幕間「人喰いミズコさんの噂」その3
その頃、孤児院に新しい職員が入ってきた。
それまでは、その孤児院の職員達は皆、基本的に善良な人間であり、漫画やドラマでありがちな児童を虐待するような者もいなかった。しかし、新しくやってきたその職員は、不埒な考えを持つ男であった。彼は、中学生にしては発育の良かったミズコに目をつけ、彼女の部屋の扉に一見すると分からないような小さな覗き穴を開けておいた。そして、彼女が学校から帰ってくるのを見計らい、制服から着替えるのを覗き見していたのである。
だが、ある日、いつものようにミズコが帰るなり覗き見を始めたその職員は、いつもとは違うものを見ることとなった。
彼女は自室に戻って早々、着替える時間分も待てないと言うようにうきうきと鞄から何かを取り出すと、肉切り包丁で食べやすいサイズに切断し始めたのだ。
最初、その何かは彼女の陰になっており、覗き穴からはよく見えなかった。そのため、職員は怪訝に思いながらも、彼女が着替えを始めるまで覗きを続けることにした。だが、彼女が身体の位置を少しずらした時、切っているそれが人間の腕であることに気がついた。
ここでその職員が大悪党であれば、例えば、これをネタにして彼女を強請り、肉体関係を強要しようと――人間の肉を死体から切り取って食べようとするような相手とそんな関係を持ちたければだが――したかもしれない。しかし現実にはこの男、悪党は悪党でも所詮は小悪党であり、眼前の光景にただただ恐怖し、孤児院中に響き渡るような悲鳴をあげてしまった。
言うまでもなくその悲鳴はミズコの耳にも入り、彼女は慌てて切りかけの腕を机の引き出しに放り込むと、自室の扉を開けた。そして、そこに腰を抜かしてへたり込んでいる職員の姿を認めると、手にしたままの肉切り包丁で彼の口を封じようとした……が、「何ごとですか?!」と叫びながら駆けつける他の職員や児童達の足音を耳にし、寸前で思い止まった。そして、彼らの視界に自分が入る直前、咄嗟の判断で、制服のボタンを上から三つほど外した。
「いったい何があったんです?さっきの悲鳴は?」
状況をよく飲み込めないまま、困惑した表情でミズコと新入りの職員を交互に見る院長に対し、ミズコは職員が口を開く隙を与えずにまくし立てた。
「着替えていたら、誰かに見られているような気がして、怖くなって家庭科の授業用に用意してた包丁を持ってドアを開けたんです!そしたら、その人が部屋を覗いてて!」
院長は冷めた目で新入りの職員を見た。
「本当かね、君?」
「ち、違……」
職員は抗弁しようとしたが、目が泳いでしまっていた。何しろ、覗きをしていたのは事実である。
追い打ちをかけるように、女子児童の一人が、怒りを込めた声で言った。
「院長先生、ここを見て下さい!ドアに覗き穴があります。前はこんなの、無かったはずです!」
「……私の部屋で、ゆっくり話を聞かせてもらいましょうか?」
院長は床にへたり込んだままの職員の腕を掴んで引き上げ、力づくで立たせると、そのまま院長室まで連行しようとした。
ミズコは安堵した。
他人の目を欺く技術にかけては、こんな低俗な小悪党など自分の敵ではなかったのだ。
勝負は決したかに思えた。だが、窮鼠猫を噛むという言葉もあるように、追い詰められた時ほど、人は想定外の行動を取るものだということを、彼女は失念していた。
「お、おおおおお俺は悪くない、悪くないぞおおおぉぉぉッ!悪いのはそいつだ!その人喰い女だ!」
職員は発狂したように叫ぶと、院長を突き飛ばし、ミズコの方に突進した。彼の手が、死体の腕を隠した机の引き出しに向かって延ばされるのを見たミズコは、反射的に手にしていた肉切り包丁で職員を斬りつけてしまった。その行動自体が既にまずかったが、彼女にとってなお悪いことに、既に職員の指は引き出しにかかっており、倒れる彼の体重がかかって引っ張り出されたそれは、中身を院長や他の職員、児童達の眼前にぶち撒けた。
一瞬遅れて、児童達の悲鳴が響き渡った。院長は言葉を無くして呆然と立ち尽くした。ミズコの悪行は、皮肉なことに正義によってではなく、別の悪によって暴かれたのである。彼女は一瞬、逡巡したが、口封じをするには目撃者が多過ぎると判断すると、身を翻し、窓から飛び出すと夜の闇へと姿を消した。
後日、警察の捜査により、彼女の部屋の床下から、大量の人骨が発見された。だが、ミズコ本人は、今に至るまで見つかっていない。彼女は今でも、忘れられない人肉の味を求めて、どこかを彷徨っているのだ。
それは、あなたの町かもしれない。
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