一度目の推敲後の『未定』

 高柳宗太は、玄関に腰を下ろして、靴ひもを結んでいた。眉間に、深い皺が刻まれている。乱暴に靴ひもを締めあげ、肩越しにリビングをのぞき込んだ。


「行ってきます」


 妻である真奈の返事はない。

 宗太はため息をつき、立ち上がった。玄関に置かれた姿見に自分の姿を映す。トレンチコートの襟を引き寄せ整える。真奈が選んでくれたネクタイを撫でる。

 宗太は扉に手をかけ、もう一度くりかえした。


「行ってくるよ!」


 ほんの少し、待ってみる。やはり返事はない。本当に怒っているのか。

 腕時計を見ると、時間は午前七時三十分を指していた。もう待ってはいられない。

 宗太は舌打ちしたくなような思いを抱えたまま、取っ手を押し下げた。

 なじまパークサイドを出た宗太は、バス停に向かって、のろのろと歩きだす。結婚を機に、少し無理をしてまで買ってしまった我が家を見上げると、どうにも気が重くなる。

 

 ――俺が何したってんだよ


 とうとう心の裡ではあっても、口にしてしまった。もうダメだった。冬の早朝の日差しは、無駄に明るく照りつけてくるくせに、温かさなど微塵も感じられない。

 宗太はふっと短く息を吐きだし、まだ冷たいアスファルトを蹴りつけた。


 いつも利用しているバス停には、想像していたよりも多くの人が待っていた。出がけ間際のちょっとした諍いくらいで足まで遅くなるとは。

 列の最後尾に並んだ宗太は、両手をポケットに突っ込んだ。腹立たしいことに日差しは目の前の茶色いコートを着込んだ中年男のところで途切れている。先ほどは温かみなど感じられなかった日差しだが、目の前にその明るさを見るとやるせなくなる。

 

 宗太は肩をすくめて躰を揺すった。躰が温まるというわけでもない。しかし、ただ突っ立って寒風に耐えるのに比べれば、空気の冷たさに抵抗しているような気分になれる。ついでにいえば、俺はこんな日でも文句も言わず頑張っているのに、とも。


 気のせいかバスは、いつもより遅れてきたように思える。薄い油膜が張られているかのようにヌメり気のある車窓から、疲れた顔をして座る若い女性が見えた。その表情の理由はなんとなく分かる。頭越しに、いまの宗太と同じようにうなだれている、着ぶくれた会社員たちの姿があるのだ。

 

 車内に乗り込み、左右を見渡す。窓からのぞいた段階で分かっていたことだが、座れる席などありはしない。かろうじて右手奥に立っていられる隙間があるだけだ。

 宗太はできるかぎり他の乗客に触れないように気を払った。だというのに、ふいに後ろから誰かに押され、手すりに掴まる乗客にぶつかってしまった。


「すいません」


 と、ほとんど反射的に、首を小さく上下していた。謝罪の意思はない。反抗期の若者でもあるまいし、わざと人の肩にぶつかりはしない。不可抗力だ。後ろから押し込んできたやつのせいだ。

 深く息を吸い込んでしまう。しかし、吐きだしたりはしない。


 ――俺が悪いわけじゃないし、謝ったのは俺の気が弱いせいでもない。


 むしろ率先して謝ることで無用な争いを避けたのだ。たいしたものじゃないか。そう思いつつ、吊革を握りしめ、腕に体重の二割ほどを任せた。

 窓から差し込んでくる日の光に目を細める。陰に入った一瞬、窓に、不機嫌そうに眉を寄せる宗太の姿が映った。謝るべきだっただろうか。


 ――今朝も。


 宗太は脳裏をよぎった考えに、思わず苦笑してしまった。

 思い返してみれば、真奈とは結婚するより前から、ケンカらしいケンカをした記憶がない。険悪な雰囲気が醸成されれば、宗太の方から謝ってしまうからだ。そうに決まっている。


 たしかに真奈も宗太に気を使っているフシはある。だが、それは夫婦だからというよりも、互いを尊重するためには当然のことである。言うまでもない。真奈にしたって、分かっているはずだ。


 ――じゃあ、今朝のあれはなんだ。

 

 朝食を終えるまでは、いつもとまったく変わった様子はなかった。コーヒの濃さについて「ちょっと濃すぎじゃない?」と一言つけたのは自覚している。

 真奈は「そう? 宗太の淹れるコーヒーが薄いんじゃなくて?」と返してきた。

 マグカップを両手で包み込み、微笑みながら言ったのだ。怒っていない。


 ――むしろこっちがムッとしたんだ。


 けれどそれを口にしたところで、どうなるというのか。

 宗太は「そうかな? そうかもな」と頷きかえしていた。

 

 真奈に遠慮したのは、なにも今朝にはじまったことではない。家事だって任せっきりじゃ自分の時間がとれないだろうと、率先して引き受けてきた。もしかしたら、慣れていないのもあって、迷惑をかけたかもしれない。しかし、いつだって宗太の方から謝ってきたではないか。


 宗太は、今度こそめ息をいてしまった。

 ベージュのコートを着た若い女が宗太を見て、声を押し殺すようにして笑った。大学生だろうか。

 女は宗太の視線に気づいたか、さっと前を向いた。しかしすぐに背もたれ越しに宗太の顔を覗き見て、隣の男に笑いかけた。

 と、同時に。

 男は宗太をちらと見て、女になにか言った。女は憮然とした様子で座りなおした。


――ざまぁみろ。怒られたんだろ。


 心中で毒づいてみた宗太だが、気分が晴れるわけでもない。口の中には、濃すぎるコーヒーの苦みが、まだ残っているような気がする。

 宗太も、真奈を叱ったことがある。

 いつだったか仕事で使う書類を汚されたとき、学生時代から持ち続けてきた靴を捨てられたときだ。たしかにあのとき、声を荒げてしまった。非は真奈の方にある。 しかし、宗太は謝った。


 仕事で使う書類を持ち帰ったのは宗太自身であるし、汚れる可能性のあるところに置きっぱなしにしたのも同じだ。

 靴にしたって、宗太なりに大事にしてきたつもりではあるが、ろくに手入れや修理もせず、履くこともなかった。傍からみればゴミに見えても仕方がない。


 バランスの問題だ。声を荒げてしまったことも含めて、悪かった、といった。それは、平身低頭といった様子で謝る真奈の姿に同情したわけではない。

 真奈が謝ることになった原因は自分にもある、と思ったのだ。


 視界の端で、さきほどの若い男が手を伸ばし、女の髪をそっと撫でた。一言か二言つぶやいて、小さく頭を下げる。女もうなづき返していた。どうやら仲直りをしたらしい。


 ふいにバスが急制動をかけた。

 躰を振られた宗太は反射的に肘をあげた。なにかにぶつかった。乗客の背中だ。ダウンを着ている。

 ダウンを着た乗客は、目だけを動かし、宗太をジロリと睨んだ。

 

「すいません」


 宗太は頭を下げた。

 カップルと思しき二人に目をやると、互いに気遣いあっていた。


 ――若いなぁ。


 宗太は頬を緩めて窓の外を眺めた。

 止まったままのバスは、なかなか動きだそうとしない。

 腕時計に目を落とす。いつもよりも、数分、遅れている。道はそれほど混んでいるようにみえない。乗客でも拾っているのだろうか。

 

 宗太は背中を反らせて、乗車口を覗きこんだ。乗り込んでくる人がいるわけでもなさそうだった。再び時計を見る。どうやら一本か二本、電車を遅らせることになりそうだ。

 鼻で息を吐きだし、車内前方の電光掲示板に目をやった。表示されている時間は一分と変わらない。違う時計をみたところで、電車を逃す未来に、変化はおきない。


 掲示板の表示が切り替わった。×月××日。

 宗太は前に向き直り――慌てて見直した。×月××日。見直したところで日付は変わるわけがない。一人だけ凍てつく外気に晒されているかのようだ。


 ――結婚記念日、だっけか?


 正直、確信がもてない。だとしたら大失敗だ。

 宗太は今朝、朝食を終えてすぐ、真奈に言った。


「悪いんだけど、今日、遅くなるから。夕飯いらないし、先に寝てていいからね」


 真奈が不機嫌になったのは、その瞬間からの気がする。いや、そうに違いない。


 ――やっちまった。


 真奈は、どこか宗太と似ているところがあって、互いに譲り合ってしまう。だからこそ、籍を入れた日の夜、二人で約束をしたのだった。


「結婚記念日くらいは一緒に過ごすことにしようか」

「一緒に過ごすって、どれくらい?」

「どれくらいって、そうだな。えっと、睡眠時間を含めて十二時間以上、とか?」

「なにそれ。八時に宗太が家をでたとして、帰ってから四時間? 残業あったら?」

「そんときは、えーと、風邪でもひくよ」

「ほんきで言ってる? まぁ、私はいいけど。っていうか、ちょっと嬉しいけども」


 鮮明によみがえったはにかむような真奈の笑顔に、血の気が引いた。自分で取りつけた約束を、自分で破ってしまうとは。

 そう思った次の瞬間には、宗太はオレンジ色の降車ボタンを叩いていた。

 乗客のみなさま、お忙しい時間に申し訳ない、なぞと思いつつ、宗太はバスを飛び降りた。いつもよりも運行が遅かったのもあって、なじまパークサイドからは、それほど離れていない。

 気づけば宗太は、駆けだしていた。


 やたらと遅く感じるエレベーターを待っていられず階段を駆け、我が家のドアを力任せに開いた。


「真奈!」

「えっ? なに!? どうしたの!?」


 部屋の奥から声がして、

 真奈が小走りででてきた。目を丸くしている。

 宗太は膝に手をつき、荒い呼吸をくりかえしていた。運動不足だ。声を出そうにも出やしない。寒いなか走ってきたからか、喉も耳も痛い。

 真奈は、うなだれている宗太の耳を、両手で覆った。


「うわっ、冷た!」

 

 すぐに引っ込めた手に吐息を吹きかけ、冷えきった宗太の耳をつまんだ。


「どうしたの? 忘れもの?」

「ちがくて、そうじゃなくて」


 宗太は真奈の手を握り、顔をあげた。


「ごめん、忘れてた。ちゃんと、定時で帰ってこれるようにするから」

「へ? そんなこと言うために帰ってきたの? 電話は?」

「えっ」


 下から見上げた真奈は、きょとん、としていた。閉じられた唇の端がじわじわとあがっていき、ついにはこらえきれなかったか、噴き出した。


「もう、昔っから変なことばっかりするよね」

「なんだよそれ、慌てて帰ってきたのに」

「っていうか、定時って、なんで? なにかあったっけ」

「はぁ!? いやほら! 今日、結婚記念日だろ!?」

「は?」


 真奈の眉が露骨に寄った。明らかに怒っている。

 いやそれよりも、違ったのなら――、


「なんで今朝は不機嫌だったんだよ」

「えっ?」

 

 しばし考えていた真奈は指先を揃えて、宗太の頭に手刀チョップを落とした。


「痛って」


 宗太は頭を押さえた。


「なんだよ。朝、機嫌悪かったじゃんか」

「バカ。そっちは憶えてるのに、こっちは忘れるんだ」

「だから結婚記念日に――」

「そっちじゃないってば」


 そう言って、真奈は不満そうに両手を腰に当てた。宗太を見下ろすかのようにして、たん、たん、とスリッパでリズムまで取っている。


「二人で約束したよね? 結婚記念日は宗太の約束を守って――」

「あっ」


 宗太は結婚記念日の約束をした会話、その続きを思いだした。

 あの日、真奈は、しばらく考えてから言った。


「じゃあさ、結婚記念日から半年後は、我儘デーにしよっか?」

「はぁ? なにそれ?」

「結婚記念日でそれだと、宗太ばっかり大変でしょ?」

「そうか?」

「そうだよ。だからさ、ちょうど半年後は我儘デーにして、宗太は気をつかったりしないで、我儘いってもいい日にしよう?」


 宗太は、がっくりと肩を落とした。

 それを見て、真奈はにんまりと笑った。


「思いだした?」

「思いだした」

「私は、なんで不機嫌だったのでしょう?」

「……俺が、悪いんだけど、って言ったから」

「せいかい」


 弾むような声でそう言って、真奈は宗太を抱きしめた。

 

「まったく、いっつも先に謝っちゃうんだから」

「もういい。俺、今日は風邪ひくわ」

「我儘デーは、会社の人には通用しないよ?」


 真奈は、愛おしそうに、宗太の背を撫でた。


すっきり!

次回は二度目の推敲。

地の文の精度をあげる。また段落などの調整。

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