第六章:矢部桐人と焼却への道-4

 階段は更に上の階にも続いてはいたので、上がればもっと条件の良い部屋がある可能性も無いではない。しかしながら、重いガソリン携行缶を持って上がるのは三階までだって骨だ。更に上の階というのはできれば考えたくない。


 開いている窓が無いことを確認してから、試しに電灯のスイッチを入れてみる。まばゆい光に、思わず目を細めた。ずっと誘導灯の明かりだけを頼りにしてきた目が馴染むには、少し時間を要した。

 そして、再びしっかりと目を見開けた時には……もう、窓一面にびっしりとバッタが張り付いていた。光を求めてざわざわと蠢くバッタ達は、さながら亡者の群れのようだった。子供の頃に幼稚園で読んだ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の絵本に登場する亡者達。カンダタへと垂らされた蜘蛛の糸に集まるその姿は、子供向けの絵本にも関わらずやけに生々しく描かれていて、それからしばらくは夜に電灯を消した部屋にいると、暗がりから亡者達が湧き出てくるような気がして泣きだし、父を困らせたものだった。

 まったく、父には何から何まで迷惑ばかりかけた。


 つけた電灯を、いったん消す。

 今はまだ、バッタを集めるには早い。順序としては、まず部屋にガソリンを撒き、布を裂いて作った導火線を部屋の外まで引く。そして窓を開けてバッタが入れるようにしてから、電灯をつけてすぐに部屋を出て扉を閉める。そして、バッタが十分に部屋に集まってから火をつける。

 窓を開けただけでは、バッタはわざわざ部屋に入ってこようとはしないだろうから、一番危険なのは電灯をつけてから部屋を出るまでの間ということになる。

 とはいえ、たいていの部屋がそうであるように、電灯のスイッチは出入り口の扉のすぐ横にあるので、点灯から退避までにはさほど時間を要しない。

 危険性はそれほど高くはないだろう。


 ここを死に場所として受け入れたつもりだったが、車から外に出た時も意外と襲われずに済んだし、この分だとここでも俺は生き残ってしまいそうだ。

 まあ、ここでバッタの群れを無事に潰滅させることができれば、今回は俺だけが生き残るわけではなく、有馬さんやルルさんも助かる。それに、あの時死ななかったことに対する言い訳も一つできる。

 それで良しとするべきなのかもしれない。


 何はともあれ、まずはガソリンをここまで運び上げないことには話にならない。グズグズしているうちに東雲の援軍が来てしまって、車に残った二人が殺され、俺だけがまた生き残るなんてことになったら、それこそ最悪だ。


 嫌な想像をしてしまった俺は、急かされるように階段を降り、置いてきたガソリン携行缶のもとに走った。

 行きはそれで良かったのだが、さすがに帰りは重い携行缶を担いだ状態なので、走ることはできない。それでも最初のうちは早歩きを心がけたが、階段にたどり着く頃には歩くだけで精一杯になっていた。

 個人的には、途中で携行缶を下ろして休憩したりせずに、ここまで運びきっただけでも褒められて良いんじゃないかと思う。


 ……いや、まだ運びきってはいないのか。寧ろここから、さっきまでより大変な運び上げる作業が始まるのだ。

 ここでも最初のうちは担ぎ上げたままで階段を上がっていたのだが、次第に腕が痛くなってきて、踊り場を通り過ぎる頃には一段分持ち上げては下ろし、持ち上げては下ろしを繰り返すようになってしまった。掌にも汗がじっとりと滲んでいる。

 ようやく二階にたどり着き、携行缶を床に下ろして額の汗を袖で拭く。

 バッタの攻撃を防ぐために厚着をし、顔面も覆っているせいで運動が尚更きつい。呼吸も苦しいので、顔の布はもう外してしまうことにした。

 この建物の中にも、俺が連れ込んでしまった生きたバッタがいるにはいるが、数匹程度だ。仮に襲われても何とかなる。さっきはこちらに興味を示すよりも、仲間の死骸を食べるのに夢中だったし。そういえば、あの喰われていた方のバッタは何故ここで死んだのだろう? 俺が踏んだ時にはもう頭が半分無かったわけだから、その前に死んでいたのは確かだが、喰っていた方のバッタに殺されたのだろうか? まあ、どうでも良いことではあるけれど。


 再び携行缶を一段ずつ持ち上げては下ろしを繰り返しながら、今度は二階から三階への階段を上がる。

 踊り場までたどり着き、携行缶を下ろそうとした時、背後でずずっ、と何かを引きずるような音がした。そういえば、最初に三階まで上がろうとした時も何か音がしたんだったな、その原因を確かめておこうと思って結局忘れていたな、と思いながら振り返った俺の目に、人体模型の姿が映った。

 

 軍服を着た人体模型――いや、そうじゃない。

 

 顔面の皮膚を喰い荒らされ、筋肉が露出して人体模型のような姿になってはいたが、それは人間だった。瞼を失ったぎょろりとした眼球が、こちらを見据えている。

 その服装には、見覚えがあった。

 東雲の仲間の兵士だ。体表を喰い荒らされながらも命からがらここへ逃げ込んでいた奴がいたのか。さっき見た死んだバッタは恐らく、こいつがここに入ってから、自分の体についていたものをはたき落とし、そして殺したものだったのだ。


 もはや歯根まで露わになっている口角がにいぃっ、と上がる。

 笑った?!

 笑うのか、そんな姿になっても。

「……に感謝を。最後に……い人の手先を道連れに……」

 そいつはおもむろにこちらへと銃口を向けた。

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