黒い石
ツヨシ
本編
石を拾った。
黒い石。
怪しいほどに美しい石だ。
散歩を毎日の日課としている。
と言えば聞こえはいいが、その距離はあまり長いとは言えない。
健康のために体を動かさなければいけないと思いつつも、体を動かすこと自体、好きではないのだ。
この矛盾した思考が、毎日のもうしわけ程度の散歩という習慣へと形を変えて存在している。
私が一番好きなことと言えば、ソファーに寝転がって本を読むことだ。
それ以外では、レンタル屋で借りてきた映画を見たり、音楽を聴いたりと、座ったり寝転がったりしながら楽しめるものが好きなのだ。
文科系、芸術志向とも言えなくもないが、その実態はただの無精者。
だから、さあ散歩だ、といさんで家を出ても、帰ってくるまでに二十分とかからない。
消費カロリーからいえば、本当に微々たるものだ。
家を出てから東へとのびる道を歩く。
ゆるやかで真っ直ぐな上り坂だ。
しばらく歩くと、広大な敷地に建つ洋館が左手に見えてくる。
道はその洋館の東の端で行き止まりである。
つまり道の洋館の南にあたる部分は、自然と洋館の専門道路となっている。
私は毎日その洋館をしばらく眺める。
何度見ても飽きないからだ。
洋館を眺める時間を含めて二十分かからないのだから、散歩の距離がどれほどのものなのかが知れよう。
一言で言えば、すぐ近所だ。
南にある私の散歩道以外に、洋館の西側にも道がある。
その西側は普通の住宅地が密集している。
洋館の西側には、三メートル近くある黒く塗った木の塀が、威圧感たっぷりに存在している。
民家の窓から洋館が見えないようにしたものであろう。
代わりといってはなんだが、南、東、北は鉄柵となっている。
上と下以外は、鉄の棒が何本も縦に平行に並んでいる。
高さは木の塀とほぼ同じ。
ぱっと見ると、牢屋の鉄格子みたいだ。
おかげで南と東と北からは洋館がよく見えるが、その三方向には民家はない。
洋館は何千坪もありそうな敷地の北西の奥にある。
――ベルサイユ宮殿みたいだな。
最初見たとき私は、そう思ったものだ。
ただ私はベルサイユ宮殿に詳しいわけではない。
ずいぶん昔に、ちらとテレビで見たことがあるだけだ。
あくまで印象の問題である。
それにいくらなんでも、一個人の家がベルサイユ宮殿ほど大きいわけがない。
とは言っても、一般の住宅と比べてみれば、その延べ床面積は、軽く数十倍はありそうではあるが。
古い洋館で、いつ建てられたのかは近所の人で知っている人はいないようだ。
もともと洋館が先にあり、その後洋館の西側が住宅地になったからだ。
外壁は白に近く、それでいてやや赤みを帯びた茶色のレンガで造られていて、東西に長方形の建物だ。
完全にヨーロッパ調の外観で、おまけに三階建てである。
そのうえ左右に小さな塔まである。
一見するとそのシルエットは、悪魔の角のようにも見える。
窓を含めてなにからなにまでゴシック様式の印象がある。
ただ私は、ゴシック様式にかけては、おもいっきりど素人だが。
だいたいベルサイユ宮殿がゴシック様式であるかどうかもわからないのだから。
あくまで印象だけの問題だ。
広い庭は芝生がていねいに刈りそろえられていて、それ以外はなにもない。
木はおろか、花の一本さえも植えられていない。
いたってシンプルだ。
南側の鉄柵の中央付近に大きな観音開きの扉があり、その横に呼び鈴と郵便受けがある。
洋館は、特に西からの夕日を浴びた姿がとても美しい。
夕日の赤が、外壁のうすい赤と重なって、その色合いたるや、大げさに言えばこの世のものとは思えないほどの優美さを誇っている。
私が散歩の時間を夕方に選ぶ最大の理由がそこにある。
中学時代は美術部で、あちらこちらに絵を描きに走ったものだが、そのころにこの洋館と出会っていたならば、夕日の洋館を題材に何度も絵を描いたことだろう。
洋館の主は、火月(ひづき)という名だ。
その日も散歩に出た。
仕事が終わって家に帰ると、しばらく家で待機する。
そのうちに西の空が赤く染まってくる。
ベストの時間帯だ。
よし、と家をでる。
九月ともなれば、そんなに待たなくても、空が赤く染まる。
十二月ぐらいになれば、家に帰り着くころには、もう夕日の時間帯は終わって、空はほぼ黒に被われている。
去年のその時期は、ずいぶんと寂しい思いをしたものだ。
それまでにじっくりと堪能しておかなければ、と思う。
いつものように洋館の前にさしかかった。
正門より手前の位置、やや西側で洋館を斜めに見るのが一番いいアングルだ。
何度見てもほれぼれする。
飽きもせず洋館に見入っていた時、先の地面で何かが光ったのに気がついた。
光りといっても、ライトのように強烈なものではない。
ごくわずかなものだ。
まわりの色が赤から黒に変わりつつある時間帯でなければ、気がつかなかったかもしれない。
とにかく近づき、その光るものを見る。
石だ。
真っ黒い石。
そのへんにある自然石ではない。
その石は表面に顔が写るほど磨かれていて、完全な球体をしていた。
ガラスのようにつるつるの表面に、夕日が反射していたのだ。
大きさはピンポン玉よりもひとまわり小さいくらい。
一見、鉄にも見えるが、持った感じは、重さといい手に伝わる感触と言い、やはり石だ。
――なんだろう? これ。
洋館の住人が捨てたのだろうか?
この道を通る人間は洋館の住人――それも最近はメイドだけだそうだ――か自分くらいなもの。
それ以外では、新聞配達とか郵便屋さんとか。
――きれいだな。
真っ黒くて夕日の赤を反射する完全球体は、私にはひたすら美しく見えた。
子供の頃からきれいなものには、なぜか目がなかった。
とにかく落ちていたのは公道である。
洋館の敷地内ではない。
おまけに貴金属とかそういったたぐいのものでもない。
それを自分のものにすることにたいして、罪悪感とかはまるでなかった。
なにせただの石なのだから。
家に帰り、机の上にそっと置く。
蛍光灯の白い光りを反射するところも、なかなかにいいぐあいだ。
ただ完璧とも言える球体なのに、机の上に置いたとき、少しも転がることなくぴたりと止まったのが、不思議だ。
再び手にとって確認してみる。
持ちかたによって、手にかかる重さの感じが、微妙に違うように思える。
もう一度机の上に置くと、くるりと半回転したあと、すこしゆれて止まった。
やはりそうだ。
重心が中心ではなく、一方にかたよっているのだ。
最初に置いたときは、たまたま重い部分を下にして置いたために、そのまま止まったのだろう。
でもこんなにも小さな石の重心が、そこまでかたよるなんてことが、あるのだろうか?
なにか比重の違うものが、中に入っているのかもしれない。
割ってみればわかるだろうが、考えるまでもなく、割るなんてもったいない。
――そのままにしておくか。
そのままにした。
その夜、夢を見た。
人間は毎日のように夢を見ているそうだが、起きた時は忘れていることが多いという話を聞いたことがある。
私は特に忘れるたちらしくて、夢なんてほとんど見た覚えがない。
たとえ珍しく覚えていたとしても、ほんの一場面だけだ。
あれがテレビか映画だとしたら、たかだか数秒ほどのものしか記憶に残っていない。
ところがこの夜に見た夢は、やたらとリアルで印象深く、そしていつもとは比べものにならないくらいに長い夢だった。
私は暗く湿っぽい場所にいる。
視界は起きている時に見る視界と、まったく同じものだった。
つまり下を見れば自分の腹とか足をほぼ真上から見ている状態になり、手を出せば自分の手が左右から出てくる。
おまけに自分の鼻の先までがぼんやりと見えているが、首とか顔とか背中とかは見えない。
まさに起きて見ているときそのものの映像だ。
その暗い場所を、私はゆっくりと歩き回っている。
広い場所ではなく、ずいぶんと狭い部屋だ。
視界は私のものだが、体は私のものではないようだ。
私の意志とは関係なく、勝手に動いている。
その部屋は、三方を壁で囲まれていた。
灰色の石造りの壁だ。
表面がうっすらと水分を含んで、やや黒みがかっている。
一方は鉄格子がはめられていた。
どう見てもここは、牢獄のようだ。
ヨーロッパあたりの古いお城の地下にでもあるような。
実際ここは、見た感じから推測するに、地下にあると思われる。
いわゆる地下牢だ。
明かりは鉄格子の外の上方からもれてきているが、光源は見えない。
淡く弱い光りだ。
とにかく暗い。
牢獄の外のほうが、牢獄の天井よりもはるかに高いことがわかった。
牢獄の天井は低くて、手を伸ばせば届きそうだが、牢獄の外の天井は、少なくとも私が立っている位置からは見ることができない。
不意にどこかでなにかの音がした。
重い鉄の扉が開き、再び閉まったような音だ。
――なんだ?
しばらくすると前方の闇の中に、なにか白いものが見えた。
こっちにむかって来る。
近づいて来てようやくわかった。
それは白い顔。
いや仮面だ。卵のようなかたちをした仮面。
目のところに細長い長方形の穴が二つ開き、口のところは笑っているかのように口の両端がつりあがった穴が開いている。
細い三日月か受け皿のような穴だ。
その白い顔だけが宙に浮いていて、まるで散歩しているかのように、ゆっくりと近づいて来るのだ。
いや、それは顔だけではなかった。
顔の主が、フードつきの黒っぽい大きなマントで全身をすっぽりと隠しているために、まわりの闇に溶け込んで、最初は白い顔しか見えなかったのだ。
白い仮面は鉄格子の前で止まった。
生身の部分は、指の先でさえ見えていない。
視線の位置から推測して、見ている人物よりも小柄であることはわかるが、性別も年齢も不明だ。
すると私の両手が鉄格子をつかみ、激しく揺さぶりはじめた。
しかし仮面は微動だにしない。
仮面の下の目を見ることはできないが。
じっとこちらを見ているようだ。
私はずいぶん長い間揺さぶり続けていたが、やはり仮面は動かなかった。
やがて疲れたのか私の手が――実際の私の手ではないので疲れたのかどうかがはっきりとはわからないが――ようやく止まった。
それを見届けると仮面は何も言わずに、背を向けてすうっと牢獄の前から立ち去った。
そいつが見えなくなったあと、再び鉄の扉が開け閉めされるような音が暗闇に響き、静かになった。
視界は動かず、まわりも静寂に包まれたままだ。
そこで目が覚めた。
ただ目が覚める直前に、なにか獣の唸り声にも似た声を聞いたような気がした。
――変な夢を見たなあ。
内容も変わっているが、ある程度の長さの夢を見たこと自体が、本当に久しぶりだ。
記憶にある限りでは、小学校低学年以来か。
もう三十年以上も前のことになる。
今ではあのときに長い夢を見たことだけは覚えてはいるが、どんな夢だったのかはまるで覚えていないほどの昔の話だ。
おまけにあのリアル感。
時の流れも含めて、実際にそこにいて体験しているかのような実在感があった。
次の日も夢を見た。
そこは地下牢ではなく、どこかの部屋のようだ。
部屋の様相は、アパートや一般的な民家とはまるで違う。
広さはともかく内装や家具類は、その古さを差し引けば映画で見た中世ヨーロッパの宮殿のものそのものだ。
広さはともかくと言ったが、広さも普通のリビングあたりと比べれば、かなり広い。
ただ居間とか食堂とかいった感じではない。
なんとなくだが、個人の部屋のように思える。
私がヨーロッパの文化に詳しければ、もっとよくわかるのだが。
気がついたことは、私の視線がやけに低いことだ。
前回と同じく、誰かの視線そのものの映像を見ているようだが。
考えていると、視線の持ち主が自分の右手を前に出した。
その手は指が短く全体的にふっくらとしており、肌もつやつやだ。
どう見ても幼い子供の手のように思える。
足なども確認したいところだが、下を向いてはくれない。
私の意志どおりには動いてくれないのだ。
急に目の前に人が現れた。
メイドと思われる女性だ。
その服装でわかる。
それもメイド喫茶などで見られるようなものではなく、基本的には同じではあるが、もっと落ち着いた感じのものだ。
レースのひらひらもないわけではないが、控え目である。
そしてメイド服を着た女性自身も、メイド喫茶の若くてきゃぴきゃぴした女性とは、まさに対極にある女だった。
こちらがどうやら子供であるがために、その身長はわかりにくくなってはいるが、それでもかなり長身の女性であると思われる。
肩幅もやけに広く、胸板も女性としては不自然と思われるほどに厚い。
ヘビー級の女子プロレスラーかゴリラを冗談抜きで連想させるほどの、そうとうにいかつい体である。
その顔も、一応日本人には見えるが、日本人離れしたほりの深い顔だ。
おまけに男と見間違うほどのこわもての顔をしている。
そしてやけに鋭い眼光。
あまりにも特徴がありすぎる。
人ごみの中を歩いたら、間違いなくまわりの人間の注目を一身にあびるような女だ。
一言で言うと、怖い。
何か言っているが、声は聞こえてこない。
というか音という音が、すべてシャットアウトされているのだ。
音声を消してテレビを見ているかのよう。
昨日の夢は、ちゃんと音が聞こえていたというのに。
メイドは相変わらずなにかをしゃべっている。
どう見ても、怒っているようにしか見えない。
最後に私の目の前に、まるで長年空手をやっている男のもののような拳を突き上げたあと、なにか捨て台詞を残して、部屋を出て行った。
私はその後も部屋の中を歩きまわっている。
部屋の中に限定されてはいるが、見える視界が次々と変化している。
相変わらず低い位置の視界で。
なんという名前なのかはわからないが、映画で見たことのある、ベッドの四隅にポールがありベッドの上に布で屋根を作っているもの。
そしてまわりはレースのカーテンとなっているベッドが部屋の中央にある。
そして小さなレンガ作りの暖炉。
よくはわからないが、高級そうな大きな家具が三つほど。
小さなアンティークの机といったものが、部屋の中にはあった。
私はずっと歩きまわっている。
けっこう長い時間その状態だったが、ふと目が覚めた。
そこは夢の中とはまるで違う、古い中古住宅の室内が見えた。
見飽きた私の家だ。もう朝のようだ。
それから数日間は、夢を見なかった。
ただ散歩に行き、いつものように洋館の前を通った時、なぜかはわからないが、右目がちくちくした。
なにか変だ。
劇的な変化ではないが、最近なにかが確実に変わってしまったような気がする。
それがいったいなんであるかは、よくはわからないが。
また夢を見た。数日ぶりだ。
目線の位置から見て、前回と同じく子供の目線のようだ。
部屋も前に見た部屋と同じ部屋である。
子供はベッドの上に座っている。
だらしなく前に投げ出された自分の裸足の足が見える。
足は皮膚がつるつるでふくらましたように丸っこい。
指もぱんぱんだ。
やはりどう見ても幼い子供のものだ。
右手にミニカー、左手におもちゃの飛行機を持っている。
そのおもちゃを見て気がついた。
そういえばこの部屋は、部屋全体の雰囲気に比べれば、壁の色が妙に明るい。
どうやらここは子供部屋だと思われる。
この子供の部屋なのだろうか。
子供はずっと右手と左手を動かして、ミニカーと飛行機を左右に移動させている。
右にいったり、左にいったり。
不意に誰かが目の前に現れた。
やはり音が聞こえないので子供はともかく、すぐ目の前に来るまで私は気がつかなかった。
現れたのは女性で、三十代くらいに見えた。
かなり美しい女の人だ。
上品な顔立ちで、子供を見る表情に、優しさが満ちあふれている。
高級そうなうすい青色のワンピースを着ていた。
なにか言っているが、やはりなにも聞こえない。
女性が私のほうに両手を差し出した。私の体は引き寄せられ、私の視界は女性の肩越しに向こうを見るかたちとなった。
視界の下のほうに、女性の肩がぼんやりと見える。
どうやら私は、いや子供は抱きしめられているらしい。
しばらくして女性は、子供をはなしてベッドの上においた。
まだなにか言っているが、唇の動きだけでは、私にはなにを言っているのかはわからない。
ただ、あふれるほどの愛情たっぷりの笑顔だ。
間違いない。
愛しいわが子を見つめる母親の顔である。
夢の中では私が子供で、この人が母親らしい。
女性は私になにか一言声をかけると、柔らかく頭をなでたあと、部屋を出て行った。
私は女性の、いや母親の出て行った扉を見つめている。
ずいぶんと長い間見つめ続けていたが、やがて私の目が覚めた。
どこにでも噂好きのおばさんと呼ばれる人種が存在するものだ。
もちろん私の近所にも口から先に生まれたようなご婦人が、うろうろと徘徊している。
暇にまかせてあっちでぺちゃくちゃ、こっちでひそひそ。
幸か不幸か私の住んでいる家の隣の家にも、そんなご婦人がいる。
ご近所の人たちの間では、それに関しては、最強、と呼ばれているご婦人である。
私が一年前にここに越してきたときも、聞きもしないのに、あれやこれやとご近所様の情報を、延々と教えてくださったものだ。
ご婦人はその中でも特に、あの洋館の住人の噂がお気に入りのようで、いろいろと話してくれた。
二年前、つまり私が越してくる一年前までは、あそこには五人の人間が住んでいたという。
父親と母親、姉と弟、そしてメイドである。
その一年前の秋に、父親が突然行方不明になったのだそうだ。
警察も含めて、捜したことは捜したのだそうだが、結局見つからなかった。
いったいどこに行ったのか、なぜ姿を消したのかも、わからないままだ。
そしてそのショックからだろうか、母親が倒れて寝たきりになったという。
弟のほうもその病名は定かではないが、重病にかかったらしくて家から出てこない。
元気なはずの姉も、まったく姿を見せなくなった。
それ以来、火月家の人たちをみたものは、誰一人いなくなったそうだ。
近所のこまごまとした用事とか買い物とか、誰かが出かけていかなければならない場合は、すべてメイドにまかせてあるのだという。
とはいえ引っ越してきて以来この一年間、毎日一日も欠かさずに火月家の洋館の前まで散歩している私は、そのメイドすら見たことはないが。
その昔は火月大財閥とまでいわれた火月家ではあるが、現在はそこまでの栄華は誇ってはいないようだ。
とは言え、祖父の残した会社の一部が今でも運営されており、病気の弟に代わって姉のほうが、それらの会社の会長として君臨しているようだ。
だが会長とは本当に名前だけのもので、実際にはなにもしてはいないのだとか。
ただそこから会長手当てというものが入ってくるので、生活に困ることはない。
仕事をしないで、一般サラリーマンの何十倍もの収入があるのだ。
「ほんとに、うらやましいかぎりだわ。私の夫は、安い給料でひたすらこき使われているというのに」
このご婦人が、本来なら情報を得にくい火月家の内情に詳しいのは、ある種の執着と言うか執念の賜物であるが、それはこんな感情が元になっているのかもしれない。
生きていれば――婦人はなぜか生きていれば、という表現を使ったが――姉は今年で三十歳、弟は二十五歳、母親は六十歳なのだそうだ。
メイドは、その年齢はよくはわからないが、もう三十年以上もあの家に住んで火月家に仕えているという。
つまり、姉の生まれる前から。
また夢を見た。
どうやらベッドの横に座っているようだ。
部屋は何度も見た子供部屋ではない。
落ち着いた感じの壁の色が、それを証明している。
目の前に女がいる。
ベッドをはさんで同じように椅子に座っている。
見た目は三十歳くらいだろうか。
黒い服を着ていた。
まるで喪服のようだ。
長い黒髪に、血が通っていないかのように白い肌。
その対比が、やけに淫靡なものに感じられる。
目が大きく、中にある黒目の部分がまた大きい。
二つの穴があいているかのよう。
感情をつかみにくい顔立ちである。
なにか言っているのだが、今日もなにも聞こえない。
前と同じく、音声を消したテレビを見ているみたいだ。
いや、突然聞こえてきた。
「それじゃあお父様の形見を、お母様の枕の下に入れておきますから」
視線を移したときには、女の手はもうほとんど枕の下に入っていた。
一瞬黒っぽい何かが見えたが、それがなにかはわからない。
そこで初めて気がついた。
大きな枕に埋もれるようにして、小さな顔があった。
老婆と言っていい女性だ。肉がないかと思われるほどに頬がこけていて、口をだらしなくあけ、そこからよだれがたれている。
そしてないよりも、老婆の目だ。
目は閉じていた。
そして左右のまぶたが端から端まで、糸で上下が縫いつけられていたのだ。
これでは目を開けたくても、あけることが出来ない。
「じゃあ先に行きますから」
文字にするとていねいな言い方だが、口調は私を完全に見下している。
威圧感も感じられた。
女は立ち上がってそのまま部屋を出た。
女が出て行ったあと、私は枕の下が見たいと思った。
すると視界の持ち主が、枕の下に手を突っ込んだ。
手を抜くと、そこには拳銃が握られていた。
この拳銃は知っている。南部十四年式拳銃だ。
第二次世界大戦当時に、日本軍で使われていた拳銃である。
私は実は子供の頃から拳銃が好きで、かなり詳しい。
――これがお父様の形見というやつか?
それにしては古すぎる。
火月家に代々伝えられてきたものなのだろうか。
考えていると視界の持ち主が、マガジンを抜いてそれを見た。
弾は入っていないようだ。
マガジンを中に入れ、拳銃を枕の下に戻した。
そこで目が覚めた。
夢が気になる。無性に。
今まで夢などほとんど見ることはなかったというのに、ここ最近は何度も長い夢を見ている。
その上実際に自分で体験しているかのようなリアルさ。
視界といい色といい、その他もろもろのことを含めて、あまりにも現実感がありすぎる。
さすがに臭いはしたことがないが、なにかが臭ってきているような錯覚を覚えるほどだ。
――いったいなんなんだ、これは?
その答えはすぐには出なかった。
また夢を見た。最初に見た地下牢にいる。
声が聞こえてきた。
いや声ではない。
誰かの意思が、直接私の脳に流れこんできているのだ。
ただ意識が乱れているのか、とぎれとぎれでいったいなにを言っているのかは、わからない。
感度のわるいラジオみたいだ。
これはさっきから地下牢をせわしなく歩き回っている、
こいつの思考なのか。
視界がそいつの見たままとなっているので顔が見えず、その表情をはかり知ることはできない。
そのうちに、意志がどんどん強くなっていった。
最初はつかみかねていたものが、どんどんはっきりしてゆく。
最後には耳もとで実際に大きな声で叫ばれているような状態となった。
〝出たい、出たい、ここから出してくれ〟
そう聞こえた。
〝こんなところに、いたくない。こんなところで、死にたくない。冗談じゃない。はやく出してくれ〟
そう聞こえた。
〝見たい、見たい。せめて外を見たい。一目だけでも、外を見たい。見せてくれーっ〟
まだ続いている。
〝出せーっ! はやくここから出してくれー!〟
うめき苦しみ、わめいている。
そこで目が覚めた。
私の見ている夢には、なにか特別な意味がある。
それは間違いないような気がする。
そしてすべてあの洋館に関係している。
そう思えてきた。
しかも不自然なほどの強い確信をともなって。
そうなれば、なぜそんなものを夢に見るのか。
それがわからない。
そこにはなにか原因があるような気がするのだが。
いったいなにが原因なのだろうか。
それもわからない。
噂話わが命のおばさんに、またいろいろと聞いてみる。
前に聞いたときとたいした変化はなく、同じ話を二度聞かされる羽目となったが、一つだけ新しい話を聞くことが出来た。
それは医者の話だ。
あの家には三十年以上も出入りしていたかかりつけの医者がいたという。
ところが父親が行方不明になってからしばらく後に、その医者の姿を見なくなったそうだ。
その後は別の医者が出入りするようになったが、それはどうやら寝たきりの母親だけを看ているらしい。
しぶる医者をおだてたおして聞き出したのだそうだ。
どうだといわんばかりの顔で話す噂おばさんの顔は、私にはなんだか醜く見えたものだ。
聞くご婦人もご婦人なら、患者の秘密をしゃべる医者も医者だ。
ただ病名のほうは、さすがに教えてはくれなかったそうだが。
そうなれば、重病だという弟は、いったい誰が看ているのだろうか?
医者はそんな人物は見なかったと言っているし。
いくらなんでも火月家の人や――聞くとしたら姉しかいないが、姉は姿を見せない――メイドに正面切って聞くわけにもいかないから、わからないとのこと。
この人なら平気で訊きそうな気もしないでもないが、最低限の礼儀までは失ってはいないようだ。
とにかく弟本人も姿を見せないし、謎のままなのだ。
また夢を見た。
場所はいつもの子供部屋だ。
目の前に一人の少女がいる。
大きな黒い瞳の少女だ。
肌がぬけるように白い。
少女は十歳くらいだろうか。
長い黒髪に大きなレースのリボンをつけており、どこかのパーティにでも出るような真っ赤なビロードのワンピースを着ている。
視線から判断して、もっと年齢が低いと見られる私にむかって、なにかをわめいているが、声はきこえない。
怖い。
その顔に、とても十歳くらいの少女とは思えないほどに年季の入った憎しみの表情を浮かべている。
少女は床のじゅうたんの上に座っていた。
私も座っているようだ。
少女が私を殴った。
しかも手に持っていた木彫りの象のおもちゃで。
象の足の部分をもち、硬くて頑丈に見えるそれを、私の頭に打ち下ろしたのだ。
そこに遠慮とか手加減といったものは、まるで存在しなかった。
また殴った。
夢だから私は痛みを感じないが、とにかく怖い。
体の芯から湧き出てくるような恐怖だ。
それはおそらく私ではなく、この殴られている子供が感じている恐怖が、私にまで伝わってきているのだろう。
思わず頭に手を当てている。
手を見ると、その手は血で真っ赤に染まっていた。
少女が立ち上がる。
今度は蹴った。
子供の腹を。
そして倒れた子供の顔面を、上から踏みつけた。
少女の足の裏が、スローモーションでどんどん大きく迫ってくる。
そこで目が覚めた。
翌日、夜中になぜか目が覚めた。
夢を見たわけでもないのに。
また右目がちくちくする。
結構強い痛みだ。
この痛みで目が覚めたのだろう。
これは眼科へ行ったほうがいいのだろうか?
とりあえず居間へ行き、ソファーに座ってたばこをふかし、一息つける。
ふと気がついた。
机の上、パソコンの横。
確かにあそこに置いていたはずの黒い石が、どこにもない。
――えっ?
思わず目をこすった。
もう一度見てみると、ちゃんとそこに黒い石が置いてあった。
――見間違いか? それにしても……。
右目のちくちくが消えていた。
数日後また夢を見た。
視線から考えると、私はまた子供のようだ。
大人と比べると低い視線がよく動く。
そこにメイドが入ってきた。
子供の視線で見るメイドは、ゴリラにしか見えない。
手に何かを持っている。
ムチだ。
皮製の黒いやつ。
でもなんでムチなんかを持っているんだろうか?
私に近づいてくる。
ムチを床の上に置くと、私につかみかかってきた。
視界をなにかがふさぎ、それが下から上へ、さっと上がってゆく。
それが終わり、気がつけばメイドが手に白い子供服を持っていた。
よくはわからないが、値の張りそうな服だ。
私はどうやら、服をメイドに脱がされたらしい。
視覚以外がすべて機能してない状態では、状況がつかみにくい。
メイドが私の後ろへまわった。
振り返ろうとしたところ、頭を両手でつかまれて無理やり前にむけられたようだ。
超ドアップのメイドの指先が、左右に見える。
しばらくはなにもない。
すると背中に鋭い痛みを感じた。
夢は痛みなど感じないはずだ。
信じられないことが起こったとき、ほっぺたをつねって「あっ、夢じゃない」などと言う人がいるようだが――いまだにそんなことをしている人を目の前で見たことはないが――あれは夢では痛みなど感じないという大前提からきている。
夢で痛みを感じた人など、誰一人いないはずだ。
だというのに今は、強烈な痛みがあるのだ。
また痛みを感じた。
身体の芯まで響いてくる痛さ。
壁しか見えない視界と背中の痛みだけで、ほかはなにも聞こえないし感じることができないため、いやでもよけいに背中の痛みに私の意識が集まってくる。
痛い。
また感じた。
メイドが黒革のムチで私の背中を打っているのだ。
床が私に迫ってきた。
私は床に倒れこんだらしい。
すぐ目の前に美しいじゅうたんが広がっている。
また感じた。
息が出来ないほどの痛み。
また感じた。
死への恐怖が増してくるほどの痛み。
――助けてくれ。
殺されると、本気で思った。
そこで目が覚めた。
夢と洋館のことが気になってしかたがない日々が続く。
こんな時でも当然のことながら、休日以外には会社に行って仕事をする。
かすみを食って生きているわけではない。
書類を持って部長のところへ行く。
無機質な廊下を歩いていると、前からなるべくなら会いたくはない上司――違う部署ではあるが――が、歩いてくるのが見えた。
軽く頭をさげ、通りすぎようとしたところ、肩をぐいとつかまれた。
痛いくらいに。
「よお、元気でやっているか」
――その汚い手を離せ!
「ええ、元気でやってますよ」
「がんばってるか」
「がんばってますよ」
急に右目がちくちくしてきた。
「そうか。まあ、とりあえずがんばれよ。まあがんばっても、おまえじゃ大したことはないけどな」
――あいかわらず、よけいなことしか言わないやつだ。ほんとに、心のそこからバカだと思う。
後輩をいちいち見下すことで、自分が上であることを確認しているのだ。
とことん器の小さいやつ。
「それじゃあな」
肩をつかんでいた手をはなして行こうとしたが、すぐに立ち止まった。
「……おい」
「どうしました?」
「なんだその目は」
「……目?」
目をそれこそ皿のようにして、私の右目をじっと見ている。
「……見間違いか。……いや、なんでもない」
逃げるように、その場を去って行った。
――なんだ、今のは?
右目のちくちくがなくなっていた。
また夢を見た。
私はどうやら土を掘っているらしい。
自分の手とシャベルが見える。
暗い穴の中にいる。
上から小さなライトで照らされているが、光りの量は多くはない。
今は夜だ。
土を穴の中から出すために体を起こしたところ、周りに木が生い茂っているのが見えた。
私は森の中にいるのだ。
ずっと掘っていたが、ようやくシャベルを穴の外に置いた。
掘り終えたようだ。
穴から上がって、穴を見た。
長方形の穴である。
上から見た印象としては、墓穴にしか見えなかった。
穴の外にはあのメイドが、仁王立ちでいた。
私は見えている自分の手や体の一部から判断して、子供ではなくもう成人しているようなのだが、メイドの身長は私よりずっと高かった。
メイドの年齢も、子供の時の私が見たものと比べると、ずいぶん年月を重ねているように見える。
何か言っている。
聞こえないままに私の体は私の意志と関係なく動く。
穴の横に細長い麻袋があった。
中になにかが入っている。
メイドが一方を持ち、私が反対側を持つ。
それを二人で持ち上げて、穴の中に落とした。
感覚というものがないので、さわった感触や重さなどは知ることが出来ず、そこから麻袋の中身を判断することは出来ない。
ただ、穴の中に落ちたとき、麻袋が穴の底で軽くバウンドして、くの字に曲がった。
そのようすや全体的なふくらみから見た感じでは、中に入っているのはどうやら人間のようだ。
それ以外はなにも思いつかない。
――死体?
メイドに促され、二人で穴を埋め始めた。
長い時間かけてようやく埋め終える。
メイドがなにか言っている。
明らかに上からものを言っているようだ。
声は聞こえないが、その表情からきつい命令口調であることがわかる。
二人して歩き始める。
その時、視界の隅に見えたのは、遠くにある鉄の塀だ。
あの洋館の三方を囲っているものとそっくりな鉄格子のような塀。
――ここはあの洋館のそばにある森の中なのか?
そこで目が覚めた。
噂命のご婦人から聞いた話で、最も印象深い話がある。
「で、ここだけの話なんだけど」
このご婦人のここだけの話というのは、ここだけの話ではない。
「火月の姉のほうだけど。弟はともかく姉のほうは、父親がメイドと不倫して生まれた子供ですって」
この人はそんな話を、いったいどこから仕入れてくるのか。
とにかく噂は噂である。
私にはどこまでが本当かはわからない。
私が知りたいのは、事実だ。
まぎれもない真実というものなのだ。
また夢を見た。何回か見た牢獄に捕らわれている夢だ。
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
そう言っている。
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
また言っている。
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
同じことを、延々と繰り返している。
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
〝助けてくれ。ここから出してくれ〟
やっと目が覚めた。
長い長い夢だった。
永遠に続くかと思われるような。
回覧板がまわってきた。
いつもならろくに中身を見ないで隣の家にまわすところだが、ふと思いついた。
回覧板をどの家にまわすか、その順番はとくには決まっていない。
おまけにこの町内の東地区は、西の端が私の家、東の端があの洋館なのだ。
私は回覧板を持って、家を出た。
緩い坂道を登る。
そして洋館に着いた。
正面には観音開きの大きな門がある。
門と言ってもこれも鉄格子のようなものだ。
三メートル近い高さがあるが、高さは関係がない。
門の前からでも洋館は丸見えだ。
門のところに呼び鈴がある。
押してみた。
しばらく待つと、正面玄関らしき大きな扉の横にある小さな扉が開いて、中から人が出てきた。
広い庭をゆっくりと横切り、こちらにむかってくる。
メイド服をきた女性。
近づいてきて顔がよく見えたとき、ある程度予想はしていたものの、それでも心底驚いた。
夢で見たメイドに瓜二つだったからだ。
一見西洋人かと思うほどのほりの深い顔。
男と見まちがうほどの、こわもての顔。
とてもかたぎとは思えない、人を射抜くような眼。
間違えようがない。
特徴がありすぎる。
着ている服も、まったく同じだ。
年齢的には、二人で死体? を埋めていた時のメイドと、ほぼ同じだ。
そしてその身長も高かった。百七十センチの私よりも、ずっと高い。
ゆうに百八十センチはありそうだ
。高いうえに前後左右にいかつい身体。
太っているのではない。
その全身が筋肉の鎧でおおわれているのだ。
日本人女性としては、これほどまでに迫力のある肉体を持つ女は、たとえ日本中をくまなく捜したとしてもそうはいないだろう。
「なんでしょう?」
声もいかつい。
迫力がある。
まるで脅されているかのようだ。
「回覧板、持ってきました」
メイドは鉄格子の間から手を差し出し、回覧板を受け取ると、なにも言わずに背を向け、洋館へと帰っていった。
――それにしても。
私はあのメイドと、今日初めて会ったのだ。
それが夢で見たメイドとそっくりとは。
そんなことがあるのだろうか。
しかしたった今、それがあったのだ。
これで確実だ。
私の見る夢は、洋館で実際にあったことなのだ。
それは、地下に捕らわれている人物が実在しているということに、他ならない。
また夢を見た。
私は広い部屋に座っている。
内装が華やかで、まわりに見える家具類もアンティークでいかにも高級そうなものばかり。
とにかく見るからにお金がかかっている。
正面にあの長い黒髪の顔の白い女が座っている。
そして斜め前には、前に見た夢ではベッドに寝ていて、まぶたを縫い付けられていたあの老女が座っていた。
ただ老女はベッドに寝ていた時に比べると、まぶたを縫い付けられていないのはもちろんのこと、ふくよかで血色もよく、ずいぶんと若く見える。
なにか話しているが、なにも聞こえない。
やがてあの巨漢メイドが入ってきた。
起きている時、正門の前で見たのと寸分たがわない姿で。持っていた銀製の盆の上に乗っているティーカップを、老女に薦めた。
老女がメイドになにか一声かけたあと、ティーカップを受け取り、それを飲み始めた。
メイドはそのまま部屋を出た。
会話は白い顔の女も交えて、おだやかに続いているようだが、やはりなにも聞こえない。
老女は楽しそうに笑いながら、カップを飲み続けていた。
すると突然、喉と胸を両手で激しく引っ掻きながら、老女が苦しみ出した。
床に倒れ、のたうちまわっている。
私は――というより私の見ている視界の持ち主が――あわてて老女に駆け寄った。
老女の顔が、アップになる。
私はふと顔をあげた。
そこには老女を見下ろす白い顔があった。
私と違って、少しも慌ててはいない。
能面のような顔で見ている。
少し笑った、ような気がした。
鼻で笑っているような、軽蔑を込めた笑いだ。
しかしそれは、ほんの短い間のことだった。
再び白い仮面へと戻ると、なにも言わずに部屋を出て行った。
入れ替わるようにメイドが部屋に入ってきた。
メイドの顔にもほとんど表情と言うものがない。
老女の様子を見ているが、なにか人間でないもの、と言うより命あるものでないものを見ているような眼だ。
凍りついた眼。
メイドも何事もなかったかのように、部屋を出て行った。
再び老女の顔のアップになる。
苦しんでいる。
今にも死にそうだ。
「お母さん!」
いきなり声が聞こえてきた。
絶叫に近い男の声だ。
「お母さん! お母さん!」
その声は泣いていた。
そこで目が覚めた。
なんとしてでもあそこを探らなければならない。
そんな想いが強く湧き上がってくる。
自分でも不自然に感じるほどに。
使命感にも似た強いもの。
一方で、誰かにそう思い込まされているような、そう誘導されているような、仄かな感覚もある。
しかし使命感のほうが、はるかに強いような気がするのも確かだ。
地下牢に入るあの男を助け出すこと。
それがなんにましても最優先だ。
あの男は確かに洋館の中にいる。
問題はなにをどうやって探るか、そしてどう行動するか。
具体的なことだが、それがわからない。
さんざん考えたが、やはり浮かんではこなかった。
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
助けを求めている。
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
呼んでいる。
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
私を呼んでいるのだ。
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
行かないと。
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
〝助けてくれ。お願いだ、助けてくれ〟
なにがなんでも、行かないと。
目が覚めた。
まだ朝ではない。
時計を見ると、午前二時だった。
どうにも気になって仕方がない。
だからといって、こんなことをして、ほんとうにいいのか。
そう思いつつも、私の身体は止まらない。
言いようのないほどの強い義務感を感じていたのだ。
夜の道を独り歩く。
そして洋館に着いた。
道の東端は行き止まりだが、そこから先を歩いて行けないわけではない。
洋館の東側と北側は、森となっているのだ。
洋館の南側にある道のさらに南には、小さな湖がある。
行き止まりの先にある森の中に入る。
木々の間を歩けば、雑草が生えてはいるが、歩くことはそう困難なことではない。
まず東側を北に向いて歩く。
洋館の南側と東側は広い庭で、洋館は北西にある。
西側には高い木の塀があるため、そこからは洋館は見えない。
外から洋館をよく見ようと思えば、北側から見るしかないのだ。
北側に着いた。
鉄の塀に沿って歩く。
そこが洋館の裏側にあたるところだ。
塀と洋館との間は、三メートル程度か。
防犯上の理由からだろう、敷地の四隅に小さな街灯がついている。
その頼りない光りが、ここまで届いていた。
塀の外から中をうかがう。
三メートル近い塀を乗り越えるのは、簡単ではない。
高いうえに地面から垂直に並んだ鉄の棒は、手も足もかけるところがないからだ。
しかも仮に塀を越えてしまうと、その時点で本物の犯罪者になってしまうだろう。
今でも多少ながら、犯罪者の気分を味わっているところだ。
とりあえず外から中の様子をうかがう。
しかし洋館の北側には窓が少ない。
東から順番に見て行ったが、少ないうえに小さな窓ばかり。
大きな窓は、東側と南側に集中しているのだ。
おまけにその少ない窓のほとんどが、目の高さよりも高い位置にあり、中をのぞくことが出来なかった。
中を覗けた窓は一つだけだ。
が、真っ暗で、結局中の様子はここからではわからなかった。
そのうちに西の端に着いた。
――あれは?
西側の壁の中ほどに、人影が見えた。
慌てて木の裏側に身を潜めて、顔だけ出して人影を見た。
壁が飛び出していて、街灯がよく当たらないところに男がいる。
若い男だ。
私には気がついていないようだ。
こんなところに人がいるとは、夢にも思わないのだろう。
男が立っているところに小さな窓がある。
男はその窓ガラスに、なにかを押し付けていた。
取っ手の着いた大きな吸盤のようなもの。
そしてそのまわりをなにかで大きくなぞっていた。
それが終わって吸盤の取っ手を引っ張ると、吸盤にガラスが引っ付き、ぽこんととれてしまった。
――泥棒?
どう見ても泥棒だ。
それ以外の何者でもない。
数日前に、西側の住宅地では一番大きな家に泥棒が入ったそうだ。
窓ガラスを大きく丸く切り取られ、そこから侵入されている。
噂命のご婦人が、まるでひいきの球団が優勝したかのようなテンションで、教えてくれた。
同じ泥棒だ。
それが今私の目の前で、洋館に入ろうとしているのだ。
ここには金目のものがあるとふんだのだろう。
この洋館は、誰が見てもそう見える。
ましてや泥棒の目からすれば、見逃すには惜しい獲物と写ったのに違いない。
――どうしよう?
通報するのが当然だが、通報した場合、一つ問題がある。
それは警察に
「ところであなたは、どうしてあんな時間にあんなところに、いたんですか?」
と聞かれることだ。
答えようがない。
犯罪を通報するのは日本国民の義務だが、今はそれは出来ない。
少なくともこの私は、火月家にはなんの義理もない。
そのまま様子を見ることにした。
考えているうちに、男は穴から中に入ってしまった。
そのまま穴を見ていた。
すると中から、小さく鋭い叫び声のようなものが聞こえてきたのだ。
――なんだ?
誰かが走り回っているような音も、穴からもれてくる。
と、突然、さっきの若い男が穴から首を突き出してきた。
次の瞬間
「うわっ!」
と声をあげたかと思うと、あっと言う間に中に引っ込んだ。
それは私には、後ろから誰かに引っ張られたように見えた。
そして問題は、一瞬見えたその顔が、暗がりではっきりとは見えなかったものの、血まみれだったように見えたことだ。
そのままなにもしないで待つ。
ずいぶん待ったが、なにも起こらない。
そのうちになぜか、急に自分自身の身の危険を感じ始めた。
その不安は、どんどん大きくなってゆく。
――帰ろう。
泥棒がどうなったか気になるが、ひとまず家に帰った。
次の日、あのご婦人に珍しく自分から声をかけた。
「数日前に近所に泥棒が入ったみたいですが、昨日、またどこかに泥棒が入りませんでいたか?」
きょとんとしている。
「いいえ、そんな話は聞いてないわ。……昨日、どこかに泥棒が入ったの? そんなこと、誰に聞いたの?」
どうやらそんな話はないようだ。
昨日の泥棒は、煙のように消えてしまった。
気がつけばご婦人が、私を怪訝そうに見ている、
「いえ、なんかそんな話を聞いたような気がしたものですから。どうやら私の勘違いみたいですね。……あっ、急用を思い出しました。じゃあ、失礼します」
思いっきり不自然な言葉を残して、その場を後にした。
また夢を見た。いつもの地下牢だ。
これで何度目だろうか。
ただいつもと違うことは、後ろから、つまり鉄格子と反対方向から、明るい光りが漏れていることだ。
鉄格子の外からの光りとは、比べものにならないほどの強い光りが。
これは今までになかったことだ。
何の光りなのか?
後ろが気になるが、視界の持ち主は後ろを向いてはくれない。
目の前になにかある。
皿だ。アルミ製の。
犬の餌を入れるものによく似ている。
その中に、白くどろどろしたものが入っている。
私はそれを、スプーンを使って口の中に運んでいる。
食事中だ。
そのうちに、皿の中のどろどろしたものがなくなった。
食事終了。
見ているだけの私には味も食感もないので、その食べ物が何であるかはよくわからないが、美味そうに見えなかったことは確かだ。
私、いや視界の持ち主が、さっきからずっと手に持ったスプーンを凝視している。
目の直前にあるスプーンを。
銀色のスプーンのどアップなんて、普段はまずお目にかかることはない。
まだ見ている。
まだ見ていた。
ずいぶんと長い時間だ。
こっちが疲れてきそうなほどに。
まだ見ていたが、急にスプーンを持ち直すと、その先を自分の顔に、いや右目のあたりにむけた。
スプーンを持つ手が勢いよくむかってきて、止まった。
そして、その先が顔に当たる程度ではありえないほどに、スプーンの柄が短くなって見える。
――これは?
どう見てもスプーンが目に突き刺さっているのだ。
間違いない。
赤黒いもので視界の半分近くがふさがれた。
血だ。血が流れ出ているのだ。
もうなにも見えなくなった。
視界が急にひらけた。
鉄格子が見えていたと思ったら、急速に反転した。
反対側の壁を見ている。
と思ったら、前後に揺れながら、壁に近づいていく。
壁を見上げるような形で見ている。
どう考えても視界の位置が低すぎる。
が、壁に着いたとたん、急に上昇した。
まるで目の持ち主が、空でも飛んでいるかのような動きだ。
壁の上のほうに明り取りなのだろうか、横に細長い小窓があることに気がついた。
外の光景が、細い帯状に見えている。
窓のすぐ下に、地面があるようだ。
光源の正体はこれだったのだ。
ただ今までの夢の中で、この光りが存在しなかったのは、すべて夜だったのだろうか?
そんなことを考えていたら、左手がありえない角度から飛び出してきて、その窓のガラスを叩き割った。
視線が窓の割れた部分のすぐ前に移動する。
これまた空を飛んでいるみたいな動きだ。
左手の大きさから見て窓の高さは、ほぼ十センチくらいだろうか。
その直前にあった視界が、なんとぽんと窓の外に飛び出した。
この視界を持つものは、十センチほどしかない窓を通り抜けたのだ。
――なんだ? 今のは。
今見えているのは、洋館の庭だ。
それも、地面にはいつくばっている虫か小動物のような視線である。
不意に動いた。
急に地面がせり上がってきたかと思うと、逆に下がってゆく。
同時に青い空が高速で前から後ろへ移動している。
それの連続だ。
気がついた。
回転しているのだ。
明らかにかなり小さい身体を持つこの視界の持ち主は、回転しながら前に進んでいる。
それもボールのようになめらかな動きで。
広い庭を横切り、鉄塀を抜けて道に出て、そこで止まった。
道と洋館の境目近くにいるらしい。
そのまま動かない。
やはり動かない。
道の前に一匹のカラスが降りたった。
カラスは視界の持ち主よりも、かなり大きいらしい。
カラスが近づいてくると、カラスが大きすぎて、その身体の上半分が視界の外に消えてしまう。
今見えているのは、足と身体の下の部分だけだ。
カラスは視界の持ち主を気にしているらしい。
くちばしを突き出してきた。視界の持ち主に、くちばしの先があたったらしい。
見える景色が一瞬揺れた。
そのとたん、カラスは慌てたように走り出し、そのまま飛び去ってしまった。
その後、また静止画のような絵となった。
そのまま動かない。
やはり動かない。
そのうちに、西の空が赤く染まり始めた。
すると視界が急激に、上昇した。
次に見えたものは、視界の持ち主を手にとってそれをながめている、なんと私自身の顔だった。
私がじっと見ている。
そして視界の持ち主を、ポケットに押し込んだ。
わかってしまった。
あの黒い石がいったいなんなのか。
あの石は牢獄に閉じ込められている人物の、右目だったのだ。
そこで目が覚めた。
会社から帰り、一息つく。
今までに見た夢のこと、うわさ、その他もろもろのことを、考えてみる。
特に、今でも地下牢に捕らわれているであろう人物のこと。
そしてかつてその人物の右目であった、私が拾った黒い石のこと。
――このままほおっておいて、よいのか?
よくないような気がする。
あの洋館で何があったのかは、夢から判断してある程度の想像はつくが、それでもはっきりと知りたい。
そう私は真実が知りたいのだ。
それも強烈に。
誰にでも好奇心はあるが、それが不可解なほどに、私の中で大きく膨れ上がっているのだ。
普段の私では考えられないほどの、熱く強い想い。
机の上にある黒い石を見る。
――あそこから出たかったんだな。
心の中で優しく語りかける。
すると黒い石が光りはじめた。
淡く赤い光りだ。
まるで血のような赤。
――なに?
見ていると、石がかきけすように消えた。
次の瞬間、右目を激しい痛みが走った。
――うわっ!
が、それはほんの一瞬のことだった。
右目をさすりながら机の上を見ると、やはり石はそこになかった。
かわりに頭の中になにかが響いてきた。
〝助けてくれ。助けてくれ〟
――助けてほしいのか?
〝そうだ。おまえは真実が知りたいのだろう。あの家で起こったことのすべてを。なら教えてやろう〟
――教えてくれるのか?
〝教えてやる。その代わりに助けてくれ〟
――わかった。
家を飛び出した。
洋館に向かって歩いた。
近所の人が見たら、いつもの散歩と思うことだろう。
ちょうど西の空が赤く染まりつつあるころだ。
一人すれちがった。
習慣で挨拶を交わすと、そのまま歩く。
激しい想いが、頭の中でごうごうと渦巻いている。
黒い石は、いやあいつの右目は、今は私の右目の中に入っているはずだ。
痛みはないし見ることもできないが、まるで目の前においてあるりんごのように、その存在がはっきりと感じられる。
――助けたい。真実を知りたい。
この燃え上がるような想いが、果たして自分の意思なのか、それともあいつの右目に操られているだけなのか、もはやわからない。
わからないが、もうどうでもいいことだ。
洋館に行き、真実を知り、あいつを助け出す。
それだけだ。
洋館に着いた。観音開きの鉄門は、押すと簡単に開いた。
庭を横切り、正面玄関にむかって歩く。
女もメイドも今は南の窓際にはいなかったのだろう。
誰にもとがめられることなく、正面玄関に着いた。
もちろん呼び鈴は押さない。
黙って玄関の大きな扉を押し開けようとした。
が、それは開かなかった。
〝こっちだ〟
――こっちか。
正面玄関の横に、前にメイドが出てきた小さな戸がある。
なんの抵抗もなく、それは開いた。
中にはいると、大広間となっていた。
正面に、何人もが並んで歩けるような階段が見える。
〝こっちだ〟
――こっちか。
階段の裏にまわると、ちいさな戸があった。
あけるとそこは、地下へと通ずる階段だった。
そこを降りた。
階段は思ったよりも長かった。
階段の両側の壁は、最初はレンガがきれいに並べられていたが、途中からは無骨で不揃いな石となっていた。
普通の民家の五、六階分くらい降りたところで、ようやく地下についた。
降りてすぐのところに鉄の扉があった。
古くて重厚で、いかにも――開かない――という印象を受けたが、あっさりと開いた。
中にはいると、そこは広い空間となっていた。
高い天井から、裸電球がぽつんとぶら下がっている。
〝こっちだ〟
――こっちか。
右に向かって歩く。
ほどなくして鉄格子が見えてきた。
牢獄だ。
その中に薄汚れた服を着た、髪がぼさぼさで異様にやせた男がいた。
身体が憔悴しきっているためか、見た目からはその年齢がよくわからない。
そしてその男の右目にあたる部分は、黒く穴が開いていた。
〝よく来たな。助けてくれ〟
――真実が先だ。
〝わかった。約束だ、教えよう。まず俺の父が、新しく来たメイドに手を出したことからはじまった。よくもまあ、あんなゴリラそのものの女に手を出したもんだと思ったが。ほんと趣味が悪いとしかいいようがないが、結果としてそのメイドが子供を産んだんだ。それが姉だ。父は母に、その子供を育てさせたのさ〟
――お母さんは、文句を言わなかったのか?
〝俺の母親は、ひたすらおとなしい性格なんだ。おまけに気弱で世間知らず。父に脅されて、言うことをきいたんだ。その後、父と母の本当の子供、つまり俺が生まれた〟
――虐待を受けていたのか?
〝ああ、姉とメイド、あの親子二人から虐待を受けていた。ほんの小さい頃から。おかげで恐怖心がうえつけられて、俺はあの二人には逆らうことが出来なくなってしまった〟
――お父さんは、どうしていた?
〝俺の父は、恐ろしいほどに子供に興味がなかった。たとえ俺が死んだとしても、気がつかなかったんじゃないかな〟
――お母さんは?
〝母は母なりに、懸命に俺をかばってくれたが、しょせんあのお人好しでは、はっきり言ってなんの役にもたたなかった。それでも俺は母を愛していたし、母も俺を愛していた〟
――お父さんは殺されたのか?
〝ああ、そうだ。父は俺が大学を卒業すると、会社の跡継ぎにしようとしたんだ。もちろん俺のためではない。火月家の名前のためだ。息子よりも家のほうが大事なんだ。しかしそれを黙ってみているような二人ではない。父を殺して事もあろうか、俺に埋めさせたんだ。さっきも言ったが、俺は小さいころからあの二人に、逆らうことが出来なかったからな。それはあの二人もよく知っている〟
――お母さんは、毒でも飲まされたのか?
〝医者に調合させた薬だ。死なない程度に植物人間になるように。実際、薬は効きすぎたようだ。身体の自由を奪うくらいのつもりだったのだが、意識までどっかに飛ばしてしまった。今では体はまったく動かないし、意識も眠ったままだ。ついでにその医者に、俺の舌を抜かせたんだ。よけいなことを言わないようにな〟
目の前の男が口を開けた。
舌はなかった。
奥のほうに根元が残っているだけだ。
――医者はどうなった?
〝おやじの隣で仲良くおねんねさ〟
――……。
〝そして俺をこの地下牢に閉じ込めたんだ。おまけに姉は顔が見えないようにわざと白い仮面をつけて、俺を笑いに来るんだ。自分の楽しみと、俺にさらなる恐怖心をうえつけるためにそうしているんだ。……さあ、わかっただろう。俺をここから出してくれ〟
――わかった。鍵は?
〝あっちだ〟
――あっちだな。
鍵は牢獄の手前の壁にかけてあった。
扉を開けると男がふらつきながら出てきた。
〝右目を返してもらうぞ〟
――わかった。はやく逃げろ。
この男に心底同情していた。
それは操られたものなどではなく、間違いなく私の意志だ。
男の右目が赤く淡く光ったかと思うと、右目が男に戻った。
正確には人間の目ではない。
それはまっ黒だった。
黒い石がそのまま右目のところに入っているのだ。
男が歩き出す。
私はついて行った。
長い階段を登って、大広間に出た。
誰もいない。
今がチャンスだ。
私はてっきり、男が正面玄関に向かうものと思っていた。
ところが男は、建物の左手へと歩き出した。
――どこへ行くんだ?
私の知らない出口でもあるのだろうか。
男はその先の廊下を進み、一番奥にある戸を開けた。
そこは夢で見たいくつかの部屋と比べると、ずいぶん狭い部屋だった。
それでも一般の民家の居間よりは広いが。
おまけに内装もおいてある家具類も、一般住宅とそう大差がない。
そしてその部屋の奥に、あの巨漢メイドが座っていた。
――えっ?
そこはメイドの部屋だったのだ。
メイドが言った。
「おまえ、どうやって出てきた?」
驚く私をしりめに、男が歩き出す。
「うぶあぁ」
舌のない男は声にならない叫び声をあげて、メイドにつかみかかっていった。
その時わかった。
男の望みは逃げることなんかではない。
メイドと姉を殺すことだったのだ。
子供のころからの恐怖のトラウマは、おそらくあの黒い石の持つ不思議な力によって、かき消されているのにちがいない。
一時期とはいえ、私もあの石の力を宿していたのだ。だからそれがわかった。
新たな力を得たのだ。
意志の力は得たようだが、身体の力までは得なかったようだ。
枯れ木のようにやせ細った男の体は、メイドの一発でおもしろいようにふっ飛んだ。
しかし男は立ち上がり、またむかっていき、またふっ飛ばされた。
さらにもう一度むかって行き、やはりふっ飛ばされて、壁に叩きつけられた。
いつの間にか白い顔の女が、戸口のところに立っていた。
姉だ。
騒ぎを聞いて駆けつけてきたようだ。
やけににやけた笑みを浮かべている。
弟が殺されようとしているのが、楽しくてしかたがないのだ。
時折私の方を見る。
その顔は、弟がすんだら次はおまえの番だと言っている。
私が誰であるかはわかってはいないようだが、生かしておいて得になることはなにもない、と考えていることは、その眼を見れば一目瞭然だ。
人を殺すことなど、なんとも思っていない眼だ。
男がまた立ち上がった。
見ればシャツの胸のあたりが、真っ赤に染まっている。
なにかが飛び出していた。
肋骨だ。
肋骨が折れて、肉を裂いて外に飛び出しているのだ。
だが男は笑っていた。舌がないためか、今まで聞いたことがないような異様な笑い声をあげていた。
――ハイになっている。
マラソン競技での極限状態、あるいは激しい戦場などで肉体的に追いつめられた時に、人はハイテンションになるという。
まさにその状態なのだろう。
胸の痛みなど、感じてはいないようだ。
男がまたもやメイドに向かっていく。
リプレイ再生のように、またメイドにふっ飛ばされると思っていた。
が、今度はメイドの方が、おもいっきりはじき飛ばされた。
起き上がろうとするメイドの顔に、激しい驚きの色があった。
無理もない。
地下牢でやせ細り、体力も限界まで衰えておるはずの男に、体重が自分の半分もないような男に、軽くふっ飛ばされたのだ。
メイドだけではない。
私も充分に驚いている。
――火事場の馬鹿力だ。
極限状態の人間だけが、なしえる技。
ある小柄な女性は、トラックの下敷きになったわが子を助けるために、トラックを持ち上げたという。
実際にあった話だ。
日本では昔からその力を、火事場の馬鹿力と呼んでいる。
その力が男に宿っているのだ。
立ち上がったメイドに男が再び向かって行った。
二人がぶつかり合うと思った瞬間、男がすばやく右に体をかわした。
そして横からメイドの太い首に噛み付いた。
――えっ!
と思ったら、男は噛みついたまま、メイドの頭を両手で強く押した。
メイドの身体が勢いよく壁にぶちあたる。
その首からは信じられないほどの量の血がふき出していた。
反射的に手で押さえてはいるものの、まるで役にはたっていない。
男を見れば、口をもぐもぐ動かしている。
喰っているのだ。
メイドの首の肉を。
男がまたメイドに向かって行く。
メイドは明らかな恐怖をその顔に浮かべていたが、首を押さえていない左手は、本能的に反撃に出た。
しかし男は一発でそれを叩きおとすと、首を押さえている手をつかみ、一気にねじ上げた。
ボキッ
わかりやすい音が響く。
じっくりと確認するまでもない。
一目でわかる。
メイドの腕はありえない方向に曲がっていた。
男はメイドの手をはなすと、自分の手をメイドの首の傷に差し入れた。
考えられないほどに男の手が、メイドの首の中にずぶずぶと入っていく。
と思ったら、その手を一気に引き抜いた。
メイドの巨体がどうと倒れる。
男が手ににぎっているもの。
それは人間の首の骨だ。
男はメイドの首から、その骨を引き抜いたのだ。
「ひっ!」
悲鳴が聞こえた。
姉だ。
見れば姉は、もう背中を向けて走り出していた。
男があとを追う。
あっさり追いついた。
後ろから姉の頭を両手でつかむと、それをろくろでも回すかのように、ぐいとひねった。
姉の体は背中を向けていたが、首のほうは完全にこちらを向いた。
姉は恐怖にひきつった顔のままで、その場にくずれるように倒れた。
男は死んだ姉を見ている。
満足そうな笑みだ。
恐怖心がなかったわけではないが、それでも男に声をかけた。
「……もう、いいだろう」
男に反応はなかった。
姉を見たままだ。
男のすぐ横に立った。
すると男がくるりと私のほうを見た。
笑っている。
先ほどまでの満足そうな笑みではない。
そんなものとは比べ物にならない、はるかにぶっとんだ狂気そのものの笑いだ。
――わっ!
思わず逃げ出した。
怖い。
とてつもなく怖い。
男が追ってきた。
振り返ると、遊んでいるのか笑いながら、つかず離れずの距離で追ってくる。
私は大階段の後ろを横切り、反対側の廊下へと逃げた。
そのまま廊下を走ると、奥に扉があって、そこで行き止まりとなっていた。
立ち止まり、振りかえる。
男は息がかかるほどすぐ後ろに立って、私を見ていた。
その眼に宿るのは、狂気か殺意か残虐さか。
あるいはそれら全てか。
いずれにしても、私の身の安全にはほど遠いものだ。
慌てて扉に手をかけると、開いた。
転がり込むように、中に入った。
見たことのある部屋だ。
中央にベッドがあり、そこに老女が寝ている。
男の母親の部屋だ。
男の姉、血のつながっていない娘に薬を飲まされ、身も心も植物人間にされた女。
目も夢で見たとおりに、まぶたを縫い付けられている。
背中をどんと強く押された。
私は母親のベッドのところまで転がった。
なんとか起き上がったとき、男がおおいかぶさって来て、両手で私の首を絞めた。
とてつもない力だ。
意識が急速に遠のいていく。
もうだめだ。
死を覚悟した。
バン!
突然耳もとで大きな音が響いた。
私の首を絞める男の力がなくなっている。
見れば男は右目から血を流していた。
やがてスローモーションでも見ているかのような動きで、床に倒れた。
振り返ると、意識もなく動けないはずの老女が、ベッドの上で上半身を起こしている。
そしてその手には、拳銃が握られていた。
南部十四年式拳銃。姉がお父様の形見とか言っていた、夢で見たときには弾が入っていなかった拳銃だ。
「……こうするしか、なかったの」
そう言った。
「……本当にかわいそうな子」
老女がベッドに上半身を沈めた。
近づき、顔を見て、思わずその手をとった。
が、老女の脈はもうなかった。
縫い付けられたまぶたの間から、涙が一粒流れおちていた。
携帯で警察に通報した。
第一発見者ということで。
散歩をしていて洋館の前を通りかかったら、銃声が聞こえた。
それで中に入ってみたら、みんな死んでいたと。
姉を殺したのは弟だし、メイドを殺したのも弟だ。
弟は母親が殺しているし、母親は自然死だ。
私はこの事件とは、あくまで無関係を通さなければならない。
私が毎日、洋館の前まで散歩をしていることは近所の人なら知っている。
不自然なところはない。
うまくいくはずだ。
死者だらけの洋館で、独り警察を待つ。
それにしても気になるのは、目の前に転がっている男の死体だ。
右目は撃ちぬかれて、もはや原型をとどめていない。
ところが今、男の左目が、まるでくり抜かれたかのようになくなっていて、黒い穴がぽっかりと開いているのだ。
終
黒い石 ツヨシ @kunkunkonkon
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