ・ブルージュが生きている。バイール戦争初期に命を落としたうら若き歌手は、一個の伝説と言うべき存在だった。もはやレコードでしか耳にすることのない絶世の声は、しかしアイリスの目の前で奏でられているのだ。
確かに、レナとアイリスの声質は大きく異なる。だが、魅せられてしまった。これが、アイリスにとって許せないのだ。
「まだあなたは、私の前にいるの。あの時と同じように。こんなに、苦しんだのに」
「私の声は、命を慈しむ、大事な人を守る、正しさに殉ずる人のためにある。人を惑わせるあなたの声とは違うの」
そう言い放ったレナの瞳には、燃え盛るような強い力があった。対するアイリスは攻勢を強める。
「認めない。伝説の影まで借りて、あなたは私の前に立ちふさがるというの? なぜ?」
それを一手一手受けながら、レナは焦っていた。明らかに敵の方が何枚も上手だ。自分の攻めは出どころで止められているというのに、敵はすぐそこまで迫っている。互いの胸が接する距離でも、時間がたつほどに形勢は明らかになっていった。
「大義に、反するからよ。私はあなたを認めない」
そう言いながらも、既に息が荒くなっている。気取られぬよう、集中し直さねばならない。
一歩下がり、間合いを再構成する。必殺の一撃が届かぬ場所で、ペースを変えようとした。
「甘いわ。私の間合いからは、逃がさない」
その視線を受けると、見えない蔦に絡め取られたように動きが鈍る。わかってはいたが、ここまで昇華していたか。単純な技量でも圧倒されている上に、彼女は自らの持つ力を飼い慣らしている。
勝てないと、直観が警告していた。だが、それは許されない。背負うものは変わるが、自分ひとりの命だったことはないのだ。
「さあ、新たなステージに立つのよ。リラ」
アイリスの言葉に応じ、間合いを消す。ここが正念場であると、レナは気を引き締め直していた。
もうひとつの砂浜。ここは南側とは一転して、重低音をバックにした荘厳な再会となっていた。アシュリーの背後には、白を基調とした大型の巨人が鎮座している。対峙する兄妹は、そらで戦術を組み立てながらその時を待っていた。
「まだか、こちらも暇ではないのだが」
「よく言う。こんな場所にのこのこ遊びに来たんだから、時間はたっぷりあるだろう」
「ちょっと、兄貴」
エリザはセロウの裾を引っ張る。兄妹をよく知る者ならば、この様子が異様であることがわかるだろう。気が立っているセロウが不用意に相手を逆なでしないか、あのエリザが気をもんでいるのだ。いつもと真逆の構図だった。
親父、答えろ。エリザの心配をよそに、セロウはにじり寄る。
「何故母さんを見捨てた」
「見捨てたわけではない」
セロウは罵倒の言葉を用意したが、ふいに流れてくるイメージに思考を止めた。そんなはずはない、この男は悪だ。そう言い聞かせ父を睨み据えるセロウは、ふと西の空に注意を向けられた。そこに淡い感情を見たのだ。
「兄貴」
「ああ、こちらも来たようだ」
数秒もすれば、轟音が耳に届くようになり、そうなれば機影は見えたも同然だった。ネーメとアレスは、乗り手である兄妹でもそうは出さないほどの速度で現れた。
通信が開く、セロウは銃口を向き合わせたままそれに応じた。
――セロウさん、来ました。
「ありがとう、今行く」
セロウは拳銃を胸に引きつける。アシュリーもそれに応じ、背を向けた。こうなってしまえば、もはや銃はいらない。
「リズ、敵機と回線を開けるか」
――はい、割り当ては困難ですが、ひとつ方法があります。
そう言うと、着地したアレスのハッチが開く。乗り込むにはまだ距離があるため、セロウはその意図が掴みかねた。
「リズ、まだ早い」
敵の攻撃があるかも知れない。そう続けようとしたセロウは、アレスのコクピットから何かが飛び出るのを見た。それは吸い込まれるように滑空すると、アシュリーの足元にふわりと着地した。
「味なことをする」
波がさらう前にアシュリーはそれを手に取り、開いた。中を見て、なにかを端末に入力する。そしてそれに、火をつけた。セロウはそれを見届けたのち、リズの待つアレスへと乗り込んだ。
「リズ、あれは」
「灰に消えた合い言葉、ですよね」
セロウは尚驚きを隠せなかった。なぜこの場面で。いや、それより。
「なぜ、それを」
「セロウさんと言えば紙飛行機、もうみんな知ってますよ」
リズはそう言って笑った。叱責しようと口を突きかけた言葉は、しかし止まった。確かに、この状況では有効かもしれないからだ。そしてそれは、リズの言うあの日にさかのぼるのだろう。であればこそ、セロウは苦笑をすることしかできなかった。
リズは既に後部席に移っていた。複座式というわけでもないが、巨人は人ひとり程度であれば運ぶことができる。極限まで要素を切り詰めたネーメでさえどうにかふたり乗れるスペースはあるのだ。それはある種思想というべきものであり、例外といえばそもそも人の搭乗を想定していない無人機だけだった。
――忠告しておく。積み荷は、降ろしておいた方がいい。
「失礼しちゃう。重くなんかないわよ」
ややふくれっ面のリズをよそに、セロウは操縦桿を握る。セロウも演習を経て、彼女らがなぜ呼ばれたのかは察しがついていた。
「リズは運動してるからね。サラと違って」
サラが後ろから小突く。
「うるさい。エリザ、負けたら許さないから」
「わかってる。兄貴、行くよ」
「ああ、やるぞ」
三機のくろがねの巨人は鉛直上向きに飛び立ち、上空で向き合った。とは言え、二対一である。数の有利をもってしても、覆せないものが何であるかふたりは気になっていた。
――来い。それでわかる。
父の挑発に真っ先に応じたのはセロウだった。セロウはデビルズ開戦でオースロスの特性を理解している。たしかに速度と力は尋常ならざるものがあるが、しかし古い機体だ。弱点は多い。
二、三合打ち合ったセロウは、すぐさま異変に気が付く。これが本当にオースロスか。当たりが全く異なるではないか。アシュリーから来る思念はまだ弱いが、機体からくる力はデビルズで感じたものとは全く異なっていた。
「エリザ、気をつけろ。何かが違う」
「うん、うちもそう思う。兄貴も落ち着いてね」
まずセロウは挟撃を試みた。セロウがまず正面に張り付き、背後の隙をエリザが狙う。これで問題ないはずだった。
三機の巨人は光の尾を引きながら真夏の空を彩る。陽光を嫌い、感応だけで剣を振るう三人は自ずと目を閉じていた。
「え、エリザ、大丈夫なの?」
「ちょっとサラ、うるさい。ああもう、どうしてうまくいかないの」
エリザが見せたのは、隙とすら呼べぬほど短い動作の迷いだった。アシュリーはセロウの剣を弾くと同時に、エリザに銃口を向ける。セロウは即座に機体でぶつかり、その一撃をかろうじて逸らす。
「エリザ、タイミングを修正しろ」
「兄貴、ごめん」
その後も、セロウが作り出した攻撃の機会にエリザは合わせられずにいた。エリザのいら立ちは、自身のせいで父に本気を出させられない現状にあった。
アシュリーはと言うと、セロウを圧倒しながら背後の注意を怠らない。セロウの流れ出てくる感情に対し、ひとつ冷笑を返した。
――その程度か。ならば、終わりにするぞ。
そう放ったアシュリーは、セロウを蹴飛ばし広く間合いを取る。その一瞬に、エリザは距離を詰めることができなかった。
ふたりが父に見たのは、底知れぬ闇。そしてオースロスは両手の剣を構え突撃する。それはオースロスが、ひいては巨人が出せる加速度の限界を優に超える値だった。人が載っていては、こうはならないはず。
「うそ、こんなの」
「人間業じゃない」
後ろのふたりは、思わず息をのんだ。兄妹に比して視覚情報は少ないが、それでも十分だった。
――モルガンのような役立たずと、同じにするなよ。
心の奥底に突き刺さるような低い声は、より強いイメージを持って兄妹に襲いかかる。防戦一方になり、攻めの起点を作ることができない。数の優位があるのに、である。
「右脇腹、カバー後左肩。三発来ます」
「
「四発目は受けきれません。後方にスペースを作りましょう」
「リズ、ありがとう。真南に旋回する」
「はい、セロウさん。五秒後ならエリザが間に合います。やりますか」
「いや、まだだ。エリザが受けきれない」
必死で攻撃を受けながら、セロウは焦っていた。今死ぬことは許されない。自分の後ろにはリズが、エリザの後ろにはサラがいるからだ。当然、巨人のコクピットがこの島で一番安全な場所だろう。アシュリーが彼女らを狙わない保証はどこにもない。であればこそ、セロウにはその重責がのしかかっていた。あるいは、それがレナの望むところだったのだろうか。だが無情にも、命を切り刻む刃は緩やかに兄妹の懐まで迫ってきていた。
――終わりだ。
非常に告げられた言葉に、エリザは最悪を想定した。目を閉じ、どこかで遮断していたその黒い思念と向き合う。それだけが、この空で生き残るための手段だった。
隊長。シスルの口を突いたのは、悲痛な叫びだった。
「馬鹿、早く奴らを追え」
「でも隊長、位置が悪いです。すぐ治療しないと」
「追えと言っているんだ。俺のことはいい」
「馬鹿は隊長です。少しくらい私の言うことも聞いてよ」
ウィシーの拳が、シスルの頬に向かう。それに力はなく、一層シスルを頑なにさせた。
「行けません。けが人はおとなしくしててください」
そう言ってシスルは、ウィシーを担いでグースを呼べる港まで向かった。彼がレナを案ずる気持ちはわかるが、しかし今はウィシーを助けることだった。シスルは彼のことをばかだと思っている。だがなぜレナが彼を選んだかはわかる。彼にしかない強さを、ネメシスは失ってはならないのだ。
ウィシーは歯噛みしていた。苛立ちの行き先は、シスルを振りほどけないほど負傷している自身に対してだろう。戦いに対して何の才能も持たない自分がすべきことを、心得てきたつもりだった。ピエラは、別格だというのか。否、そんなことはなかった。であれば、自身の弱さなのだ。
「ビルさん、聞こえる? すぐにグースを出して。あと医療班も」
――ああ。もう出発している。五分以内に着陸できるが、間に合うか。
「わからない。先にアテネを出して。あと積めるだけの保存食」
――乗り手はどうする。
「誰でもいい。今すぐ乗れる子」
――わかった。それまで持ちこたえてくれ。
ビルは奥で何か話したのち、通信を切った。シスルはウィシーの止血をしながらぶつぶつとぼやいている。後ろからの声に気が付いたのは、それが真後ろまで来た時だった。
「シスルさん」
「うわ、グレイスか。驚かさないでよ」
「ひどいですね。ずっと呼んでましたよ」
「そんなことはいいの。早くしないとセロウが、隊長と司令も」
「大丈夫です。みんなを呼びました。今は信じましょう。セロウさんを」
エリザを。そう言ったグレイスの表情は、一抹の弱さを含んでいた。
現れた機体はシスルの予想に反して多かった。呼んだ二機のほかにオイデもいる。
「来たぜ、あたしはどうすればいい?」
「ラウラとリンは私のところまで来て。そこで隊長を受け渡す」
「オーケー、トップスピードで行くぜ」
その時、鈍い音が通信越しに響いた。オースロスが打ち込んできたのだ。それは動力部を正確に狙っており、高い技量と反応速度を持つラウラでなければ撃墜もありえただろう。
「ラウラ」
「大丈夫だ。左のシールドが損傷したが、まだ使える」
とは言うものの、ラウラは衝撃でどこか打ち付けたようだった。ネーメ型は個々人に対して特殊な調整がされており、扱いづらさがあるのだろう。
「スピードを落として重心を左に、前に十五度傾くと安定するわ」
「
アテネは低空で速度を落とし、ふわりと着地した。シスルは着陸プログラムを作っていないため、マニュアル操作である。この動きだけを見ても、リンの類まれな技量が見て取れる。空いたハッチからリンの姿が見えないので、シスルは飛び乗って覗き込んだ。
「お願いしたもの、ある?」
「はい、あります。シリアルバーを一カートンとコンミート四ポンドですよね」
シスルは確認すると、手慣れた動作で箱を開け始めた。小分けの状態にすると、深呼吸しながらリンの方を向く。
「うん、ちょっと足りないけど非常事態だからね。リン、通信開いて。セロウの状況をレーダーで確認お願い」
「はい。戦況は厳しそうです。まだ行きませんか」
「あいがと、でももうふこしまっへ」
シリアルバーは開封はしやすいようになっており、飲み込むと同時に次が入っていく。この異常な光景に、リンは困惑していた。
「もう、セロウさんに怒られますよ」
その声には、さすがのシスルも口が止まる。
「怒られてもいい。一番強い私じゃないとセロウの役に立てないもん」
そう言って、更にかき込む。目には普段食べているときの喜色がなく、ただ虚空を見つめていた。
五分が過ぎ、不意にシスルは顔を上げる。もうほとんどを平らげていた。
「リン。悪いけど降りて」
「でも、司令から」
「わかってる。あなたが見ててくれた方がうまく戦えることくらい。でもね。今日はそういうんじゃないの」
最後のバーを飲み込んだシスルの瞳には、静かだが強い光があった。
アテネにわずかに先んじて、オイデも着地していた。ラウラは飛び降りると、グレイスに向けて手を出した。
「そら、手え出しな。交代はタッチだろ」
「何それ」
「ストライカーズからの、激励だ。エリザを頼んだ」
軽快な音と爽やかな痛みが、グレイスの気を更に引き締めた。
コクピットに入ると、グレイスは暖まったエンジンを即座に回転させる。もう一刻の猶予もない。機影はオースロス。戦ったことはある。だが、どうも様子が違う。あの時、モルガンをもってしてもセロウとエリザには敵わなかった。それが、逆に圧倒されているのだ。最強の部隊オーナーズの、さらに最強。疑うべくもなく、巨人乗りの頂点に位置している。そんな相手に対し、自分は何ができるのか。
グレイスにはわかっていた。太刀打ちなどできない。自分にできることは、エリザが一番つらいときにそばにいること。
「エリザ、待っててね」
であれば、考えるのはなしだ。自分はただ、エリザの敵の前に立つだけ。グレイスは自らの奥底から湧き上がる炎に、ある種の充実感を覚えていた。
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