第三輪 淡さと青さ

 学校生活もひと月を過ぎ、今日から三月。寒い日もだいぶ減り、落葉樹が芽吹き始めている。そんな春真っ盛りの中、エリザにはひとつ悩みがあった。男子がよくグレイスの話をするのだ。最初は何か陰口を言っていまいかと疑い、寝たふりをして聞き耳を立てていた。それがどうも違うと分かったのは、数分後のことだった。どうやら、好意を抱いているらしい。

 それ自体は、エリザにとって当たり前だった。グレイスは可愛い。あるいは美人と言ってもいいだろう。それに、性格もおっとりしていて優しい。だからこそ、エリザの心境は複雑だった。

 休み時間、グレイスが教室を離れていたときひとりの男子が近づいてきた。名前は確か、ディックと言ったか。

「グラハム、さん」

「エリザ、でいいよ。うちになんか用?」

エリザは自分がしかめっ面をしていることに気づいていない。ディックはこのあまり話さないクラスメイトを恐れてすらいた。

「あの、カミオンさんのこと、なんだけど、何か、好きなものとか」

エリザはその意図がわかり、この内気な少年を憐れんだ。やるならもっとうまい方法があったろうに。とはいえ、これはいい暇つぶしになる。口角に意地悪な期待を込めて、エリザは聞き返した。

「グレイスが好きなものが知りたいの?」

「う、うん」

「どーしよっかな」

「いきなり、ごめん。でも、知りたいんだ」

エリザは表情を動かさずにあたりを見渡す。自分の言葉に耳を傾けている人は何人かいそうだった。まさかこんな行動に出るものがいるとは思わなかったのだろう。だからエリザはからかってやることにした。

グレイスの場所は大体わかっていたから、無線で呼び出す。

「はあい、グレイス。いきなりですが質問です。あなたの好きなものは?」

――ほんとにいきなりだね。どうしたの?

「いーの。ほら、早く、答えて」

――ええ、そんな。

「はい、さーん、にー」

――もう、いじわる。わかってるくせに。そんなにいつも言うことじゃないよ?

「ふふん、ありがと。じゃまたね」

――え、何それ、ちょっと――――。

ほらね。通信を切ったエリザは十分な確信をもって、この悲運な少年にこたえる。

「エリザ・グラハム。うちだって」

これに驚いたのは、耳をそばだてていた多くの生徒だろう。一組の子もちらほらいる。うすうす感づいてはいたが、まさかこんなにはっきり言ってのけるとは思いもよらなかったのだ。外国から来た十四人の少女たちは、過去のことを何も話さない。多感な時期、それは不信にもつながるが、同時に魅力でもあっただろう。グレイスが高嶺の花である理由は、それらに加え彼女自身の魅力もある。さらにこのエリザなのだ。ただでさえ独特な雰囲気を持つ十四人の中でも、彼女は際立っていた。

「エリザ、ただいま。さっきはどうしたの」

「ふふん、なんでもない」

「またそうやってからかう。私だって恥ずかしいんだからね」

戻ってきたグレイスの口ぶりは、エリザの言うことが決してでまかせでないことを証明していた。担当教諭も入ってきて、授業開始のため皆席につく。エリザはこの結果に満足していた。今のところ、グレイスを誰かに渡す気はない。

 エリザには、同年代の男とつるんで遊んでいた時期もある。彼らは一時を過ごすのにはよかったが、大した魅力があるとは思えなかった。どこかで生きることに飽いているという点で、彼らはエリザと同じだった。

 では、クラスの男子はどうであろうか。授業中、エリザが考えていたことはこれだった。まず思ったのは、ハイスクールだけあって賢い。授業科目がどうということではなく、ものを考える力がはっきり存在する。エリザは考えることは好きではないが、重要なことだと思っていた。

「グラハム、起きてるか?」

どうやら、数回呼ばれていたらしい。エリザははっと黒板と担任を見て、答えるべき項目を見出した。差し詰め、ウエストバイアの国旗のモチーフか何かだろう。

「麦と剣と二枚貝」

「お、正解だ。ウエストバイア育ちには簡単すぎたか。じゃあ次、その横にある紋章の由来もついでに答えてもらおう」

これは問題なかった。黒い箱で、まず第一に教わる項目だからだ。

「五世紀の末、大陸西岸を領地としていた獅子王エドワードは、宿敵であった南の魔王グレゴリウス、東の蛇妃ナターリアを倒して西バイール地方を統一するに至った。そして彼は人々から、蛇や悪魔を食らった師子、すなわちキマイラと呼ばれるようになった」

「完璧だ、グラハム。よく知っているな、師子王でも読んでいるのか?」

「兄貴が、師子王好きなんです」

別に聞いたわけではない。セロウのことだから読んでいるだろうと漠然と思っただけだった。だが彼女にとっては、その真偽などはどうでもよいことだった。

 授業後も、教室の空気にはどこか異物感があった。特に気が気でないのはディックだろう。グレイスに話しかけたいけど、エリザがいる。彼がこの淡い感情に取り乱し、悩んでいることは誰の目にも明らかだった。ただひとり、グレイスを除けば。

からかってはいるものの、エリザにもよくわからない感情ではある。好きな人が欲しいなら出来ることはいくらでもあるし、それをすればいいのだ。

休み時間、ふと思い立って他学科のところに行ってみることにした。

 隣には商業科がある。アニタなど、奔放で勉強という柄でない子の多くはここを選んだ。

リンとカレンはいつも一緒にいるが、アニタとニーナは比較的他のクラスメイトとよく話している。

「あ、ニーナ」

廊下にはニーナがいた。アニタと似た印象を受けるが、彼女より気が強く、器用を演じるのがうまい少女だった。

「お、エリザ。どしたの? そうそう、ジョン、この子がエリザって言うの、めちゃ可愛いでしょ」

「お前よかよっぽどな」

ニーナは笑いながらジョンと呼ばれた男子を小突く。

「それでエリザ、今日どしたの?」

「何も、ニーナとアニタに会いたくなっただけだよ」

予想外だったのは、ここでニーナの表情が一瞬だけ固くなったことだ。

「あ、あいつのことはいいの。それよりエリザ、彼氏とか彼女とか、できた?」

あ、ニーナ、アニタと何かあったな。質問より前に、そんなイメージが浮かぶ。

「できたって言うか、変わらずかな。この子がニーナの彼氏なの?」

「そうか、あんたにはグレイスがいるもんね。そうよ、私の彼氏」

その回答に、エリザは驚きもしなかった。ニーナなら付き合っている人くらいいるだろうと思っていたからだ。彼女には、どことなくリーブスの裏路地にいそうな雰囲気がある。外は明るいが、不意に退廃的な面を見せることだ。

「あんたももっと遊びなよ。あの子らといるのとは違うから」

ま、あんたには余計なお世話かな。ニーナはそう言って笑う。みんなといるより楽しい、と言わないだけニーナの根はよほど優しかった。だからこそエリザは疑問なのだ。

あと五分ほどある。教室に入ってみるか。

「アニタどーした、らしくないぞ」

背中からくっつかれても、アニタはうつむいたままだった。おそらくいつもならば、振りほどいてじゃれついてくるのだが。

「エリザか、私は大丈夫だ」

大丈夫だから、すこしひとりにさせてくれ。エリザでなくとも、大丈夫でないことは明らかだっただろう。

「ニーナのこと?」

「なんでわかった、なんか聞いたのか」

「いや、何も。ただ、そうかなって」

疑うように上目で見つめる。エリザはこういう時自分の目が嫌いになる。きっと、あの男子が気になっていたのだろう。その件でニーナと喧嘩をしたらしかった。

「嫌われたのかな、同じような立ち位置だったから。でも、ジョンのことは許せない」

困ったな、エリザは端的にそう思った。

バターカップが普通の女の子になる過程で、枠組み自体が邪魔になり始めることは危惧していた。ニーナのような自由に生きたい子には煩わしさも強いだろう。

エリザは、自分はそうではないと思っていた。確かに売って暮らしていた過去はある。好きでもない女、時には男と付き合って、養ってもらったこともある。当然、喪ってもいる。だが、それは生きるため切り捨てただけだ。好きでしたわけでは。

エリザは首を振った。言い訳をしている場合ではない。ボタンのかけ違いは他にもあるのだろう。次の休み時間は、家政科まで足を伸ばすことにした。

 そんなことを考えていると、授業など耳に入ってこない。グレイスに相談する前に、まずは自分で調べることに決めていた。自分で解決できることならそれでいい。何よりクラスを大事にしてきた彼女に、できることなら心配をかけたくはなかった。

 授業が終わり、席を立つエリザにグレイスは声をかけた。

「エリザ、ここにいて」

それは、あまりにも意外なひと言だった。

「グレイス?」

「それは私のしなきゃいけないことだから」

グレイスにも、わかっていたのだろう。クラスに綻びが出はじめていること。エリザが自分に代わって悩んでいてくれること。

 ひとまず、この話は家に帰るまでしないことにした。

 昼になって、ふたりは食堂へと向かった。

「これで、全員かな」

テーブルを囲むのは十一人。他は先週ごろから来なくなった。いつもと違うのは、アニタがいることだ。

「早く食べようぜ、もう我慢できないよ」

ラウラがいることが、皆にとってせめてもの救いだった。

「みんな、まだ馴染めてないみたいね。ちょっと安心した」

こう切り出したのはイサベルだった。進学科一組は比較的女子のつながりが強い。まだここに来るということは、言うように馴染めていないのだろうか。だがアディやパットが軋轢に悩むことも考えにくい。彼女らは好きでここに来ていると考えるのが自然だった。

「ゾフィなんて、男子が怖いからって時々家政科まで来るんだよ」

ヴィクは嬉しそうにそんなことを言う。機械科はふたりを除く全員が男子で、しかもラウラは男子に混じっている。ゾフィにしてみれば少し居づらさはあるだろう。

「もう少しあたしを頼ってくれてもいいのに」

「ラウラちゃんも、男の子と、いつも話してるから、声かけづらくて」

「ちゃん付けはやめてくれ、もう黒い箱は終わったんだから、他人行儀はなしだ」

「あ、ごめん」

「もう、うちのゾフィを寂しがらせないでよ」

ヴィクは目を吊り上げてみせる。それを見てラウラは笑った。冗談交じりのヴィクは、それでも真面目に考えていた。

「お願いラウラ、この子を輪に入れてあげてほしいの」

「そんなことしたら、男子にゾフィ取られるぞ」

「それはやだ。やだ、けど」

ゾフィにやさしくしてくれる子ならいいかもしれない。ヴィクは幼気にそう思っていた。

ゾフィはというと、飛び交う言葉を不安げに目で追いながら小さな口とスプーンを動かしていた。

井戸端会議はまとまりを見せず、学科の荷物運びでラウラとゾフィが帰っていくまで続いた。

 午後の授業は歴史と共通語だった。今度の休みはグレイスが聞きに行った。ある種第三者的側面を持つエリザと、実際にまとめてきたグレイス。一長一短ではあるが、グレイスは自分で背負うつもりだった。

 今日は寄り道もせず、早く帰宅した。家についても口数はいつもの半分もなく、空気が重い。それはナンシーも感じ取っていたようで、たまにはと思いケーキを焼いたりした。ふたりはおいしそうに食べたものの、ついに笑顔を見せることはなかった。

「エリザ、グレイス。ケーキは笑って食べるものよ」

「ごめんなさい、おばさん。すごくおいしかったです。でも、今はちょっと、うまく笑えません」

ナンシーは自らの息子を顧みていた。この多感な時期は、誰しも揺れ動くことがある。であれば、心配するだけ野暮というものなのかもしれなかった。それは各々が乗り越えていくことだ。

 私室に入るとせき止めていた疲れがあふれだすようで、グレイスはひとつため息をついた。エリザも、その気持ちを抑えることをやめることにした。

「今日、一緒のがいい」

「どうしようかな、エリザ寝相悪いもん」

「ごめん。今日はおとなしくするから、おねがい」

「それなら、いいよ。おいで」

エリザはふたつあるベッドのうち、グレイスが使う方に飛び込んだ。グレイスは照明を消すとその横に腰かけ、両手を伸ばすエリザに微笑む。窓の外の光に目をやると、自分がやけに小さなものに見えてくる。

「ヴィクもね、悩んでた。班員だったリズ、他のみんなとも距離を感じるって。もう、バターカップはなくなっちゃうのかな」

寝転がりながらエリザはグレイスの枕に頭を乗せ、仰向けで口を開く。

「もう、いいじゃん。バターカップの役目は終わった。生き残るって目的があって、それが達成されたんだから。今までまとまってこれたのが奇跡だったんだ。うちがいなくなってからも、色々あったんだね。強くなれない子に冷たく当たっちゃうことも、お互いが信用できなくなることも、あそこじゃ仕方ないよ。だからこそ、グレイスのおかげで十四人が生き残れたのは本当のこと。マックスは、そんなグレイスの在り方をずっと見てきたんじゃないかな。そして自分にできることを、最後にしようと思った」

だとしても。エリザはその言葉に空虚な力を込めた。

「これからは自分だけで生きたい。自分だけを見てほしい。ニーナがそう思うのは、仕方ないことだよ」

「そうだよね。黒い箱がなくなって、この枠組みなんてもういらないんだよね」

そんなの、やだよ。グレイスは力なくベッドに倒れこむ。エリザの胸に顔を埋め、グレイスは涙を抑えられなくなっていた。

「せっかく戦いがなくなったのに、なんで遠くに行っちゃうの? 私には、ここしかないのに」

頭を撫でながら、エリザはグレイスから浮かぶもの見ていた。像が定まっておらず、もやもやしたイメージだけが周囲に広がっている。それはエリザだったり、死んでいった仲間だったり、黒い箱の大人たちだったりした。グレイスはバターカップのために、自分を殺してきた。あるいは、エリザのためでもあっただろう。そう言ったものの先に、ついには自分というものがわからなくなってしまったのだろうか。

「マギーも、マックスも、ハンナも、守れなかった。もう誰も、エリカたちのことなんか話題にも挙げない。忘れちゃったのかな。だとしたら、私はどうすればいいの?」

わからないよ。エリザの胸の中でなら、この巨大な苦しさと立ち向かえる気がした。エリザはそれをわかっている。であればこそ、グレイスを守れるのは自分しかいない。そうはっきりと思っていた。

「みんな忘れられないから、どこかにしまうんだよ。そうしなきゃ、前に進めないから」

エリザはそう口にしたとき、ふとグレイスから目を離した。何かが導き出された気がしたのだ。だが、それが何かはわからない。だがそれが、とても重要なことだけはわかった。

 嗚咽交じりの細い声は、直接エリザの胸に届く。頬に、雫が伝った。

「そんなこと、私にはできないよ」

「大丈夫。グレイスは、うちが守るよ」

そう言ってグレイスの小さな頭を抱きしめる。グレイスの腕が、エリザを引き寄せる。

「ねえ、しても、いい?」

「うん」

 どこかに置き忘れた自分のように、グレイスはエリザを求めた。口付けとともにふたりの輪郭がぼやけ、指先から心まで溶け合っていく。内側に入れば、より近くにいられる気がする。そんな原始的な心の触れ合いの中で、先に声をあげたのはエリザだった。彼女にも、押さえつけてきたものはたくさんある。偽りばかりのリーブスにはない、それはグレイスに対する無垢な恋心だった。小賢しくなった手も舌も、その人のためなら汚れたものだとは思わない。

「グレイス、よそ見しないで。うちだけを見てよ。グレイス、グレイス。うち、グレイス以外いらないから」

「エリザ、エリザ、ごめんね。私もう、エリザしか、見ないよ」

名前を呼ぶたび、呼ばれるたびに、奥底から燃えるような熱を感じる。唇が触れた場所が、メレンゲドールのように淡く蕩けていく。グレイスはエリザに、自分を残したかった。気をつけながら爪や歯を立てても、抑えなど効くはずもない。エリザには、その痛みが心地よかった。ああ、全然違う。嬉しい。悦びの中でエリザは、その鋭利さを迎え入れた。

 忘れてはいけないものは、どこかにしまっておけばいい。エリザはそう言うが、グレイスはそんなことをしてまで前に進みたくはなかった。エリザのいる、ここがいいのだ。

 それはエリザも同じだった。グレイスが前に進むのならば、自分はそれと同じだけ進めばいい。だから今は、いつまでも互いを感じていたかった。

 そうしてどれだけの時間が流れただろう。エリザは目を閉じていた。眠っているのだろうか。エリザが感情を爆発させるのはここだけだ。そしてそれはグレイスも同じ。ここさえあれば、もう少しだけ頑張れるような気がした。

 グレイスが目を覚ました時、もう夜は開けていた。いつの間に眠っていたのだろう。シーツは乾いている。服も着ている。

 そうだ、エリザは。

「あ、おはよ。これ、グレイスの跡だよ」

 エリザは笑いながら裾をたくし上げる。どうやら夢ではないらしい。

「ご、ごめん、エリザ。でも、ありがと。すっきりしたかも」

「ちょっと疲れたけどね。グレイスったら離してくれないんだもん」

そういうとグレイスが肩をすぼめるので、エリザは慌てて手を振った。

「違う、そういうんじゃ」

「わかってるよ、エリザ」

愛してる。音もなく、グレイスはそれを口にした。これはまだ、聞こえてよいものかわからなかった。顔を背けたグレイスを、エリザはまっすぐ見つめる。戯れの中ではいつでも言える言葉が、出てこないことにエリザは閉口していた。

 今日もまた学校へ向かう。朝学習や実習も始まり、帰りの時間もばらばらだ。クラブ活動もあるが、学校生活自体に慣れないこともあって参加は見送っていた。ふたりは一度手芸部に見学に行ってみたことがある。ここなら男子も少なくなじみやすいとも思ったが、エリザは自分の趣味として昇華してしまっており参加には至らなかった。

 クラブパンフレットを手に、今一度見て回ろう。ふたりは思い立って廊下を歩き始めた。ヴィクと出会ったのはその直後のことだった。

「どこ行ったんだろう」

「どうしたの? ヴィク」

サラがいなくて。そう言って辺りを見渡すヴィクは一冊の本を抱えていた。

「それ、サラに借りたの?」

「うん、それで読み終わったから返そうかと思ってたら、サラどこか行っちゃって。二年生の男子も一緒だった」

「男子も」

グレイスは驚きのあまりそう反復した。度の強い眼鏡とそばかすに隠れているが、サラの魅力はグレイスも知るところである。だがそれでも、積極的に輪の中に入るとは考えにくい。ヴィクが心配するのも無理はなかった。

「一緒にサラを探してほしいの。まだ学校にいるはず」

ヴィクが話すところによれば、家政科の男子でクラブに入っている子はさほど多くない。サラがどこかのクラブに属していることも考えにくく、ひとまず学校を回ってみることにした。

 歩きながら、エリザはこんなことを言い出した。半分は、いじわるのつもりだっただろう。

「ヴィクってサラも好きだよね」

ヴィクは少し頬を赤らめながらも、笑顔を見せた。

「好きっていうか、なんかほっとけないのよ。ひとりが好きみたいに振る舞ってたけど、実際のところはどうなのかなって。だからサラに友達ができるのは嬉しい。実際に見てみないと分かんないけどね」

「変な男だったら、懲らしめるんでしょ」

「大丈夫よ。うちのゾフィと違って、サラは賢いから」

グレイスはそれを聞いて、妙に心にひっかるものを感じた。やはり、バターカップは消えようとしている。ひとりで別の輪に入っていく子、ふたりだけの世界がいい子。もう十四人がひとつになる必要はどこにもないのだ。

 そんなことを考えながら、三人は加工室の前にたどり着いた。ここでは機械科が実習をしているほか、ロボット部やモトクロス部が加工する際に使うこともある。

「あ、おーっす」

「ラウラ、ゾフィ」

「今、実習、終わったの」

ヴィクはゾフィに駆け寄り、つなぎに付いた煤を嘆くようにハンカチで払う。その様子は他の機械科の生徒も見ていた。

「ちょっと、ヴィク、はずかしい」

「え、あ、ごめん。あんたが汚れてるのが嫌だったの」

ゾフィには同級生の保護者がいる。機械科ではもっぱらの噂だった。だからヴィクの過保護ぶりを見て、誰もが深く頷いた。

「それで、何の用だ?」

ラウラの問いに、グレイスは思い出したように口にした。

「ふうん、サラがねえ。でもヴィクなら、やあっとみんなサラの魅力に気が付いたのね。とか威張ってそうだけど」

「言わないわよ、そんなマックスみたいなこと。でも、それでいいのかもね。付き合ってくれてありがと」

ヴィクの笑顔を見て、ふたりは目を合わせる。

「グレイス」

「うん、帰ろっか」

実習室を後にする。

 ここからだと体育館裏を通って校門まで行くことになる。普段は全くと言っていいほど通らない場所だから、エリザが前に立った。

「ねえ、あれって」

「アニタ、だよね。どうしたのかな」

アニタは、体育館裏でひとりで立っている。誰かを、待っているのだろうか。

「ね、ね、隠れよ」

「なんで」

「いいから、ほらあそこ」

グレイスはエリザに押されるまま、ボール等をしまう用具庫に身を潜めた。確かにここからなら、見つかるようなことはない。

「せ、狭いよエリザ」

「あ、来た、ニーナだ」

アニタはその姿をみとめると、きまりが悪そうに手を振った。

「どうしたの、こんなところに呼び出して」

「ニーナ。私から言いたいことはいろいろあるし、それはわかると思う。だけど、今日はそういうんじゃないんだ」

「何? 早く言ってよ。私この後予定あるから」

ごめん。アニタの声は、用具庫からもはっきり聞こえた。

「マギーのこと、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、クラスメイトにマギーのこと聞かれたら嘘つかなきゃいけないから。ごめんニーナ」

ニーナは腕を組んだまま、聞いていた。それからこちらも決まりが悪そうに横を向き、数秒の間ののち低く話し始めた。

「私も、ごめん。ジョンのこと、怒ってるよね。そうよ、あんただけはマギーのことずっと大事にしてくれると思ってた。裏切られたと思った。でもね。あんたに冷たく当たった後、気付いた。もういないマギーのことで私たちが仲たがいしてたらだめなんだ。ごめんアニタ。家でもひどいことした。仕返し、してよ。許してくれなくていいから」

アニタは笑った。正直なところ、エリザから連絡を受けたときアニタは嬉しかったのだ。ニーナが、マギーのことで怒っている。だが同時に、罪悪感も生じた。

 アニタは指の骨を鳴らし、腕を回す。ニーナはそれを見て、何も言わなかった。殴ってくれた方が、すっきりする。腕を振り上げると、ニーナが目を閉じる。頬に来るはずの衝撃は、しかし感じなかった。

「よかった」

全身の熱は、なんだろう。目を開いたニーナは、それがアニタであることを知った。不意に力が抜け、体を預ける。耳元でニーナは、もう一度ごめんねと言った。

「予定は断る、一緒に帰ろ」

アニタは目じりを手で拭うと、手を差し伸べた。ニーナはそれに応え、強く握った。

 去っていくふたりの跡で、エリザとグレイスはいそいそと出てくる。その表情には、安堵の色があった。

「よかった。あのふたり、もう大丈夫そうだね」

「ニーナがアニタをのけ者にできるわけないもん」

グレイスの元にメッセージが来る。

「あ、ヴィクからだ」

「サラ見つかったって?」

「そうだね。結局どこにいたかは教えてくれなかったって」

「サラらしいよ、もう少し素直だったらヴィクの取り合いできたのに」

「今はゾフィにリードされてるからね」

他人事だと、簡単にそんなことが言える。エリザはそれに気づいて吹き出すと、グレイスもつられた。大きなまとまりから小さなつながりに、バターカップであることは変わらず移行できている。前に、進んだと言っていいのかもしれない。

 であれば、今しばらくは問題なさそうだ。こう思ったのち、ディックのことを思い出す。この弱弱しい恋敵を、エリザはもう少し見守ってみることにした。

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