第六輪 小さき花の聲を聴け 後

 SIDE-3 ずっと仲良し三人組


 進学科一組にいるバターカップは、仲良し三人組だった。アドリアナ、イサベル、パトリシア。彼女らは学校生活をやり直すため、進学科に属していた。成績については、イサベルは申し分ないが、残る二人はやや努力を要した。パットのステイ先が大邸宅であり、そこが三人のたまり場となっている。

「イサベル、疲れた。もうお昼すぎだよ、課題多いよ」

「はいはいパット、もう少しだから頑張る」

「はあい」

「お腹すいた」

「こらアディ、ここ間違ってるよ。多分使う式それじゃない」

「イサベルせんせー、すごーい」

「からかわないの、これ解けたら終わりだから。あとで二番街のカフェに行こ」

「あ、賛成。パトリシアはパンケーキが食べたいのです」

「いいね。でもそこ、計算ミスしてる」

 アディが仰々しく手を挙げる。

「パトリシアさん、イサベル先生が厳しいです」

「これはあとで褒め殺してあげないといけませんね」

「いけませんね」

 褒め殺すという言葉を聞いて、イサベルがぴくりと痙攣する。ある記憶と共にインプットされているのだ。

「あ、イサベルもされたそうだしカフェ行く前にやってあげなきゃね」

 そんなやりとりの中でも、課題は順調に進んでいた。そしてついに終わったとき。パットがイサベルを捕まえる。徒手格闘の腕はバターカップ随一であり、もう逃げられない。

「え、ほんとにやるの? いや、やめて」

「観念しなさい」

 誉め殺しとはつまるところ、くすぐり攻撃である。普段でもアディは隙を見てイサベルにいたずらをしているが、今回はそのような生易しいものではない。パットが後ろから組みついているからやりたい放題だった。

 声が漏れる。全身が言うことを聞かず、ふたりの手に支配されている。苦しいし、満足に息もできないないが、イサベルは不思議とこれが嫌いではなかった。

「イサベル、いつもありがと」

「愛してるよお」

 攻撃の最中、ふたりはそんな声をかける。その言葉自体は、ほとんど本心だった。

「言ってる、ことと、ひゃっ、やってることが、ちが」

「違わないよお。私もアディも、イサベルのこと大好きだから」

 耳元でそんなことを言われると、力が抜けてしまう。抵抗する気力はとうになくしていた。

 数分の地獄に耐えると、すぐには立てなくなっていた。

「はあ、はあ、よくも、やってくれたわね」

 ごちん、ごちん。軽く握ったげんこつをふたりの頭に下ろす。別によけたりはしない。にこにこしながら、それを受ける。口元を拭い息を整えると、イサベルはバッグを手にした。

「さ、さあ行くわよ、あんたたち。なんだかんだ来週の範囲まで終わったし、今日はおごってあげる」

「ええ、いいよ。イサベルは私ら二人の面倒見てくれたんだよ。今日のためにノート清書してたの知ってるんだから。ね、アディ。今日は私たちのおごりだよね」

「そのとおりでございます」

 またふたりのペースに巻き込まれてしまった。だがイサベルは、こうされているのが一番好きだった。ふたりが選んだ服を着、ふたりに手を引かれ、イサベルは町へと繰り出した。

 二番街は首都キゼルの繁華街だ。若者が目の前の幸福を謳歌している。定職につけないものに職業を斡旋するのもこの近辺だった。自然、比較的治安は悪い。ロイス家直属の自警団が取り締まっているものの、まだ十分とは言えなかった。

 護身用の拳銃を持つのが許されるのは、警察と特別な認可を受けた者だけだ。バターカップは許可されているが、好んで所持している者はいない。三人では格闘が不得手なイサベルだけが、かばんの奥に隠し持つことにしていた。

 車で官庁街まで乗りつけ、その足で二番街へと向かう。飲食店が立ち並ぶ道の中には、見るからに行列ができているものもある。キロムの人気コーヒーショップがノースランド初出店ということらしい。一般にはロイスに外貨はほとんど入らないのだが、ネメシスを介して財団の資本が流入し始めたため少しずつ栄え始めた。財団は鉱産資源の利益を独占しており、いち国家に匹敵するほどの影響力がある。

 その恩恵にまず与っているのがこの二番街なのだ。

「ばっかみたい。そんなキロムの安物コーヒーなんか目じゃないくらい、おいしい店があるのにね」

「ほんとですよ。ね、イサベルさま。今日は主賓様ですわよ」

「なにそれ。いつもの場所でいいんだよね」

 もちろん。アディとパットは声をあげる。そのままわき目もふらずに小道に入った。

 どうも、様子がおかしい。その異様な空気を感じたのは、三人同時だった。人が駆け寄ってくる。ぼろぼろのスーツを身にまとい、肩には弾傷を受けている。

「た、助けて。あの人たちが」

 見るとそこには、精悍な男がふたり。体格はいいが、しかし締まりがない。

「お嬢さんたち、悪いものを見てしまったね。そこの女に用があるんだ。こちらに渡してくれないか」

 いやだね。アディは言い放つ。

「この人に何するつもりよ」

「お嬢さんにはわからないと思うが、彼女はうちに来てもらわないといけないんだ。約束を破ったからね」

「それは、あなたたちが取引の内容を挿げ替えるから」

 うるせえな。足元に銃が撃たれ、鋭い悲鳴が街路に響く。

「た、助けて」

「自警団でもここまでは見てねえ。助けは来ねえよ」

 それに反応したのは三人の少女だった。

「助けがこればいいのね?」

「お嬢さんには関係のない話だ。下がってな」

 そう言って前に立つ。男の前に立ちふさがる形で、アディとパットがいた。その目を見た二人組は、強い苛立ちを覚えた。関節を鳴らしながら、歯ぎしりとともに見下ろす。

「なんだ、逆らうのか」

「よく見るとこいつら、結構上玉じゃないですか。国に持って帰ったら高く売れますよ」

「売るって、どういうことよ」

 声を荒げるアディに対し、男は鼻で笑った。

「あらら、口が滑っちまったな。これはロイスに聞かれちゃまずいからなあ。仕方ねえ」

 死ねよ。そう言って男は胸ポケットに手を入れる。パットが踏み込んだのはその瞬間だった。鳩尾への掌底で怯ませ、下がった残り足を払う。そして仰向けに倒れた胸板に拳をつき下ろした。

 残る男が動揺して銃を構えていないのを、アディは決して見逃さなかった。慌てて伸ばした相手の右手を引き、後頭部に鉄槌を叩き込む。崩れ落ちる男の肘を取り、制した。

「馬鹿な、こんなこと」

 慌てて起き上がろうとした男に銃口を突きつける。手の空いたアディは、端末を取り出した。

「自警団を呼ぶわ。動いたら撃つから」

 端末をしまったアディは、銃口を突きつけられた男を制圧する。ひとまず反撃の心配はないだろう。

 数分後、自警団が到着した。彼らはこの珍妙な光景に唖然としつつも、速やかに身柄を拘束する。女性はいつの間にかどこかに消えていた。

「ありがとう。お嬢さんたち」

「いいってこと。ちゃんと警備してね」

「不甲斐ない。二番街は手厚くしているつもりだが、まだ抜け道がありそうだ」

 平身低頭の警官たちの時計を見て、イサベルははっとする。

「そうだ、私たち急いでるんで」

 ぽかんとするふたりに耳打ちすると、急いでその場を後にした。もう時間がないではないか。三人は小走りで街路をかけた。目標の店はすぐ近くにあるのだ。

 そこはカルチエ・ヴェール。木の香り漂う小さなカフェだった。パットが勢いよくドアを開けると、アディが突入した。

「マスター、セットまだやってる?」

「ああ、君たちか。ちょうど今閉めたところだが、大丈夫だ。パンケーキセット三つでいいか?」

 あ、その。イサベルは口ごもる。それをパットは見逃さなかった。

「それとチョコレートパフェひとつ。一緒に食べよ」

「ね、いいでしょ、イサベルお嬢さま。私たちのおごりなんですから」

 それを聞いたイサベルの表情がぱあっと晴れる。目を輝かせ、大きく頷いた。

 席に着くと、先程の疲れが一気に戻ってきた。

「疲れたね」

「そうだね、最近運動してなかったから筋肉痛なるよ」

「クラブとか入った方がいいかな」

「勧誘の時期に入らなかったから、今だとちょっと入りづらいよね」

 あ、そだ。アディが一枚の紙を取り出す。学校のかばんで来たため、一部の書類が入っているのだ。

「ボクシング部が人いないらしいよ。今度行ってみない?」

 いーね。それに指を鳴らしたのはパットだった。

「それいーよ、体動かせるし。まあ徒手格闘はネメシスでやってもいいけどね」

「シスルさんとか強いんだろうな」

「あの人は何でもできちゃうからずるいよ。ま、ボクシングくらいなら」

「あの、私はいいかな」

「イサベルも行くの。痩せるよ」

 行く。先程までの難色が嘘のように、イサベルは頷く。

「じゃ、来週見学行ってみましょうか」

「そうしましょう」

 それよりさ。イサベルは思い出したように切り出した。

「さっきの男、何だったの」

 アディはそれを聞いて表情を暗くした。

「人を売るとか言ってたよね。どうにかしないと」

 無理だよ。パットが両手を肩の高さまで上げる。

「私たちには。ネメシスもいるし、上に任せておくのが一番だよ」

「でも、このままじゃ」

「さっきの男から何か情報が出るかもしれない。でなくとも警戒を強めることはするだろうから、だいぶ状況はよくなると思う。ま、今日はお手柄だと思って喜びなさいな」

 ほら、お待ちかね。パットが言うや否や、パンケーキセットが現れた。強い苦みが特徴のコーヒーと、パンケーキが付く。このパンケーキが垂涎の的で、直径六インチが二枚にたっぷりのリコッタチーズクリーム、イチゴやクランベリーまで乗っているのだ。その見た目のインパクトに違わず、ダイエットの大敵なのは言うまでもなかった。

「ふわあ、おいひい。ふごいこれ」

「こらアディ、飲み込んでからしゃべりなさい。では私も」

 パットは丁寧に切ってから口に入れた。口に含んだ瞬間、笑顔とともに声が漏れる。ごくりと飲み込むと、白い歯を見せた。

「ほらイサベルも食べなよ。おいしいよ」

「知ってるよ。じゃあ」

 まとめて口に含む。まず生地がふわりと溶け、チーズの香りが鼻を突き抜ける。そのままフルーツの酸味が口内に心地よく広がり、気がついたときにはもう二口目が口の中に放り込まれているのだ。

 口の中がちょっと甘いな、と思ったらコーヒーを飲むのが慣例なのだが、困ったことにそのタイミングが来ないのだ。塩味と酸味が絡み合い、いくらでも食べられると錯覚してしまう。

 これではいけないと、一旦コーヒーで落ち着かせる。このコーヒーがまた味わい深くておいしいのだ。ふうと一息ついていると、新たなる刺客が三人の前に舞い降りた。

 チョコレートパフェ。彼女らが思いつく限り、最高の甘味だった。アディが飛びつくのを、パットが止める。

「パット、なんで」

「一口目は、主賓様からでしょ。今日はありがとね」

「え、いいの? じゃあ、たべるね」

 イサベルが一口食べると、すかさずアディがスプーンを突き出す。パットはその様子を見てから、ゆっくり自分の分を取った。

「ふわあ、おいしい」

「パフェって、なんでこんなにおいしいんだろうね」

「なんでもいいじゃん、おいしいんだから」

「そだね」

 おいしいという、幸せな時間を共有する。それが当たり前でないことを、同年代の子供よりよくわかっていた。イサベルは笑顔をしまい、まっすぐにふたりの方を見た。

「ねえ」

「なあに? イサベル」

「ずっと、一緒がいいね」

「え、何いきなり。当たり前だよ。私たちずっと一緒だよ」

「サラやアニタたちは、今苦しんでる。他人事じゃないよ。もしあの日をやり直したら、私たちがそうなるかもしれないんだから。だから、今の幸せを大事にしないと」

 大切な人を失った仲間を、目の前で見てきた。何も失わなかったのが奇跡だと思うようになった。だからこそ、イサベルは全力でふたりと一緒にいたいのだ。

「そうだね。私たちばかだから、イサベルいないと生きていけないもん。ねー」

「ねー」

「それはちゃんとしなさいよ。どこか行っちゃうかもよ」

「そんなことしたら、イサベルがさみしくて死んじゃう」

「死なないわよ」

「でも私、イサベル守るためなら戦うよ」

アディも頷く。だからこそイサベルは覚悟を決めた。

「じゃあ、ラウラに連絡しよ。ストライカーズは復活したってね」

「おー」

「望むところですわ」

 幻のような今の先に、未来は本当にあるのだろうか。盲目に信じることはできない。だが今の三人は、それを信じるだけの強さを持っている。仮初めに身を置いた戦いのない場所で、選択権のある、意味のある生き方をしようとしていた。

 パットの家にたどり着く。課題が多く次回の予習までしておく必要があったから、今日は泊まりだった。部屋に入るや否や、アディはドアにもたれかかる。

「ところでさ、さっきの事件で一番頑張ったのは誰だと思う?」

 アディがこんなことを言い出す。思案顔をするパットに対し、イサベルはすべてを理解しほくそ笑んだ。

「パットじゃないかな。ほら、最初に敵倒したし」

「なるほど、そうですか。じゃあ、パットだね」

 ここで初めて気が付いたパットは、両手を振り弁明する。

「いや、その、アディの方が、きれいに決まってたし、ね? 私じゃないよ」

「二対一です。一番頑張った子は、褒め殺してあげないといけませんね」

「いけませんいけません」

「そんな、イサベルまで」

 ほおら、捕まえた。アディはパットを押し倒し、背後を取る。こうなると引きはがすのは困難であり、仰向けに転がされてしまった。

「観念しなさい。さっきの仕返しなんだから」

「いや、やめて、待って」

 大きな家に、三人の笑い声が響いた。


  SIDE-4 心に開いた穴と生きる


 家政科という学科は、衣食住の三分野において技術を養う場所である。二年になるとどの分野を専攻するか選ばねばならないが、多くの生徒は目的をもってこの学科に来ている。進学科が大学を目指すように、彼らはハイスクールにおける学びの到達点を手に職を付けることとしたのだ。ロイスは国際資格に批准しており、外国でも使える技術を身につけられる。

 入学にあたり、リズボンは自分に何ができるのかを考えた。黒い箱で十四人は、命じられるがままに生きてきた。やりたいことがあるという方が稀だろう。だからイサベルたちは進学科を選んだ。大学に行って勉強は性に合わないと考えたアニタたちは、商業科を選んだ。あとは皆、したいことがあった。

 リズはどうであろう。確かにヴィクの言う通り、女の子らしい仕事につきたいからというものもあった。確かに家政科の勉強はリズの目にも面白く、これを職にしていくと言われれば納得がいく。だが、それだけだ。リズはどうしてもこの疑問を解決する必要があった。つまり、前に進んでいきたいのだ。

 リズの心には、アニタやサラと同じ傷があった。ハンナの死だ。彼女はやや抜けていて、リズがよく世話を焼いていた。そのため自分が守らなければという意識も強かったのだろう。根気強くシミュレータを動かして調整したり、ラウラやグレイスなどの実力者に手合わせを頼み込んでもいた。その甲斐あって、二班の実力は不得手なゾフィを抱えても十分なものとなった。そうして迎えた最後の日、ハンナはバイールの荒野に消えた。

 あの時確かに、絶望が彼女らを支配していた。誰かを生き残らせるため、グレイスとラウラが特攻まで考えたほどだ。だからその時は、生き残るために戦うことで必死だった。守護者ディフェンダーとしてゾフィとハンナを守る事は必要だが、ハンナにかまっていてはリズ自身がが死ぬことになる。生き延びようとする自分がいることを強く嫌悪し、いっそ死んでしまえとも思った。

 だが、生き残ってしまった。守るべきハンナもいない場所で、自分は何ができるのだろうか。そう思うにつけ、ひとまず目の前にあった学科選びは重要な意味を持っていたのだ。

 結局、決め手はなかった。ただ自分は大学にはいかないだろうし、であればひとりの女性として生きよう。それがどういう意味か、はっきりとは知らなかった。心に決めた誰かが、きっと自分にも見つかるのだろう。その時に、その人を支える力があればいい。そういうものだと思ったリズは、漠然とそれを目標に定めたのだ。するとごく自然に家政科となる。それだけのことだった。

「リズ、行くよ」

「ごめん、ちょっと待って」

「大丈夫、もう少し時間ある」

 急いで裁縫箱を取り出し、被服室へと向かう。リズは家政科のクラスメイトとすぐに打ち解けた。ニーナやラウラなど別のコミュニティを作った者はいても、クラスに溶け込んだとなるとリズひとりだろう。気立てが良く活発な性格で、内に閉じた関係を持たない彼女にしかできないことだった。

 そして、クラスメイトはそんなリズを快く受け入れた。

「リズ、考え事?」

「ちょっとね」

「そか、リズもあの子たちと一緒なんだね。時々忘れそうになる」

 こう言ってくれるのは嬉しかったが、素直に喜べるわけではない。彼女らは、知らないだけなのだ。自分が黒い箱で何をしてきたかを伝えれば、失望するかもしれない。それはリズにとって決して小さくない不安だった。

 授業後、ふと他のクラスのことが気になった。隣の家政科一組にはヴィクとサラがいる。黒い箱にいたとき、ふたりは奇妙な関係だった。互いに、二番目に仲のいい友達だったのだ。その一番が、恋愛に近い関係だったことも一致している。

「サーラ、珍しい本だね」

「うん」

 この光景自体は、見慣れていた。駐屯地でも、娯楽用書庫に行って小説をあさるサラにヴィクはいつもちょっかいをかけていた。サラは自分が嬉しそうな顔をしていることに、気が付いていないのだろうか。

 だが、この日は少し違った。サラが、ヴィクの袖を引いたのだ。

「なあに?」

「ヴィク、あの、その」

 これにはさすがのヴィクも驚いただろう。三人称以外で名前を呼ぶのはほぼ聞いたことがない。だがそれよりも、サラが何か言いたそうにしているという事実が重要だった。リズは一組の友人と話しながらこっそり見ていた。

「これ、後で貸すよ。読んで」

「サラのお墨付きか、これは読むしかありませんな」

 ね、ねえ。サラは何かに突き動かされるように口を開いていた。

「ヴィク、なんで私のとこに来てくれるの? 読書、そんな好きじゃないでしょ」

 リズは息をのんだ。ヴィクがサラに本を借りる意味は、明らかにあの日を境に変わった。マックスを失ったサラに対して、少しでも自分がかかわってあげたい。そんな思いがリズの目からも見て取れたのだ。ゾフィを守り通せたのは単に幸運だったに過ぎないことを、誰よりヴィクがよくわかっていた。

 ヴィクは思案顔を作って見せたのち、とんでもないことを口にした。

「サラが、好きなのよ。サラが読んだ本が読みたいの」

 サラの時間が、一瞬だけ止まった。サラの壁を破るには、まっすぐな言葉しかない。そうヴィクは直感したのだろう。目を見開いたまま放心したサラは、我に返ると真っ赤な頬を押さえる。そしてヴィクの目をまっすぐ見つめた。

「あ、あ」

「どした?」

 口が、動かない。恥ずかしいのか、慣れないのか。おそらくどちらもだろう。だが今日のサラには、それを言うだけの勇気があった。

「あり、がとう」

 ヴィクはそれを聞いた瞬間に、サラを抱きしめていた。その頬には、一筋の線が引かれる。サラはとっさに辺りを見渡すが、もう遅かった。教室内の注目がふたりに集まっている。

 その砂糖菓子より甘い抱擁を、しかしサラは拒絶せねばならない。肩を押して、まっすぐに向かい合う。その目を見て、心は揺らいだ。こんなにまで、してもらってはいけない。でも、これは求めていたものなのだ。

 そしてサラは決めた。眼鏡をはずし、ふわりと笑みを浮かべる。

「でも、私は大丈夫だから。ヴィクにはヴィクの、大事なことがある」

 誰もが、わかっている。これが精いっぱいの強がりであることを。

 家政科一組の生徒は皆、ヴィクを頼って訪れる美少女のことを知っている。同じ家庭にホームステイしていることも、どこかから広まっていた。ふたりの間には、友達という言葉ではとても形容できない空気があった。

 ヴィクのサラに対する好きは、親愛なのだ。リズに言わせれば、守護の対象か。サラはそれに気づき、悲痛な決意を固めたのだろう。自分の内側に燃えていた願いと、それが決して叶わぬという現実。そのふたつに、同時に気づいてしまったのだから。

 ヴィクは本を手に取り、表紙に口付けをした。それだけが、彼女にできる回答だったのだろう。

「ねえねえ、あれって」

「しっ、今いいとこだから」

 二組からも人が来ているが、リズは教室に戻ることにした。サラは懸命に、前に進もうとしている。ヴィクのことは好きだが、彼女に甘えている自分が嫌になったのだろう。

 であれば、自分には何ができるだろうか。今は目の前のことを頑張るほかない。次の授業の用意をしながら、リズは胸の奥底に押し込めていたハンナと向き合ってみることにした。

 授業の予鈴が鳴り、張り詰めた空気がぼやけていく。向き合うといっても、どこからすればいいのだろうか。あの戦場では遺体を探すことすらできなかった。だから、小さな墓標だけ。兵士ならば、致し方ないだろう。だがひとりの友達と思えば、耐えられなかった。ハンナは、今もバイールの荒野に眠っている。

 整理すると、エリカの事も思い出される。孤児院からの流れで、ハンナと三人でいつも一緒にいた。そんな彼女の死を見たとき、リズはまだ八歳だった。ショックで泣き崩れはしたが、同時に乾いた感情も湧いてきた。人がこうも簡単に死ぬのなら、自分たちが大事にしているものの正体は一体なんなのだろう。生き残るたびに、記憶からエリカは消えていった。残ったのは、痛みだけだ。

 ハンナのことならば、はっきり思い出せる。失ったばかりだからだ。振り返る余裕があるということは、幸せなことなのだろう。

 そうだ、手紙。ふと思い立ったリズは、共通語の授業をすっぽかして書くことにした。

「親愛なるハンナへ、と」

 かしこまって書き始めると、記憶が波濤のようになだれ込む。疼くような胸の痛みの中、リズはペンを進めた。

 あなたが先に行っちゃったから、私はすごく寂しいです。私もそっちに行きたいなんて言ったら、怒るよね。大丈夫、まだ前を向けています。私のことはいいの。あなたの話がしたい。ひどいことばかり言ってごめんね。あなたは何もできない子なんかじゃないよ。私よりずっと強くて、優しかった。あなたがいないと何もできないのは、私の方なんだよ。こんな言葉を伝えることさえ、私はしなかった。ごめんね。

 できることなら、あなたとまた会いたいです。神を信じないから今何をしているのか想像もつかないけど、でももしできるなら、たまには会いに来てください。夢でもいいよ。力のかぎり、あなたを抱きしめます。待ってるね。リズボンより。

 リズは机に伏せていた。書いているうちに涙があふれ、とても人に見せられる顔ではない。教科書を読むふりをしながら、隠していた感情と向き合っていた。

 共通語の授業が終われば、今日はもう帰るだけだ。リズはまっすぐ校門を出、文具店に行った。便箋を買うためだった。

 手に取ったのは、バターカップの柄。黄色の丸い五弁花は、少女たちの人生の半分以上を占めており、失ったものの痛みはそれを見ただけでよみがえってくる。

 であればこそ、あえてこれを選んだ。別れの悲しみが薄れることが、何より怖かったからだ。これを見るたびに痛みがあれば、忘れることはない。

 それを見つめていると、視界が急にぼやけた。目が熱い。リズの驚きは、自分の涙ではなく後ろからの声によるものだった。

「リズ、どうしたの」

 それはサラだった。言うまでもなく、サラに話しかけられたのは初めてだ。

「ちょっとね。サラは?」

 指をさしたのは、リズの持つ便箋だった。彼女も、同じなのだろう。サラは棚から自分の分の便箋を取り、それを言葉の代わりとした。

「同じなのね。もう手紙は書いたの?」

「まだ。家で書く」

「そか、きっとマックスも喜ぶよ」

 サラは強く頷いた。会計を済ませるため入り口近くのカウンターまで向かうと、見覚えのある顔が見えた。

「ニーナ、勉強する気になったんだ」

「悪い?」

 リズは首を振る。ニーナがここに来る理由はあるのだ。

「冗談冗談、マギーに、だよね」

 ニーナは一瞬取り乱したが、顔ぶれを見るにつけひとつ頷いた。まさか、何もかもが同じとは。ニーナは同じ便箋をふたつ手に取った。

「あんたたちも、そう思ったんだね。いや、正確には私は思いつかなかった。アニタが言い出したんだ。確かに、これなら忘れずにマギーといられる」

「ニーナはもう書いたの?」

「書いたよ。見せないけど」

「見ないよ。マギーのことは、ニーナたちふたりがよく分かってるし」

「アニタの方が、私は全然。いや、こういうのは無しか。思ってることは、全部書いた」

「みんな同じだね」

 会計を済ませ、それぞれの家路につく。リズは内心驚いただろう。ニーナはもう吹っ切れていると思っていたからだ。遊んでいる印象があるが、達観もしている。どこかで、離別の苦しみと向き合うことを避けていたのだろうか。残されたものの想いは、予想をはるかに超えて同じだった。

 であれば、まだバターカップという枠組みは必要かもしれない。エリザは、無くした方がみんなのためになると言った。だが今のふたりを見ると、リズにはとてもそうは見えないのだ。

 痛みや苦しみも、全て懐かしむための縁として心に残していく。そうして踏み固めた道の先にもう一度黄色い五弁花が咲くことを、今のリズは素直に願うことができた。

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