私の赤ちゃん

ツヨシ

本編

「おろしたら?」


簡単に言う。


ゴミだしとけ、みたいな。


でも逆らうことができない。


この男を失いたくはない。


こんなひどい男だというのに、好きなのだ。


迷ったことは迷ったが、結局、おろした。




まだ完全に人になっていないとはいえ、あと数ヶ月で、人、になるはずの存在。


その命を奪っても、殺人罪に問われない不思議。


その代わりに、身軽にはなった。


男をつなぎとめておくことができる。




しばらくは後悔の日々。


尊い命をこの世から消し去ってしまったという、悔いが残る。


これは、母としての大役を放棄した人道上の罪悪感なのか、それとも単に、わが子を愛する母性愛なのか。


考えた。


でもわからない。


ただ、悔しいだけだ。




身を削るような想いでわが子をおろしたというのに、父であるあの男が、最近あからさまに冷たくなった。


私をうとましく思っているようだ。


私から離れようとしている。


間違いない。





 男の態度が、後悔をさらに後押しする。


男を取るか子供を取るか、あの時、さんざん迷ったのは確かだ。


結果、子供をあきらめて、男を取った。


子供はその身代わりだ。


だというのに今では、男は平然と、別れ、を口にする。


気持ちが離れていくのが、手にとるようにわかる。


新しい女でも、できたのか?




調べてはっきりした。


新しい女ができている。


電話にも出ず、部屋に押しかけても、居留守を使って出てこない。


ストーカーそのものとなって追いかけまわしたが、男は露骨に避けて、あくまで涼しい顔。


こちらは後悔が先にたち、私の全身を焦がしているというのに、男はなにも悩むことなく、自由を謳歌しているのだ。




ごめんね、ごめんね、私のかわいい赤ちゃん。


もし、ちゃんと産まれていっしょに暮らせるのなら、私はもうなにもいらないわ。




男のほうから言ってきた。


お互い包み隠さずの話し合いだそうだ。


だが男は自分の都合の悪いことは、口が裂けても言わない。


答えたくないことには返事をせず、話題を変えて話をそらすだけ。


当然、うそも平気だ。


それこそ意味のない無駄な時間。


お互い包み隠さずの話し合いは、決裂におわった。




私の赤ちゃんを取り戻したい。


こんな男、もうどうでもいい。




夜の街で、飲めないお酒を飲み歩く。


ここのところ、ほとんど毎日だ。


胃が朝からむかつく。


もちろん寝るまで。


節々が痛む。


身体が徐々に確実に、壊れていくようだ。


それでも止まらない。


今日も飲み歩く。


私の体なんか、どうなろうと知ったことではない。




飲み屋街の裏路地に入ると、暗く寂しい場所に、人がいた。


椅子に座り、その前には机がある。


机の上に灯篭のようなものがぼんやりと光り、そこには「手相、占い」と書かれてある。


それがどうした。


私には関係ない。


そのまま通りすぎようとした。


「お悩みが、おありですね」


しわがれた声が聞こえた。


誰にでもそういうのだろうと思いつつも、歩みが止まる。


見れば女で、老婆だ。


「私は百歳なんですよ」と言ったら、「お若く見えますね」と本気で言い返せそうなその容貌。


そんなお年寄りが、酔っぱらい相手に商売しているなんて、あわれなものだ。


「お子さんのことでしょう」


かまをかけている。


私ぐらいの年になれば、たいてい子どもがいる。


子供がいる母親は、たいてい子供のことで悩んでいる。


当たる確立は高いはずだ。


たとえ外れたとしても、次の獲物を狙えばいいのだ。


再び歩き出す。


「あんたがおろした、あのお子さんのことですよ」


足が止まった。


――おろしたお子さんのこと?


ありえない。


かまをかけるには、確立が低すぎる。


この世の中で、子供をおろした女がどれくらいいるのかは、正確には知らない。


正確には知らないが、おろしたことのない女のほうが、圧倒的に多いのは確かだ。


思わず老婆を見る。


「あんた、おろしたお子さん、取り戻したいんでしょう。取り戻せますよ。いろいろとめんどうなこと、しないといけませんけどね」


思わず老婆のほうへ歩み寄った。




男に連絡をいれた。


これが最後だから、最後だからもう一度だけ話し合いましょう、と最後を強調すると、しぶしぶ合うことを承諾した。


場所は山あいにある別荘。


父が私に残してくれた唯一のものだ。


誰にも邪魔されずに、二人っきりでじっくり話が出来る、と男には告げた。




先に別荘へ行った。準備がある。


準備が終わった頃、外からタイヤが砂利をふむ音が聞こえてきた。


男がやってきたのだ。




中へ入るなり、言った。


「話って、なんだい?」


とっととすませたいらしい。


そうはいかない。


「まあ、一杯飲んでから。それからゆっくり、話しましょう」


ソファーに半ば強引に座らせて、台所へ向かう。


用意した特性のワイン。


それを持って男のところへ戻る。


二つのグラスに注ぎ、形だけの乾杯。


それはもう、白々しいものだ。


男は一気に飲みおえた。


「でっ、話って、なんだい?」


そこまで急いでいるのか。


私はまだ、口もつけていないというのに。


何も言わず、もう一杯注ぐ。


男は憮然とした顔になったが、黙って今度はゆっくりと飲んでいる。


 私も一口つける。私には効果はない。


「話というのはねえ」


「なんだ?」


「あの赤ちゃんのこと」


「赤ちゃん? ああ、おろした、あれか?」


――あれ、だって。自分の子供なのに。


「そうよ」


「で、赤ちゃんが、どうかしたか?」


「責任とって欲しいの」


男の眉間にしわが寄る。


「……金か?」


「お金じゃないわ。父親としての責任をとって欲しいの」


「父親として? いったいどういう意味だ?」


語尾がだんだんと荒くなる。


予想どおりだ。そういう男なのだ。


さらに、追い打ちをかけてみる。


「父親として、その言葉はおかしいわ。どういう意味だ、と訊くんじゃなくて、どうすればいいんだ、と訊くべきだわ」


「……それじゃあ、どうすればいいんだ? ……訊いたぞ」


「まずは、そのワイン飲んでね」


男は飲みかけのワインに目をやった。


怪訝そうな色を、その顔に浮かべている。


毒でも入っているんじゃないか、と思っているのかもしれない。


「毒なんか入ってないわよ。見てのとおり、私も飲んでるし。さあ、飲んで。いつも、俺は酒に強い、と自慢してたじゃないの。あれはうそなの? まさか、その程度のワインが、飲めないの?」


「ばかにするな。これくらい平気だ」


一気にあけた。


思ったとおりだ。


プライドだけは、人一倍強い。


中身はたいしたことないくせに。


どうしてこんな男に、心底ほれてしまったのだろうか。


今となっては、自分でも理解できない。


からになったグラスに、もう一杯注ぐ。


「さ、飲んで」


明らかに警戒しているが、飲まないとまた馬鹿にしたように言われる、と思ったのだろう。


それにしても、なによりもプライドを優先させる男だ。


紙切れ程度の薄く軽いプライドを。水のように飲んだ。


これで三杯飲んだ。もう充分だろう。


「飲んだぜ」


どうだと言わんばかり。


お酒が強いと言うのは、うそではない。


三杯のワインぐらいでは酔わない。


それは知っていた。


「じゃあ、横になって」


意味を取り違えたのだろう。一瞬、淫靡な笑みを浮かべる。


最後にもう一回、と。


この男でなくても男なら、そう思うのが当然かもしれない。


「ちょっと、待っててね」


そのまま隣の部屋へと向かう。


寝室だ。


入り口で振り返ると、男があっけにとられた顔で見ていた。


寝室に入り、中から鍵をかける。


この別荘は、すべての部屋に鍵がついている。


今男のいるリビングも、男が入った後、気付かれないように鍵をかけてある。


普通にドアを開けて、部屋から出ることはできない。


――時間をかせがないと。


老婆は、少し時間がかかる、と言っていた。


効果が現れるまでに。


寝室でベッドに座って待つ。


しばらくすると、入り口の戸がどんどんと叩かれた。


「おい、どういうつもりだ? そこでいったい、なにをやっている」


男だ。


予想通りの行動。


「ちょっと待って、って言ったでしょ」


「それは聞いた。で、いつまで待つんだ?」


「そのうちわかるわよ」


「俺もひまじゃないんだぜ」


女と約束しているんだ。


間違いない。


私との最後の夜だというのに。


でもここで折れるわけにはいかない。


これが最後なのだから。


「今日が最後って言ったでしょ。最後くらい、言うことを聞いてよ。でないと永久に最後じゃなくなるわよ」


「……」


静かになった。


足音から判断して、ソファーに戻ったようだ。


あの女にどう言おうかと、遅れた言い訳でも考えているのだろう。


再び待つ。


いつまででも引き止めておくことはできない。


本気で暴れられたら、止めるのは無理だ。


はやく効果が現れて欲しい。




「ぐぶぶわっ!」


待っている間、つい思考が違う方向に向かっていた。


男との思い出。


楽しかったあんなこと、嬉しかったあんなこと。


いいことばかり思い出していた。


そこに男の声が聞こえてきた。


苦しそうな呻き声。


――効果が出たんだわ。


急いで鍵を開け、リビングに戻る。


男は床の上に倒れていた。


全身をえびのようにのけぞらせ、手足が激しくけいれんしている。


口から、あわやら、唾液やら、血液やらをたれ流していた。


そして、腹がいびつに膨らんでいる。


――あの粉が、効いたのね。


ワインに入れたのは、老婆からもらった粉。


血のように赤い。


「味もにおいもしないから、混ぜてもわかりゃしないよ。三杯くらい飲ませといたほうが、確実だね」


粉の正体は、教えてくれなかった。


「知らないほうが、あんたのためさ」


男はあいかわらず、えびぞりでけいれんしている。


苦しいし、痛いのだろう。


ただ、あまりにも苦しく、あまりにも痛いので、のたうちまわることすら、できないでいるようだ。


激しい苦しみも痛みも当然だ。


老婆の話が本当なら、男の腹の中には、私の赤ちゃんがいるのだから。


男は子宮をもたない。


赤ちゃんは、男の腸をつかみ、肝臓を蹴りあげ、心臓を突いていることだろう。


男の腹の皮膚が、その下で何匹もの大きな芋虫がうごめいているかのように、波うっている。


老婆が言っていた。


「赤ちゃんを取り戻すには、腹の中にもう一度入れるしかないんだよ。しかしあんたは一度おろしてしまったから、その資格がもうない。残念だけどね。あるとすれば、父親のほうさ」


普通なら、とても信じられない話だ。


しかし老婆の語り口には、そんな不可思議なことをいとも簡単に信じさせる、一種独特の重みがあった。


この地球上で、この老婆しか持ち得ないのではないかと思わせるほどの、胸にずしんと来る重み。


男のけいれんが止まった。


弓なりの身体もゆっくりと解け、今は力なく床に転がっている。


死んだのだ。


死んだら腹の中から、私の赤ちゃんが出てくると、老婆が言っていた。


もう一度、この世に生を受けるのだ。


見れば男の腹が、中からぐいと持ち上がる。


特にへその上のあたりが。


そして何度も上がったり下がったりしていたが、ぐっと大きく持ち上がったかと思うと、そこからなにかが出てきた。


小さな手。


赤ん坊の手だ。


次に頭が出てきた。


男の腹とシャツを左右に引き裂きながら、肩、腰、足と次々に姿をあらわにする。


血まみれの小さな赤子。


想像していたのとは、まるで違う。


その赤ちゃんは、よく見る普通の赤ちゃんではなかった。


皮膚はもちろんのこと、骨も筋肉も充分には成長していないと、ひと目でわかる。


よく見えない内臓すら、未完成に思える。


顔はまるで爬虫類のようだ。


おろした時のままの姿。


それが男の腹の中から、はいずり出てきたのだ。


赤ちゃんが出てきたら、両手でおもいっきり抱きしめてあげようと、考えていた。


が、それが出来ない。


あまりにもおぞましいその姿。


赤子は充分に育っていない体をものともせずに、二本足で立って、母のもとへと歩いてくる。


見た目からは想像が出来ないほどの、力強い歩き方。


そのまま母の前に立った。


思わず座り込んだ。


どんなにみにくくとも、この子は私の赤ちゃんなのだ。


母性が理性よりも強かった。


「私の赤ちゃん」


抱きしめた。


するとその途端、首の二ヶ所に、強い圧迫感を感じた。


――なに?


なにかわかった。


赤ちゃんが小さな手で、私の首を絞めているのだ。


赤ん坊とは思えない、とてつもない力。


苦しい。


どんどん意識が薄れてゆく。


なくなりつつある意識の中に、老婆の言葉が浮かんできた。


「大事なことを一つ、言っとくよ。赤ちゃんが生まれたら、その子の好きなようにさせてあげることだ。それがあんたの最後のつとめだからね」


自分を抹殺しようとした母親を、再び生を受けたら自らの手で殺すこと。


それがこの子の望み。


そしてそれを叶えてあげることが、私の母親としての最後のつとめだったのだ。




          終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の赤ちゃん ツヨシ @kunkunkonkon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ