クリスマス小説 聖夜のちいさなできごと

@tori

第1話

「信さんのいけず!」

雪は手を振り払うと、部屋を出ていった。トントンと階段を降りるつっかけの音を開け放たれたドアの向こうに聞きながら、信次はこれで良いのだと何度も自分に言い聞かせた。


岡町の伯母から雪の縁談を持ち込まれたとき、信次は最初は断る心づもりだったが、伯母は執拗だった。

「先方さんは大学を出て公務員をなさっているお堅い方だし、お父様は市の助役も務められたお家だ。こちらの事情も全部含んだうえで、雪ちゃんに身一つで来て欲しいと仰ってるんだ。こんな良い縁談はめったにないんだよ」

尚も言葉を濁す信次に伯母は言った。

「義妹といっても所詮は赤の他人。世間の口に戸はたてられないんだよ。あたしの耳にもあれこれと要らぬ話が入ってくるから、こうやって骨を折っているんじゃないか。それともまさかあんた……」

「よしてくれ、伯母さんまで。わかったよ。雪には俺から話す」

信次は伯母の話を端折って、言い放った。


世間でどんな噂がたてられているか、信次も知っていた。雪はここら界隈では評判の美人で、言い寄る男だって後を絶たない。

中には信次の目からみてもなかなかの好青年だっていたが、雪は頑として首を縦には振らなかった。

口さがない連中が「あれは義兄とできてるんだぜ」と噂をしていることも信次の耳には入っていたが、相手にするのもばかばかしいと信次は捨て置いた。しかし、隣町の伯母の耳にまで噂が入っているとなれば、放っておくわけにはいかない。まだ何やら言い足らぬ伯母をなんとか追い返してはみたが、雪にどう話を切り出していいやらわからないまま一週間が経った。


その日はクリスマスイブで、雪は朝から料理にケーキ作りに大忙しで立ち働いていた。妻の花が生きていた頃から、クリスマスは家で祝うのが習慣になっていた。キリスト教系の孤児院で育った花と雪の姉妹にとってその日は特別な日だったからだ。


伯母からは返事の催促の電話が昨日あったばかりで、信次は話すには今日しかないと心に決めていた。

押し入れの奥から、子供の頃に買ってやったクリスマスツリーを引っ張り出して飾り付けをしている雪の膝の前に信次は見合い写真と釣書を置いた。


「夏頃、市役所に派遣の仕事で行ったろ。そのときその唐変木がお前に一目惚れしたらしい。見てくれもそんなに悪くないし、なんでも役所じゃ若手の出世頭って話だ。俺はそんなに悪い縁談じゃないと思うぜ」

さりげなく切り出したつもりだが、雪は皆まで聞かずにワッと泣き出すと表に飛び出していった。


信次が雪の姉花と所帯を持ったのは二十二のときで、花は二つ違いの二十歳で妹の雪はまだ十歳だった。

雪はふくやかな姉と違って色白の目ばかり大きな痩せこけた少女で、姉の背中にばかり隠れていて、当座のうちは信次になかなか懐こうとはしなかった。それが花が亡くなって、三年も二人きりで暮らすことになるとは夢にも思わなかった。


花が今際の際で二人の手を重ねて握り、「私が居なくなっても、あんたたちは今まで通り家族なんだよ」と言った言葉を信次は思い出した。

(しかしなぁ、世間はそうは見てくれはしないんだぜ)

信次は仰向けに寝転がり、天井の染みを今は亡き女房の顔に見立てて、そう呟いた。と、雨が安普請の屋根を叩く音が不意に聞こえた。


「こいつはいけねぇ」

信次は起き上がると、壁の衣紋に吊してあった雪のダウンジャケットを小脇に挟むと外に出た。


飛び出してはきたものの、自分には行くあてなどどこにもないのだと、町内を一回りしてみて、雪はしみじみとそう思った。

薄いセーター一枚で寒さの中を歩いていると、母に置き去りにされた幼い頃の心細い思いでが甦ってくる。

母はあの日デパートに連れて行ってやると姉妹を喜ばせ、屋上の遊園地で遊ばせたまま姿を消した。母の姿を求めて、姉に手を引かれながら歩き回ったイブの街、寒さとひもじさで泣き出すと、姉は「お願いだから、泣かないで」そう言いながら冷たい頬を両手で温めてくれたが、その姉の頬にも大粒の涙が伝っていた。


花が結婚するのだといったとき、雪は姉を取られるような気がして、その男に無性に腹がたち、金輪際口などきいてやるものかと固く思い、男は男で雪のことを邪魔者でも見るような険しい目で睨みつける。

それがある日をきっかけに変わった。


そうあれは今日と同じような雨の降るイブだった。近所の悪童どもに父無し子の家にはサンタは来ないと囃し立てられ、雪は公園でしゃがみ込みひとりで泣いていた。冷たい雨が衣服にしみこみ身も心も凍えるようだった。

姉が居たから父親のことなど考えたことなどなかったが、姉も結婚してその家に世話になっていると、なんだか自分が厄介者ように思えてきて家に帰るに帰れない。もういよいよ自分はほんとうにひとりぼっちになったのだと思うと、とどめもなく涙が溢れてきた。もういっそこのまま凍えて死んでしまえば、やさしかった祖母のもとに行けるような気がして、そんなことを考える自分がいよいよ情けなくなり、雪は声をあげて泣いた。


と、突然背中を打つ雨が已んだので顔を上げてみると、薄汚れた灰色の作業着を着た男が傘を差し掛けていた。

男は何も言わずにしゃがみ込むと、ゴツゴツとした大きな手で雪の冷たい頬を挟み込んだ。暖かでやさしくて、そうされているとなんだか身体の芯からぽかぽかとぬくもってくるような気がした。

両手の奥にのぞく男の目を見たとき、雪は思わずハッとした。男の目にも大粒の涙がキラリと光っていたからだ。


その日から雪は信次に恋をした。いけないことだとわかっていながら、好きで好きでたまらないという気持はこうずるばかりだった。

姉が長患いで入院し、信次の身の回りの世話を自分がするようになると、ずっとこんなふうにできたらよいのにと思う自分の性根が恐ろしほどだった。

姉がいよいよだめだとなったある日のこと、めずらしく調子の良かった姉は雪の手を取りこう言った。

「どうやら私もだめらしい……けど、あの人にはあんたが居る。あんたにはあの人が居る。そう思うと、肩の荷を下ろしてあの世にいけるような気がするよ」

姉は弱々しく微笑むと、雪の手をしっかりと握りしめた。


姉が亡くなり三年、今日こそは自分の想いを打ち明けようと雪は決心していた。それなのに、それなのに……

(信さんのいけず……)


あの日と同じ場所で、同じように雪はワッと泣くと、その場にしゃがみ込んだ。どれくらいそうやっていたのだろうか。

サクサクと近づいて来る足音に、ひょっとしたら、まさか、と心を揺らしていると、「やっぱりここに居たのか」とあの愛しい声が降ってきた。

もうたまらなくなって雪は立ち上がると、信次の胸に飛びみ顔を埋めた。

「信さん、お願い。妹のままでいいから、一緒にずっと居させてよ」

心臓は早鐘のように打ちなり、足の震えは止まらなかった。


信次は雪の目を瞬きもせずにじっと見つめていたが、あの日と同じように両手で冷たい雪の頬を包みこんで、静かに言った。

「辛い思いをさせてすまなかったな。その……なんだ、俺の女房になるか?」


ひょっとしたら空耳なのかもしれない、それでもいい、それならそれをほんとにすればいいんだ。雪は心に決めると、それが消えないうちにコクンと小さく肯き、背伸びすると、もうその口に四の五の言わせないように、唇で塞いだ。


雨はいつのまにか雪にかわり、二人の肩にいつまでもしんしんと降り続けた。


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