第五輪 小さき花の聲を聴け 前

 SIDE-1  サラのいちばん長い夜


 ここはどこだろう。サラは自分がどこにいるのかわからなかった。辺りを見渡す。無機質な壁と天井、ベッドがふたつある狭い部屋。駐屯地の私室のようだった。

――サラ、何をくよくよしているの。らしくないよ。

サラの隣にひとりの少女が座っている。サラはうつむき、頭を抱えていた。サラの意識は、サラをどこかから見ているようだった。

「戦場、予想と違う。怖い」

――大丈夫。みんながいるし、私もいる。それにサラは周りをよく見てるから。

「そんなの、臆病なだけ」

少女はサラの手を取り膝に置くと、その頭を撫でた。サラは甘えるように彼女に寄りかかる。それはほかの誰にも見せたことのない姿だった。

――臆病なことは、悪いことばかりじゃない。浮き足立たずに周りを見れる、サラの強さだよ。私、班長になったけど操縦は上手くないから。後ろ、任せるよ。

うん。確かめるように何度も頷く。その感情に反して、少女の影はどんどん薄くなっていく。これが夢だと気づいたときには、サラは泣きじゃくりながらその影を抱きしめることしかできなかった。覚めたくない、覚めてしまえば、もう二度と会うことはできないのだ。

「行かないで、行かないでよ。やだ、マックス、行か――」

手を伸ばして跳ね起きる。どうやら、よほどうなされたらしい。汗も頬を伝うほどであり、全身がじっとりと濡れていた。気持ち悪さを冷笑で流したサラは、体の力を抜いて再度ベッドに倒れこんだ。時計を見ると、もう日付が変わって二時間も経っていた。

「ばか、マックスはもういない」

そう自分をなじって、再び眠りにつこうとする。だが、どうしても眠れそうになかった。記憶が、後悔が彼女を苛むからだ。

 答え合わせのあの日、サラは必死で戦った。アドラスティアのツィナーとグリグ。常識がまるで通用しない強敵を前にして、それでもどうにか生き残ろうと努めた。その結果が、これなのだ。サラははっきりと見ていた。マックスは自分を守って死んだ。こんな何も無い自分を守るために。

 どうして。私が死ねばよかった。床に伏し、そう叫ばなかった夜はない。今日だってやっとのことで眠れたのだ。それなのに、またマックスの夢を見てうなされて起きてしまった。そんなに苦しんでもマックスが戻ってくるわけではないのに。わかっていても、それとこれとはまったく意味が違うのだ。マックスは特別だった。彼女より自分をわかってくれる人など、これから生きていて巡り合えるとは思えなかった。

 照明をつける。ホストはシャーロックという男性であり、主に小説を書いて生計を立てている。それゆえ彼には生活リズムというものが存在せず、睡眠の時間は不規則だった。締め切りの時期にもよるが、今日は起きているだろう。サラは彼の仕事の邪魔にならぬ範囲で彼のそばにいた。今日も、読みかけの小説を持って部屋の扉をノックした。

「おじさん、今いい?」

ドアを開けると驚いたように口を開ける。

「どうした、こんな夜中に」

「眠れないから、気晴らし」

サラがそう言うと、シャーロックは微笑を浮かべた。そんな日もあるよな。そう言って彼はコーヒーを淹れると、彼女を隣に座らせた。電子入力を嫌った彼は、昔ながらの万年筆よる手書きで仕事を行う。走り書きは異様に癖が強く、原書や手書きまで幅広く読む読書家のサラがひと月経ってようやく読めるようになったほどだ。ともあれサラは、コーヒーの酸味で気を紛らわせ持ってきた本を開いた。

 ふたりの間に、心地よい沈黙があった。ひとりでいるよりもシャーロックの隣はなぜか落ち着き、集中して本が読める。シャーロックの方もこの口下手な少女が愛おしく、彼女がいてくれると妙に筆が進むことを知っていた。だが今回は、様子が違う。シャーロックは口を開いた。

「悪い夢でも見たのか」

サラは頷く。言葉を返さなかったため、もう一度シャーロックは問うた。

「マックスという子のことか?」

また頷く。やはりそうかと、彼は腕を組んだ。マックスという名前は一度だけ彼女から聞いた。彼女はほとんど自身のことを語らないが、それでも大事な人だったことははっきりとわかる。彼女の前では、サラも無邪気に笑ったりしたのだろうか。

 であれば自分は、この少女のためにどんなことを言ってやることができるのだろう。シャーロックは、言葉を紡がねばならなかった。筆を走らせるときの空虚な言葉ではなく、質量を持つ本物の言葉を。

「別れの辛さは、俺もわかるつもりだ。こんなに苦しくて、なんで生きてるんだろうって思うこともある。自分がもっとうまくやれば、どうにかなったんじゃないか。そう自責してしまうんだ」

サラは本を置き、シャーロックの方を向く。それは彼女が、言葉を交わしたいという意志を表明したということだろう。じっと目を見つめるサラというのは、彼にとって初めてのことだった。

「おじさんは、どうしたの」

「どうしたって?」

「大好きな人が、死んだとき」

その問いは、目が覚めるほどにまっすぐだった。シャーロックは彼女のために、思い起こさねばならなかった。

 サラが来る前、この家に住んでいるのは彼ひとりだった。二十年以上前、彼には身ごもった妻がいた。体調を崩し検査のためベルズの病院に向かう途中、アリアンの攻撃に遭い命を落とした。そこから彼は定職をやめ、放浪の末に文筆活動をしている。

 男性ひとり暮らしのホスト希望者は、やはり危惧すべき事項が多い。そのため当初ロイスは断る予定だったが、面談によりサラがホームステイすることに決まった。一番は、似た者同士だからだろう。多くの言葉を必要とせず、書を読むのが好き。それに何より、一番大事なものを失っている。

 シャーロックの境遇は、面談の時に伝えられた。サラは自分であれば聞かれたくないだろうと、深くは聞かなかった。だが今、それが知りたくなったのだ。彼もその必要は感じていた。サラのためだけではない。それを必要とする誰かに話すことで、ほかならぬ彼自身が前に進める気がしたのだ。

「ねえ、おじさん」

悲痛な表情で、サラはさらに促す。シャーロックは観念して、紡ぎかけの言葉を話した。

「どうもできなかったよ。正直を言えば、今でも苦しい。始めは身を切られるような痛みと、自分が消えてしまいそうな虚無感に襲われる。でもある時気がつくんだ。目の前の世界にその人はいない。するとな、何より大事だったはずの人が、心の奥に隠れていくんだ。辛いぞ。忘れていく自分を見るのは。いっそ死んでしまえと思うのは、この時だ」

サラは驚いた。自分が考えていることと、全く同じだったからだ。痛いし、苦しい。でも忘れるのはもっと怖い。それはサラの、マックスに対する悲痛な思いだった。

「私、耐えきれるかわからない」

怖いよ。サラはそう言ってうつむく。シャーロックは筆を止め、サラの方をまっすぐ向いた。

「お前は強い子だよ。失った直後だというのに、真正面から向き合ってる。俺はそうはできなかった。仕事をやめて二年も、塗りつぶせる何かを探したんだ。でも、無駄だった。何を見ても死んだあいつの方が美しかったし、優しかった。でもお前は、前を向けている。知りたいのは、俺の方なんだよ。なんでお前はそんなに強くいられるんだ?」

目を丸くし、サラは放心する。それは意外だった。自分は弱い、サラはこう信じて疑わない。であればシャーロックが強いといってくれる理由は何だろうか。強くいられているのならば、それはなぜだろうか。

 サラは、すべてを理解した。するとその目に、強い光が宿った。それを見たシャーロックは驚いたようにサラの頬に触れる。サラはくすぐったそうにそれを払うと、微笑を浮かべた。

「私、すべきことがあるみたい」

「そうか。何か俺に、手伝えることはあるか?」

サラは思案顔をしたのち、澄んだ目でシャーロックを見つめた。

「おじさんの好きな、恋愛小説を教えて」

サラの頬にふわりと笑みが浮かぶ。世界で二番目が、もう彼女の中にあるのだろう。シャーロックは大きく頷くと、本棚をあさった。そうして一冊の色あせた本を手に取る。受け取ったサラは、これを読んだことがあった。ああ、これか。確かにこれならば、この気持ちは伝わるだろう。

 そしてサラは、それをきゅっと抱きしめる。理不尽な世界の中で、聡明な少女は懸命に前を向いていた。そうして自室に戻り、かばんに本を入れる。学校に着いたら、読み始めようと決めていた。きっと、声をかけてくれるはずだ。サラがそれが嬉しいと感じるようになったのは、マックスを失ってからだ。それまでは、ほかの多くのクラスメイトと同じように茶化しているだけかと思っていた。それに救われていたことに、気が付かなかったのだ。

「ばかだな、私」

自嘲するも、その頬には微笑が浮かんでいた。多くを話さなかったつけで、言うべきことが多すぎる。ごめんね、ありがとう、嬉しい。その先の言葉は、今のサラには重すぎてうまく口にできなかった。


 SIDE-2 リンの声、カレンの声


 リンとカレンはいつもそばにいる。まるで一緒にいるのが当たり前のように、生活のほとんどの時間を共にしている。さすがにお手洗いは離れるが、逆に言えばそれ以外はほぼふたりひと組だった。ハイスクールのクラスメイトはおろか、バターカップすら彼女らが別々にいるところは珍しいと思っている。

「ねえねえ、リンってどうしていつもカレンと一緒なの?」

「仲いいってのは通り越してるよね」

ハイスクールに入って、こう聞かれることも増えていた。付き合っているといった推測も、間違っているわけではないだろう。だがそれでも、ふたりには多くの秘密があった。

 ふたりはこの日も、同じベッドで目覚める。これは入隊時からずっと変わらない習慣だった。階下からホストであるレベッカの声が聞こえる。彼女は学校教諭をしているため、朝は同じ時間に出発する。

「リンちゃん、カレンちゃん。ご飯よ」

ここのところ、夜更かしが増えている。張り裂けそうなほどの緊張感がなくなり、互いを求める気持ちも強くなったのだろう。リンはカレンの耳元におはようと囁く。カレンは笑顔とともに、体を持ち上げた。

「おはようございます、おばさん」

「おはよ、ございます」

「あら、なんだか眠そうね。早寝早起きしなきゃだめよ」

「ごめんなさい。私がカレンに宿題教わってて」

リンが手振りで説明すると、カレンが手を振って否定する。

「ちがう、リンが教えてくれて」

「ほんと、あんたたちって仲いいのね。友達は一生もの、大事にするのよ」

はあい。リンが答えると、カレンも頷く。そのまま制服を着て、学校までの道のりを歩く。このあたりの車はときどき一時停止をしないため、リンは注意深く見ながらカレンの前を歩く。

 商業科は朝学習がある。入学して最初の資格試験である四級会計士の取得に向け、早朝から勉強をしているのだ。リンとカレンはクラスでも比較的成績は良好であり、順調に課題をこなしてきた。

 ただリンにはひとつの危惧があった。だから試験のことをもっとよく調べることにした。どうやら申請すれば特殊な措置を取ってくれるらしい。だがカレンは、それをしたくないと言った。その意思を汲んでほしいと言って回ったのはほかならぬリンなのだ。

「私、リンと一緒に生きるから、できないことはできなくていい。今のままでできること、増やしていきたい」

リンはその決意の固さに感嘆するも、正直を言えば困っていた。ずっと一緒なのは、いい。いままでもそうだったから。でも、これを隠し通すことはできそうになかった。カレンもそれはわかっているのだろう。だがそれを少しでも遅らせようと無理をしているように見えた。

 リンは迷っていた。きっと、今のクラスメイトなら楽に受け入れるだろう。アニタは問題ない。ニーナは少しきついところもあるが、認めた人には優しく振る舞う。であれば、これ以上隠すのはカレンがつらいだけだ。

 歩いて学校に行くとき、カレンに耳打ちをする。

「ねえ、もういいんじゃない? みんなわかってくれるよ」

カレンには、リンの言いたいことがわかった。だが、強くかぶりを振る。

「いや。リンに迷惑かけてるの、わかってる。でも、このままがいい」

リンは閉口した。カレンがなぜこうも頑ななのか、わからないのだ。カレンのことはすべて知ってきたつもりでいた。知るための努力を怠ったことはなかったと言い切れる。

 授業を聞いているときも、もやもやは解けなかった。半分が過ぎたあたりで、ノートをカレンに渡す。写した板書の間に、口頭の補足はすべて書き込んである。これも黒い箱からの習慣だった。初めてカレンのことを知ってから、ずっと続けていることだ。

 授業が終わり、ふたりで歩いて帰る。クラブ活動も勧めたが、カレンが固辞した。他者と触れ合う機会が増えるほど、明らかになってしまう危険が大きくなる。

 ふたりは、それぞれに悩んでいた。だから、今夜話そうと決めていた。今のままでは、何も変えられないことを知っていたからだ。

 同じベッドに横になる。触れるほどそばにあるリンの体温が、カレンは大好きだった。

 カレンの耳に息を吹きかけると、くすぐったそうに身をよじる。そのまま口付けをして、その小さな耳に語りかけた。

「カレンがつらそうなの、もう見たくないの。言えば、みんな助けてくれるよ。カレンが優しくて素敵な子だって、みんな知ってるから」

違うの。カレンは全身を駆け巡る幸福感を振り払うように、首を振った。それは悲痛なわがままだった。

「リンと私だけの秘密、なくなっちゃう。怖いよ。誰も私、見てくれないんじゃないかって、思っちゃうの」

リンははっとした。なぜこんなことに、気付いてあげられなかったのか。カレンの一番は自分だと胡坐をかいて、考えることをやめていたのではないか。そう思うと、涙があふれ出していた。

「カレン。私、友達失格だよ。カレンのこと、何も知らなかった」

 ごめんね、ごめんね。顔を抱きしめ、捧げるように謝罪の言葉を繰り返す。許してもらえるなどと、思っていなかった。自分はなんて傲慢な人間なんだ。心の内側で生み出される罵倒の言葉が、そのまま心に突き刺さる。

 それは、カレンも同じだった。リンの声が聞けなくなるのが怖くて、わがままばかり言っている。こっちこそ、ごめん。そう低くつぶやいただけでは、何を伝えることもできないことを知っていた。

「リン」

「なあに?」

「私、決めた。みんなに言う。もうリンに迷惑かけないよ。だから」

リンを頂戴。囁くような声だったが、それは悲痛な叫びだった。変わることが怖くてたまらない。本当ならば、今のままがいい。前に進むために、今はただリンの存在を確かめたかった。

 耳たぶをリンの唇が伝い、吐息が全身を甘く溶かしていく。指が奥に触れるたび、より深く互いを知れる気がする。ずっと一緒にいたはずなのに、知らないことばかりではないか。であればこそ体を重ねたふたりは、ひとつひとつ確かめるように互いを求めた。

 そんな心の触れ合いの中で、カレンは決めていた。もう、リンなしでは生きられない自分はやめよう。でなければ、いずれリンは自分を好きでいられなくなる。逆もまた同じだった。

 カレンはあることに気づいていた。レベッカが、自分のことを知っている。そうしてあるものを用意してくれていることも。あとは自分が、勇気を出すだけだ。

 眠りについたリンを撫でながら、カレンはその耳に口づけをする。

「おやすみ、リン。大好きだよ」

そういうや否や、カレンの意識は虚空に溶けていった。疲れがたまっていたのだろう。

 夜が明け、カレンは全てを打ち明けた。レベッカは初めて知ったように驚きを交えながら聞いていたが、すべて話し終わるとひとつのものを取り出した。この時代の技術は発達しており、声を的確に増幅することができる。カレンはそれを付けると、一瞬のけぞり背もたれに身を預ける。だが慣れていくにつけ、その表情に笑顔が広がった。

「カレン」

テーブル越しにリンが声をかける。口元は隠していた。カレンはにこりと笑い、その名を呼び返した。

「リン」

それを聞いて、リンの目から涙があふれ出した。カレンは身を乗り出し、笑顔とともにリンを抱きしめる。

「ありがと」

互いを何より必要としているふたりは、物理的な距離を離す必要があった。戦いがなくなり、カレンが前に進むのに必要な一歩だ。リンは救われたようにカレンに口付けをした。

 リンを除けば、初めてそれに気が付いたのはエリザだった。脱走直前に、グレイスにクラスメイトについての私見を伝えておいたのだ。その時の言葉を、グレイスは今でも覚えている。

「カレンには、テキストメッセージを送ってあげて。たぶん彼女、耳がほとんど聞こえない」

グレイスは驚いた。そんなそぶりを見せたことが、本当に一度もなかったからだ。リンと小声で話していることは知っていた。よくリンが耳打ちしているのも、ふたりの仲なら何か伝えたいことがあるのだろうと気にしていなかったのだ。

 ハイスクールに入っても、多くは変わらなかった。彼女は補聴器を拒んだのだ。レナたちは、耳が聞こえないことが知られたくないのだろうと納得した。だがグレイスには、その真意がわかっていた。だからカレンにそのことを言わなかったのだ。自分が知っていることを、カレンは知らないだろうから。

 この朝、エリザらふたりは、リンとカレンとすれ違った。これ自体は、早起きしていればいつでも起きうることだった。

「リーン、おはよー」

手を振りながら遠くから声をかけたエリザは、直後に起きたことを理解するのに時間を要した。そして満足したように笑みを浮かべた。

「おはよう」

それは、カレンの声だった。

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