第二部:UMA探偵と巨影の消却
プロローグ「志士は溝壑に消滅する」
シシャァァァ―ーーーーッ
こちらを見上げ、威嚇の声をあげる大蛇の姿に、彼は身震いした。この距離ならば攻撃は届かないと分かってはいても、本能的な恐怖が湧き上がってくるのを抑えきれず、つい目を背けてしまう。
夕日を浴びて、ぬめりを帯びた巨体をてらてらと光らせたそいつは、彼の目には蛇のようにしか見えない。唯一の違いは、首のあたりから突き出した、翼のようにも指の長い掌のようにも、あるいは触手のようにも見える器官くらいだろう。しかし厳密に言えば、これは蛇とはまったく違う生物なのだという。
もっとも、彼にとっては、そんなことはどうでも良いことだった。
彼にとって重要なことはただ一つ。
人類が滅ぼされ、このようなおぞましい生物達が地球の支配者となるような事態を回避すべく、あの御方の下で戦うことだけだ。
世界の滅亡を予見し、予言し、そして予防すべく我々を導いてくださっているあの御方の期待に、応えなくてはならない。
彼は、一度は逸らした目で、再び大蛇を見据えた。
本当に恐ろしいのは、こんなうすらでかいだけの蛇ではない。真におぞましく、冒涜的とすら言える生物は、こいつではないのだ。この程度のものに恐れ慄いているわけにはいかない。
所属する組織において、彼はまだ新米であり、末端の一兵卒にしかすぎない。しかしながら、導き手である“あの御方”に対する忠誠心と、世界を救わんとする志においては、古参のメンバーにも負けないという自負があった。
キシャシャァァァ―ーーーーッ
大蛇がまた、威嚇の声をあげた。
しつこい奴だ。敵がここで管理していた生物の中には、自分達の活動に有用なものもあった。だがこの凶暴にして凶悪な大蛇に、たいした利用価値があるとも思えない。この施設を敵から奪取した際に、さっさと処分してしまった方が良かったのではないだろうか。
そこまで考えた時、彼は漸く、威嚇の声を発する大蛇が見据えているものが、彼ではないことに気がついた。
見ているのは、彼の背後。そこにあるのは……空だ。
そして、その空からは、ヴァヴァヴァ……と耳慣れない音が響き、近づいてくる。
彼は、振り返った。
何の心の準備も無く、ほとんど反射的に、そうしていた。
「なんだ、これは……」
それは、最初、空中を巨大な蛇、あるいは龍が体をくねらせながらこちらに向かって来ているように見えた。だが、蛇にしてはあまりにも大きすぎる。
眼下の飼育区画で鋭い牙を剥き出しにして威嚇している大蛇も、全長二十メートル近くある巨体だ。だが、それと比較してなお……否、比較にならないほど、空を渡ってくるそれは巨大だった。
やがてそれの正体がはっきりと視認できる距離まで近づいてきた時、彼は声にならない悲鳴をあげた。
走り出す。脇目も振らずに。
ヴァヴァ……ヴァヴァヴァ……
音がどんどん、近づいてくる。それのたてる羽音だ。
その音に追い立てられるように、最も近くにあった建物を目指して、ただただ走る。通用口から飛び込むと、叩きつけるようにしてドアを閉め、すぐに鍵をかけた。
冷静に考えると、あれがドアノブを捻ったりするはずもないので、鍵をかけるという行為は、実際のところ無意味だったかもしれない。しかしながら、彼は既に冷静では無かったし、仮に頭ではそう分かるくらい冷静だったとしても、心理的にはそうせずにはいられなかっただろう。
ドアに背を預けて、息をついた。
間に合って、良かった。とにかくこの事態を一刻も早く、施設内にいる他のメンバーと、そして本部にも連絡しなくては。
そう思って懐から無線機を取り出した時、前方……廊下の先から、悲鳴が聞こえてきた。そして、あの音も。
膝が笑いだした。
誰かが、この建物内にあれの侵入を許してしまったのだ。
もう、ここにはいられない。
彼は、ついさっき自らの手でかけたばかりの鍵を開け、外へと飛び出した。
走る。
目指すのは、駐車スペースに停めてあるはずの車だ。
車があれば、車さえあれば、ここから逃げ出せる。
まだ日は沈みきっていないはずなのに、空はすっかり暗くなっている。走りながら見上げると、それが、大きく広げたその黒い羽で、光を遮っていた。
そして、走る彼の動きを捉えたそれは、空から急降下し、こちらへ向かって来ようとしていた。
半ばパニックになりながら、腰のホルスターから取り出した拳銃を乱射した。そんな銃ではほとんど何の効果も無いことは、頭の片隅で理解していた。だが、それでも、そうせずにはいられなかった。
弾はすぐに無くなった。
自分には、あれに対抗できるような武器は何も無い。
だが。あと少しだ。
あと少しで、車まで辿り着ける。
その時、踏み出した右足が一瞬地面を捉え損ね、バランスが崩れた。体の前面が、強かに地面へと打ちつけられる。見ると、排水用に掘られた溝があった。そこに、足を突っ込んでしまったのだ。
普段は蓋がしてあるのに、今日に限って、そこに限って、蓋が外されていた。
なんという不運。
その不運を嘆くよりも先に、もう一度立ち上がって走り出そうとした彼の右足を、鋭い痛みがはしった。転倒した際に、挫いてしまったのだ。
それでもなお立ち上がろうとした彼の首筋を、手を、そして全身を、足を挫いた時とは比べものにならない激しい痛みが襲った。
いやだ。こんな死に方はいやだ。
正式に組織の一員となった時、彼は、自分達の使命が命の危険を伴うものだということも分かっていた。任務に際して、敵の手にかかって命を落とす可能性も想定していた。
だが、こんな死に方は、考えてもいなかった。
こんな名誉も誇りも何のドラマもなく、犬死にと呼ぼうにも、昨今では犬だってこんな死に方はそうそうしないような、ただただ餌として一方的に喰われるだけの死に方なんて、想定もしていなかった。
苦悶の叫びをあげる彼の頭からは、つい先程まであったはずの誇りも、志も、使命感も、忠誠心も、全て消え去っていた。
ただ、苦痛と後悔だけが、残っていた。
こんなことに、関わるんじゃなかった。
そして、その苦痛と後悔も、じきに消滅した。
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