IRON HAND 2ND VOL.
人物
シスル・ナイン……ネメシス空戦隊員。黒い箱出身で、クラスのひとつであるバターカップを気にかけている。レナがセロウにくっつくのが悩みの種。
セロウ・ディング……ネメシス空戦隊員。フレイン開戦以降ある少女のイメージが脳裏に浮かんでいる。
レナ・ブルージュ……ネメシス司令。つかみ所のない女性だが、生身での戦闘では無敵を誇る。
用語
オーベルゲン……滝の大陸にある都市国家。手工業が盛んで、高い技術力を持つ。
ミース……滝の大陸で広く用いられている通貨。為替レートは一ベインに対して二十ミース台で推移している。
時々、私は誰なのだろうと思うことがある。何しろ、幼い頃の記憶がないのだ。私はいつの間にか、地獄の中にいた。黒い箱のシスルという花を冠したクラスは、巨人を専門とした。初めはシミュレータでの演習だが、三年次になると実戦が始まる。シミュレータは確かに精巧に出来ており、巨人の制御や外力への対応など巨人を動かすということについては十分な技術を得られるだろう。
だが、それと戦うことは全く別のことだ。たしかに我々は、徒手格闘や銃撃など、陸軍で必須となる技術を徹底して叩き込まれる。私はそれに対し、クラスメイトに比して適性があった。だからこそ、無茶な要求だとすぐにわかった。
巨人を動かすことと生身で格闘することを、足し算することなどできはしない。黒い箱の近代的、あるいは未来的な育成施設はその一点で破綻しているのだ。
それでも、私はここに来て徒手格闘の鍛錬を欠かさなかった。ここの戦闘員は野盗上がりや元格闘家などバラエティに富んでいるが、流石にウエストバイアの兵よりはよほど強い。体格差をうまく利用されると、まだ至らぬ点が多いことに気づかされる。
諜報のような任務ができる人はあまり多くないため、数年もすれば自分もしなければならなくなるだろう。いくら強くても、司令や隊長が頻繁に拠点を空けるのは好ましくない。
セロウはそういうところ下手だから、自分がしっかりしなければいけなかった。
でも、セロウはセロウで……。
「シスル、おはよう。何か悩みでもあるのか?」
「な、どうして」
「いくら君でも、食べ過ぎだよ」
ふとトレイを見ると、もう空になっていた。もう二回もおかわりしているというのに、吸い込まれるように消えていくのだ。
私はその事実とセロウの穏やかな表情を見て、赤面した。
「そ、そうね。でも大丈夫、ちゃんと運動するから」
「黒い箱のこと、やっぱり心配?」
からかってくると思ったセロウは、思いのほか真剣だった。
「ええ、気にかけていた子達がいるの。女の子ばかり十六人で、今も戦ってるって。どうにか救ってあげたい」
「バターカップか。司令から話を聞いたよ。エリザを、最強の巨人使いを生んだクラスだね」
「え、あなたが言ってたエリザって」
「アドラスティアの彼女が、バターカップ事件の主犯らしいね」
私は目を丸くした。あの戦場にいたのが、バターカップ・フォウだったのか。あれ、以前別のことを聞いたような。いや、間違いない。私は感情を消して、微笑を浮かべて見せた。
「エリザって、セロウの妹なんじゃないの?」
セロウは一瞬首を傾げたのち、その顔を真っ青に染めた。
「あれは、その、ごめん。シスルがあまりにも怒ってたから、ついごまかして」
ふうん。私は全く納得がいっていなかったが、セロウがものすごく情けない顔をしているから許すしかなかった。
「でも妹じゃないなら、どうしていきなりエリザなんて名前が出たの?」
「夢に出たんだ。場所はウエストバイアで、女の子が友達と仲良く歩いている夢。僕は一度だけウエストバイアのヨーグという街に旅行で行ったことがあるんだ。通りを歩く黒髪の女の子は、僕に気づいて振り返るとすごく冷たい目をした」
セロウがエリザという女と心で通じているという事実は到底容認できないけど、今純粋に感じた疑問は別のものだった。
「ねえ、セロウのお父さんってバイール人だったよね。いなくなった後、どこに行ったか知ってる?」
「いや、知らないよ。だけどウエストバイアに戻ったんじゃないかな」
私はある確信の中で、心でガッツポーズをした。だがこれは、今の話をややこしくするだけだから、言わないでおこう。
「そうね、エリザ。入隊した頃にはもういなかったから、私は見ていないの。彼女のことはタブー視されてたから、エリザの名前を聞いたことはないわ」
「バターカップに知っている子はいた?」
「一緒に戦っているから数人は覚えてる。グレイスという子は、巨人のことで何度か質問してきてくれたからよく覚えているわ」
「黒い箱では皆番号で呼ぶと聞いてたけど」
「そうよ。でも彼女らは、名前で呼んでた。生き残るために、彼女らにはそれが必要だったのよ」
食器を片付けながら、私はまたあの地獄を思い返していた。
私は、クラスに馴染めなかった。だからこそ生き残れたのだ。誰が死んでも、さみしくなかったから。ひとりになっても、心が折れなかったから。
だからバターカップを見たとき、いずれ瓦解すると思った。結束などで敵が倒せるのなら、かつて私はそう吐き捨てた。でも、彼女らはまだ生きている。私が思うよりはるかに強かったんだ。
「実際、技量はどの程度なんだ?」
「リーダー格のグレイスは技量が高く、特に防御がすごく強い。あなたのようなカウンターじゃなくて、堅守といった感じね。あとはラウラという子が総合的に強いほかは、特に言うような子はいない」
「君が言うのならば、そのふたりはかなりの実力なんだろうな」
そういえば、セロウは首をひねった。
「今日はどこへ行くんだ?」
「巨人も積んでいなさそうだし、わからないね」
空母グースは、なぜか私たちを乗せて空を飛んでいた。アドラスティアが原潜でひっそりと行動するのに対し、私たちがこんなに目立っていいものだろうか。
司令が入ってきた。隊長と搭乗員たちはロイスに残っており、グースのクルーを除けば今いるのはこの三人だけだ。
「あら、セロウちゃんにシスルちゃん。おはよ、今日も仲良いわね。喧嘩とかしないの?」
自然に肩に手をかけようとする。一体全体この女は、セロウへの距離が近すぎるのだ。私は自然な動作で、セロウの前に立つ。
「ちょっと、離れてよ」
「あら、嫉妬深いとセロウちゃんに嫌われちゃうわよ」
「そうなの? セロウ」
「うーん。そういうところもシスルだから、あんまり気にしてないよ」
「うわ、のろけだ。じゃあ結論はシスルちゃん可愛いってことで」
「え、どういうこと」
司令とセロウの間を上目遣いでくるくるしながら、私はもうわけがわからなくなった。何せふたりともにこにこしているのだから。司令はともかく、セロウまで。
一方でこうも思う。司令はずっと隊長と一緒にいてくれればいいのに。あのふたりは私たちなどよりはるかに長い時間を過ごしている。滅多に感情を見せない司令が、隊長といるとすごく幸せそうなのだ。であれば、そんなにいつも離れなければいいのに。
でも、司令だってできるならそうしたいと思っているはずだ。現状、隊長以外に現地で指揮をとる者がいない。だから司令は、信じて待っているのだろう。その強さは、今の私にはないものだった。
「それで司令、今日はどこにいくんですか?」
「ちょっと買い物に、ね?」
それはあまりにも意外な言葉だった。
「買い物? この大変な時期にですか」
「息抜きも大事よ、戦ってばかりじゃいつか壊れちゃうもの」
「行き先はどこですか」
「オーベルゲンよ。港に話はつけておいたから、グースで降りられるわ」
「オーベルゲン、それって滝の大陸の」
聞いたことがあった。そこは木工や金属細工などが盛んな職人街だ。だがどこで聞いたかは覚えていなかった。
「あら、そんなこと言ってる間に着きそうだわ。朝から空母を動かしてもらったんだから、じっくり見ないとね」
指令がそういうので窓を見てみると、確かに陸は近くにあった。海峡などよりよほど綺麗な青の海に、白い建物が並んでいる。それは地中海と呼ばれる温暖な場所で、滝の大陸にはいくつか存在した。
オーベルゲン空港はいかなる航空機でも停泊することができる、外に開かれた港だ。だからといって軍用機で乗りつける例はなかなか見ない。司令はどうやってこの許可を取り付けたのだろうか。
そうこうしている間に、着陸準備となった。準備といっても、大忙しのブリッジクルーと違って私たちは近くの椅子に座ってシートベルトを締めるだけだ。サスペンションで軽減されたごく軽い衝撃ののち、機体は停止した。
跳ねるような動作で、司令は外に飛び出す。私もセロウとともに、外に出ることにした。冬とはいえ温暖な気候であり、ロイスの時のようなもこもこの上着は必要なかった。
職人街は空港からさほど遠くない場所にあり、用意していた四輪車に乗り込んで向かう。グースのクルーは余暇の時間となっているため、羽を休めてもらう算段になっているようだ。
白い外壁は冬の柔らかな日差しを反射し、とても眩しかった。でもなぜ、運転しているのは私なのだろう。
「ここって服のブランドもいいのあるらしいのよね。セロウちゃん、もっとかっこよくしてあげる」
後ろではこんな聞き捨てならない台詞が聞こえてくる。
「いいですよ、僕はこれで――」
「私がやります」
そんな言葉が既に口を突いていた。
「ふうん、戦場育ちのシスルちゃんにできるかな?」
「できますよ、セロウのことなら。私の方がわかってます」
「あら、あついのね。それならシスルちゃんにお任せするわ。もっと素敵にしてあげてね」
「そんなことしてくれなくても」
「いいの、セロウ。行くよ」
私は本来の目的を聞いていないことに気づいていたが、もはやどうでもよいことだった。
駐車場に車を停め、町に繰り出す。肌を淡く撫でる空気は、異国情緒というべきものだった。
職人街に着いた。オーベルゲンは手工業の街。古来よりの技術で質の高いものを作っているという。それは多種多様で、衣服を扱うものだけを取っても何軒も点在していた。
それゆえ価格はかなり高い。黒い箱で一年に使えた小遣いより大きな額が、至る所で動いている。私はあっけに取られてしまっていた。
「し、司令。お金は」
「大丈夫、ウェルちゃんの厚意でロイスでの出費が減ったから余裕あるの」
「そうですか。えっと、三ノールが一ミースだから」
「勘定は僕がやるから気にしなくていいよ。一緒に見て回ろうか」
セロウに手を引かれると、真っ赤になった顔を隠さねばならない。だいたい、この人はなんだ。どうしてこんなに魅力的なんだ。こうなると私は、思案顔でごまかしながらそっと後ろについていくことしかできない。
結局、午前中だけで三万ミースも使ってしまった。買った服を車に入れる最中、私は必死でおなかをへこませていた。
「シスル、どうした」
ばれていないはず。ではセロウが微笑んでいるのはどうしてだろう。あえて私は笑顔を見せてみた。
「な、なんでもないよ」
「しかしそろそろお昼だ。お腹すいたね」
「う、うん。そうかも」
なぜ全くからかってこないのだろう。私はあまりにも優しいセロウにむしろ疑念すら抱いた。
お昼ごはんは近くの郷土料理の店に入った。 野菜や魚介と混ぜて炊いた米や辛い味付けの牛肉などがあり、どれもすごく美味しかった。デザートはプディングのようなとろとろの中に桃が入っていて、頬が落ちそうだった。
でも私が夢中で食べているのを、セロウがまた嬉しそうに見つめるため恥ずかしくなってしまった。
司令はというと、しきりに外を見ていた。どうしてだろうか。オーベルゲンは平和であり敵ということは考えにくい。司令のことだから知り合いくらいいてもおかしくはないが。
「あの男、まさか」
「知り合いですか?」
「前見たときの面影によく似てるの。もしそうだったら、なんで彼がこんなところに」
司令が小さく指を指すのでそちらを向くと、大きなカメラを持った男がいた。
会計を済ませ、その男のもとへ向かう。
「ねえあなた、こんなところで会うなんて奇遇ねえ。どうしたの?」
男は苦い顔をしたが、それでも微笑に戻し口を開いた。
「ロイスはいいのか。今日も柱が三つ行っているが」
「攻撃対象はロイスじゃないわ。だから残した子達で十分よ」
「それにしても、買い物とは」
「そうね。こんな年末も勧誘に勤しむあなたに釘がさせただけでも成果だわ。ねえ、第二柱、ハレーさん?」
私は小さく身構えた。第二柱というその名は、アドラスティアの構成員であるということだ。しかも柱とは。その名だけでも、彼が只者でないことは明らかだった。
「早合点はいけない。新入りができたんで、あれを受け取りに」
警戒する私の動きを見た彼は、手を横に振る。そして人差し指で胸を叩くジェスチャーをすると、司令は微笑を浮かべた。司令は何かをわかったようにひとつ頷く。
「あら、じゃあ同じみたいね。数は一つだけよね」
「さすがネメシスの交渉人、耳が早い。その通りだ」
「ねえ、じゃあ一緒に行きましょうよ」
ハレーという男は一瞬眉をひそめ、額を抑えるような仕草を見せたのち小さくため息をついた。
「構わないよ。形はほとんど同じだからね」
状況がつかめない私は、隣のセロウをつつく。
「どういうこと?」
「わからない。このまま僕らも行っていいのかな」
あ、そういえば。司令は立ち止まると、こちらを振り向いた。
「忘れてた。リストに入ってるもの、まだ全然買ってないのよ。おふたりさん、あとお願いね」
そう言われて紙を受け取る。書かれていたのはメモ帳いっぱいにびっしり綴られた買い物リストだった。済んだものは線が引かれている。
「えっと、これって」
「支払いはカードがあるから大丈夫。買う桁数とか間違えなければ上に怒られたりしないわ」
「歌姫と逢瀬なんて、本当は喜ぶべきなのだろうけどな。普段は狼が怖くて、誰も近寄れないから」
「ウィシーは私のこと大好きだからね」
「お熱いことで」
司令とハレーが雑踏に消える。どうやらそういうわけなので、私はセロウとふたりで街を歩くことになった。もうこの時点で私の胸は弾んでいたし、足取りも軽かった。
しかし、この黒光りするカードである。純粋な傭兵であろうとはしているが、アドラスティアに劣らない戦力を維持しようとするとどうしても財団に頼らざるを得ない。戦場育ちの私にまともな金銭感覚があるとは言えないが、それでもこの面構えはいくらでも買えるというに等しい。欲しいものも今まではなかったが、せっかくネメシスに来てある程度の自由が与えられたのだから……。
「ね、ね、セロウ」
「だめだよ。司令も財団にはあまり頼りたくないはずだ」
まただ。今日のセロウを放っておくとまたやり込められてしまう。何せ私の心の声が全て聞こえてしまっているのだから。どうにかしなければ。
むう。ふくれっ面なんて、まさか私がすることになるとは思わなかった。
「シスル、どうした?」
「私の心読むの禁止」
セロウは一瞬あっけにとられたような顔をして、それから声を上げて笑った。そしてそのまま私の頭をぽんぽん叩いて撫でてくるのだ。私は嬉しいやら悔しいやらでもうわけがわからなかった。
そんな私をよそに、セロウは真面目な顔に戻った。
「やっぱりそうか、今日の君はいつもよりわかりやすいと思ったんだ」
「ひどい」
そしてセロウはとんでもないことを口にする。
「ごめんな、そんな気はないんだ。ただ最近、目から流れ込んでくる情報があまりにも多いんだ。イメージみたいなのが映像として流れてきてるみたい」
「この前の、敵のせい?」
「どうだろうね。確かに最初はあの時かもしれない」
「セロウ」
両手で頬を挟み、顔をこちらに向ける。セロウはまぬけ面で目を見開いた。
「だめだよ」
「わかってますよ」
「もう、セロウはすぐどこかに行っちゃうんだから」
「僕はどこにも行かないさ」
「うそ」
「行かないよ」
「だといいけどね」
不安もあるが、でもセロウなら心配しなくてもいいような気がしてきた。
結局車との間を五往復することになった。作業が終わったクルーたちも手伝ってくれたから、無事買い出しを終えることができた。といっても五百万ミースを超える出費の中では、ここで受け取るものは少しだった。流石に巨人関連はないが、小規模の工作機械や家具などその場での引き渡しができるものもある。あと高い買い物といえば、先ほど隊長から連絡があって受け取りに行ったものだ。あれは司令にも言っていないのだろう。そう思うとなんだかそわそわしたし、それをセロウと受け取ることがとてもとても恥ずかしかった。そして私も、そうなりたいと思う。
「あ、司令からだ」
私はメッセージの内容を見るため、携帯無線機を取り上げようとした。セロウは白い歯を見せて無線機を持った手を高く伸ばした。
「見せて」
「何にもないよ。どれどれ、荷物はもう運んだ。港は二時間くらい猶予があるから適当に遊んだ後に先に帰っていてほしい、だって」
「司令はどこか行くのかな」
「ハレーさんと逢い引きとか?」
「司令に限ってないでしょう。あっても向こうが嫌だと思う」
「それもそうだ」
セロウは声を上げて笑ったのち、真剣な表情を作る。
「ただ、僕たちにこの時間をくれたのにも理由はあると思う。多分、過酷なんだろう。だからシスル、一緒にもう一度回ろうか」
私は一瞬、頷くこと以外の感情表現を忘れてしまっていた。
その後はふたりでオーベルゲンの街を見て回った。用事が済むと、今までより多くのものが視界に入る。町は斜面にあり、建物の白と空と海の青とのコントラストが美しい。私たちは人気らしいチーズケーキを食べたり、海鮮の匂いにつられて魚市場で試食したり、お土産の砂糖菓子を買ったり、あるいはただ通りを歩くだけでも楽しかった。
セロウとの純粋な時間は初めてかもしれない。私にはそれがすごく大切なもののように感じられた。刃を重ねることは相手を強く感じられるから好きだ。だが手をつなぐことは相手の存在を熱として確かに認識でき、それが強い幸福感を持つことを知った。
ふたりは午前中に見たアクセサリーショップに寄ってみた。給与はお互い持ち逃げしてあるため、少しくらいなら余裕があった。
「お嬢さん、珍しいもん付けてるな。ちょっと見してくれねえか」
店主であろう男が声をかけてきた。
「これですか?」
「ふむ、やはり作りがよく似ている」
ほんの小さなオパールをあしらった銀細工のネックレスは、物心着いてからなぜか持っていたものだ。だれかの形見かもしれないとおもい、除隊してからは常に身につけている。
「あの、これはどんなものなのですか?」
男は手袋と虫眼鏡を用いて観察したのち、結論づけた。
「そうだな。このネックレスは、ちょうどここのはす向かいにいた職人が作ってたものだ。腕は一流で、王族なんかにも贔屓にされてた。もっとも、今は死んで家も絶えちまったけどな」
「でも私、オーベルゲンに来たの初めてで」
「そうだろうな。四十年も昔の話だ。お嬢さんもきっと誰かにもらったんだろう。大事にしな。なにせ製作者がいない代物だ。状態もいい、十万ミースじゃとても買えねえぜ」
ふと店内の値札を見た。五千から十万ミースまで幅広く推移しており、これはそれらよりもさらに高価な品だというのだ。
そんなものを、誰が私に授けたのだろうか。思い出そうとしても、いつも通り何も浮かばなかった。
多少のもやもやもあったが、私は純粋にセロウとの時間を満喫した。文字通りお腹いっぱいだった。
「じゃあ、そろそろ空母に戻ろうか」
「うん」
今度はセロウが運転してくれた。さすがに上手く、揺れもほとんどなかった。運転席のセロウはちゃんと前を向いているのだが、その実どこか遠くを見ているような気がした。
私は不思議だった。セロウの話を聞くと失ってばかりのはずなのに、なぜ彼はあんなに多くのものを持っているのだろう。私はただ失っただけだというのに。
公国にいた頃、自分が他者に惹かれることなど考えもしなかった。ときどき夢に現れる無骨な男性も、セロウと出会ってからはあまり見なくなっている。黒い箱での私は、絵本が好きだった。失われた国を取り返す英雄譚、故郷を追われた王女の物語。それらのせいかは不明だが、夢の中で私はいつもお姫さまなのだ。
自分だけを信じていた当時の私は、どこかで大事にされたかったのかもしれない。幼い少女が孤独のあまり夢想したとしても、不思議ではないだろう。
そしてその望みは、叶ったのだ。だからもう、自分のことは本当に十分になった。ただひとつ、失われた記憶を除けば。
であれば、私は何をすればいいのだろうか。ネメシスの大義に殉ずることはないし、司令も望んでいないだろう。
離陸するグースに揺られながら、私はどんな気持ちで黒い箱に赴くべきかを考えていた。答えはすぐに出そうにない。だから今は、グレイスたちバターカップのことを考えることにしていた。
あ、そうだ。セロウに買った服――――。
着陸したグースからロイス領に降り立ったふたりとクルーたちは、隊長と搭乗員たちの出迎えを受けた。
「隊長、ただいま戻りました」
「おう、ご苦労。こちらは問題ねえよ。そんで、レナは?」
「アドラスティアのハレーという人と一緒にどこかへ行きました」
セロウの報告に隊長はひとつ舌打ちをする。
「あの野次馬が、ねえ。もしかすると、奴らの拠点まで行くかもしれんな。レナも一回話がしたいとは言っていた」
それはそうと、お前。隊長はセロウを指差して言った。もう一方の手は口元を押さえている。
「なんで、そんな面白え格好してんだ?」
見ると隊長だけでなく、ロイスの高射砲隊の人もくすくす笑っているではないか。
「か、かっこいいでしょ」
「シスル、お前が選んだのか。さすがにこれはねえ。うちのヘンリーの方がまだましなもん選ぶぞ」
セロウはというと意に介さずと言った調子ですまし顔をしている。そんな、そんなはずはなかった。黒い箱にもファッション雑誌がいくつかある。確かに少し古かったが、そう変わるものではないはずだ。
「で、でもこれはこの色とトップスの組み合わせが」
説明していること自体がもう恥ずかしくて、顔が真っ赤になっていた。セロウはそんな私の肩をぽんと叩く。
「僕はいいと思うよ。今度またこれで出かけようか」
「絶対いや」
そういうとセロウはぽかんと口を開ける。
「なんで、せっかく選んでくれたのに」
「いやったらいや!」
早足で宿舎に戻った私はベッドにこもっていた。スクランブルの呼び出しも、何度か断っただろう。セロウが山盛りのお菓子を持って現れるまで、ずっと鍵を閉めてふてくされていた。
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