第七章:矢部桐人と巨影の焼却-5

 その言葉にどう返事をしたら良いのか、俺には分からなかった。

 十年後――。

 もし俺がこの場を切り抜け、そこから更に十年生き延びたとして、俺はその時、ああ、あの時死ななくて良かったと、そう思うのだろうか。

 それとも、やはりあの時に死んでおくべきだったと考えるのだろうか。

 分からなかった。


 ただ、一つ思い出したことがあった。

 自分のような人間は早く消えた方が良いと思うようになったのは、何も彼女が死んでからだけではない。子供の頃から、自分が母を殺し、父を不幸にして生まれてきたことを知ってから、ずっとそう考えていた。

 では、彼女と出会ってから、彼女を喪うまでもそうだっただろうか。

 そんなことはなかった。

 それだけは、けっしてなかった。

 あの頃だけは、自分は生きていて良かったと、そう思っていたはずだ。

 だったら、この先、たとえば十年後くらいになったら、またそんな風に思う日も来るのだろうか。まあ、そんな日が来たところで、その更に後にはまた、もっと早く死んでおいた方が良かったと思う日が来るのかもしれないのだけれど。


 結局のところ、未来のことなんて分からない。それこそ、彼女を喪うその直前まで、俺はそんな未来が来るなど想像だにしなかったのだし。

 ましてや、十年も先のことなんて分かるはずもない。

 分からないから、俺は――。

「有馬さん」

 無線機に向かって、咳込みながら伝える。

「俺は、三階にいます」

 分からないから、俺は保留にすることにしたのだ。

 死ぬのは俺さえその気になれば、いつでもできる。でも、もし今ここで死んだら、もう生き返ることはできない。さっきの疑問の答えは永久に分からないままだ。だからとりあえず保留にして、十年後に実際にどう思うようになったか、その答えが出てから、もう一度決めようと思った。


「分かった」

 有馬さんは、ただそれだけを口にした。しかしあの人のことだからきっと、救けに来るつもりなのだろう。だとしたら、俺だけがここで何もせずじっとしているというのも無責任だ。

 もたれかかっていた壁から背を離し、床にうつ伏せになって這い進む。

 脚の怪我のせいで立ち上がれないのだが、そうでなかったとしても、煙を吸わないためにできるだけ姿勢を低くする必要があった。

 ひとまず、目指すは下へと続く階段だ。少しでも、有馬さんが俺のもとにたどり着きやすい位置まで移動しなくてはならない。


 俺が生き延びることを、生きようとすることを、彼女は許してくれるだろうか?

 彼女が『お前など死ねば良い』などと言うところは、想像ができなかった。相手がどのような人間であれ、彼女はそんな言葉を口にするような人ではなかった。

 しかしだからといって、彼女だったらきっと『もう自分を責めなくて良いんだよ』と許してくれるに違いない、と考えるのもまた、都合の良い妄想であるような気がした。

 結局、これもまた分からないのだ。

 未来のことが分からないのと同様に、死者の考えもまた分かりはしない。

 有馬さんはきっと、たとえ許されなくても生きるのだと、そういうことを言っていたのだろう。ただ、そこまで思い切るには、今の俺にはまだいろいろと何か足りないようだった。

 だから、この問題も保留だ。

 こちらについては、十年経とうと二十年経とうと、答えは出ないのかもしれないけれど。


 次第に、意識が朦朧としてきた。

 酸欠のせいか、脚の怪我からの出血のせいか。それともその両方か。

 ひとまず保留することに決めたというのに、結局、俺は今ここで死ぬのだろうか。

 自分のその考えに、自分で苦笑する。

 保留しかしていないのに、決めたも何もないだろう。保留ばかりで何も決められず、何も選択しないまま、自分の意志とは無関係に死ぬ。

 それもまた、自分らしい終わり方かもしれない。

 霞みつつある意識の片隅でそんなことを考えた時、体がぐいっと持ち上げられるのを感じた。

「まったく、手間かけさせやがって」

 そんな言葉が、聞こえた気がした。

 それが幻聴かどうか確かめる間も無く、俺の意識は闇に沈んだ。

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