第六章:矢部桐人と焼却への道-1

 出る時にできるだけ細く開けた扉を、すぐに閉じる。灯りは消していたので、バッタが中へと引き寄せられることはなかっただろうが、もしかするとたまたまそっち向きに飛んでいた奴が二、三匹くらいは入ってしまったかもしれない。

 これがゾンビ映画なら、たとえ少数でも入り込まれてしまえばそこからどんどん増えて悲惨な結末が待っているところだが、バッタなら少々入ったところで中の人達がどうとでもしてくれるだろう。


 扉を閉めた後、俺はしばらくそのままの体勢で動かずじっとしていた。飛んできたバッタが何匹か体に張り付いたが、それだけだ。東雲の仲間達がやられた時のように、大量のバッタが殺到してくるということはない。張り付いている数匹も、ただそこで休んでいるという感じで、こちらを齧ろうとする様子は見せない。

 やはり、有馬さんの言った通り、動いているものを獲物と認識するようだ。死体にも集まっているから血の匂いとかそういうのにも反応するのかもしれないが、幸いにして俺はどこも怪我はしていないし、肌の露出も無いから触覚をもとに餌と認識されることも無いはずだ。


 とはいえ、まったく動かないままでいては、わざわざ外に出てきた目的が果たせない。俺は非常に緩慢な動作で屈み、そこから前方に手をついて膝も地面につけた後で、更に足を後方に延ばし、地面に腹這いになった。そのまま、匍匐ほふく前進でゆっくりと進む。


 匍匐前進で進むのは、飛び回るバッタの視界にできるだけ入らないようにするためだが、果たしてそれにどのくらいの効果があるかは分からない、と有馬さんは言っていた。地面を這うような動物を普段から獲物にしているのであれば、常に下方に注意を払っているかもしれない、と。

 それよりも重要なのは、ゆっくりと動くことだという。

『昆虫は多くの場合、素早く動くものには敏感に反応するが、ゆっくり動くものに対しては逆に意外と気がつかない。この性質を利用し、スローロリスなどはゆっくり動くことで逆に昆虫を簡単に捕まえてしまうことができる』

 ということらしい。


 匍匐前進が良かったのか、それともゆっくり動いたことが良かったのか、バッタに襲われることもなく順調に進めた。

 といっても、背中側は見えないし、厚着をしているからバッタが降り立っていたとしても、その程度の感触で気づくことは多分ない。そうなると、もしかしたら既に背中にはバッタが何匹も乗っていて、服に穴を開け始めている可能性もあるのだ。

 だからといって、急ぐこともできないのが辛いところである。


 ここを死に場所として受け入れたとはいえ、俺はまだ何も達成していない。バッタをどうにかしてルルさん達を助けるわけでもなく今の時点で、そんな道半ばで死んでしまっては、まさに無駄死にだ。できればそれは避けたい。


 ヴァヴァヴァとでも表現するしかないような羽音を立てて、すぐ横に一匹のバッタが着地してきた。ぎょっとしてそちらに視線を向けるが、バッタはその場で触角だけ動かしており、こちらに近づいて来ようとする様子は無い。どうやら、こちらに気づいてやってきたわけではないらしい。

 無意識のうちに止めていた息をふぅ、と吐き出して、またゆっくりと前進を始める。よく見ると、他にも地面のそこかしこにバッタが点在していた。特に、間近にいる場合はほぼ同じ目線の高さでそれを見ながら進むことになり、正直言ってあまり気分の良いものではない。

 顔を布で覆っているせいで息が苦しいな、と何故か今になってそんなことに気がついた。


 いかに匍匐前進でゆっくりと進んでいるとはいえ、たかだがトラックの荷台から運転席までの距離である。さほど時間はかからず、無事にたどり着くことができた。腹這いになった時とは逆の動作で、またゆっくりと立ち上がる。


 有馬さん曰く、車のキーは挿しっぱなしということで、ドアも問題なく開いた。人気のない調査先では、人間の車泥棒を警戒するよりもUMAに襲われた場合にすぐ逃げられるようにしておくことが重要だということで、基本的にそうしているらしい。


 運転席に体を滑り込ませてから、素早くドアを閉めた。バッタの注意を引くのをできるだけ避けるためには、ドアもゆっくり閉めた方が良かったのかもしれないが、ここまで来たらさっさとバッタをシャットアウトしてしまいたかったのだ。

 ドアの動きに反応したのか、十匹ほどのバッタが向かって来たが、幸いにしてすぐ近くを飛んでいたわけではなかったため、こちらがドアを完全に閉める方が先だった。ごん、ごんと音を立てながら、飛んできたバッタ達がドアの窓ガラスへとぶつかる。


 それを見ながら、ふーっ、と溜息をついて運転席の背もたれにもたれかかると、背中で何かが潰れるような嫌な感触がした。これはもしや、と思い、背もたれから背中を離して振り返ると、予想通りと言うべきか、体液や内蔵を周囲にはみ出させた数匹のバッタが背もたれにくっついていた。

 まだ手足や触角を動かしているそいつらを捕まえて床に落とす。弱々しく這って逃げようとする姿に、一抹の哀れみを覚えた。

 しかしそんな感傷は振り払って、一匹ずつしっかりと踏み潰してとどめを刺す。


 後で、有馬さんに車を汚したことを謝っておかないとな、と思った。

 まあ、UMA探偵なんて仕事をしているのだから、そんなことはあまり気にしないかもしれないが。

 そこまで考えて、有馬さんに無線で連絡を入れておかなくてはいけないことを思い出した。運転席と荷台で話すだけなら別に無線を使わなくてもいけるのだが、この後、俺はこの施設の建物に侵入したりしなくてはいけないため、今のうちに使えることを確認しておきたいらしい。


 教えられた通りに、無線機のスイッチを入れて、有馬さんに繋ぐ。

「もしもし、有馬さんですか?無事に運転席に入れました」

「ああ、うん、見えているよ。無線も問題なく動作しているみたいだね」

 無線機と背後から同時に有馬さんの声が聞こえてきた。

 見えている? と最初は怪訝に思ったが、よく考えたら、荷台と運転席の間の仕切りには小さいとはいえ窓がついている。


「この後は、車を、その鍵がかかっていなかったっていう建物の出入り口のところまで動かせば良いんですよね?」

 そう確認を取っていると、すぐ目の前で紐のようなものが二本揺れているのに気がついた。それが何か、ということに思い当たるよりも先に、ぬっ、と上からバッタが顔を覗かせた。

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