第三章
第七輪 クラブに入ろう
四月になってもクラブの冊子を見ている生徒は、バターカップを除いて他にいないだろう。グレイスはまだ悩んでいた。手先もあまり器用とは言えないし、身体能力も高くない。その点では、エリザがすごく羨ましかった。あれから何度か手芸部に誘ったが、やはりいい顔はしなかった。エリザの思いは至極単純で、グレイスがいるのにほかの誰かとの繋がりなんていらない。グレイスの心配の種はつまりそこにあった。
自分以外の生徒と仲良くなってほしい。エリザがそれをできないとは到底思わない。自分が見たこともないキロムの繁華街で、人の繋がりだけを頼りにして四年も生きてきたのだから。だからグレイスは、クラブに入ることでつながりが得られればと思っていた。
「ねーえ、エリザ。見学いこ」
「やーだ。誘うならほか当たって。みんなはどこか入ったの?」
「パットたちはボクシング入ったって聞いたよ。ネメシスに元プロ選手がいて、時々来るらしいから結構練習してるみたいだね」
「ふうん。ラウラとゾフィはグースによく行ってるし、あれもクラブなのかな」
「ちょっと違うんじゃないかな。エリザも、巨人部とかだったらやるの?」
エリザは頬に指をつける。
「兄貴をいじめてあげなきゃいけないからね。最近調子乗ってる」
「エリザってセロウさん大好きだよね」
な。目が見開かれ、一歩下がる。
「そんなんじゃない、グレイス、怒るよ」
「ごめんごめん」
こうもわかりやすいと、嬉しくなってしまう。だがどうも、正攻法でエリザをクラブに入れることは難しそうだった。
あ、そうだ。グレイスはふと思いついた。思いついてしまうと、なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか不思議に感じる。自分が入ればいいではないか。
「じゃあエリザ、私手芸部入るね」
「ふうん、いいんじゃない?」
「じゃあ、今から申請してくる。一緒に来る?」
「いかない」
その回答は想定内だ。グレイスはひとりで向かうことにした。
「じゃあ、待っててね。すぐ戻る」
手芸部の部室は校舎西側の部室棟にある。体育館とは逆方向のため、ほとんど立ち寄らない人も多い。グレイスもここに来たのは二、三度しかなかった。
「あ、グレイスさん。ごきげんよう。今日はどうしたの?」
「入部させて頂きたくて」
先輩はグレイスを見ると、小さく首を傾げた。
「あの子はいないの?」
「エリザは、まだ恥ずかしいみたいで」
なるほどね。先輩は納得しないまでも、入部届を取り出した。
「手芸部へようこそ。説明はこの前したよね。私は部長のナナ。まあ、学祭では展示とかやるけど、そのほかは好きなもの作って遊ぶだけの場所よ。しかしエリザさんはだめか、期待してたのに。ね、ね、あなたたち付き合ってるんでしょ。どうにか誘えないの」
「いや、そういうわけじゃ」
想定していたはずの言葉にグレイスは頬を赤らめる。ナナは笑みを浮かべたまま頷いた。
「ほんと愛されてるのね。なんだか妬けちゃうわ。あの技術、ぜひうちに欲しいのに」
あげませんよ。グレイスはその言葉がのどを突き上げてくるのに閉口した。
ともあれ、グレイスは手芸部の活動に参加することになった。手先は器用ではないと自認しているが。それはエリザとの比較である。フェルト生地を使った簡単なものなら、さほど苦労なく手が動いた。
「グレイスさん、上手。こんなうまい新入生いないよ」
「ありがとうございます」
手芸部の部員のほとんどがナナのほめ上手により篭絡されたのだろう。あの優しい笑みで褒められれば、誰でも嬉しくなってしまうものだ。だから二年以下には男子もちらほらいる。
「ところでグレイスさん。あなたのお仲間さんたち、あまりクラブに入っていないらしいわね。やっぱりここに慣れないのかしら」
それは意外だった。今年で卒業する三年生が、そのようなことを言うとは思わなかったのだ。
「私たちのこと、知ってるんですか」
「いいえ、何も。ただ、気になるのよ。みんな可愛いのにどこか達観したような顔をしてて、心のどこかで笑えてないように見える。そうそう、フットボール部の友達がニーナさんという子について話していたわ。入部することになって、実際かなりうまいんだけど、なかなか来てくれないって」
ニーナがクラブに入るのは意外ではなかった。フットボール部は男女混成であり、多くの人と繋がる。活発で世渡り上手なニーナには合っていた。
しかし、周りの人の意見を聞くのは貴重だった。ナナは異国から来た少女たちを受け入れ、その本質を見ようとしている。それは喜ばしいことだった。
「なるほどねえ」
ナナは突然、グレイスを抱きしめた。
「ふわっ、何ですか」
「ああ、やっぱり。エリザさんがいつもこうしてるの見て、ずっとやってみたかったの。ほんと柔らかくて素敵だわ」
「ちょっと、やめてください」
「よいではないか、よいではないか」
抵抗するグレイスだったが、ナナの両腕は圧をかけているわけではないのにどうも力が出ない。その羊毛フェルトのような抱擁にされるがままとなっていた。
部室の扉が開かれる。現れた影は一瞬で距離を詰めると、ナナをグレイスから引きはがした。
「エリザ」
「グレイスをたぶらかすとは、いい度胸じゃないの」
「ひい、許して」
ナナは怖がるふりをしているが、エリザが近寄るや否や飛びついた。来てくれたことが嬉しいのだろう。
「な、なにを」
「ああ、やっぱり。エリザさんも抱き心地最高」
ごちん。鉄槌を食らったナナはへなへなと崩れ落ちる。意識は失っていないようで、グレイスが慌てて差し伸べた手を握り返した。
「ひどいわエリザさん。それで、エリザさんは入部してくださらないの?」
「いやだよ、グレイスに手出すやつはゆるさないよ」
「まあまあ、ナナ先輩はこれでも信頼できそうだし。それに、私は入っちゃったよ?」
ずるいな、グレイスは自身に対してそう感じた。しかし、今はそれが必要な気がする。こう言われれば、エリザは頷かざるを得ないのだ。
「じゃあ、決まりね。いやー、こんな可愛い後輩がふたりも来てくれて私は嬉しいぞ」
「可愛いは余計です、先輩」
「おや、可愛がりが足りないようですな」
そう言うとナナはグレイスの頭を撫でる。またもされるがままのグレイスに、エリザはむすっとしていた。
「入部したから、もういいでしょ。帰るよ」
「ああっと、その前にあのブローチもう一度見せてくれない? 丁寧に作られてて、惚れ惚れしちゃった」
「じゃあ、グレイスを離して」
エリザがブローチをテーブルに置くと、グレイスが解放される。手に取ってじっと見つめるナナをよそに、エリザはグレイスを補給していた。
ひととおり話したのち、ふたりは家路についた。エリザは途中まで不機嫌だったが、次第に穏やかな表情に戻っていった。それをグレイスは、喜ばしいことだと思っていた。
手芸部の活動といっても、週に一回程度集まってなにか作ったり材料を仕入れたりするだけである。そのゆるさも、グレイスが選んだ決め手のひとつだった。招集があったとき、どういう状況でも自分は行かねばならない。そう思っていたから、忙しそうなクラブは選べなかったのだ。
ある日部室に向かっていると、前に見覚えのある後姿が見えた。
「あ、サラ。どしたの」
サラは振り向くと、本で顔を隠した。
「な、なんでもない」
「あっちは部室棟だよ。どこか入ってるの?」
「う、うん。教えないから、先に行って」
サラにしてみれば、どこに行くかは知らないが先に入ってほしいといったところだろう。そうすれば自分がどこに入ったかはわからない。
しかし、エリザは気になった。そのため先に行って、待ち伏せていることにした。
「エリザ、やめようよ」
「しっ、見つかっちゃうでしょ」
部室棟の陰に隠れ、サラがどこに入っていくのか見る。サラは通路の半ばほどまで来たとき、立ち止まった。表情はやや不機嫌そうだった。
「いるの、わかってるよ。そうしてる間は、入らないから」
こう言われてしまえば、致し方ない。ばつの悪そうな顔で通路に出た。
「ふたりが入ったら、私も入るよ」
「えー、それだとサラがどこにいるかわかんないじゃん」
「いいの、それで」
呆れたように口にする。ここで食い下がるのも気が引けたため、グレイスはエリザの袖を引いて部室に入ることにした。
そのとき、サラがくすりと笑った。
「手芸部なんだ。いいね」
これに驚いたのはエリザだった。いたずらっぽい笑みを浮かべるサラに近寄ると、肩を揺さぶる。サラは明らかに変わっていた。
「いつからそんな意地悪をする子になったのですか」
「私のことはいいの。ほら、入って」
背中を押され、グレイスの隣まで戻される。サラはそのままにこやかに立ち尽くしており、どうやら折れるしかなさそうだった。
部室に入ると、ナナと男子含む数人の部員がいた。
「あ、エリザさん、グレイスさん。ごきげんよう」
「おじゃまします」
「ごきげんよー」
部員たちは一様に生地を選んでいたが、ふたりの姿を見ると口々に声をあげた。
「ああ、あの一年の。よく来てくれたね」
「部員少なくて困ってたんだ。助かるよ」
とはいえ、この部に入ってまだ何もしていない。ひとまずは活動に参加するところからだった。
「今は、何を?」
「ああ、これ? 新入生の練習も兼ねてぬいぐるみを作ってるの。混ざる?」
「はーい」
エリザは材料と道具を受け取ると、隅の席に座った。そして慣れた手つきで手を動かし始め、たちまちベースとなる素材を作ってしまった。
「こんな感じ?」
「うわ、すご。じゃなくて、そうね。あなたにはお付きの先輩はいらなそうね。材料には限りがあるけど、まあどしどし作っちゃいなさい。さて、グレイスさん」
「はい」
「こういうのは未経験だったわよね」
「はい。ない、です」
ナナは少し緊張しているグレイスの肩に手を置く。
「大丈夫よ、先輩が手取り足取り教えてあげるから」
「あの、先輩」
「なあに?」
「あちらに」
見るとそこには、鬼の形相をしたエリザが。その目は明らかに、変なことをしたら許さないと言っていた。
エリザの作っていたものはあっという間に完成した。空間把握能力が突出しているようで、完成図をイメージするだけで手が動くのだろう。出来上がった赤毛の少女はふわりと笑みを浮かべており、どう見てもグレイスだった。
「か、かわいい」
本物のグレイスを放り出し、ナナは生み出されたばかりの人形に抱きつく。フェルトの生地は肌に心地よく、頬ずりまでし始めた。
「それで我慢して。グレイス見るの、うちがやってもいいよね」
ナナは大事そうにグレイス人形を棚に置いたのち、腕を組んだ。
「うーん、でも、私たちもあなた達とお話ししたいのよね。そだ、ちょうど一年がいるから付いてあげてよ」
見ると確かに、おぼつかない手つきで作業する男子がいた。どうも縫い目が合わず、苦心しているようだった。
「わかった」
エリザは彼の方へ向かうと、途中のぬいぐるみをひったくった。
「裁断がよくない。それじゃあ丸くならないよ」
「まだ慣れてなくて、教えてください」
その表情は固く、エリザは吹き出しそうになった。
「うちも、一年だよ。学科は?」
「そうなの、僕は家政科二組だが」
それを聞いたエリザは、にやりと笑みを浮かべる。
「サラって子、いるでしょ」
「ああ、いつも本読んでる。ヴィクトリアさんとよく話してるね」
「あの子、どのクラブに入ってるかわかる?」
男生徒は首を傾げた。エリザが詰め寄ると顔をそらし、決まりが悪そうに言った。
「ごめん、僕も知らないんだ。でも部室棟の階段にいるの見たから、二階の部室かもしれないよ」
エリザは少し思案顔を見せたのち、にこりと笑った。
「ありがと。お礼に教えたげる」
そう言うとエリザは、彼が途中まで縫った糸を容赦なく切った。そうしたのち、パーツを完成図の形に曲げて見せる。
「ほら、この切り方だとぺたんってなっちゃうでしょ? 見てて」
同じ色のフェルトを、裁断する。彼が切ったものは直線が多く、丸みを帯びづらかった。そんな説明をしつつ、パーツを抜き出して横に置いた。
「違い、わかる?」
「すごい、これなら丸くなる」
「もっと空間を意識してみて。縫い方はうまいから、それさえできれば大丈夫だよ」
これに一番感嘆していたのは、グレイスだった。初対面の人にこんなに優しく接するエリザを、本当に初めて見たのだ。やはり趣味とはそういうものなのだろうか。
「あ、ありがとう。エリザさん」
「呼び捨てでいいよ。あんたの名前は」
「ロラン、だよ」
「ふーん。いー名前じゃん。ロラン、よろしくね」
グレイスはひっくり返りそうになった。エリザが頬に口づけをしたのだ。そういう文化のある国も多いが、実際に触れ合っては来なかった。エリザのそれは自分だけのものだと、信じてしまっていた。
「そんな、エリザ、ひどいよ」
「グレイスさん、堪えて」
そうこうしている間に、活動時間は終わりを迎える。エリザはブレザーの裾を掴むグレイスに、ごめんねを言った。
「よしよし、じゃあ、帰るね。入部届けは書いたから、また来るよ」
「はあい、またいらっしゃい」
ナナの言葉を背に部室を出たエリザは、棟の階段を上った。活動を終える時間は、同じのはずだ。
「…………」
果たして、そこにはサラがいた。ドアを閉めている最中であり、完全に明らかになった。
「文芸部なんだね。サラらしい」
「どうして、そこまでするの?」
怒りというより、わからないと言った感覚の方が強かっただろう。このふたりのこと、からかっているわけでもないはずだ。
エリザはその意図がわかるから、正直に答えることにした。
「サラが前に進んでるとこ、見たかったんだ」
それを聞くと、サラは微笑を浮かべた。
「あんたたちもばかね」
「ばかとはひどいですな」
「ふふっ、褒め言葉よ。ありがと」
そう言ってサラは去っていく。ふたりの中にあったのは、安堵だったろう。生き残ったバターカップの中で、ふたりが一番心配していたのはサラだった。リズは人との関わりの中で乗り越えていけると思ったし、ニーナにはアニタがいる。でも、ここに来てからサラの強さを思い知らされてばかりなのだ。
「サラ、変わったね」
「やっとマックスの言う意味がわかった」
「うちがいなくなる前も、サラの話ばかりしてたもんね。サラは強い子だけど、ちょっとゆっくりだから私が守るんだって」
「その役目、引き継がなきゃね」
その夜、エリザのもとに一通のメッセージが来た。サラからだった。
「巨人を教えてください。マックスの代わりじゃなくて、私が戦うから」
それを見たふたりは、目を合わせて頷く。彼女は視野が広く、思考も速い。それでいて反射神経も別段悪いわけではない。むしろいい方だ。巨人の適性は、班長格を除けば実は一番かもしれなかった。
だからエリザは杞憂だとは思いつつも、こう返信しておくことにした。厳しいよ、覚悟してね。あるいは、サラの強い言葉がもっと聞きたかったのかもしれない。そして、返ってきたのは笑顔の顔文字だった。
その次の日、エリザは皆の活動を見て回ることにした。まずは運動部、ボクシング部から。
「お、エリザじゃないか。どうした」
「あ、ミーシャおじさん。パットたち見に来た」
ネメシス陸戦隊の歩兵をしている男だ。首都の警備を任されているが、非番の時はこうして学校に来ることができる。
「あいつらか、強いぞ。タイトルホルダーだった俺が、危うくダウン取られかけた」
見ると、スパーリングをしている。ヘッドギア越しに、アディとパットがにらみ合っていた。
「いけ、やれー!」
「そういうんじゃないから。今日は調整」
エリザの後ろから、苦笑まじりのイサベルが肩を叩く。彼女はあくまで運動としてやっているのみだ。実戦練習が始まれば横で雑用をしている。
「ふたり、たのしそうだね」
「本気だから楽しいのよ。あんたがセロウさんと模擬戦するのと同じじゃない?」
イサベルの表情を見たエリザはにやりと笑みを浮かべ、頬をつついた。
「混ざらなくていいの? ふたりだけ抜けがけして」
「いいの。私が入っても気を遣わせちゃうだけだもの」
同じ場所に立つだけが、大事なのではない。イサベルはそう感じたのだろう。どうしても自分にできないことはあるから、自分にしかできないことをしてあげればいい。
数ゲームで今日のメニューは終わり、ストレッチを行う。エリザは思わせぶりに手をぶらぶらさせ、アディの後ろについた。
「ほぐしてあげる」
「エリザ、できるの?」
「任せといて、こー見えてもこれで稼いでたこともあるんだよ」
横になって。言われるがまま、アディはうつぶせになる。背中からふくらはぎまで順当にほぐしたのち、背面全体にエリザの感触があった。
「はーい、らくーにしてくださーい」
これに頬を赤らめたのはイサベルだった。
「あなたそれ」
「え、マッサージだけど」
そのまま擦りつけるように上体を前後させる。状況がつかめず困惑するアディを見かねて、イサベルが引きはがす。
「うちのアディにいかがわしいことしないでください」
「えー、自信あるのに」
イサベルの目がわずかながら本気であるのを確認したエリザは、仕方なく腰を下ろす。普通にもできるとは、言い出せなかった。
「じゃ、またねー」
「ばあい」
ボクシング部を後にしたエリザが次に向かったのは、ニーナがいるフットボール部だった。今日はいるようだ。
「はあい、エリザ。どした?」
「ニーナ見に来ただけだよ」
休憩中らしく、ニーナは駆け寄ってエリザに抱きついた。
「む、汗くさい」
「ゆるせゆるせ。ほんとエリザはかわいいなあ。いい匂いするし」
首筋に鼻が触れると、エリザは小さく声を上げる。
「ひゃっ、それはだめでしょ」
「あ、ボクシング行ってたでしょ、アディの匂いする」
「あんた、よくわかるね」
「ニーナさまは何でもお見通しなのだ。エリザがワンサイズ大きくなったこともね」
これにはさしものエリザも閉口せざるを得ない。
「ほんとおかまいなしね」
聞き流したニーナは、エリザを締めあげながら大声で誰かと話している。
練習が再開した。今日はどうやら遊びのような軽いメニューらしく、ニーナは入らないようだ。
「いつもこうなの?」
「も少し真面目にやるときもあるよ。まあそーゆーときは休むんだけど」
「ニーナらしい」
「あいつらも遊んでるだけよ。ほら、できっこないのにプロ選手の真似して」
よく聞くと、選手の名前を発しながら足運びをしている。多くは知らない名前だったがひとつだけ、エリザは引っかかった。
「ルディって」
「ああ、リーブスの選手だったらしい。私はよく知らないけど」
おーい。ニーナが手招きすると、先ほどその名を叫んでいた男子生徒が駆け寄ってきた。
「どうした、ニーナ」
「この子がルディ知ってるって」
男子はその目を煌めかせ、エリザの手を取ると何度も上下に振った。
「君、ルドルフ・ディートリヒを知ってるのか。そんな奴初めて見た。彼のことどう思う?」
その問いに、エリザは答えられない。嘘をつく道理もないし、本当のことも言えないからだ。
「どうって、うちも詳しくはしらないから」
「あの人はリーブスの希望だった。マルコが引退してバラバラだったチームを、ひとつにまとめ上げた。圧倒的な視野の広さと得点力、ここぞという時に攻め込む勝負強さ。どれを取ってもキロムリーグの歴史に残る選手だよ」
エリザには、初めて聞くことばかりだった。彼のことは、別の側面でしか知らなかったからだ。そういえば、自分にルディという人の話をした人がもうひとりいた。
凍えていたエリザにコートをかけた初老の男は、ルディという男の身を案じていた。ジグロにいるとも言っていた。幼いエリザは、ただ道ゆく人の独り言を吐き捨てる壺だった。だがその時は、不思議と心地よかったのを覚えている。
「すごい人なんだね」
「な、そう思うだろ。でも、消えちまった。ジグール生まれだから、紛争に巻き込まれたのかな」
死んだよ、とは言えなかった。言っても、信じないだろう。自分も、どこかで疑っていた。
もし、自分が伝えられることがあるとすれば。エリザはルディを、仲間のひとりだと自然に捉えていた。
「うち、ルディに会ったことあるよ」
「うそだ」
「ほんとだよ」
特徴を述べるにつれて、男生徒の表情が変わった。二十年近く前の選手であり、サインすら貴重すぎてほとんど出回っていない。
「かっこいい人だった。自分の中の大事なものを、守り抜いたから」
「俺の中のルディと、ぴったり合ってる。ピッチの外でも、強い人だったんだね」
人はどこかで、生きた証を求める。誰かの中で生きたいと願う。ただ本当に人の心に残るのは、矜持だけで命を賭してみせた者だけなのだろう。
「なーに盛り上がってんの。あんたも良かったじゃない。聞いてくれる相手いて」
「ああ、この良さがわかってくれる人がやっと現れたか。君、ぜひフットボール部に」
「入んないわよ、エリザは。さ、戻った戻った。今日は私が貸し切りでいちゃいちゃする日なの」
アドラスティアのオルコック。ジグール傭兵、死化粧のルディ。そしてリーブスの司令塔。彼は不幸だったかもしれないが、それでも鮮やかに生きて死ぬことを選んだ。防音室でひとりボールを蹴る彼は、一体何を願ったのだろうか。
「オルさん、うちもがんばるよ」
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」
エリザ、聞いて。それは冗談めかしたいつものニーナの声ではなかった。
「私、エリザに謝らないと。黒い箱で私らがしたことは、許されていいことじゃない。ごめんなさい」
それにエリザは答える言葉を持たない。少し間を置いて、口を開いた。
「うちはもうあの時のうちじゃない。あんたがあの時のあんたじゃないように」
ニーナは一瞬驚いたが、エリザの表情を見てひとつ頷いた。
「ありがと」
ひとつずつ、あの日々が終わり始めている。それは痛く、苦しい。だが少女たちには、それを乗り越えるだけの力がある。
乗り越えた過去の先には、どんな未来があるのだろう。それを掴み取るため、守るための戦いがいつか起こるだろう。エリザは胸に手を当てる。それはニーナの両手に阻まれた。
「あ、こら、揉むんじゃない」
「いたたた、いいじゃん減るもんじゃないし」
「だめに決まってるでしょ」
もっと強く、後悔のないよう、エリザは進んでいきたかった。
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