第七章:矢部桐人と巨影の焼却-4

 背後ですとん、と音がしたので振り向くと、ルルが床に座り込んでいた。

「ああ、ヤバイ、めっちゃ緊張した」

「おやおや、意外だね。君も緊張してたとは」

「何言い出すかなー。私みたいなか弱い一般人が生きるか死ぬか、殺すか殺されるかって状況になったらそりゃ緊張するっつーの!」

「か弱い一般人だったら普通、生きるか死ぬかと殺されるかはともかく、ここで殺すかは入ってこないと思うんだけどね」

 有馬にしてみれば、東雲の出方に加えて背後にいるルルの暴走も気がかりなポイントとなっていたわけで、ルルのせいで緊張感割増である。皮肉の一つくらい言いたくなるのはしかたがないことだろう。


「それはともかく、鍵を渡すから早く手錠を外してくれないか。矢部君の方が心配だ」

 手錠の鍵を外してもらいながら窓から様子を窺うと、炎で赤く照らされた外の景色に、少し前までは飛び回っていたはずのバッタの姿はほとんど見当たらない。たちこめ始めている煙に多少は紛れてしまっている可能性もあるが、矢部はバッタを誘き寄せることに成功したと考えて良いだろう。

 問題は、その矢部がどうなったかだ。

撃たれたとは言っていたが、作戦通りバッタの焼き討ちができたのだから、少なくともすぐに命に関わるような傷は負っていないのだろう。だが、はたして燃え上がる建物から無事に逃げ出せたのか?


 手錠が外れると、有馬は手早く準備を済ませて荷台から飛び出した。もはや襲いかかってくるバッタの群れはいないのだから、躊躇う理由は無い。建物に向かって走りながら、無線で矢部に呼びかける。さっき向こうから切られてしまったので、駄目で元々のつもりだったのだが、意外なことに応答があった。




 無線のスイッチを入れると、すぐに有馬さんの叫び立てる声が聞こえてきた。そんな大声を出さなくても聞こえるのに。

「ああ、有馬さん、バッタはどうです? まだ外にもたくさんいますか? 火をつける前にけっこう誘き寄せられたとは思うんですが」

「いや、もうほとんどいないよ。よくやってくれた」

 その応えを聞いて、俺は安堵した。どうやら、無事に自分の役割を果たせたようだ。


「で、君は今、いったいどこにいるんだい? まだ建物の中か?」

「ああ、俺のことは気にしないで大丈夫ですよ」

 無線の向こうの声が一瞬沈黙した後、ややゆっくりとした、恐る恐るという表現が当てはまるかもしれないような言い方で、再度尋ねてきた。

「もう一度聞くが……今、どこにいる?」

 やれやれ、こっちのことをは気にしなくて良いと言ったのに。もうちょっと言い方を考えるべきだったか。今更、既に外に逃げたとか嘘をついてもバレバレだろう。まあ、こうなったらいっそ、もう手遅れだと早めに諦めてもらった方が良いか。


「お察しの通り、まだその燃えている建物の中ですよ」

「なっ……なに平気そうにしてるんだ馬鹿! それのどこが大丈夫なんだ?! すぐそっちに行くから建物のどのあたりにいるかさっさと教えろ!」

 俺は苦笑する。大丈夫というのは、そういう意味で言ったわけではないのだが。

「ああ、すみません、勘違いさせてしまって。大丈夫というのはですね、俺がここで死んでも大丈夫という意味ですよ。大丈夫どころか、むしろ死んだ方が世のため人のためになるでしょうね。だから、救けに来る必要なんてありません。有馬さんが自分の身を危険に曝してまで来なくても、全然大丈夫なんですよ」


 そこまで言って、俺は咳き込んだ。

 廊下に燃えそうなものがあまり無いためか火の回りは遅いが、煙はどんどん燃え盛る部屋から溢れ出してきて、こちらの喉を痛めつける。これは焼死ではなく酸欠死することになるのだろうか。焼死と酸欠死、どちらの方がより苦しい死に方なのだろう。

 俺としてはまあ、世のため人のために自分が消え去ること自体に異存は無いが、できるならあまり苦しまずに死にたいものだ。しかし彼女は、俺ができるだけ苦しんで死ぬことを望んでいるかもしれない。


「有馬さん、俺はね、これまで周りの人達の役に立つこともなく、害ばかり与えながら生きてきました。誰にとっても必要でないばかりか何のプラスにもならず、ただただマイナスになってきた人生ですよ。そのマイナスが、今ここで、ようやくゼロになる。これ以上、マイナスを重ねることもなくなるわけです。俺はね、それが嬉しいんですよ。だから……だから、本当に、大丈夫です。それに、最後にようやく一つ、人の役に立つこともできましたしね」


 もうこれ以上言うことも無いかなと思ったのだが、走り続ける足音らしいものが無線機からまだ聞こえてくるのに気づいて、最後にもう一つ付け加えた。

「ああ、有馬さんがこっちに来たりして道連れにしちゃったら死んでも死にきれないんで、それはやめてくださいね。それじゃ、ルルさんにもよろしく伝えておいてください」

 言うだけ言って、相手の返事は聞かずに無線機を持った腕を下に降ろす。もう、腕を持ち上げ続けているだけでもきついのだ。

 そのまま無線機のスイッチを切――ろうとしたのだが、まさにその刹那、耳をつんざかんばかりの怒鳴り声が叩きつけられた。

「この阿呆が!! さっきから黙って聞いていればトンチキなことばかり言いやがって……!」

 もし無線機を耳にあてたままだったら、本当に鼓膜がどうにかなってしまっていたかもしれない。それくらいの威力がある音量だった。


「お前、自分の存在が誰にとっても必要じゃないしプラスにもならないから死んでもいいとか死ぬべきとか、そんなことを言ったな?」

「はあ、ええ、まあ」

「この大馬鹿野郎が!」

「ええと、あれですか? 世の中に要らない人間なんていないとか、死んでもいい人間はいないとか、そういうことが言いたいんですか?」

 これから死のうとしている人間にかける言葉としては、王道と言える。王道ということは、まあつまり、月並みでもあるということなのだけれど。

 俺としては、今更そんな月並みな慰めをされてもなぁ、という感想しか出てこない。

 いや、必死で俺なんかを救おうとしてくれている有馬さんに対して、そんな感想を抱くのは随分と失礼な話ではあるのだけれど。


 しかし、有馬さんからは想定外の言葉が返ってきた。

「逆だ、馬鹿!」

「ぎゃ、逆?」

「お前が誰にも必要とされない? 世の中のプラスにならず、他人の害にしかならない? まあ、俺はお前のことなんか大して知らないし、お前自身がそう言うならそうなのかもしれないな」

「はぁ……」

「だがな、そんなのは……そんなのは、だろ」


 は?

 何を言っているのだろう、この人は。

「え、いや、普通ってことはないで」

「普通だよ」

 皆まで言わせてももらえない。

「種レベルならともかく、個体レベルで必要とされるようなやつなんて、この世界にほぼいねえよ。それこそ絶滅危惧で個体数がよっぽど逼迫してるわけでもない限り、いなくなったところですぐに同種の別個体が代わりにその生態的地位に入る。そいつがいなくなったら代わりにその地位に入れる同種個体にとっちゃ、いなくなってくれた方がむしろプラスな存在だし、その他の生物にとっちゃどうせすぐ代わりが入るんだからいようがいまいがどっちだって良い存在だ。こいつら――」

 向こうで何かあったのか、二、三秒ほど言葉が途切れた。

「――このバッタどもだってそうだ。大量発生して周囲の生き物全てを喰い尽くすバッタなんて、人間にとっては言うまでもなく、生態系にだって害ばかりの存在だろうさ。それに――俺だって、同じだ」

 何を言って――?


「俺は、俺を必要としてくれる、俺が役に立つべき、ただ一人の人間を失った。もう十年も前の話だ。だからその時以来、俺は、俺以外の誰にとってもいなくても良い、むしろいない方が良いかもしれない存在だ。だけどな、たとえあの時以来、俺の存在が世界中の誰にとってもマイナスでしかなくて、世界中の誰もがお前なんて死んでしまえと思っていたのだとしても! 他人どころかあの頃の俺自身すら、自分なんて消えてしまえば良いと思っていたとしても! それでも、少なくとも。だから、もしお前が十年前の俺だったら、俺はこう言うよ。お前が誰にとっても不必要で、世の中にとって害でしかなくて、どうしようもなく意味も無ければ意義も無く、何一つとして価値の無い存在だったとしても、それでも生きろって! 正義を踏みつけてでも倫理を踏みにじってでも、十年後の、この俺のために、今の俺がこうして存在するために、お前は生きろって。そう言うよ! お前はべつに十年前の俺じゃないから、いちいちそんなこと言ってやらないけどな!」

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