二、覚醒

『例え望まれぬ生であったとしても、この世に生まれた以上、生きる権利がある。あの方は行き場のない我らに、そうおっしゃってくださったのです』


 自分の教育係だったセルヴィが、父のことをそう誇らしげに語っていたことを、リュートは今でも覚えている。自分たちが暮らすディスタ村の成り立ちについて、初めて教わったのは十二歳の時。リュートはその時になってようやく、ディスタがサーディアム教を信仰していない理由を知った。そもそもの素性が全く違う父を慕い、自分たち家族を慈しんでくれる大好きな村人たち。その彼らが抱える、悲しい過去も。

『ねぇ、セルヴィ』

『はい?』

『セルヴィは今、幸せ?ディスタに来て、良かった?』

『…リュート様…』

 リュートの家族、ガイル一家を含め、ディスタの村人たちは全員混血児だった。それが当たり前の環境で育ってきたリュートは、今まで何一つ疑問に感じたことは無かったが、この世界では本来いけないことなのだという。

 生まれた瞬間に殺される者もいる中、ガイルは密かに生き延びた混血児たちを集め、この村を作った。その存在全てが禁忌とされるゆえ、決して表ざたにすることはできず、厳しい環境下ではその生活も決して楽ではない。だが、リュートはこの村での暮らしが嫌いではなかった。互いに協力し合い、笑顔を浮かべている村人たちもみな大好きだ。そんな彼らに救いの手を差し伸べた父の行いは、まさしく尊敬に値する。

 だが、リュートは急に不安になって、人狼族との混血であるセルヴィを見上げた。普段はリュートの教育係として、勉学や剣を教えてくれるが、セルヴィは父の右腕として参謀役も兼ねている。がっしりとした身体つきにいつも笑顔を絶やさない彼は、リュートにとって実の兄のような存在だった。そんな家族のようにも感じている彼らは、本当に幸せを感じているだろうか。ディスタに来て良かったと、安心してくれているだろうか。

 そんなリュートの表情が、よほど心配そうに見えたのか、黒板の前に佇んでぽかんと口を開けていたセルヴィはすぐに笑って歩み寄った。しゃがみこんで椅子に座ったままのリュートに目線を合わし、優しく頭を撫でてくれる。

『当り前です。さっきも言ったでしょう?ガイル様は俺たちに居場所を与えてくださったと。家を与え、食事を与え、仕事を与えてくださった。こんなにたくさんの守るべきものを、ね』

 その言葉に、リュートはほっとして頷いた。ようやく笑顔を見せたリュートにセルヴィも満足気に頷く。そのままゆっくり立ち上がったゼルヴィは、窓の外を見やって言葉を続けた。

『この村で生まれ育った者もだいぶ増えましたが、殆どがガイル様に連れられて、外からやってきた者たちばかりです。確かにみな一様に、辛い過去や傷を負っている。でも、この村に来て初めて存在を認められた。それがどんなに幸せなことか…』

 外はどんよりとした曇り空。陽の光が射すことのないこの大地では、いつもの見慣れた空模様だった。その景色が視界に入っていないかのように、セルヴィはどこか遠くを見つめながら淡々と語る。


『だから、時々思うんです。月神ユーディアトは、この喜びも温もりも知ることができなかった。そう考えると、荒んでしまう気持ちも分からなくはない。荒らぶる邪神になってしまうほどの孤独……その深さは、どれほどのものだったんでしょうね…』




「………」

 そんな懐かしい夢のまどろみから、リュートはゆっくりと目を覚ました。ぼんやりと滲んだ視界が徐々にクリアになっていく。

(ここは…)

 一瞬、自分の自室かと錯覚したが、目に入ったのは見慣れぬコンクリートの天井。

(違うっ!捕まったんだ!!)

 ふいにこれまでの経緯を思い出し、リュートは慌てて身体を起こそうとする。

「っ!!」

 だが、リュートの意思に反して、身体はピクリとも動かない。

「なっ…ん、で…」

 指一本まともに動かずことができず、リュートはますます焦りに捕らわれた。顔の筋肉も引き攣るようで声もまともに発せない。

(落ち着け。落ち着いて考えるんだ)

 リュートは起き上がることを諦め、視線だけで周囲を見回した。だが、頭を動かすこともできないため、天井以外の何も見えない。室内に人の気配は感じられなかった。どうやら、この部屋にいるのはリュート一人だけらしい。

(ルシィ…)

 弟はどうなったのか。状況が掴めない中、今はただ姿の見えない弟の無事を祈ることしかない。

 「く、そっ…!」

 あれからどれほどの時間が経ったのか。ずっと眠り続けていたせいか、喉が酷く渇いていた。だが、上手く声が出ないのは渇きのせいばかりではないだろう。意識ははっきりしているが、何度力を入れても全く動かない身体の状況も考えて、何かしらの薬物を使われたのは間違いない。

(何のために……)

 村を教わったのは見慣れぬ軍旗を掲げた、謎の軍隊だった。そう母は言った。リュートも雪原で襲われた際に、敵の姿を見ていない。森が見えて油断していたとはいえ、本当に気配すらも感じなかったのだ。まさか、あんなすぐ近くまで迫っていただなんて。

(何者なんだ…)

 ディスタの存在を知っているのは、密かに交易のあるエクシン国しかいない。だが、そのエクシンですら違うとなると、リュートには侵略者の正体も目的も思い付かなかった。村はどうなったのか。母は無事なのか。父は村の異変に気づいていないだろうか。祈るように思いを巡らすリュートの耳に、遠くから何かが開く音が聞こえた。

(誰か来る…)

 随分と重そうな開閉音の後に、数人の足音が聞こえる。リュートは息を呑んで身を固くした。警戒しながら耳を欹てていると、近づいてきた足音はこの部屋の前で一度止まり、また鍵を開けている音が響く。ドアを開けて室内に入ってきた者たちは、無言でリュートが横たわるベッドに近づいてきた。

(四人…)

 足音からその人数を察したリュートは、傍に現れた人影を見上げる。視界に入ったのは二人。そのうちの一人がリュートの視線に気づいて声をかける。

「気がついたか」

「……」

 まず目を引いたのは、遠くから見ても一目で分かるであろう、肌の色。褐色の肌をしたその男は、癖のある長い黒髪を纏めることもなく、背中へ無造作に流している。身につけているのは紺色の布に金糸で縁取られた見慣れぬ軍服。がっしりとした身体は逞しく鍛え上げられたことを予想させ、威風堂々とした品格さえ感じられた。

(この男が…)

 恐らく、敵のリーダーだ。リュートは瞬時にそう判断した。その傍らに立つもう一人に視線を向けると、苔色のマントを羽織った男が恭しく頭を下げる。

「初めてお目にかかります、月神の末裔よ。お会いできて光栄です」

「………」

 リュートはマントの男が言った言葉を理解することができず、ただ呆然とその顔を見つめた。

(…末裔?この男は何を言ってるんだ…?)

 無言で目を丸くするリュートの前で、男は二コリとも笑わない。うっすらと皺が浮かぶその肌は、軍服の男とはまた違う色をしていた。褐色とまではいかないが、少し陽に焼けたような黄みがかった色をしている。 

「くっくっくっ…随分と驚いた顔をしているな。まぁ、無理もない。突然聞かされても、戸惑う気持ちはよく分かる」

 唖然とするリュートの表情がよほど面白かったのか、端整な顔だちをした軍服の男が、肩を震わせて小さく笑う。

「なっ…に、が……おま、えた…」

「まぁ、そう焦るな。どうせそのうち、すぐに分かる。自分が何者なのか、をな」

 軍服の男はリュートの頭を両手で掴み、顔を横向きにさせた。そのおかげで、ようやくリュートにも室内の様子が目に入る。さほど広くないその部屋の中には、簡素な木のテーブルとイスが一つだけ置かれていた。後方には腰から剣をぶら提げた二人の男。その身なりからして、恐らく衛兵だろう。彼らも軍服の男と同様、やはり褐色の肌をしていた。

「まずは名乗ろう。俺はジルナルド。南のマディール大陸にあるアグラス国の将軍だ」

 ジルナルドは身動きの取れないリュートの視界に入るよう、正面に椅子を移動させ、腰かけた。

「ま、でぃー…」

 リュートは軍服の男、ジルナルドが語った地名に目を瞠った。ディスタから一歩も出たことがないリュートだが、ゼルヴィから教わった世界地図の構図は頭の中に入っている。雪に覆われ、陽が照ることのないゼルス大陸とは反対に、マディール大陸は、年中ギラギラと太陽が輝く灼熱の大地だという。

 驚くリュートを余所に、ジルナルドは長い手足を組むと、顎先でマントの男を指し示した。

「この男は、ロギ。マディールの者ではないが…学士で、俺たちの協力者だ」

 ロギは持っていた銀トレイをテーブルの上に置き、リュートに向かって再び頭を下げた。 

「……みな、みの…にんげ…んが…な、んの…よ、う…だ…」

 途切れ途切れに、それでも必死に口を動かすリュートの顔を、ジルナルドはじっと見つめた。

「お前たちの村…ディスタ、といったか。混血児ばかりの村など、最初は信じられなかったが、本当だったな」

「なっ…!どっ、こ、で…それ、を…」

「ほぅ、お前は知っていたか。……まぁ、長の息子、長男ともなればお前が次期跡取りだ。その年齢ならば、自分の村について教わっていても不思議ではない。では、自分の父親が魔族、吸血鬼だということは?」

「っ…」

「……知っていたようだな」

 ぎくりと強張るリュートの表情に、目を細めて観察していたジルナルドは、無言の肯定を見てとった。満足げに頷くと、片頬を上げて小さく笑う。

「まぞ、く、など、では…ちち、う、え、は…た、だ…」

「ただ、なんだ?生きるのに血が必要なだけだとでも?人間の皮を被り、人の生き血を啜って生きる吸血鬼が、魔族以外の何者だというのだ」

 片眉を上げたジルナルドは、リュートの反論も切って捨てる。

「ちがっ、うっ!ちちう、え、はっ!にん、げん、を…おそっ、た、りな、どっ…!」

 ジルナルドの言う通り、家族の中でも特にガイルが血液を必要としていたのは事実だった。だが、リュートが知る限り、そのためだけに誰かを襲ったことは一度もない。生き血ではないにしろ、考えられた補給方法がちゃんとあったのだ。父の名誉のために食ってかかるリュートを、ジルナルドは肩を竦めて軽く往なす。

「まぁ、いい。なんにしろ、息子であるお前が吸血鬼の血を引いているのは間違いない。その力、そっくりそのまま俺が貰い受ける」

「なっ、にをっ…!」

 傲岸不遜なその発言に、リュートは身体を起こそうとした。しかし、未だに身動きが取れず、リュートは必死に問い詰める。

「だかっ、らっ…む、らをっ…おそっ、たの、かっ…!!」

「そうだ。お前には俺の手足となって、我ら一族のために存分に働いてもらおう。生粋の吸血鬼相手では些か手に余ると思っていたが、子供がいたのは好都合だ。所詮普通の人間でしかない我らには、純血種との混血である、お前ぐらいがちょうどいい」

「ふざっ、けるっ、なっ…!」

「ふざけてなどはいない。そのためにわざわざ、エクシン国と極秘裏に協力して、お前の父親を消したのだからな」

 ジルナルドの言葉に、リュートは耳を疑った。今この男はなんと言った?

「消し、た…?」

「あぁ。お前の父親はもういない。俺たちの前で灰になった」

「う、そ…だ……嘘っ、だっ…!!」

 頑なに信じようとしないリュートの前で、ジルナルドは後ろに控えた衛兵に向かって頷いてみせた。そのうちの一人が、手にしていた麻布から何かを取り出し、リュートの前に掲げて見せる。

「あ…あぁ…」

 黒く焼け焦げた、小さな守り袋。赤い薔薇の刺繍が施されたそれは、遠征の多い父の無事を願って、母が渡したものに間違いない。

「そんっ…なっ…」

「お前の父親はもういない。村も、母親もな」

「!!」

 その言葉が示す意味に、リュートは血の気がひいていくのを感じた。父ばかりではない。父を討ち、村を襲ったこの男は、最愛の母の命すらも奪ったというのか。

「は、はうえま、で………き、さまっ…!よくっ…もっ!!」

「分かったら大人しく従ってもらおう。……用意を」

 睨みつけるリュートの視線など物ともせず、ジルナルドはさらに指示を出す。衛兵の二人が示し合わせたかのように動き出すと、それまで黙って話を聞いていたロギも、テーブルの上に置いたトレイから準備を始める。

「はなっ、せっ…!!さわっ、る、なっ…!!」

 衛兵たちは動くことのできないリュートに近づくと、その上体を無理やり起こした。二人がかりでリュートの衣服をはぎ取り、上半身を裸にさせる。リュートがどんなに抵抗しようとも、動かぬ身体では抗いようもなく、今度はうつ伏せになるように再びベッドへ寝かせられる。

「ゆる、さな、いっ…きさ、ま、だけ、はっ!!」

 ギリギリと激しい憎悪を募らせるリュートの前で、ジルナルドは傍らのテーブルで準備を進めるロギの手元を眺めていた。

「それは?」

「サーディアム神殿にある泉から湧き出ているという聖水です」

 ロギはジルナルドの質問に答えながら、トレイから幾つかの小皿と薬品の入った瓶を取り出した。皿の一つに黒い粘り気のある液体を垂らすと、それを聖水だという透明な水で薄めていく。もう一つの小皿からは、消毒用のアルコールの臭いがした。

「これで本当に効果があるのか?」

「はい。魔族である吸血鬼には、聖水や銀といった金属による攻撃が有効とされています。混血とはいえ、これらによって傷つけられた身体は、彼らに耐えがたい苦痛を与えます。この兄弟はまだその血に目覚めておりませんが、生命の危機を感じることによって、その遺伝子が強制的に覚醒されるでしょう」

「っ…!」

 ロギの言葉に、二人の話を聞いていたリュートが息を飲む。その様子を横目で確認しながら、ジルナルドは準備を進めるロギと会話を続けた。

「生命の危機、か。…だが、殺してしまっては意味がない」

「もちろんです。傷つけるといっても所詮は刺青。命までは奪いません。ですが、覚醒した彼らの能力は、我ら通常の人間には計り知れないものがある。純血種を目の当たりにしたジルナルド様なら、そう簡単に制御できるものではないとお分かりかと思いますが」

「…ふん、確かに」

「そのために入れるのが、縛りの刺青です」

「縛りの刺青?」

「えぇ。創世神イルヴァが、月神ユーディアトを捕える際に唱えた呪文といわれています。この刺青を施すことによって、捕えた魔物を従わせることに成功した一族の文献も残っております」

 ロギは淡々と語りながら小さく切った布をアルコールに浸し、トレイに残った銀の長い針を消毒した。次に、少し大きめな布もアルコールで濡らすと、うつ伏せに横たわるリュートに近づく。

「失礼いたします。背中の消毒をさせていただきます」

「っ…や、めっ…ろっ…」

 背中に布が押し当てられ、ヒヤリとした冷たい感触に鳥肌がたつ。ロギは拒絶するリュートの言葉など聞こえぬように、その背中を丹念に消毒した。

「…兄である貴方がこの施術を拒否するならば、代わりに弟君に施さなければなりません」

「なっ…!」

 ジルナルドに聞こえぬよう、小声でそっと呟くロギの忠告に、リュートは愕然としてその顔を見上げた。

「この施術、あの幼い弟君には耐えられぬでしょう。私もそれは本意ではない」

「っ…ひ、きょう…なっ…!」

「どうぞ、お許しを」

 ロギはリュートの背中の消毒を終えると、再びテーブルに戻り、聖水で薄めた墨の入った小皿と針を手に取る。

「では、始めます」

「あぁ」

 静かに歩み寄るロギの姿に、リュートはぎゅっと目を閉じた。

(父上っ…!)

 頼もしかった父も、優しかった母もいない。その事実を受け入れられないまま、リュートはきつく歯を食い縛った。



****



「出してぇっ!誰かっ!!ここから出してぇーーーっ!!」

 ルシィはドアを叩きながら腹の底から声を出した。ドアノブを握り、押しても引いても一向に開かない。

「誰か……兄さま、助けて…」

 母と別れ、兄と二人で雪原へ逃げたあの時。突然、背後から伸びてきた腕がルシィを抱き上げ、リュートと引き離されてしまった。首を打たれ、倒れ込む兄の姿にルシィは必死でもがいたが、薬品を嗅がされ意識を失ったのである。

 目が覚めると、隣に兄の姿はなく、ルシィはたった一人でこの部屋に寝かされていた。ベッドと小さな棚、壁に備え付けられたクローゼットがあるだけの狭い寝室を出ると、ソファとテーブルが並べられた居間のような部屋が続いている。奥には、バスルームとトイレ。質素な造りだが、どこかの居住区域とみて間違いはないようだった。

 しかし、寝室にも居間にも、窓が一つもない。外の様子を確認することができず、此処がどこなのかも分からない。ルシィは幼いながらに無駄と承知しつつも、唯一の出入り口と思わしきドアに向かった。案の定、そこには頑丈な鍵がかかっており、何度も叫んで解放を訴えてみるが、応答どころか反応もない。

「うっ…ぐずっ…」

 母と別れた心細さ。兄と離れた不安。男ならばそう簡単に泣いてはならないと、何度も両親に言われてきたが、視界は見る間にぼやけてくる。

(母さま…兄さま…)

 誰もいない部屋の中でポツンと立ち尽くし、溢れる涙を拭っていると、急に目の前のドアノブがガチャガチャと音を立てた。

「!!…ど、どうしよう…」

 鍵を開けて中に入ろうとする者がいる。ルシィはあまりの驚きでビクリと立ちすくんだ。おろおろと室内を見渡し、武器になりそうな物を探す。村を襲った惨状や、倒された兄の様子を思い返せば、ドアの外にいる者がとても味方とは思えなかった。

「そうだ!」

 居間には小さな暖炉があった。使われた形成はなかったが、雪に覆われたルシィの村では暖を取るために欠かせないものの一つだった。火の扱いは危ないから触ってはいけないと、大人たちに口煩く注意されていたが、火種を掻きたてたり灰を集めるための火掻き棒も必ず置いてあることを知っている。大した武器にはならないが、何もないよりはましだろう。

「えっと…あった!」

 暖炉のすぐ横に備え付けられた火掻き棒を見つけると、ルシィは急いで寝室に戻った。何も入っていないクローゼットに潜り込み、身体を小さくして息を殺す。

『なんかもう目覚ましてるって……いない』

『いない?そんなはずは…』

 緊張しながら耳を澄ませていると、室内に入ってきた人間の声がする。

(二人いる…)

 微かに聞こえる声に、ルシィは全く聞き覚えが無い。やはり村を襲った敵なのだろう。姿の見えない自分を探す気配を感じながら、ルシィは手にした火掻き棒をぎゅっと握りしめた。これだけで倒せるだろうか。自分一人ではどこまでできるか分からない。もしも見つかってしまったら。

「あ、いた」

「!!」

 焦りと不安にぐるぐると捕らわれ、ルシィはリビングを探していた敵が寝室に入ってきたことに気付かなかった。急に開けられた扉の向こうには、思ったより小柄な人影が立っている。

「う…うわぁぁぁっ!!!」

「えっ?…わっ、ちょっ、危なっ!」

 ルシィは驚く敵になりふり構わず、火掻き棒を振り回しながら向かっていった。思わず後ずさる敵と一緒にクローゼットを飛び出す。

「おわっ!」

「シュリ様!」

 足元を滑らせ、バランスを崩して転倒する敵に、寝室の反対側を探していたもう一人が駆け寄る。

(今だっ…!)

 ルシィは一目散にドアへ駆け寄り、この隙に部屋の外へ出ようとした。

(兄さまっ…兄さまっ…!!)

 兄を探して一緒に逃げるんだ。ただそれだけを思って、腕を伸ばす。

「ぐっ!」

 ようやくドアへ辿りついた瞬間、背後から襟首を思いっきり引っ張られた。息が止まり、何が起こったのか分からぬまま、床へと叩きつけられる。

「っ!…うっ…」

 衝撃の強さに、目の前が真っ暗になる。顔面から床にぶつかったが、あまりの痛みに涙も出ない。

「全く、子供と思って甘く見ていれば!」

「ぅ…いたっ、痛いっ!」

 背中から押さえつけられ、それだけでも動けないのに右腕を捻り上げられる。ルシィは思わず悲鳴を上げたが、ぎりぎりと容赦のない力に、握っていた火掻き棒を離した。

「よせっ、ミナギ!痛がってるだろ!」

「当り前です。痛いようにやっているんですから」

「まだ小さいじゃないか。可哀想だろ。その辺にしてやれよ。…お~痛て」

「…油断し過ぎなんですよ、シュリ様は。こんな小さい子供にやられるなんて。ほら、立って。言っておきますが、逃げようったって無駄ですからね」

「っ…」

 ルシィは痛みに耐えながら、促されるまま身体を起こした。力は緩めてもらえたものの、右腕は背後に回されたまま自由にならない。

(あと少しだったのに…)

 あと少しで、ドアの外に出られた。外に出たら、もしかしたら兄を探すことができたかもしれない。兄と一緒に、もう一度母に会えたかもしれない。もう少しで。あと少しで。

「っ…」

 捕らわれたままようやく立ち上がったルシィはぐっと俯き、唇を噛みしめた。顔も身体もずきずきと痛い。だが、精一杯の勇気を振り絞った脱出に失敗したことが、今は何より悔しい。上手くいかなかったことが、こんなにも悔しくて悲しいなんて。

「お前、小さいのにやるなぁ。びっくりしたよ」

「…っ…」

 嗚咽と涙を必死に堪えるルシィの様子に、敵の一人が屈みこんで顔を覗いた。ルシィは涙目のまま睨みつけたが、初めて見るその容姿に、思わず一歩引き下がってしまう。

「俺はシュリっていうんだ。お前は?」

「……」

 ルシィが最初に刃向かい、転倒した敵だろう。ぶつけた後頭部が痛むのか、頭を撫でながらにっこりと微笑むが、何よりも目立つのはその褐色の肌だった。村では獣人や他民族が多く共存していたが、ルシィはそんな肌の色をした人間を見たことがない。思わず背後を振り向き、自分を捕まえたままのもう一人を見上げると、やはり同じ肌をしていた。

「…」

「ん?どうした?」

 まじまじと見つめるルシィに、シュリと名乗った敵が首を傾げる。随分と若く、兄より年下のように見えた。

「肌の色が違うので、物珍しいのでしょう」

「あぁ、そうか」

「…ゼルスの……エクシンの人じゃないの…?」

 恐る恐る聞いてみると、シュリはあっさりと頷いた。

「あぁ。エクシン国の人間じゃない。俺たちは南のマディール大陸から来た」

「までぃー…る?」

「シュリ様」

 聞き慣れない名前にルシィが戸惑っていると、もう一人が声をかける。シュリに向かって首を振り、無言で釘を刺している。

「分かってるよ。…それより、もういい加減離してやれよ。もう逃げないだろ?な?」

「…うん…」

 シュリに促され、ルシィは不承不承頷いた。背後の若者は溜息をつき、ずっと握っていた右腕を離してくれる。

「痛かっただろ?ごめんな。コイツはミナギっていうんだ。俺の……兄貴分っていうか、世話係みたいなもん?」

「まぁ、妥当なところでしょう。私も、こんな小さな子供にしてやられる不肖の弟を持った覚えはありませんし」

「煩いなぁ、ちょっと油断しただけだろう?」

「修行が足りない証拠です」

「はいはい、そりゃどうもすみませんね」

「……」

 目の前でぽんぽんと言い争う二人に、ルシィは戸惑うばかりだった。どうやら、血の繋がった本当の兄弟ではないようだが、二人の様子を見る限り、仲が悪いわけでもないらしい。兄のリュートと、兄に剣や勉強を教えていたゼルヴィのようなものだろうか。

「…と、まぁ ちょっとこんな感じで口煩い奴なんだけどさ。悪い奴じゃないから。それより、腹へっただろ?飯持ってきたから、ゆっくり食えよ。大したもんじゃないけどさ」

「うん…」

 置いてきぼり状態のルシィに気づき、シュリはソファへと促した。テーブルには、食器が乗せられた盆があり、スープから湯気が上っている。腰を下ろしたルシィはおずおずと食器に手を伸ばした。シュリは隣に座ったが、ミナギはソファの後ろに立ち、ルシィの一挙一動を見張るように見つめている。

「いただきます。………美味しい…」

 見慣れないスープを口にするのは少しだけ緊張したが、優しい味付けに思わずルシィの頬が緩んだ。シュリがほっと肩の力を抜く。

「そっか、よかった。なぁ、お前、名前はなんていうんだ?」

「ルシィ」

「ルシィか。いい名前だな」

 シュリの言葉に、ルシィは思わず手を止めた。この名前は家族全員で相談した。そう教えてくれたのは父だった。母と兄に相談し、優しく明るい子に育つようにと名付けられたらしい。

「ねぇ、シュリ。兄さまは?」

「え…?」

「ぼくの兄さまを知らない?二人で逃げてきたの、一緒に途中まで。だけど捕まって…ねぇ、知らない?」

 初めは敵だと思って警戒していたが、シュリは話しやすく、悪い人間ではない。彼なら何か教えてくれるかもしれないと、ルシィは食事の手を止め、縋りつくようにシュリを見上げた。

「……」

 必死な様子のルシィに、シュリは思わずミナギを見遣る。傍らに立つミナギは、先ほどと同じく黙って首を横に振った。『何も言うな』と無言で合図を送るミナギに、シュリは深く溜息をつく。

「落ち着け、ルシィ。悪いけど、俺は何も知らないんだ。お前の兄貴がどこにいるのか、俺も聞いてないんだよ」

「そんな…」

「ごめんな、役に立てなくて」

 それは嘘ではなかった。ルシィに兄がいること。父の部隊に二人一緒に連れてこられたことまでは知っている。だが、シュリは父にルシィの面倒を見るよう申しつけられただけで、兄のリュートがどこにいるのか、そもそも父が一体何を企てているのか、その計画さえ何も聞かされていなかった。それ以前に、父の仕事である国外の視察へ同行することすら、今回が初めてなのである。

 ただ、二人の住んでいた村が滅び、両親を失ったことだけはミナギから直接聞いたばかりだった。その事実を、彼らはまだ知らないのだという。

「でも、これだけは約束する。此処で大人しくしていれば安全だから。お前を傷つけたりなんかしない。そのうち絶対、俺が兄貴に会わせてやるからさ。な?」

「………うん…」

 シュリは悲壮な面持ちで弱々しく頷くルシィの頭を、そっと撫でてやった。

(俺にも弟がいたら、こんな感じなのかなー…)

 シュリには兄弟がいない。だが、まだ正式に軍へ入隊する歳ではないため、漁に出る他、日頃シーカの幼子たちの面倒を見ることも多かった。しかし、シーカの民は女も男も、みな子供の頃からどこか逞しい。そうでなければ、厳しい環境下では生きていくことができないからだ。

 南国育ちのシュリには想像もつかないが、真冬の大地であるゼルス大陸での生活も、決して楽な暮らしではないはずだ。だが、ルシィを見ていると妙に庇護欲が湧いてくる。よほど大事に育てられてきたのだろう。よくよく見れば、手の肌や指先には傷一つなく、緩くウェーブのかかった金髪も金糸のようになめらかだ。エクシン国の人間はアグラスの市場でも時折見かけたことはあったが、ルシィのようにまるで人形のような愛くるしさを持った者は、今まで一度も見たことがない。

「元気だせって。俺もこれから時々顔見せにくるからさ。なっ?」

「うん、ありがとう…」

「……」

 落ち込むルシィをどうにか慰めようと、必死に声をかけ続けるシュリを、ミナギは黙って見つめ続けていた。



****



 外では深々と雪が降っていた。だが、薪が足された暖炉のおかげで、室内はずっと暖かい。いつものように家族四人で食卓を共にし、一家団欒の一時を過ごしていたが、パチンと爆ぜた火の粉の音に、リュートはふと気づいた。

(あぁ、これは…)

 夢だ。自分はまた夢を見ているのだと。

「……」

 テーブルを見下ろすと、料理の盛られた食器があるのは三人分。自分と弟、そして母。隣に座る父の前には、グラスがたった一つだけ置かれていた。随分と色鮮やかな赤い液体が注がれているが、それが赤ワインの類ではないことをリュートは知っている。

 凝血剤。それは一家にとって必要不可欠なものであり、命の水といっても過言ではない。リュートは数えるほどしか口にしたことがないが、家族の中でも特に必要としていたのは父だった。

 だから夢だと気づいたのだ。ガイルは、例え家族の前でも、自分がそれを口にするところを決して人に見せようとはしなかったのだから。

「どうした?リュート。手が止まっているぞ」

「あ…いいえ…」

「どこか具合でも悪いの?」

「なんでもありません。大丈夫です」

 突然黙り込んだリュートに首を傾げつつ、三人は会話を再開する。

(何か…何か忘れている気がする…)

 これが夢だったとしても、自分は父に伝えなければならない、大事な何かを託されたはずだった。思い出そうとすると、まるで霞がかかったように頭がぼぅっとして、何も思い出すことができない。

「あの、ははう……っ!!」

 どうしても思い出せず、母に確認しようと顔を上げた時、リュートは目の前の光景に息を飲んだ。つい先ほどまで、穏やかに談笑していたはずの三人が、無言でリュートを見つめている。赤い一筋の、血の涙を流しながら。

「なっ、なんでっ…!!」

 思わず席を立って慄くリュートに、ガイルがゆっくり腕を伸ばした。

「リュート」

「ち、父上…」

「逃げろ」

 呆然と立ち尽くすリュートに触れる寸前、ガイルの腕が突然指先からさらさらと崩れ出した。風に吹かれた砂のように、その姿かたちが肩や顔からみるみる失われていく。


「逃げるんだ」


「父上!!」

 それでも同じ言葉を繰り返すガイルに、リュートも思わず手を伸ばす。だが、その手に掬えたのは真っ白な粉のような灰だけ。

「あ…あ…」

「リュート」

「兄さま」

 崩れ去っていく父に為すすべもなく、小刻みに震えながら呆然とするリュートの前で、リリナもルシィも同じように消えていく。


「逃げろ」

「逃げなさい」

「逃げて」


「そんなっ…そんっ…っ、あ……うっ…う、うぁぁあああああああっ!!!」

 自分は誰も救えない。大切な家族すら、誰ひとり。

 リュートは全身を襲う引き裂かれるような悲しみと絶望感に苛まれ、頭を抱えて泣き叫んだ。途端、燃えるような背中の痛みに襲われて身悶える。

「っ…くっ…あ……うっ………あぁっ…!!」

 耳の奥で、自分の身体に流れる血脈がごうごうと音を立てる。心臓も不自然な鼓動を繰り返し、目の奥や歯、指先にいたるまで、全身がギシギシと軋む。

(助けて……誰かっ……これ、をっ…これをっ、止めてくれっ…!!)

 もう耐えられない。自分はこのまま壊れるのか。身体中を押し潰されるような、灼熱の痛みにリュートが限界を感じたその瞬間、頭の中で急に何かがパンッと弾けた。

「っ!!!」

 その衝撃の大きさに、顔を上げてかっと目を見開いたリュートの全身が小刻みに痙攣する。首元で切り揃えていた赤髪が一気に背中まで伸び、開いた口元からは乱杭歯が見えた。


― リュート… -


 たった今、灰になって目の前で崩れ去ったはずの父が、悲しげな表情で見下ろしている。そんな幻影に腕を伸ばし、リュートは静かに気を失った。

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