第十一輪 氷解の花園

 ニーア島とオーベルゲンの二手に分かれ、兵士たちは休息していた。元はといえば、レナとウィシーの新婚旅行だったものだ。それがネメシス全体の羽休めとなったのは、ほかならぬふたりの意向である。帰る場所がない兵士たちにに必要なもの、レナはそれを誰よりよく理解している。疲弊した心は数日休む程度で癒せるものではないが、少しでも心が休まるようにと隊員たちを連れてきたのだ。

 ビルは仕事柄警戒を解かないが、張り詰めた糸は次第にたわんでいくものだ。その糸を取り替えるほどの余裕は生まれるだろう。

 隊員たちはここで仲間と遊んだり語らいながら、何を得たのだろうか。あるいは何を埋め合わせたのだろうか。日が暮れ、そして登るたび、時間を過ごしていた。

 五日目、ニーア島ではこの日も同じように緩やかな時間が過ぎていった。

 島の北側、隠れた海水浴場があるこの場所にはふたりの少女がいた。もう陽も傾き、透明な海を朱く染めている。

「ふあ、今日も遊んだね」

「グレイスったら最終日が近いからってはしゃぎすぎだよ」

「だって楽しいんだもん。他に誰もいない、エリザとふたりきりだよ」

グレイスはそう言って笑う。エリザにとって、その笑顔より美しいものなど存在しない。だからエリザは頬に口づけをし、手を取った。

「じゃあ戻ろか。明日もあるし」

そう言ってふたりは砂浜を後にする。その時、強い悪寒がエリザの全身を通り過ぎた。

「エリザ、どうしたの」

手が震えている。なぜだろう、エリザには自分が恐怖を感じている理由が分からなかった。

「グレイス、大丈夫。ちょっとここで待ってて」

そう聞いても、グレイスは納得できない。

「私もいく。役に立たないかもだけど、エリザのそばにいる」

それはエリザにとって、何よりも心強い言葉だっただろう。

島のはずれにある、どのガイドにも載っていない場所。暗黙の了解なのか、ここには誰も来ない。エリザは近づけば近づくほど強さを増す不快感に顔をしかめながら、手を握ってくれるグレイスに力をもらっていた。

 だがそれを目の前にしたとき、氷漬けにされたように胸から下が動かなくなった。

「あ、あんたは」

つややかなブロンドの髪も、心を射抜くような瞳も、暗く冷たい偽りの微笑も、エリザにはなじみ深いものだった。

「あら、生きてたの。あなたがいないおかげで大変だったのよ。失敗作を、大事に育てなきゃいけなくて」

「ケリーは、まだあんたの所にいるの」

「そうよ。あの子は大事な駒。だからいくら期待はずれでも、手放すことはないわ。今はまだ幼いけど、いずれ完成する。本当はあなたが良かったけど、あの子でも不可能じゃないわ」

ねえ、エリザ。常夏の島で、娘の凍えた頬に触れる。

「また会えるなんて、これも運命よ。一緒に来ない?」

心をわしづかみにされるような囁きに包まれながら、エリザは強く自分を持たねばならなかった。グレイス、そう呼びかけずとも、握った手は確かな力をくれた。

「そこの子、何者?」

「グレイスがどうかしたの」

エリザはグレイスを後ろに隠す。自分が公言する決意を、実践する必要があった。

「強い力を感じる。まだ開花していないのね。美しい、いい血の匂いだわ」

「渡さないよ」

「むりやり奪っちゃう、と言ったら?」

「うちはあんたを殺す。グレイスより大事なものなんて、この世界にはないから」

そう。突き放すように口にすると、女は背を向けた。

「あなたが戦いを望むなら、その子は傷つくでしょう。あなたでは守れない。これだけは覚えておくのよ」

数歩すすんだのち、女はもう一度エリザの方を振り返った。

「この島に、こどくのリラがいるわね」

「それがどうしたの」

「彼女には、ここで死んでもらう」

そう言って去っていく背中を、エリザは追うことができない。見えなくなるまで立ち尽くしたのち、ようやく口を開くことができた。

「逃げてって、言わないと」

「エリザ、あの人って誰なの?」

「世間で言うところの、アイリス・バーン。うちの、母親にあたる人だよ」

グレイスも、その名前はよく知っていた。顔を見せず、ただ歌声だけで世界中にその名を轟かせている。誰が言ったか、人は彼女を氷の歌姫と呼んだ。

「でも、アイリスって歌手じゃないの」

「兵士でもあるの。黒い箱の歴史で、たぶん最強の」

そう聞いても、グレイスは特に問題に思わなかった。

「でも、最強は司令なんでしょ。あの人なら大丈夫だよ、きっと」

違うの。声を荒げた自分に驚き、エリザは口を押える。それでも、それは言わねばならぬことだった。

「アイリスは、ほんとに危険。昔は知らないけど、今のレナでは勝てないと思う」

その気迫に押され、グレイスも言葉を失う。エリザはすべきことがわかっていながら、それをできずにいた。

「グレイス、うち、だめだ。怖くて動けない」

崩れ落ちるエリザを抱きとめながら、グレイスは端末の着信音を聞いた。

「はい、こちらグレイス」

――グレイスか、こちらセロウ。エリザは無事か。

「はい、ここに」

そうグレイスが言うより先に、エリザ手を伸ばし端末を奪い取った。

「今すぐレナのところへ向かって」

――司令? 司令がどうかしたのか。

「いいから。そしてこう言って。アイリスがレナを殺す気だって」

――わかった。今シスルに通信してもらってる。ただ応答がなかなか来ないから、向かってもらう。

あと。セロウの声色が、変わった気がした。

――この島にあの男がいる。エリザ、僕はやらなきゃいけない。協力してくれるか。

「え、うん。でも、うち」

――大丈夫。僕がいるから、奴の好きにはさせない。

 ごめん、兄貴。グレイスが事の深刻さを理解したのは、そう言って通信を切ったエリザを見たときだった。

 レナのいる場所はここからは比較的遠い。そのためまだ時間に余裕がある。だから早めに伝えておけば、危険を避けられるかもしれない。

「お願い、間に合って」

エリザはもはや、こう祈ることしかできない。アイリスを止めうる人間を、彼女はレナしか知らないからだ。




 ニーア島の宿泊施設は大きく三つにわかれており、それぞれに景色も地形も違う。エリザとグレイスのいる西側は紅い珊瑚の浅瀬が美しいことで知られているほか、セロウとシスルのいる北側はダイビングスポットだった。

 南側はと言うと、他のふたつに比べてあまり人気がない。それはあまり知られていないという理由もあるが、一番は内側の海が見づらいことだろうか。だが外海の美しさは他に引けを取らず、よい場所であることは明らかだった。

 果たして、レナとウィシーは海岸にいた。ベンチにこしかけ、青い世界の中で互いを見つめる。

「ウィシー、こうしてるとあのオアシスでのこと思い出すわね」

「ヘンリーとバーンズがよく飛び込んでたな」

「あのふたり、仲良かったものね。もし生きてたら、結ばれててもおかしくなかった」

「そうだな。一度あいつらふたりでアレックスをけしかけたことがあった」

「あ、そうそう。オリバなんか顔真っ青にしてたっけ」

レナがひょうきんに顔真似をすると、ウィシーが笑う。

「でも奴は、そこで飛び込める器量はあったからな。理想に食われる前は、砂漠を強くまとめてくれていた」

「そうね。今は道を違った人も、大事な仲間だった」

懐かしむようにそう口にする。ウィシーはレナの笑顔を見て、つられて笑みを浮かべた。

「ねえウィシー、今幸せ?」

「ああ、この時間がずっと続けばいいと思っている」

「私たち、ほんとは戦いたくないのかもね」

レナはウィシーの肩に身を預ける。腕を回し、甘えるように寄り添った。

「どうした」

「あの時、あなたが抱きしめてくれたよね。すごくうれしかった」

「あの時って、いつのことだ? 二回したと思うが」

「どっちもよ。でも、どちらかと言うとやっぱり二回目ね。その時決めたのよ、ずっとあなたと一緒にいようって」

なあレナ。ウィシーは海を見たまま問いかける。

「本当に俺でよかったのか。俺はお前の助けになれているか」

「そんなこと言わないで。あなたは私が一番つらいときに出会った。そこからずっと、あなたに力をもらってたのよ」

ふと、頬を冷たい空気が撫でた。レナはウィシーから少し離れ、辺りを見回す。誰もいない。そんなはずはないのだが。

 だれ。足音を瞬時に察知したレナは銃を構えようとしたが、その顔を見て凍りついたように動けなくなった。

「あなたは」

「お久しぶりね。こどくのリラ。まだその銃使ってるの? 進歩がないのね」

「アイリス。やはり生きていたのね」

そうよ。アイリスの方が銃を構える。その動きはあまりにも機敏で、レナは持ち直すことができなかった。

「やっと会えた。私、焦がれていたのよ。あの日の借りを、返したかったの」

おい。口を開いたのはウィシーだった。銃は携帯していない。だが、狙いをそらすだけなら問題なかった。

「俺たちはお前と争う気はない。お前の目的はなんだ」

それを聞いたアイリスは薄く笑みを浮かべる。日差しを浴びた氷塊のようにしっとりと濡れた表情は、レナでさえ引き込まれそうになるほどの力があった。

「リラ。私はただ、自分でどこまでやれるか知りたいだけ。力を、示すの」

「そのために、私を殺すのね」

そうよ。その冷たい瞳がかすかに曇ったのを、レナは見逃さなかった。

「それなら、あなたに私は殺せないわ。私、あなたのこと好きだもん。ウィシーもね」

「わからないわね。それと、何の関係があるの?」

レナは自分の胸を指差す。

「撃ちなさい。それでわかるわ」

それを見て、アイリスの瞳は透明度を取り戻した。胸に撃てば、レナは造作もなく避けるだろう。直後、致命の隙が生ずるのはアイリスの方だった。

「それには及ばないわ。そうね、初めから楽に殺せるとは思っていなかった。私も、あなたのこと好きよ。文字通り、殺したいほどにね」

アイリスのもとに通信が来る。

「アッシュ、ちょうどよかった。これからリラを片付けるわ。そちらはどう?」

――問題ない。が、巨人を。

「巨人? なんでよ」

――それが望みらしい。

アイリスは一瞬間を置いたのち、頷いた。それは自分がリラに求めていることと同じなのだろう。向こうがどうなっているかは知る由も無いが、少なくともアイリスが頭目を務める組織では巨人が欲しければひと言で済む。

「オースロス、セット」

端末にそう呟くと、振動音が周囲を包む。それに応ずるように、レナも声をあげる。

「ビル、聞こえる? スクランブルよ。巨人をよこして」

――ですが、搭乗員が。

「こちらで指定するわ。いきなりでごめんなさい、すぐ用意して」

――わかりました。

通信を切ると、砂浜が静寂に包まれる。

「レナ、どうもきな臭え。嗅ぎまわってるやつがいるようだ」

「そうみたいね。行ってくれる?」

「だが、アイリスは危険だ。お前ひとりでは」

大丈夫よ。レナの瞳の熱は、ネメシスのものとは違う炎があった。




「親父」

そう呼びかけたセロウは、いつになく激高していた。目の前にいる男の目は虚ろで、強い自我のみにより生きていると見るのが妥当だろう。それが一層、セロウを憤慨させた。

「今までどこにいた。母さんを捨てて、何をしていたんだ」

これに驚いたのはエリザだった。セロウが怒る姿さえ初めて見たというのに、それがこれなのだ。手は今にも振り上げそうなほどに固く握られており、見開かれた目は一点だけを凝視していた。

 対するアシュリーは、笑みを張り付ける。言葉を話すことは難しいが、話さぬゆえに全身から強い意志があふれ出ている。セロウは父の頬に、侮蔑の色を見た。

「セロウ、変わらないな」

「お前は変わったみたいだな。あの時は、それでもまだ人間だった」

セロウは銃を取り出す。あまりのことに気圧されていたエリザだったが、これは止めねばならなかった。

「兄貴、だめだよ。まだ親父から聞きたいことはいっぱいあるよ」

「エリザ、離してくれ。ここに来る前は、僕は話をするつもりだった。でも、あいつの顔を見たらもうどうにもならないんだ」

エリザの細い腕は、セロウに振りほどかれた。そのひと呼吸の間に、アシュリーは銃を構えていた。セロウは歯噛みしつつ、エリザを睨んだ。エリザは毅然として視線を向ける。撃てないことは、セロウ自身が一番よくわかっているはずだからだ。

「さて、どうする」

アシュリーは多くを語ることができない。それを悟ったセロウは、結論を急ごうとした。問答無用という答えは、しかしこの問題に対して何ら解決をもたらさないだろう。エリザには、別の考えがあった。

「ねえ、巨人ある?」

セロウは意表を突かれたようにエリザの方を向いた。エリザが他者のことを知るとき、それは多くが巨人を介して行われる。セロウの中で暴れまわっている不快感と同じものが、エリザにもあるだろう。

 セロウは自分の中にある怒りに戸惑っている。きっとこの七歳はなれた兄よりも、自分は多くの負の感情と触れ合ってきた。であればこそ、エリザは自分が強くあろうと思っていた。

「うちは親父のことが知りたいの。セロウだって、親父がそんなだから怒ってるんだよ」

「見えるだろう。それで十分だ」

「うん、わかるよ。親父が兄貴のお母さんにどんな仕打ちをしたか。でも、それじゃ足りないよ。うちは親父のこと、何にも知らないもん」

ねえ。エリザは再度、そう呼びかけた。

「殺しあおうよ。それで、わかるから」

不敵に笑みを浮かべたエリザに対し、アシュリーは困ったような表情を見せた。

「今はない。待てるか」

ああ。これに頷いたのがセロウだった。

「エリザの言う通りだ。僕はお前のことを何も知らない。少しは僕に、親父らしいとこみせてくれよ」

ここまで挑発されては、アシュリーとて黙っていられるわけではない。通信を開き数度言葉を交わした様子が、セロウからも見えた。そうして一分ほどの沈黙ののち、ようやく口を開いた。

「間もなく来る。お前たちの機体も、手配しているそうだ」

「それって、レナがよこしてくれてるってこと?」

「与り知らぬ」

「やる気になったみたいだな、親父。ではもう少し、僕の問いに答えてもらうぞ」

セロウはその鋭利な視線を一層強くした。燃え盛ったまま勢いを増し続けるその感情に、セロウはある種の心地よさすら覚えていた。




「あと十秒だって。アニタ、いくよ」

「ナイスニーナ、そらっ」

ビーチフット用の小さなゴールが揺れると同時に、試合終了の笛が鳴る。守っていたアディは悔しそうに歯を見せた。スコアは三対八。もう五ゲームもやっているのに、一度の勝利も手にすることはできなかった。

「ふう、勝った勝った。三人とも、よく頑張った。おつかれ」

ニーナは味方にハイタッチして回ると、したり顔で相手チームの方を向いた。周りが想像していたよりは、彼女は個人技に走らなかった。遊び好きな性分もあり勘違いされることも多い彼女だが、基本は皆で楽しむことを重んじている。とは言え得意のフットボールである以上、勝つことは前提にあるのだが。

 これに悔しがるのはストライカーズの面々だった。反射神経の鋭いアディにゴールを任せ、ラウラとパットが前線でボールを奪う作戦。弱点は思わぬところにあった。

「もー、ふたり強すぎだよ。ラフプレイに定評のあるパットさんが全く歯が立たないなんて」

「ラフプレイは余計よ。あと地味にリズも危険。私たちの動き見て起点を作られてる」

「もう、ヘンリーさん遠慮しすぎ。そんなあまあまタックルじゃぜんぜん止まらないよ」

「んな事言われてもなあ、お前らが遠慮しなさすぎなんだって」

バターカップとネメシスは砂浜に横になり、思い思いにゲームを振り返る。ビーチフットは一日目もやったが、今回はバターカップの参加者が増えてネメシスが減った形となっている。やはり十五歳の体力は疲れというものを知らないのだろう。ヘンリーですら、そろそろゆっくり休みたいと思っていた。

「やめやめ、暑くなってきちゃった。アディ、パット。いったん海入ろ」

「さんせー、私たちもヴィクたちみたいにいちゃいちゃしましょうよ。ねえパットさん」

「そのとおりでございます。さあ行きましょ」

「し、しないわよ、そんなこと。何考えてんの」

イサベルの表情にはふたりとも敏感だった。ここまで来るとエリザの感応にも匹敵するだろう。彼女ら、特にアディとパットは感覚で互いを理解している部分があった。

「あ、イサベルさん赤くなりましたよ。どうしちゃいます?」

「そりゃあもう、きまってますよね」

「もうあんたたち、こんな時くらいやめてよね」

はーい。パットたちはそう言って海へと駆け出していく。ネメシス隊員はそれを見て、ほっと一息ついた。これで激しい運動をせずに済む。フットボールは得意な隊員が集まっているのだが、それでも気苦労には勝てなかった。水着でお構いなしに突っ込んでくるアニタやパットがいるかと思えば、思わせぶりなそぶりを見せるニーナやリズもいる。バカンスだというのに疲れ果てた隊員たちは、立ち並ぶビーチチェアに横になり日焼けがてら仮眠をとることにした。

 海には、浮き輪がふたつぷかぷかと浮かんでいる。深さは二メートルほどの場所で、少女たちは浮かんだり立ち泳ぎしていた。

「気持ちいいね、ゾフィ」

「そう、だね。サラも一緒で、楽しい」

ゾフィは波に揺られながらふわふわと笑っている。それにやや不満げなのがサラだった。ゾフィばかり大事にされるのは仕方ないのだが、妬いてしまうのもまた仕方のないことだと自分では思っている。

 ふと思い立ち、にやりと笑みを浮かべる。足をぱたぱたさせて移動すると、ゾフィの浮き輪をつつく。ステイ先から出不精がうつったのか、爪は鋭利に伸びていた。

「ふん、ゾフィ泳げるくせに。割っちゃおかな」

「そんな、ひどい」

「サーラ、意地悪しないの。あんたはほんとに泳げないんだから」

むう。サラは頬を膨らませつつも、この現状に満足していた。駆け寄ってくる影を見たのは、その直後のことだ。

「あれ、ラウラだよ。どうしたのかな」

サラに言われたヴィクは、苦笑いとともにその行方を見守る。

「またあいつ、何か企んでるのかしら」

ラウラはそのまま海に飛び込むと、魚と見まごう速度で潜水して近づいてきた。

「ぷはあ。ヴィク、ちょっとサラ借りる」

それに驚いたのはサラ自身だった。せっかくのヴィクとの時間だというのに。

「え、なんで」

「スクランブルだ。サラにはネーメをエリザまで届けてほしいんだと」

急ぐぞ。そう言われたときには、もう動き始めている。サラは抵抗しようとしたが、いきなり動いたため浮き輪にはまってしまった。

「ちょっと、なんで私なの」

「司令がそうしろってさ。どうも、ニーア島で何か起きたらしい」

観念したサラはラウラに身を任せることにした。どうせ聞きたいことは多い。

「そうなの。ほかには誰が行くの?」

「リズが、アレスをセロウに渡す」

ラウラはそう言って、足の動きを早めた。

 砂浜まで運ばれたサラは車に乗ると、グースまで向かった。隣にはリズが座っている。

「あんたもなんだね」

「うん、なんでだろうね」

その言葉と裏腹に、リズの表情には小さな期待の色があった。

「なんでもいいよ。でも、ニーア島はかなり危険だと思う」

運転席のヘンリーはアクセルを踏む前に後部座席を振り返った。

「レナからの伝言だ。セロウとエリザは、あまりに無謀な戦いをしようとしてる。的確にサポートできる人がいれば、死だけは回避できるはずだと」

「わかりました」

「うん、それは任せて」

ふたりの返事はすぐだった。リズはセロウの、サラはエリザの頼りない部分をわかっている。この点においてふたりは同じだった。違うのは、内側にある感情だろう。サラはただエリザの役に立ちたかったが、リズはどこかで機会を探していた。

 人選について、特にサラに関しては機体の癖によるものもある。ネーメは極めて特殊な駆動系をしている。普通ならば装甲材を置く場所に、運動性を高める要素を追加しているのだ。それによる強い癖への順応と、高性能ゆえの搭乗員の反応速度が必須だった。これを動かすことができるのは専属の搭乗員か、巨人に対して深い知識がある者に限られる。それはかつてであればマックス。新しく受領した機体の特性を把握する段階において、バターカップでもマックスの貢献度はあまりにも大きかった。そして彼女亡き今、その役割を選ぶとすればそれはサラになるだろう。彼女はセントジョナサンでの交戦の日から、グースに立ち寄ることも増えてきた。自分が兵士としてすべきことは記録者ロガーであると、彼女は決めているのだろう。であればこそ、彼女の口を突いたのはこの言葉だった。

「敵の機体が何か聞いてる?」

「オースロスだそうだ。データはグースに着いたらすぐに渡すよ」

「早くね」

 グースの格納庫は大急ぎで出撃の用意をしていた。警戒は最低限にとどめており、システムの起動に時間がかかるのだ。

「リズ、サラ、こっちだ」

「はい」

「チューニングが違うが、大丈夫か」

「うん、ちょっと書く時間欲しい」

「わかった。じゃあカタパルト温めておく。リズからでいいか?」

「はい、問題ないです」

アレスの鍵を手に、リズは格納庫へと向かう。セロウに渡したのちは後部席に移り補佐をすることになっている。このことについて、リズには自信があった。自分がいることで、セロウが強くなるということ。演習から数度のシミュレーションを経て、それは確信へと変わった。

「リズボン、アレス、行きます」

高揚とともに、リズはそれを口にする。作業を終えたサラもまた、ひとつの決意とともに機体を動かした。

「ネーメ、出撃するよ」

リズの背中を追うように、ネーメを乗せたカタパルトは発進していく。加速度が消え空へと解き放たれる中で、サラはあることを思い出していた。等速になるこの瞬間が一番気持ちいいんだよ、かつてそう笑った少女。一時は離れたが、今では仲間として一緒に戦うのだ。だが同時に、自身の中にある感情にも気が付いていた。

「ほんと私、ばかだな」

巡航速度よりさらに先へ、機体に鞭を打ち加速する。不安と恐怖に押しつぶされないように、仲間のことを考える。このノースランドからの口癖は、今のサラの強さだった。



 セロウが気配を感じたとされる場所に、シスルは向かっていた。南側の海岸らしいが、そこに向かうにはこの低木林を抜ける必要があった。裸足でぬかるんだ地面を歩いていると、ふと何者かの気配を感じ辺りを見渡した。

「隊長、どうしてここに」

ウィシーは茂みの中にいた。何者かから身をひそめるように、現れたシスルの頭をつかみ自分が伏せている隣に押し付けた。

「ちょっと、何するの」

眼鏡を直しながらシスルは声をあげる。対するウィシーはその口を手で塞いだ。

「静かにしろ。どうも怪しい連中がうろついている」

「あなた、自分の格好見ても同じこと言えます?」

ウィシーの水着は、シスルのそれと遜色ないほどに布の面積が少なかった。彼にしてみれば、そんな冗談を言っている場合ではないのだが。それでもここはシスルに合わせることにした。

「仕方ないだろ、レナが選んだんだから。お前もそれ、あいつのだろ?」

「え、なんでわかったんですか」

「お前のセンスじゃこれは選べんからな」

からかうウィシーに頬を膨らませるシスルは、しかし近くを通り過ぎた気配に一瞬息を止めた。

「来やがったな。シスル、銃はあるか」

「あ、はい。あります」

「じゃあ行くぞ」

止まれ。そう声をあげながら、茂みから飛び出す。その細く透明な影に対し、照準はすでに合わせてあった。

「お前ら、そこで何してる」

ふたりは水着だった。その締まった体躯と消え入りそうな面影を見れば、ウィシーでなくとも只者でないことはわかるだろう。ただ彼は、それが何者であるかを知っていた。であればこそ、一片の油断もするつもりはない。

「姉さん、どうする」

「どうもしないわ。私たちの前に立つなら、消えてもらうだけ」

ウィシーはその引き金を引こうとした。だが女は、先ほどまで持っていなかったはずの銃をすでに構えている。その間に、ウィシーの意識が逸れたわけではない。比喩ではなく、目にもとまらぬ動作だったのだろう。ウィシーは自身の頬に伝う汗が夏の日差しによるものでない事に閉口した。

 先に撃ってはいけない。それでは、敵の回避と反撃を許すことになる。相手有利の中で膠着状態を作るより、今すべきことは見つからなかった。粘ることに関して、ウィシーは砂漠時代から自信がある。根負けを誘うことで、勝機を見出してきた。

 だが、敵も同様に慎重だった。こうなってしまうと、どちらかが動かない限り大勢は決しない。だがそれをする理由は、少なくともウィシーには存在しなかった。このまま交戦が終わるのであれば、それでよいのだ。

 なあお前ら。ウィシーは声をあげる。発声によって生ずる体の硬直は、訓練により既に隙と呼べるものではない。

「こんな南の島に、アドラスティアが何の用だ」

「本来であれば、災禍は混沌を生むものを肯定する。だが総督が、それを危険視した。だから我々が出向いた」

「それでピエラ、よりにもよってお前らが来たわけか。そんなかわいらしい水着まで着て」

シスルは虚を突かれたようにウィシーを見るが、すぐに自分でないと気付いて前を向き直す。男の方はそれに対し一瞥を与えたのち、無表情のまま口を開いた。

「戯言を。ミザリー姉さんは何を着ても美しいよ」

「いいの、ミハエル。ハレーも選ぶ目があったのでしょう」

ミザリーは笑みを忘れた表情のままでその冗談を吐き捨てた。そしてもう一度、冷たい瞳でウィシーを射抜く。

「ネメシス、我々がアイリスを殺すのを止めるのはなぜ? あなたたちの大義にも符合すると思うけど」

「奴は俺たちの旧友でね。みすみす行かせるわけにはいかねえんだ」

馬鹿な。これに目を見開いたのはミハエルだった。

「ネメシスは私情で動くと言うのか。総督はネメシスとアドラスティアに、世界の戦争の管理を望んだはずだ。均衡を壊す者は排除すべしと」

「人には、しなきゃいけねえことがある。それを俺は、レナはやっているだけさ」

轟音が全身を震わせる。ウィシーが上に注意を向けた瞬間、ふたりは同時に撃ってきた。間一髪のところでそれを回避すると、倒れこみながら銃口を向ける。

「終わったみたいだ」

「どういうこと」

二機の巨人が目的の場所にたどり着くまであと数分。対する敵の機体は今にでも海上から姿を現すだろう。ここが炎に包まれる可能性もあった。

「ホームズの石頭に伝えといてくれ。戻ったらすぐにエリオを出せってな」

さすがに状況を理解したのか、ピエラは互いに目配せをした。ひとつ頷くと、銃を構えたままではあるが少し穏やかな表情を見せる。

「わかったわ。きっと良い顔はしないでしょうけど、一応言っておく」

「いい顔なんてしたらオーベルゲンに雪が降るっての」

でも。ミザリーの目に、再び強い殺意が込められた。

「ここは通してもらう。私たちにも、しなければならないことはあるの」

銃声が、南国のぬるく湿った空気を切り裂く。楽園であるはずのニーアで雷と炎が相見えるとき、もうひとつの意思が氷漬けから解かれようとしていた。

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