λμ式軽薄三人称文体で『記念日』
ある冬の早朝、玄関に腰を下ろした
宗太はロウ引きの靴ひもを乱暴に締めあげて、肩越しにリビングをのぞき込んだ。
「行ってきます」
期待していた妻の返事はない。どうやら
宗太は目元を押さえて、首を左右に振った。まぁいい。出勤前の身嗜みチェックをしつつ、いってらっしゃいの一言を待ちゃあいいのだ。
玄関の姿見に躰を映してコートの襟を引き寄せる。ダークブルーのトレンチだ。胸元から深い赤色のタイがのぞいている。
――やっぱ真奈の方がセンスいいんだよなぁ。
宗太は少し大きめのタイの結び目を撫で、もう一度、愛すべき妻に呼びかけた。
「行ってくるよー?」
返事はない。寂しい。
せっかくだから、ほんの少しだけ待ってみる。
やはり返事はない。珍しく、真奈は本当に怒っているらしい。
腕時計に目をやると、時すでに午前七時三十分。さすがにもう待ってられない。
宗太は、ああもう遅刻覚悟で真奈にだーれだとか言いに行くか欲求を振り払い、凍てつく冬の世界へと続く絶望の扉を開いた。
――俺が何したってんだよぉ、もうさぁ、もう。
宗太は心中でそう呟きながら、我が家を見上げた。結婚を機に、いいとこみせようとして無理しすぎた感じで購入した、なじまパークサイドの一室だ。
――あんときだって、結局よろこんでくれたのにさぁ。今日はなんなんだよ。
泣き言を吐いた時点でもうダメだった。
冬の早朝の日差しは無駄に明るい。そのくせに、温かさなど微塵もない。閉じた瞼の奥で空を見上げる。公園が近いだけあり、朝は静かなものだ。
宗太はまだ冷たいアスファルトを蹴りつけバス停に向かって歩き出した。
バス停には、普段よりも多くの人が並んでいた。まさか一夜にしてご近隣のみなさま方の出勤ルートが変わりはしまい。つまりは出かけ間際のちょっとした諍いのあと、宗太の足は随分と遅くなっていたということ。真奈め。
列の最後尾に並んだ宗太は、両手をポケットにつっこんだ。震えそうなほど寒い。
しかも悲しいことに陽だまりは目の前で途切れている。茶色いコートを着込んだオッサンまでの人々だけが、日の光の恩恵に与っているのだ。温もりなど感じられない陽光であるが、陰の下から光り輝くオッサンの背中をみていると、やるせなくなる。
宗太は肩をすくめて躰を揺すった。運動したことでポカポカ、するわけがない。
しかし、漫然と突っ立って寒風に耐える苦行に勝ちはない。それよりは躰を揺すって冷気と戦っている気になる方が多少はマシである。ついでにいえば、俺はこんな日でも文句も言わず頑張っているのに、とも思える。
――
日本の都心近くで初のダイヤンモンドダストが観測されるんじゃないかという寒さのなか、ようやく会社員を死地へと運ぶ護送バスが到着した。
薄い油膜が張られているかのようにヌメり気のある車窓の向こうで、若い女性が疲れた顔をして座ってる。諦念のまじった
車内に乗り込んだ宗太は左右を見渡し、かろうじて右手奥に残っていた空間に滑り込もうとした。他の客にぶつかった。
「すいません」
宗太は刹那の間で謝っていた。脊髄反射よろしく謝意などない。
そもそも、宗太はできるかぎり他の乗客に触れないように気を払っていた。だというのに、ふいに後ろのバカが押してきた。不幸な事故だ。不可抗ともいう。
言い換えれば押してきたバカの、反抗期の若者的な、すすんで
――俺は無用な争いを避けただけ、たいしたもんじゃねぇか。
宗太は反射的に謝ってしまったことを誤魔化すように、吊革を握りしめた腕に、体重の二割ほどを任せた。目を閉じ、深く息を吸い込む。車内の暖気のせいか、汗の臭いがした。
窓から差し込んでくる日の光に目が眩む。
陰に入った一瞬、窓に、不機嫌そうに眉を寄せる宗太の姿が映った。謝るべきだっただろうか。
――今朝も。
宗太は脳裏をよぎった考えに、思わず苦笑してしまった。
思い返してみれば、真奈とは結婚するより前から、ケンカらしいケンカをした記憶がない。ちょっと空気がピリついてきたら、先に謝ってしまう。いつもそうだった。
きっと真奈だって気を遣っているのだろうし、宗太はそれで満足だった。重要なのは互い思いやること。どちらが先に謝るかは問題ではない。言うまでもない。真奈にしたって、分かっているはず。
――じゃあ、なんでずっと怒ってたんんだよ、あいつ。
朝食を終えるまで、真奈の様子はいつもとまったく変わらなかった。
失敗したかな、と思った発言はある。コーヒの濃さについてだ。
「ちょっと濃すぎじゃない?」
と、一言つけた。
しかし真奈は、一口すすって、
「そう? 宗太の淹れるコーヒーが薄いんじゃなくて?」
と、返した。マグカップを両手で包み込み、微笑んでいた。可愛いやつめと思いはしても、怒っているようには思えなかった。
だから宗太はと頷きかえしていた。
「そうかな? そうかもな」
口では同意していたが、正直にいえば、少しだけムっときていた。けれどそれを口にしたところで何にもならない。
宗太が真奈に遠慮するのは、今朝にはじまったことではない。
家事だって任せっきりじゃ自分の時間がとれないだろうと、率先して引き受けてきた。ときには不慣れもあって、迷惑をかけたこともある。しかし、いつだって宗太の方から謝ってきたのだ。
――やっぱり謝っときゃ良かったかなぁ。
宗太は、今度こそ
斜め前に座っていた若い女が宗太を見て、声を押し殺すようにして笑った。大学生くらいだろうか。ベージュのコートを着ていて、顔に生気が満ちている。
女は宗太の視線に気づいたのか、さっと目を逸らした。しかしすぐに背もたれ越しに宗太の顔を覗き見て、隣席の男に楽しげに何ごとか伝えた。
と、同時に。
男が宗太をちらと見る。なにか女に言った。
女は、憮然とした様子で座りなおした。
――ざまぁみろ。怒られたんだろ。
心中でほくそ笑む。しかし気分が晴れるわけでもない。口の中には、濃すぎるコーヒーの苦みが、まだ残っている。
昔、宗太も真奈を叱ったことがあった。
いつだったか仕事で使う書類を汚されたときと、学生時代から持ち続けてきた靴を捨てられたときだ。思わず声を荒げてしまった。非は真奈の方にあると思っていた。
それでも、すぐに宗太は頭を下げた。
仕事で使う書類を持ち帰ったのは自分だ。汚れる可能性のあるところに置きっぱなしにしたのも同じ。
靴にしたって、ろくに手入れや修理もせず、履くこともなかった。真奈の目からみれば、とてもじゃないが大事なものには見えなかったのだろう。
声を荒げてしまったことも含めて、悪かった、といった。それは、目尻にるるると涙をためる真奈に、同情したわけじゃあない。バランスの問題だ。
真奈が謝ることになった原因は自分にもある。それだけの話なのである。
宗太の視界の端でなにかが動いた。さきほどの若い男が、女の髪に手を伸ばしている。指先が緩く波打つ毛先を、そっと撫でた。一言か二言つぶやいて、小さく頭を下げている。女もうなづきを返していた。どうやら仲直りをしたらしい。
――帰ったら俺も謝るか。
宗太がそう思った瞬間、バスが急
躰を振られる。反射的に肘をあげていた。なにかにぶつかった。乗客の背中だ。ダウンを着てる。
もこもこの黒いダウンコートおじさんは、目だけを動かし、宗太をジっと睨んだ。
「すいません」
宗太ははっきりとそう言って、頭を下げた。不可抗力だからなんだというのだ。
カップルと思しき二人に目をやると、互いに気遣いあっていた。
宗太は頬を緩めて、窓の外を眺めた。
止まったままのバスは、なかなか動きださない。このまんまじゃ遅刻かね、と腕時計に目を落とす。ほんの数分、遅れている。
道はそれほど混んでいるようにみえなかったのだが――。
宗太は背中を反らせて、乗車口を覗きこんでみた。乗り込んでくる人がいるわけでもない。ふたたび時計を見る。一本か二本、電車を遅らせることになっていた。
鼻で息を吐きだし、車内前方の電光掲示板に目をやった。表示されている時間は同じだ。違う時計を観測しても、電車を逃す未来に変化はおきない。
掲示板の表示が切り替わった。×月××日。
宗太は前に向き直り――慌てて二度見。×月××日だと。
再観測で日付はズレない。やべぇ。
――結婚記念日、だっけか?
宗太は、正直、確信がもてないでいた。しかし、記念日なら、バカモノは宗太だ。
今朝、食事を終えてすぐ、真奈に言ったのである。
「悪いんだけど、今日、遅くなるから。夕飯いらないし、先に寝てていいからね」
真奈が不機嫌になったのは、その瞬間からの気がする。いや、そうに違いない。
――やっちまった。
真奈にはどこか宗太と似ているところがある。妙に気を回してくれる。宗太もそうするせいで、互いに譲り合ってしまうことになる。
宗太としては、真奈にはできるだけ自由に生きてほしい。だからこそ、籍を入れた日の夜、二人で約束をした。
「結婚記念日くらいは一緒に過ごすことにしようか」
「一緒に過ごすって、どれくらい?」
「どれくらいって、そうだな。えっと、睡眠時間を含めて十二時間以上、とか?」
「なにそれ。八時に宗太が家をでたとして、帰ってから四時間? 残業あったら?」
「そんときは、えーと、風邪でもひくよ」
「本気で言ってる? まぁ、私はいいけど。っていうか、ちょっと嬉しいけども」
頬を染める真奈の笑顔が脳裏をよぎる。宗太はほっこりした。けれどそれ以上に血の気も引いた。自分で取りつけた約束を、自分で破ってしまうとは――。
次の瞬間には、すでに降車ボタンを叩いてた。
乗客のみなさま、お忙しい時間に申し訳ない、なぞと思う。
宗太はバスを飛び降りた。運行が遅くれていて良かった。なじまパークサイドからは、それほど離れていない。
歩き出し、足を速め、駆けだした。
やたらと遅く感じるエレベーター。待っていられるわけがない。
階段を駆け、我が家のドアを力任せに開いた。
「真奈!」
「えっ? なに!? どうしたの!?」
ようやく声を聞けた。部屋の奥から、遠いけど。
小走りででてきた真奈は、目を丸くしていた。当然だ。出てった旦那が膝に手をつき、荒い呼吸をくりかえしている。
――運動不足だ。声なんざ出せるか。
寒い中を走ってきたからか、頭痛がする。いや痛いのは耳か、喉か、分からない。
真奈は、肩で息をする宗太の真っ赤になった耳に、両手で触れた。
「うわっ、冷た!」
すぐに引っ込めた手に、ほ、と吐息を吹きかける。温めた手で、宗太の耳を覆う。
「どうしたの? 忘れもの?」
「ちがくて、そうじゃなくて」
宗太は真奈の手を握りしめ、顔をあげた。
「ごめん、忘れてた。ちゃんと、定時で帰ってこれるようにするから」
「へ? そんなこと言うために帰ってきたの? 電話は?」
「えっ」
宗太が見上げた真奈は、きょとん、としていた。閉じられた唇の端がじわじわ上がる。ついにはこらえきれなかったか、噴き出した。
「もう。宗太は昔っから、変なことばっかりするよね」
「なんだよそれ。慌てて帰ってきたのに」
「っていうか、定時って? なんで? なにかあったっけ」
「はぁ!? いやほら! 今日、結婚記念日だろ!?」
「は?」
真奈の眉が露骨に寄る。明らかに怒っている。それもヤバいやつ。
いや、それよりも、記念日じゃないなら――、
「じゃあ、なんで今朝は不機嫌だったんだよ」
「えっ?」
首を傾げた真奈は、斜め上をぽけっと眺めた。壁掛時計の秒針が、いち、に、三回鳴った。
指先を揃えた真奈が、宗太の頭に
「痛って」
反射的に言っていた。頭も押さえた。ただの反射だ。
「なんだよ。朝、機嫌悪かっただろ」
「もう、バカだな。そっちは憶えてるのに、こっちは忘れるんだ?」
「だから結婚記念日に――」
「そっちじゃないってば」
そう言って、真奈は口先を尖らせ、細い腰に両手を当てた。宗太を見下ろすかのようにして、たん、たん、とスリッパでリズムまで取っている。
「二人で約束したよね? 結婚記念日は宗太の約束を守って――」
「あっ」
宗太は結婚記念日の約束をした会話、その続きを思いだした。
あの日、真奈は、しばらく考えてから言った。
「じゃあさ、結婚記念日から半年後は、我儘デーにしよっか?」
「はぁ? なにそれ?」
「一緒にいてくれるのはいいけどさ。それだと、宗太ばっかり大変でしょ?」
「そうか?」
「そうだよ。だからさ、ちょうど半年後は我儘デーにして、宗太は気をつかったりしないで、我儘いってもいい日にしよう?」
そう言って、真奈は猫のように擦り寄ってきたのだった。
――なんだよもう。もう。
宗太は全身から力が抜けていくのを感じた。
真奈はにまりと笑い、宗太の肩を叩いた。
「思いだした?」
「思いだした」
「それじゃあ、問題。なんで私は、不機嫌だったのでしょう?」
「……俺が、悪いんだけど、って言ったから」
「正解!」
弾むような声をあげ、真奈は宗太を抱きしめた。
「いつもありがとう。宗太」
「もういい。俺、今日は風邪ひくわ」
「我儘デーは、会社の人には通用しないよ?」
真奈は、宗太の背中を撫でた。
宗太もまた、真奈の背中に腕を回した。
「ちょちょ、ちょっと待って――」
もう、風邪をひいているのだ。
*
あんまり変わってないかな?
どうだろう?
あと2回やるけど、そっちはオマケです。
実質これが最終回。
読んだ方の役に立つことを願って。
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