人神蛇

ツヨシ

本編

休日は山で過ごすことが多い。


そう言うとキャンプとか、人によってはロッククライミングなどを連想する人が多いが、井村章二のやっていることは、そんなものではない。


言わばハイキングに近いが、ハイキングとも言えない。


休日は朝から山に向かって車を走らせる。


そして通行の邪魔にならないところに車を停める。


この山道は一応県道ではあるが、交通量は少なく、誰かに通報されるようなことも、まずない。


この辺りまでくれば、民家もほとんどない。


そこから山に入るのだ。


つまり遊歩道ではなく、道なき斜面を登る。


そこで何をするのかと言うと、何もしない。


歩き、周りの景色を楽しみ、木々のにおいを嗅ぎ、山の風に触れる。


ただそれだけのことに半日はついやし、暗くなる手前で車に戻り、家路に着く。


猪や猿に出くわすこともまれにあるが、井村は刺激しない程度の速さでその場を去るようにして、今のところなんだかの被害にあったことはなかった。


「さて、今日も行くか」


井村は口に出してそう言うと、いつものように雑木や雑草まみれの斜面を登り始めた。


このところ五週連続で週末には山に分け入っている。


おそらく仕事からくるストレスだろう。


その湿った重たいものを消滅させるために、山に身をゆだねるのだ。




どのくらい進んだだろうか。


このあたりは幾度となく来たはずなのに、木々の生え方や斜面の具合などから判断して、今までに訪れたことのない場所に入りこんだことに、井村は気がついた。


もちろん山は大きく広い。


その山の隅から隅まで歩きたおしたわけではないので、新たな領域に足を踏み込んだとしても、なんら不思議はない。


山を趣味にし始めたころは、いつも未知の場所に行っていたのだから。


だがここ最近はそんなことがなかった。


それに今日は、前に歩いたことのあるルートを進んでいたはずなのに。


井村は戸惑いを覚えた。


少しばかりの不安を背に、コンパスと自家製の地図を覗き込んだ。


――まあ、いいか。


いざとなれば西にむかえばいい。


西には県道が通っている。


そこまでたどり着けば、後は何とかなるだろう。


そのまま進んでいると、ちょっとした広場のようなところに出た。


――えっ?


その直径は30メートル、いや40メートルくらいだろうか。


木が一本も生えておらず、草もまばらな平らで円形の土地。


どう見ても人為的に作られたとしか思えない場所であったが、そんなものをこの辺りに作ったという話は聞いたことがない。


――なんなんだ、ここは。


とりあえず歩いてみる。


そして中央まで進んだとき、井村は体がふわりと浮かぶような違和感を覚えた。


――!?


次の瞬間、まるで下りのエレベーターに乗ったかのような感覚が生じた後、井村の記憶はなくなった。




何か聞こえてくる。


何かの音。


何かの声。


井村は気づいた。


鳥の声だ。


でもまだ目がかすんでいて、頭もぼうとしている。


腰と後頭部に鈍い痛みがあった。


――えっと。


徐々に焦点が合ってきた目で、井村はまわりを見渡した。


井村の前後左右は、土と岩の壁で囲まれていた。


主に岩だが。


そして下は平らな土だ。


見上げれば上から光が射し込んでいて、そこに丸く切り取られたかのような青い空と白い雲が見えた。


そこまで見て、井村はようやく理解した。


穴の底に落ちたのだ。


どうやら腰から落ちて後頭部を打ちつけ、しばらく気を失っていたらしい。


――まいったなあ。


井村はもう一度辺りを見回した。



ここから地面まではそれほどの高さはない。


井村はよじ登れそうなところを探した。


じっくり岩の壁を見ていた井村の視線がぴたりと止まった。


壁に、まるで切り取られたこのような正方形の穴が開いていたのだ。


自然に出来たものではない。


30センチ四方くらいの穴で、井村の腰の高さのところにあった。


――なんだろう。


近づいてよく見ると、穴の奥に何かがあった。


暗くてよく見えなかったので、井村は穴に手を入れそれを取り出した。


――まが玉?


それはまが玉にしか見えなかった。


土とほこりにまみれていたが、まが玉の表面が見事につるつるだったため、割と容易にそれらを取り除くことが出来た。


その色は赤黒く、血の色を連想させた。


いつの時代のものなのだろうか。


いくら見てもわからなかったが、井村は無意識のうちにそれをズボンのポケットにねじ込んでいた。


井村は何事もなかったかのように、再び岩の壁を観察した。


そして一際岩の凹凸が多いところを見つけた。


これなら難なく登れそうだ。


生まれつき足腰は強く、握力も人並み以上ある。


早速登り始めると、さしたる苦労もなく登りつめることが出来た。


安定した地に立ち、さっきまで自分がいた穴を見た。


どう考えてもこの空間は人工的なものだ。


しかしその中にあったのは、まが玉が一つだけ。


と言うことは、ここはこのまが玉を収めるだけのために作られたのか?


いつ、誰が、なんのために。


考えていると、あたりが薄暗くなってきた。


井村はもう一度穴を覗き込むと、車へと足を運んだ。




家に帰ると早速ポケットからまが玉を取り出し、机の上に置いて眺めた。


もしかしたらこれは歴史的に価値があるものかもしれない。


そんな考えが頭を過ぎったが、これをどこかの大学とかの研究機関とかに持ち込むと言った考えは、井村にはさらさらなかった。


井村はこの黒光りするものが、非常に気に入ってしまったのだ。




朝に目覚めた。


楽しいことの多い休日は過ぎ去り、今日からしばらくは苦しいことのみの仕事が待っている。


着替えて朝食をとり、出かける前に机の上のまが玉を見た。


――ん?


まが玉が机の右端近くにあった。


確か寝る前には、ほぼ中央のところにあったはずだが。


――気のせいか。


まが玉が自分で動くわけがない。


自分でも気がつかぬ間に、まが玉を移動させていたのだ。


井村はそう考え、家を出た。




仕事中もまが玉のことが頭から離れることはなかった。


おかげで普段しないような些細なミスを連発し、上司にしこたましぼられる羽目となった。


これはいけないと頭を切り替えて仕事に集中しようとしたが、どうにもうまくいかず、ついには気分がすぐれないと、会社を早退してしまった。


――いったい、なんなんだ?


あんなものが、なぜそこまで気になるのか。


家に帰ると真っ直ぐまが玉のところへ向かう。


が、机の上にまが玉はなかった。


――なんで?


急いで家捜しすると、まが玉は洗面台の上で見つかった。


もちろんそんなところに置いた覚えは、井村には皆目なかった。


しかしこんなものが一人で移動するはずもない。


そういえば朝食をとりまが玉を見た後、洗面所に行ったような気がする。


その時に無意識のまままが玉を持っていったのだろう。


井村は不審に思いながらも、無理から自分にそう言い聞かせた。




次の日、井村は会社を休んだ。


気分がすぐれないことを電話で上司に告げると、上司はわかりやすく不満の言葉を述べた後、しぶしぶ了承した。


幸いなことに、井村の会社は労働組合の力が強い。


病気の者を無理やり出社させるわけにはいかないのだ。


電話を切ると、早速まが玉へ直行した。


まが玉は、昨夜置いた机の中央でおとなしくしていた。


井村はまが玉を手にとって見た。


ほんのり暖かい。


昨日までは石の特性のとおり、むしろ冷たいくらいだったのに。


まるで生き物のような暖かさだ。


不思議に思いながらもそのままソファーに腰掛けると、急に強い睡魔が襲ってきた。


いつもの時間に就寝し、いつもの時間に目覚めたというのに。


井村はそのまま眠りについた。




ふと目覚めると、もう夕方になっていた。


それなのに頭がまだ重い。


見ればまが玉は朝と同じところにある。


動いてはいなかった。


井村は空腹を覚えた。


そういえば朝から何も食べていないのだ。


財布をつかみ、食料の買出しをしようと部屋を出たところで、隣の柳田夫人に出くわした。


「井村さん、もう帰ってきたのね」


井村がずっと寝ていて静かだったこともあって、どうやら仕事に行き、そして帰ってきたと思っているようだ。


「で、うちの人、見ませんでしたか?」


「うちの人?」


「そう、うちの人。昨日の夜、タバコを買いに行くといって出かけたまま、帰ってこないんですよ。めぼしいところは探したし、聞ける人には聞いたし、警察にも言ったんだけど、どこにもいないんですよ」


そんなことがあったのか。しかし井村はなにも知らない。


「さあ、今日は見ていませんけど」


「……そうですか」


柳田夫人はわかりやすく肩を落とすと、力なく帰っていった。


――それにしても。


仲のいいと評判の新婚夫婦の夫のほうが、何の前触れもなく突然行方不明になるとは。どう考えても穏やかではない。


井村は気にはなったが、何も知らないしどうすることも出来ないので、そのまま買出しに出かけた。




あれから何日か経ったが、柳田は見つからない。


奥さんのほうは必死と言うか、半狂乱と言ったほうがいい状態だ。


警察も一応は捜しているようだが、今のところ犯罪性が薄いせいか、本腰には程遠いようだ。


と言ったことを、近所のおばさんと言っていい年齢のご夫人数名から尋ねもしないのに聞かされたが、井村にとって柳田夫婦はどうでもいい人達なので、この件もどうでもいい話だ。


「そうですか」


心配そうな顔を作り、とりあえず聞くだけは聞いて、相手が話し終えるのをただ待っていた。


そして話し終えると、何事もなかったように家に帰った。




男はしたたかに酔っていた。


足元がおぼつかない。


さして広くはない住宅街の道の左右を、端から端まで使って歩いていた。


だが、家はもうすぐだ。


突然、男の足が止まった。


目の前が急に暗くなったような気がしたからだ。


もう日付が変わってしまった時間帯ではあるが、このあたりはいくつも街灯がある。


今いる場所のすぐ前方にもあるはずなのだが、その明かりは全く見えなかった。


男はまだ酔っている目をこらして、前を見た。


街灯が消えたわけではないようだ。


目の前に大きな何かがある。


その何かが街灯の光をさえぎっている。


見れば見るほど、そんな感じに見えた。


――なんだ、いったい。


半ば怒りを感じ始めていた男は、なんの躊躇もなく右手を前に突き出した。


その手に何かが当たった。


柔らかくて暖かい何かが。


――ええっ!


男の目には、その大きくて柔らかいものが動いたように見えた。




井村は目覚めた。


いつもの習慣でテレビをつける。


ちょうどニュースの時間だ。


いつもは朝食を食べたり、出社の準備をしたりしながら聞き流しているのだが、今日は井村の気をひくニュースがあった。


一人の男が消えたというのだ。


それも驚いたことに、左足首一つだけを残して。


興奮気味のキャスターが、犯罪の可能性が高いと言っている。


そりゃあそうだろう。


左足首だけ残して自分の意思で、あるいは自然に消える人間などいないと断言できる。


男が消えた場所は近所とはいえないまでも、割と近くのところだった。


――物騒な事件もあったものだ。


興味深い事件ではあるが、結局井村にとっては他人事だ。


――そろそろ出るか。


家を出ようとしたとき、井村はローボードの上に置いたまが玉を見た。


――えっ?


動いている。


また動いているのだ。


昨夜にはローボードの右側にあったはずのまが玉が、今は左端にあるのだ。


もちろん、こんなものが勝手に移動したりはしない。


ただ単に置いた位置を勘違いしているのか。


それとも無意識のうちに自分で動かしたのか。


しばらく考えたが、どちらも違うような気がしてならない。


――まさかこのまが玉が……


いやいや、そんなことがあるはずもない。


井村は自分で知らないうちに動かした、と結論づけた。


井村自身がその結論に違和感を覚えたが、半ば強引にそう思い込むことにした。


井村は思いつき、すぐさま行動に移した。


台所からコースターを一つ持ってきて、ローボードの右端に置き、その上にまが玉を置いた。


――これでよし、と。


井村は当分の間、まが玉をコースターから動かさないことを決めて、家を出た。




それからしばらくは、まが玉がコースターの上から移動することはなかった。


井村は朝目覚めるとまが玉を確認し、会社から帰ってくると確認し、夜寝る前に確認するといったことを毎日欠かさず続けていた。


ところがある朝起きてコースターの上を見ると、そこにまが玉はなかったのである。


しばらく固まった後首を激しく振り、少し落ち着いたところでまが玉を探すと、まが玉はテレビ台の上にちょこんとあった。


井村は思い返した。


昨晩のこと。寝る前にまが玉がコースターの上にあるのを、確かに見た。


そしてそのまま部屋を出て寝室に行き、寝た。そして今朝起きて、今ここにいるのだ。


その間、まが玉には手を触れていない。


それは間違いない。


なのにまが玉が移動しているのだ。


――これはいったい。


どういうことかと考えたが、いくら考えても納得できる理由が思いつかない。


井村は考えるのをやめた。


朝食の用意をすると、それを持ってテレビの前に座り、リモコンでスイッチを入れた。


いつもの朝のニュースの時間だ。


その冒頭のニュースに、井村は釘付けとなった。


ある住宅地の路上で、男性と思われる左手首が見つかったと言うのだ。


身元はまだわからない。


井村は思い返した。


最初まが玉が動いたとき、隣の住人が一人消えたが、特に猟奇的な事件はなかった。


次にまが玉が動いたとき、男が一人右足首だけ残して消えた。


そして今回まが玉が移動したときは、男の左手首だけが見つかった。


――なにか関係があるのか?


刹那その考えが頭をよぎったが、どう考えてもこんな小さな石の加工品が、連続人間消滅事件に関わっているとは、とても思えない。


井村はあえてそれ以上考えないようにした。


朝食をとり、出社の準備を済ますとまが玉をコースターの上に置きなおし、家を出た。




神主に言われて、青年は神社を後にした。


今日は三ヶ月に一度の見回りの日だ。


見回りと言っても、見るのは一箇所だ。


バイクで山に入り途中からは徒歩で行く。


道なき道を歩き、とある崖にたどり着く。


そこに小屋がある。


小屋と言ってもかなり小さなもので、崖にへばりつくように建てられている。


戸の鍵を開けて入ると、二畳ほどの空間しかない。


小屋の三面は普通の木の壁だが、入り口と反対側の壁は岩肌となっており、その中央に穴が開いていた。


大柄な人間は通るのが困難なほどに狭い穴だが、幸い青年は小柄でやせていたので、苦もなく通ることが出来た。


懐中電灯を手に、中に入る。


穴の先は人工の小さなトンネルである。


しばらく進むと、穴が岩でさえぎられ、行き止まりとなっていた。


青年はその岩に手をかけると、そのまま引き開けた。


岩に見えたが、実際は扉である。


木に岩を薄く貼り付けたものだ。


誰が作ったのかは知らないが、それは見事な出来栄えだった。


その扉を開けた途端、青年は明らかな違和感を覚えた。


日の光が射し込んでいる。


今までにこんなことは一度もなかった。


青年は上を見た。


その人工的に作られたであろう空間の上部に穴が開き、そこから太陽の光が流れてきている。


――えっ?


青年はすぐさまある一点を懐中電灯で照らした。


そこは日の光が当たっていないところで、壁を切り取ってつくられたであろう四角い穴だった。


そこにはただ穴が開いているだけで、その中には何もなかった。


青年は驚愕の表情でそれを見ていたが、やがてまわりに誰もいないのに「大変だあ」と大声で叫ぶと、飛ぶように穴から出て行った。


小屋の鍵もかけずに。




矢崎は和んでいた。


ゆっくりとお茶を飲みながら、ぼうと前方を見てまどろんでいる。


何かを見ているわけではない。


ただまぶたが開いて、視線がその方向に向いているだけだ。


――今日も何事もなさそうだな。


事実、ほとんどの日が何事もなかった。


再びお茶を口にしたとき、若い見習い神主、というよりもほぼ雑用係が血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。


――ん、どうした?


やがて青年は、転がり落ちるように神主の前に倒れこんだ。


「何かあったのか?」


 矢崎が聞いても、青年はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返すだけで、何も答えない。


どうやら何か言いたいらしいのだが、呼吸が整わず、何も言えないらしい。


しかたがないので矢崎は飲みかけのお茶を青年に差し出した。


青年はそれを受け取り、一気に飲み干すと、ぷはあと大息を一つついた。


どうやら落ち着いたようなので、矢崎が再び聞いた。


「何かあったのか?」


青年は目を見開いて言った。


「あ、あれがありません」


「あれ、とは?」


「あれです。あれです。あれと言ったら、あれです」


「まさか、あれなのか。あれがなくなったと言うのか?」

「そ、そうです」


二人はお互いを見つめたまま黙ってしまった。


しばしの静寂。


が、それを神主が破った。


「八雲を呼べ。今すぐにだ!」


「はい!」




出かける準備をしていたとき、携帯が鳴った。


番号を見ると、登録している神社の一つだ。


と言うことは緊急の呼び出しの可能性が高い。


久しぶりに一人カラオケにでも行こうと思い、平日の昼間にもかかわらず念のために予約を入れたばかりだというのに。


ほんとうについてない。


「もしもし」


わかりやすく興奮した男の声が聞こえてきた。


「八雲さんですね」


「そうですが。何かあったの?」


「ありました。ありました。おおありです」


「何があったの?」


男は一瞬黙った。


ごくりと唾を飲む音が、八雲の耳まで届いた。


そして男は言った。


「あれがなくなったんです」


「あれって、なに?」


「あれです、あれ。六百年も封印していた、あれです」


「まさか、あの化け物が」


「そうです、化け物です。なくなってしまったんですよ」


「わかったわ。すぐ行く」


「お願いします。すぐに来てください」


電話は切られた。


八雲は急ぎ準備を整えた。


まさか、あれがなくなってしまうとは。


間違いなくいままで関わってきた中で、一番の大物だ。


――生半可なことでは、すまないわね。


八雲は部屋を出て、駅に向かった。



駅に着くと改札で、坊主頭の小柄な男が出迎えた。


八雲にはその男は、高校生くらいに見えた。


「こちらです」


男に導かれ、駐車場に向かう。


そこでもう一人誰かいるものだと思っていたが、その少年に見える男が運転席に乗り込み、助手席側のドアを開けた。


「どうぞ」


八雲はしばらく男を見ていたが、何も言わないので黙って車に乗り込んだ。


車が走り出すと男が口を開いた。


「言いたいことはわかります。いまだに高校生、下手すりゃ中学生に間違われますからね。でもこう見えても二十歳は過ぎてますし、免許もちゃんと持っていますから。大丈夫ですよ」


――二十歳は過ぎていたのね。私よりもちょっと年下だとばかり思っていたけど、年上なんだわ。


「そういう点では、僕もちょっと意外でしたね」


「意外?」


「ええ、意外です。八雲さんが女性だとは当然知っていましたけど、こんなにも若くて小柄な人だとは、思っていませんでしたからね」


――そうそう、私もそれはよく言われるわ。


最初が肝心だ。


八雲はなめられないように釘を刺すことにした。


「だって、まるで関係ないんですもの」


「何が関係ないんですか?」


「関係ないのよ。神通力に年齢とか体格とか性別とかは。全くね」


「そうですか」


その後、二人の会話はなくなった。




矢崎は目の前の少女を見つめていた。


――この人が八雲紅(やくも べに)か。


電話で話したことは、今回を含めて数回あるが、顔を見るのは初めてだった。


その顔立ちは、まだ子供、と言って差し支えないだろう。


中学生くらいにしか見えない。


背も低い。


150センチにはまるで届かないだろう。


ただ矢崎は、八雲の実年齢を知っていた。


今は十九歳。


三ヵ月後には二十歳になる。


その美少女としか言いようのない顔の中で、とりわけ目が印象的だった。


その眼差しは、強さ、聡明さ、落ち着き、自信といったものを感じさせる。


幼い顔のパーツの中で、目だけが倍以上の年齢を重ねてきたように見えた。


しばらく黙ってお互いを見つめていたが、やがて矢崎が口を開いた。


「どうもはるばるご苦労様です。私はここの神社の神主で、矢崎将一と申します。この青年は、見習いの奥野誠です」


「ご紹介が遅れました。奥野誠です。よろしくお願いします」


八雲は二人を見比べた後、言った。


「八雲紅です。早速だけど、あれがなくなったそうね。詳しく聞かせてくれるかしら」


それは、まるで厳しい教師が生徒と話すような言い方だった。


奥野が三歳、矢崎は二十歳以上年上だと言うのに。


矢崎が答えた。


「ええ。あれを封印していたほこらですが、天井に穴が開いていました。おそらく六百年の間に風雪によって上の土がいつの間にか流されて、薄くなっていたのでしょ。昔は人が乗ったくらいでは、穴が開くことはなかったはずですから。それに三十年ほど前に、上の土を雑草が生えぬほどに硬く踏みしめたとも聞いています。その時逆に、天井を支える木材を痛める結果となっていたのかもしれません」


「そう」


八雲は一言言った後、黙り込んでしまった。


何かを考えているようだ。が、やがて話し始めた。


「とにかく誰かがあそこに来て、天井に穴を開けて中に入り、と言うより多分天井に穴が開いて、下に落ちたのね。そしてまが玉を見つけて持ち出した。ということなのね」


「そう思われます」


八雲はまた何かを考えはじめた。


奥野はあらためて八雲を見た。


なんと言ってもその大きな目、眼力が強い印象を人に与える。


奥野は八雲を迎えに行く前に矢崎から聞いた、八雲の生い立ちを思い出していた。


地方の名もなき小さな神社の神主の娘として生まれたが、五歳くらいのころから尋常でないほどの才能を発揮し始めて、父親をおおいに喜ばせたという。


それだけではなく、彼女のすごいところはその後だ。


神に仕える者としての修行を始めると、小学生のころには大人でも逃げ出すような厳しい修行を、弱音一つはくこともなく耐え抜いた。


心配した父親が、少し休むように言っても、いっこうに聞かなかったと言う。


持って生まれたずば抜けた才能の上に、幼少期からの密度の濃い修行。


当然のことながら、彼女の能力は加速度的に増していったと言う。


中学を卒業するころには、あやかしと戦う力もその辺の神主とは比べ物にならず、なかでも千里眼の能力は、十六歳を迎えるころには日本一ではないかと言われていたほどだ。


にもかかわらず、彼女は今でも厳しい修行を続けているという。


父親に言わせれば、飛びぬけた強い意志、尋常でないほどの負けん気の強さ、あきれるほどの向上心があるのだそうだ。


それが現在の八雲紅をつくり上げ、その魂がこの眼に宿っている。


だから彼女の眼は見る者を魅了し圧倒する。


奥野がそんなことを考えていると、八雲が矢崎の目をじっと見た。


「まず、人がめったに足を踏み入れないようなところに、誰かが来た。もう一つ、あのまが玉には古の結界がほどこしてあって、普通の人間ならまが玉を待ち去ることは出来ない。なぜならまが玉を見ても、そこにまが玉があることに気がつかない。つまり見えないのね。まれに視える人もいるけど、そんな人は極めて少ないわ。つまり人が何か目的を持って行くはずがないようなところに、めったにいない能力者が行って、たまたまもろくなっていた天井を踏み抜いて、まが玉を持ち去った。確立から言えば、天文学的に低い確率だわ。まったく」


「……そうですね」


八雲のわけのわからない迫力に押されて、矢崎はそれだけ言うのがせいいっぱいだった。


――にしても、あのまが玉は普通の人には見えないのか? 矢崎さんは、何も言っていなかったが。


奥野は思った。


自分には最初からまが玉は見えていた。


と言うことは、自分もめったにいないような能力者なのか。


それとも矢崎が何かしたのだろうか。


奥野がそんなことを考えていると、八雲が言った。


「確率的には限りなく低くても、ゼロではないわ。巨大な隕石が地球にぶつかって、地球が木っ端微塵になる確率がゼロではないようにね」


奥野には八雲の言っていることが、いま一つ理解できなかった。


仮にたとえるにしても、なぜいまだ現実のものとなっていない巨大隕石の地球直撃の話を選んだのか。


それでは確立がどれほど低いのか、まるで実感できない。


奥野の疑問をよそに、八雲が続ける。


「とにかくまが玉のありかを探らないとね。ほこらから出した今は、誰にでも見えるようになっているはずだし。それと、もちろんそんなやっかいなものを、外に持ち出した人もいっしょにね」


「見つかりますでしょうか?」


「今すぐ、って言いたいけど、それはさすがに無理ね。でも近いうちに見つけるわ。精神を集中したいんで、静かな部屋を用意してね」


「それなら息子が使っていた部屋があります。そこを使ってください」


矢崎の一人息子は今年から大学生で、県外にいっている。その部屋があいているのだそうだ。


「そこは静かなの?」


「それはもう。そもそも神社の周りは小さな森で民家もなく、そりゃもう静かなものですよ」


さっきから聞いていると、まるで八雲が矢崎の上司のようだった。




八雲は部屋に満足したようだ。


ベッドが臭いとは言っていたが。




朝目覚めると、井村は真っ先にまが玉を見た。


動いてはいなかった。


――よかった。


井村は恐れていた。


まが玉が動くのを。


それはこれがただの石ではなく、何だかの意志や力を持つ証のような気がしたからだ。


それとあの事件。


人が体の一部を残して消えるという、薄気味の悪いもの。


あの事件のあった翌朝にまが玉が動いていたとしたら、あの事件とまが玉が何かの関連性があることを意味するように思えるようになっていた。


意志や力を持ち、人がまるまる、あるいは体の一部を残して消える事件と関係のある石。まともに考えれば、とてもそんなものが存在するわけがなかった。


なかったが、井村は嫌な予感を感じていた。


それも強烈に。そしていまいましいことに、井村の嫌な予感というのは、子供のころから外れたことがほとんどなかったのだ。


――頼むから動いてくれるなよ。


井村はまが玉にそう願うと、家を出た。


そこまで不安に思い、精神的によくないものであれば、処分してしまうのが普通である。


が、井村にはまが玉を処分するという考えが、なぜだか全く頭に浮かんでこなかったのである。




夕方を過ぎ、夜と言う時間になってようやく八雲は息子の部屋から出てきた。


昨夜息子の部屋に入ってから、まる一日こもっていたことになる。


朝食と昼食は奥野が作り、矢崎が運んだ。


それはちゃんと食べた。


というより何度もおかわりを要求するので、その度に奥野はもう一度食事を作らなければならなかったのだが。


「あああああっ……疲れた」


八雲が部屋を出たときの第一声がそれだった。


矢崎が、そんな言葉は耳にしなかったかのように、遠慮なく聞いた。


「何かわかりましたか」


八雲はなぜか一瞬露骨に嫌な顔をしたが、質問には答えた。


「関東。それもここからそう遠くはないわ。西のほうね」


ここから西といえば、あれが封印されていたほこらのある方角だ。


日帰りで山に入ったのならば、そう遠くには住んでいないだろうという奥野の読みと一致する。


「で、西のどのあたりですか?」


八雲は矢崎を見た。よくわからない威圧感のある眼で。


「それは明日。というより二、三日かな。それだけあれば確実にわかるから、この私に余計な催促はしないでね。わかった?」


「はい、わかりました」


奥野は初対面のときから感じていたが、矢崎はここに来てようやく、この女には下手につっこみを入れてはいけないということを学んだようだ。


「お腹すいたわ。それとお風呂の用意ね」


「はい」


大学生の息子を持ち、このあたりではわりと信仰を集めているベテラン神主も、十九歳の八雲紅にかかっては、まるでかたなしである。




井村はまが玉を見ていた。


そしてまるでお墓のように両手を合わせて拝み、口に出してまが玉に頼んだ。


「お願いします。今後一切動いたりしないでください」


それは日本語を理解する人間に話しかけているかのようだった。


そして何度も同じことを繰り返した。それだけ井村の嫌な予感が強かったのだ。


今夜は特に。


「どうかお願いします。今後一切動いたりはしないでください。お願いします」


井村は今夜何度目かのお願いをした。


まだお願い足りないような気がしたが、さすがにもう遅い。


明日も早くから仕事だ。


井村は眠りにつくことにした。




朝起きると、普段は寝起きが悪いのに飛ぶようにしてまが玉のところへむかった。


見ると、まが玉はコースターの上にはなかった。


他人が見たら、狂っている、と思うであろう顔つきと動きでまが玉を探すと、それは隣の部屋のタンスの下に転がっていた。


もちろん井村が置いたものではない。


地震かなにかで動いたものでもない。


まが玉が何メートルも動くほどの地震なら気づかないはずがないし、なによりまが玉以外のものは何一つ微動だにしていないからだ。


井村はまが玉が自分で動いたのだと思った。


それしか井村の頭の中に浮かんでこなかった。


はじかれるように振り返り、歩き出し、リモコンを手にとってテレビのスイッチを入れた。


ちょうどニュースの時間だ。見慣れたリポーターが、住宅街の一角らしいところで、興奮気味に何かしゃべっている。


レポーターの後ろには黄色いテープが貼られた立ち入り禁止場所らしい空間があり、中で警察関係者が数名いた。


――何かあったな。


井村は振り返り、まだ部屋の隅に転がっているまが玉を見た。




奥野が朝食を持って行くと、八雲と矢崎が並んでソファーに座り、テレビを見ていた。


ニュースをやっていた。ニュースはどこかの交通事故を伝えた後、天気予報に変わった。


奥野がそのまま見ていると、八雲が振り返った。


「ご苦労様。で、さっきのニュースだけど、トップニュースは見てないわね」


「ええ、朝食を作っていましたから」


「残念ね。とってもおもしろいニュースだったわよ。人が一人消えたの。頭の一部だけを残してね」


「頭の一部ですか?」


奥野が聞くと、八雲はいじめられっ子を見つけたいじめっ子のような顔で、笑った。


ちょっと怖かった。


「そう、頭の一部よ。眉からちょっと上の。細かく言うと、頭髪、頭皮、そして頭蓋骨と脳みその一部よ」


奥野は思わず想像してしまったが、予想以上に気持ち悪かったので、頭を振ってその映像を追い出した。


それ見て八雲が言った。


「前から手首だけだの、足首だけだの、おかしいとは思ったけど、百パーセントの確信が持てなかったわ。ここのところちょっと、不本意にも調子落としていたし。でも昨日の霊視も含めて、百パーセントの確信が持てたわ。ここから間違いなく西ね。手首や足首や頭のてっぺんが見つかった近く。こうなると私の透視は加速度的に早くなるの。今日の昼ごろには誰がまが玉を持っているか、見つけてみせるわ。期待しててね。でも頭のてっぺんだけ残して消えちゃった人だけど。あの人には感謝しなくちゃね。おかげでまが玉の持ち主が見つかりそうだから」


言い終えると八雲は、げらげらと笑いだした。


そんなことは間違ってもありえないが、もしも八雲に交際を求められてもきっぱりと断ろうと、奥野は思った。




八雲が息子の部屋にこもって二時間ばかり経ったころ、突然部屋から大きな音がした。


何か硬くて重たいものが落ちたような音。


奥野と矢崎は思わず顔を見合わせた。


次の瞬間、矢崎が走り出し、奥野がそれに続いた。


部屋に入ると大きな本棚が床に倒れており、その上に八雲が座って笑っていた。


「八雲さん」


矢崎が声をかけると、八雲は笑うのを止めた。


そして深刻な顔で矢崎を見た。


「とうとう見つけたわ。まが玉の持ち主。ここから西へ8キロほどよ。名前は井村。井村修二よ」


それだけ言うと八雲は大口を開け、再び笑い出した。



矢崎が運転席、八雲が助手席、奥野が後部座席に乗り込むと、車は走り出した。


八雲に言わせれば、住所とかの書類的なもの(八雲がそう言ったのだ)はわからないが、井村の家までの道筋は、あたかもグーグルアースのストリートビューでも見ているかのように、はっきりと見えるのだそうだ。


――そんな千里眼もあるのか。


なにしろ日本一とさえ言われる千里眼の持ち主である。


奥野の短い人生での常識は、通用しないのかもしれない。


それにしてもなぜあの部屋の本棚が倒れていたのか。


なぜ八雲はその上に座っていたのか。


気になるところではあるが、聞かないでおくことにした。


なにせ彼女には、常識は通用しないのだから。


八雲は時折矢崎に「この先、右」とか「今度は左」とかの指示を出していた。矢崎がそれに従う。


もうとうに連続猟奇事件のあった町に入っていた。


このまま行けば、そろそろ町を出るころのはずだが。


奥野がそんなことを考えていると、八雲が言った。


「そろそろスピードを落として」


矢崎がスピードを落とした。そのままのろのろと進む。


後ろから来た車がやけにひっついたかと思うと、二度ほどクラクションを鳴らしたが、八雲は何事もなかったかのように言った。


「その先のマンションに入って」


見ればこのあたりにしては立派な外観のマンションが見えてきた。


矢崎は駐車場の先にあるちょっとした場所に車を停めた。


全員が降りると、八雲が言った。


「さあ、行くわよ。三階、東の端の部屋。そこに今回の騒動の大元締めがいるわよ」


言うだけ言うと、八雲はすたすたと歩き始めた。


二人がそれに続く。




三人は一つのドアの前に立った。


表札を見ると、井村修二と書いてある。


ビンゴだ。


八雲が言った。


「井村修二。四十二歳。独身。ちょっと変わり者。食品工場勤務。まあ名前以外はどうでもいい情報ね。大事なのは趣味。井村の趣味は山歩きよ。あと一つ。今日、仕事は休みで、今ここにいるわ」


――それでか。


奥野は思った。


人が足を踏み入れることがないような場所に、井村がわざわざ来た理由。


ただの趣味だったのだ。


そのせいで何人も死んだが(消えただけではない。間違いなく死んでいる)本人はまるで気がついてはいないだろう。


それにしてもそれだけの情報を、瞑想による千里眼だけでつかんでしまうとは。


日本一の称号は伊達ではない。


八雲が呼び鈴を押した。


ほどなくして、マンションの金属製に扉が開かれた。


「はい、どなたですか」


出てきた井村は、怪訝そうな目でこちらを見た。


どこにでもいそうな中年男がそんな態度を取るのは無理もない。


なにせ目の前には、中学生にしか見えない真っ黒いワンピースの少女と、高校生にしか見えないよれよれのTシャツと穴だらけのジーンズの男、そして神主の格好をした中年男がいるのだから。


三人並べて「この三人はどういった関係でしょう」と聞いても、正確に答えられるものはいないだろう。


答えたとしても、せいぜい親子とか兄妹とか、その程度だ。


そんな怪しい三人組が、いきなり自分の住むマンションを訪ねてきたのだから。


そんな井村の思いを無視するかのように、八雲が下から井村の顔を覗き込むようにして言った。


「井村さん。めんどうくさいから単刀直入に言うけど、あなた、山の中のほこらから、赤いまが玉盗んだでしょう」


井村の顔色が変わった。


そこに八雲がたたみかける。


「あのまが玉だけど、ここにいる神主さんの神社にとっては、ものすごく大切なものなのよ。その上、歴史的にも文化的にも価値があってね。売るつもりはないけど、売ればそうとうな高額で売れるわね。そんな大事なものを、いけしゃあしゃあと盗み出すなんて、たいした犯罪者ね。びっくりして、おもわず指が百十番を押しそうになるわ」


井村の顔色がさらに変わった。


もちろん神社にとって大切なものと言うのは事実だが、それ以外ははったりである。


そのはったりは、井村には十分通用したようだ。


八雲が井村の肩に手を置いた。


「入るわよ」


何も言わない井村を押しのけるようにして、八雲が中に入った。


矢崎と奥野も続いて入った。




一人住まいにしては広い部屋だった。


部屋も三部屋あり、そのうち二つは間に二本の柱があるが、壁はない。


この二部屋だけで二十畳くらいはありそうだ。


地方都市の、それも西の端ともなれば、家賃もそれほど高くはないだろうが。


遠慮なくじろじろと部屋を見渡している奥野に気づき、八雲が鋭い視線をあびせてきた。


奥野は居住空間の観察を止めた。


テーブルの奥側に井村が座り、その正面に八雲が座った。


矢崎と奥野は、八雲の右と左だ。


八雲が言った。


「最初にあなたがやることは、まが玉を返すことね」


井村は何も言わずに後ろのローボードの引き出しを開け、何かを取り出すとそれを八雲に差し出した。


それは赤黒く光るまが玉だった。


八雲がそれを手に取り、じっと見た後言った。


「やはりね。かなり封印がとけっちゃてるわ」


「どういうことですか?」


矢崎が聞いた。


「あのほこらから外に出した時点で、封印がほころんだのね。今はもう、あれがある程度はお出かけ出来るようになってるわ」


「それではもう一度ほこらに収めれば」


「そんな簡単な問題じゃないわ」


八雲はまが玉をテーブルの上に放り投げた。


それを見て井村が言った。


「あのう。いったいそれは何ですか?」


八雲が答えた。


「あれよ、あれ」


「あれ?」


「そう、あれよ。あれに名前はないわ。て言うか、あえてつけてないんだけど」


「?」


「名前がないから、あれ。なにがなんでも、あれ」


「……」


矢崎が口をはさんだ。


「井村さんもそうですが、うちの奥野もよくはわかっていません。こいつには、あれ、とか、化け物、とか、復活したらとにかくとんでもないことになるもの、とかは言っていますが、具体的なことは何も言っていません。ですから一度きちんと説明する必要があると思います」


矢崎の言うとおりだった。


前から何度も「これになにかあったら、大変なことになる」とは聞いていたが、その実、このまが玉がどういう物なのかは、きちんと聞いたことがなかった。


八雲が言った。


「そうね。こらからしばらく四人で行動するのだから、知っておいたほうがいいわね」


「四人……ですか?」


奥野以上にわかっていない井村が聞いた。


それはそうだろう。


まが玉はちゃんと返還したのに、なんで今会ったばかりの人間と行動を共にしなければならないのか。


八雲が言った。


「そう、四人よ」


にたり、と笑った。


この顔を見たら、世界中の男性という男性が思わず一歩引くだろう、と思えるほどのいやらしくて冷たい笑いだった。




奥野が近くのコンビニから帰ってくると、三人とも黙ってソファーに座っていた。


奥野がコンビニに行ったのは、八雲が「話しているだけじゃ、口が寂しいわね」と言ったので、お菓子やつまみ、飲み物を購入するためだ。


「ここ並べて」


八雲は自分の前を指差した。


言われたとおり、四人分の食料や飲み物を全て八雲の前に置いた。


八雲は何も言わずにそれに手をつけた。


もぐもぐもぐもぐ。


食べている。


ごくごくごくごく。


飲んでいる。


もぐもぐもぐもぐ。


食べている。


ごくごくごくごく。


飲んでいる。


そのうち終わるだろうと思って、三人とも黙ってそれを見ていた。


もぐもぐもぐもぐ。


まだ食べている。


ごくごくごくごく。


まだ飲んでいる。


残りが少なくなったころ、奥野の頭にある考えが浮かんできた。


――まさか一人で全部食べてしまうつもりじゃ。


八雲は「四人分のつまみと飲み物を買ってきて」と言った。


だから奥野は言われるがまま「四人分なら、これくらいだろう」という分量を買ってきたのだ。


なのにそれが八雲一人の手で、どんどんなくなってゆく。


普通の女子よりも小さな体の八雲によって。


奥野たちが見守る中、やがて目の前のつまみや飲み物が一つ残らず、八雲の体の中に納まった。


「ふう、やっと落ち着いたわ」


――あの四人分と言うのは、自分が四人分食べるという意味だったのか?


その間、大の大人四人で、八雲をがん首そろえて見守っていたのだ。


つまらんものを見守ってしまった。


奥野はそう思った。


食べ終わった後、なぜか目を閉じていた八雲が、目を開いた。


「それじゃあ大事なお話、始めましょうか」


八雲は井村を指さした。


自分よりも倍以上の年齢の男を指さすのは、とても失礼なことだとは思うのだが。


「そこのあなた。井村さんとかいったわね。ここに私以外三人いるけど、話はほとんど井村さんにするのよ。よく聞いてね」


八雲は矢崎と奥野を交互に見た。


「だからあなたたち二人は、黙っててね。どうしても言いたいことや聞きたいことがあったら、挙手してからね。しないで何か言っても、聞こえなかったことにするから」


矢崎が苦笑いをしながらうなずいた。


奥野もそれにならう。


「よし。それじゃあ井村さん。もちろんあなた、あのまが玉がいったいどういうものなのか、知らないわね」


「ええ、知りません。でもあのまが玉、動くんです。それも変な失踪事件のあった時に限って。何か関係あるのでしょうか」


奥野と矢崎は思わず顔を見合わせた。


八雲も軽い驚きの表情を見せた。


全く何もわかっていないと思っていた井村が、結構事件の核心と突くことを言ってきたからだ。


八雲がそれをふまえて答えた。


「へえ、思ったよりもいいところ掴んでいるじゃない。普通、まが玉が動くことを不思議がっても、それをあの事件とは結びつけたりはしないものなのにねえ。さすが能力者と言ったところね」


「能力者?」


「そう、能力者。あのまが玉は、普通の人には見えないはずなの。あのほこらの中にある時に限ればだけど。ところがあなたはそれを、さも当然のように持ち出した。見えないものを持ち出すはずがない。見えたのね。だから能力者と言ったのよ。それが何か問題でもあるの」


「いや、問題ありません」


八雲のただでさえ威圧的な態度が、ここにきて増してきた。


その気迫に押されて、井村が小さくなっている。


八雲は、それにかまわず言った。


「問題ないのなら続けるわ。いいわね。まず、このまが玉だけど、もちろんただのまが玉なんかじゃじゃないわ。正確に言えば、最初はただのまが玉だったけど、今は違うと言ったほうがいいわね。六百年前に、あれが封印されたから」


「あれ、とは?」


さっきまで完全に引いていたはずの井村が、何事もなかったかのように、さらっと聞いてきた。


なるほど、この井村という男。


八雲が変わり者と言ったが、空気を読まないという点において、人並み外れた才能を持ちあわせているらしい。


奥野はそう思った。


八雲が聞いた。


「あれと言ったら、あれよ」


もはやけんか腰になっている。


声が棘だらけだ。


私がいいと言うまで黙ってろ、と声の響きがそう語っている。


「あれ。つまり化け物。六百年前にとある村に、ある怪物がいきなり現れた。人を食うやつがね。なんでそんな厄介なやつが、ひょっこり顔を出してきたのかは、わからないけど。とにかく村人が何人も食われたので、村長が領主様に願い出たの。化け物をなんとかしてくれって。そこで何人かの侍が出向いて行ったけど、みんなあっさり食われてしまった。化け物には刀や槍が、全く通用しなかったみたいね。で、妖怪には法力だということで、高名な僧侶が選ばれたの。その僧侶、今となっては名前もわからないんだけど、それなりの力はあったみたいで、怪物の動きを止めたそうね。そこですっかり安心してたら、また暴れだして、その僧侶も食われてしまった。仏の力でだめなら、今度は神の力だ、というわけで、そこらへんじゅうの神社から神主が集められた。本来なら烏合の衆となるところだったんだけど、その中に一人、強力な力を持った人がいたのね。そのおかげで化け物の動きを止めた。前に止めたお坊さん以上の力で。でも動きを止めただけでは、いつかはまた暴れだす。そこでその人が、持っていたまが玉に封印し、あなたが落ちたほこらに結界を張って、その中に収めたの。これで未来永劫安心だと思っていたら、あなたがその結果意を破ってしまった。おかげで四人死んだわ」


「よ、四人ですか」


また井村が口をはさんだ。


懲りないやつだ。


だが八雲は、今度はいい相づちとでも思ったのか、軽く笑うと答えた。


「そう、四人よ。足首の人、手首の人、頭の一部の人。それに体全部丸呑みにされた人が一人いたわ。私にはそれが視えたわ」


矢崎が手を上げた。


「はい、矢崎さんどうぞ」


「なんで食われたのに、体の一部が残っているんですか?」


「いい質問ね。答えは単純。あれ、基本的にせっかちなのよね。食い意地がはっていると言ってもいいわ。人間一人程度なら、一口で食べちゃうんだけど、体全部が口の中に入る前に口を閉じちゃうもんだから、まだ入りきらなかった部分が残っちゃったのね。頭の一部が残った人は、倒れたところを足から丸呑みにしたんだけど、頭が全部入りきらないうちに口を閉じたから、そうなったのね。もともと食い意地のはったやつが、六百年間も何も食わなかったんだから、気持ちはわかるんだけど。でも、人食っちゃいけないわ」


八雲はまた笑った。


よくこんな状況で笑えるもんだ。


奥野は思った。


八雲は再び井村に視線を移した。


「で、さっきも言ったけど、あなたのせいで四人もの人が死んだ。法律的に言えば、殺人幇助になるのかしら。私、法律に詳しくないんだけど。でも四人もの命。重たいわね。うん、とてつもなく重いわ。で、井村さん。この責任はいったい、どうとってくれるの」


「……まが玉はお返しします」


「あーん、この人やっぱりわかってない。まあしょうがないけど。返すのは当然よね。人のもの神社のものなんだから。でも残念ながら、それだけではすまないのよ。どうしてかわかる?」


「いえ、ぜんぜん」


「一度結界から出されて人食ったりしているやつを、そのままほこらに収めても駄目なの。まあ、ほこらの結界も、もう壊れてしまっているけど。これはすぐになんとかなるわ。問題は最初、六百年前の神主たちがなにをやったかということ。あの時は一人の神主を中心に、みんなでよってたかってあいつの動きを止めた。人間で言えば、一人を大勢で足腰立たなくなるまで袋叩きにしたようなものね。それからまが玉に封印し、結界に納めた。今度も同じことをしないといけないの。けど、あれは今元気なのよ。ただほこらに収めるだけじゃあ、だめだわ」


奥野が手を上げた。


「はい、奥野さん」


「同じことって、どうするんですか?」


「同じことと言えば、同じことよ。みんなであれをフルボッコにする。それからまが玉に封印し、結界を作り直したほこらに収める」


「そんなこと、どうやって?」


「奥野さん、質問は手を上げてからね」


奥野は素直に手を上げた。


「そんなこと、どうやって」


「私一人では無理ね。一面や二面くらいの小ボスなら、私一人で何とかなるけど、あれは六面中ボス、ラスボスの一歩手前ぐらいの力があるわ。私は戦うのもそのへんのヘボ神主よりは上だけど、あれには勝てない。もともと私は戦いよりも、千里眼とか結界とか、そっちのほうが得意なのよ。だって、女の子だもん」


「……」


「……」


「……」


「なによ、みんなのその顔。なんか言いたいことでもあるの」


「……」


「……」


「……」


「まあ、いいわ。で、私が結界を作り直し、みんなであれをぼこぼこにし、私がまが玉に封印し、井村さんがほこらに納める。これで万事解決ね」


「私が?」


「井村さん、挙手忘れているわよ」


挙手しない井村に何度か答えているが、今回だけはなぜかだめなようだ。


井村がまるで小学生のように手を上げた。


「はい、井村さん」


「私が納めるんですか。なんで私がそんなことを?」


「それは井村さんにしかできないからよ」


「?」


「井村さんが結界を破って、まが玉を持ち出した。その結果、再びまが玉をほこらに収めることが出来る人間が、この世で一人だけになってしまったの。それは最初に結界を破った人。つまり井村さんのことよ。井村さん以外の人がやろうとすると、大変なことになるわ。でも井村さん、それくらいして当然でしょ。あなたの軽率な行動によって、四人もの人間が死んだ。おまけに歴史的にも文化的にも貴重な他人の財産を盗んだ。化け物のことがなくても、ブタ箱に入る資格はあるわよ。だからあなたには、この事件に関して最後までつきあってもらうわ。井村さんにはそれだけの義務と責任が、十二分にあるのよ。わかった」


「でも、私にも仕事とかいろいろ……」


「そんなもの、インフルエンザにかかったとか言って、休みなさいよ。インフルエンザは今、ぜんぜんはやってないけど。理由はあなたにまかすわ。長年勤めた会社だもの、あなたのほうが適当な理由をおもいつくでしょ」


「うーん」


「それにこれは、井村さんのためでもあるのよ」


「私のため?」


「井村さん、挙手。って、もうやめた。自分でいいだしたけど、めんどうくさくなったわ。そうよ、井村さんのためでもあるの。なんせ井村さんしか、あいつのとどめをさせる人間がいないんだから。私だったらそんなやつ、真っ先に食べるわよ。今のところは、あれはそのことに気づいていないみたいだけど。いずれ気づくわ。化け物のくせに頭はいいし、おまけに神に近いから、人間だったらわからないようなことでも、そのうちわかってしまうわ」


「神に近い?」


「その話は後でゆっくりと。三人が来たらね」


「三人?」


矢崎が聞いた。


「ええ、三人よ。あれと直接戦う人達」


八雲はそのへんにあったノートを勝手に取り、それに何か書き始めた。


「はい」


書き終えると、矢崎にノートを渡した。


そこには三人の名前と、その下に電話番号と思える番号が書いてあった。


三人の名字は同じだが、市外局番のほうは三つとも違っていた。


全て県外の番号だ。


「そこに電話して。用件はあれ、が出てきてしまったこと。で、依頼人はこの私、八雲紅。それだけ言えば、必ず来るわ」


「わかりました」


八雲はそう言うと、居間を出て行った。


矢崎は八雲を見送ると、井村に聞いた。


「ここの住所を教えてください」




矢崎は三人に電話をかけ、八雲がいったことと井村の住所を告げた。


三人とも「すぐ行きます」と言っていたようだが、局番からみて全員県外だ。


すぐには来られないだろうと、


奥野は考えた。


「どちらにしても、待つしかないか」


矢崎がそう言うと、井村が口を出した。


「ちょっと待ってください。この中に人を食う化け物がいるんでしょ。しかも自由に出入りして、四人も食っている。今出てきたら、いったいどうするんですか?」


矢崎が答える。


「それはご心配におよびませんよ、井村さん。この部屋に入ってすぐに、八雲さんが化け物が出てこられないようにと、封印の上乗せをしましたから。だからしばらくは出てこないでしょうが、これは言わば応急処置みたいなもので、長くはもちません。けど今すぐ出てくるようなことはありませんから、安心してください」


「そうですか」


「ほこらの結界は破れてしまいましたが、まが玉の封印は今でもある程度残っています。でなければあれは、一度まが玉から出たら、二度と戻ってこなかったでしょう。私には詳しくはわかりませんが、戻らざるをえないなんだかの力が働いたのでしょうね。それに八雲が力を加えましたから、当分は大丈夫です」


「わかりました」


「三人が来るまでゆっくり待ちましょう。全員そろったら、我々も忙しくなります。で、奥野君」


「なんですか」


「さすがにお腹がすいたし、のども渇いた。コンビニで何か買ってきてくれ」


「四人分ですね」


「そう、四人分だ」


そう言うと、矢崎は笑った。




八雲はそのまま帰ってこない。


そのかわり、夕方から夜になろうかという時間帯に、一人の来客があった。


「八雲さんの要請で参りました、諏訪二郎と申します」


筋肉質の体をした、小柄な男である。


年齢は三十歳くらいだろうか。


その顔つきは、落ち着きと一種の優雅さを感じさせた。


「一郎と三郎はまだですね。二人とも私より遠いところにいますから。で、べにさんはどこでしょうか?」


どういう間柄かは知らないが、諏訪は八雲のことを、べにさん、と呼んでいる。


奥野にはそれがなぜだか、妙に気になった。


矢崎が答えた。


「八雲さんは出て行ったきりですよ。どこに行ったかもわかりません。携帯もここに置いたままですし」


「相変わらずですね、べにさんは。たまに会うと、いつもこれだ。繋がれざる者、とでも言いましょうか」


そこへ突然、八雲が帰ってきた。


「あら、二郎お久しぶり」


「紅さんも、元気そうで」


「あとの二人は。まあ遠いからまだ無理ね」


「一郎はあと二時間くらい。三郎はさらに一時間くらいかかるみたいだけど。まあ、遅い夕食には間に合うかな」


「それでは三人そろったら、あれについてもう一度説明するわよ。まだよくわかってない人もいるし。あと封印の仕方もね」


八雲はテーブルの上の食べ物を眺めた後、奥野に言った。


「見たところだいたい四人分って感じだけど、今五人いるし、あとからもう二人来るわよ」


「あと三人分買ってきます」


「あと四人分よ」


「えっ」


「七人になるでしょ。で、私が二人分食べるから、あと四人分よ」


この小さな体の、いったいどこに入るというのだろうか。


奥野はあきれたが「はい」と答えて部屋を出た。




買い物から帰ると、テーブルの上の食べ物がきっちり二人分なくなっていた。


「先にいただいたわよ」


八雲一人だけ食べたようだ。


しかもあの短い時間で、二人分を。


「あとの人は、みんなそろってからね」


自分だけ先に食べたやつの言うセリフか。


とにかく全員がそろうのは、軽く二十二時を過ぎるだろう。


とうに腹をすかせていたが、ここは我慢するしかないだろう、と奥野は思った。




「いや、遅くなりました」


一郎と呼ばれた男がやってきた。


先に来た二郎という男と、そっくりな顔と体つきをしている。


おまけに髪型まで同じだ。


見分けはつくのだろうか。


いや、顔だけ見ても見分けはつかないだろう。


服装が違うのが、幸いだ。


この顔でおそろいのを着られた日には、完全にお手上げだ。


同じ柄のカジュアルなシャツを着ているが、一郎が赤で、二郎が青だった。


一郎が言った。


「三郎から、もうすぐ着くと連絡がありました。みなさんお腹もすいているし、いろいろと知りたいこともあるでしょうが、しばらくお待ちください」


「あら、私はこれ以上知りたいことなんてぜんぜんないし、おまけにお腹もすいてないわよ」


「そりゃ紅さんは、そうだろうよ」


と、今度は二郎が言った。


再び一郎。


「とにかくもうすぐですから、しばらく待ちましょう」



もうすぐと言う割には少し時間がかかったが、とにかく三郎がやって来た。


これで全員がそろったことになる。


三郎は同じ顔で、同じ柄の黄色いシャツを着ていた。


赤、青、黄色。


まるで信号機だ。


奥野は思った。


言われるまでもなく、どっからどう見ても三つ子だ。一郎が言った。


「みなさんお腹がすいたでしょうから、とりあえず食事を先にすませましょう」


誰も反対しなかった。


お腹がへっているのは確かなのだから。


食事の間、一切会話はなかった。


みな本当に腹がへっていたのに加え、八雲の話を早く聞きたいという想いが重なって、食事の時はあっと言う間に終わった。


「それでは、大事な大事なお話、始めましょうか」


半ば眠っていた風の八雲が立ち上がった。


「まずあれの正体ね。矢崎さんと諏訪兄弟は多少知っているみたいだけど、あとの二人がほとんどわかっていないみたいだからね。この八雲紅が直々に教えてあげるから、感謝しなさい」


どうでもいいけど普通に切り出せないのか、この女は。


奥野がそんなことを考えていると、八雲がようやく本題に入った。


「あれ、とか化け物、とか言っているけど、名前はないわ。なぜならあいつは、半分がこっちの世界にいて、半分があっちの世界にいるような存在なの。実態があるような、ないような。そんな感じね。そんな中途半端なやつにこっちの世界の名前なんかつけたりすると、完全にこちらの世界のものになってしまうの。そうなったら今でも十分めんどうくさいのに、さらにややこしいことになるわ。だから固有の名前はない。つけない。あれとか化け物とか呼んでいる。あれとか化け物は、固有名詞じゃないから」


「で、あれって、いったいなんです?」


遠慮と言う日本語を知らない井村が聞いた。


八雲が怒るかと思ったが、そんなこともなく返答した。


「まあ、妖怪ね。妖怪の許容範囲は広いけど。細かく言えば、あいつは人であり神であり蛇である。そんなところかしら」


一郎が言った。


「人と神と蛇が合わさったもの、と言うところか。やはりな」


「そう。人であり神であり蛇である。としか言いようのないやつなの。どうしてそんなものがこの世に存在するんだ、とか聞かないでね。いくらこの私でも、六百年前のことなんか透視できないから。とにかく人と神と蛇が合体したものと思えば、ちょっと違うけどだいたいあっているわね」


三郎が言った。


「あれについては、私たちもある程度はわかっている。わからないのは、なぜあれが人を食うかだ。あれは人なんか食わなくても、生きていけるはずだが」


「理由は簡単。あいつ身体が欲しいのよ」


「身体が?」


申し合わせたかのように、数人が同時に言った。


「そう、体がね。言ったでしょ。あいつ、半分は向こうの世界にいて、半分がこっちの世界。全部こっちの世界になるには人間が名前をつけるのが手っ取り早いんだけど、六百年間待ったのに、誰も名前をつけてくれなかった。じゃあちゃんとした肉体が欲しかったら、いったいどうすればよいのか。とっても簡単。食えばいいのよ。だからあれは、次々と人を食べているのよ」


「食えば実体化が進んで、完全にこの世のものになるのか?」


と二郎。


「人間を少し食ったところで、すぐに実体化するわけではないわ。多少の補助にはなるけどね。食うだけで実体化しようとしたら、数万人は食わないといけないんじゃないかしら。でもあれは、人を食えば実体化することは知っている。あれにとって、数なんかどうでもいいのよ。ほっといたら本当に数万人食うわ。その前に何とかしないとね。それに実体化してしまったら、二度と封印できなくなってしまうわ」


「封印は、どうやってするんですか?」


今度は矢崎が聞いた。


「諏訪兄弟はわかっているみたいだけど、一応説明するわ。まず私がほこらにいって、壊れた結界を直す。そしてあれを一旦まが玉から出して、みんなでよってたかってぼこぼこにしてから、まが玉に封印する。元気なままで封印しても、またひょっこり顔を出してくるから、そうしないとね。で、そのまが玉を井村さんがほこらに納める。最後に上に開いた穴を塞げば、ミッション終了ね」


黄色の三郎が補足した。


「あれの力は強大で殺すのはまず無理ですが、弱らせるだけなら私たちと紅さんでなんとか出来るでしょう。その後紅さんが封印したら、最後は井村さんがやってくださいね」


奥野が思わず聞いた。


「でも相手は人間を丸呑みにするようなやつなんでしょう。大丈夫なんですか。何も持たずに戦って」


奥野の言うとおり、八雲も諏訪兄弟も、武器どころかなんの道具も持っていない。


みな神通力はあるようだが、果たしてそれでうまくいくのだろうか。


「大丈夫よ。私、そして諏訪兄弟もそうだけど、自分の体しか使わない。神通力も自分の体から直接出すし。まあこの世界では、珍しいといえば珍しいわね。みんななんだかんだで、いろんな道具を持っていることが多いから。奥野さんがそう思うのも仕方ないけど、私たちはそんな必要ないのよ。そんなものなくても、人もどきで神くずれの蛇なんかに、おくれをとったりはしないわ」


「そうですか」


八雲がそう言うのなら、そうなんだろう。


なんの根拠もないが、とりあえずは信じるほかはなさそうだ。


「じゃあ、説明も終わったし。今日のところは終わり。井村さん、悪いけどお風呂を借りるわよ」


八雲はそう言うと、井村の返事を待たずにバッグ片手に、風呂場に向かった。


が、居間の出口のところで振り返り、なぜか奥野を見た。


「のぞいたら、ただじゃおかないわよ」


そう言うと、そのまま出て行った。


十九歳の女性の入浴をのぞく。


奥野にとってはとても魅力的なことだったが、八雲紅に関してそれは、全く頭にはなかった。




八雲の後、家主の井村が風呂に入り、その後矢崎、諏訪兄弟、奥野の順に入った。


人数が多いこともあり、自然とカラスの行水となった。


家主の井村といつの間にか着替えを用意していた八雲以外は、風呂に入っても下着すら替えなかったが、そこは潔癖症には程遠い野郎どもたち。誰一人気にしていないようだ。


「それじゃあ、おやすみ」


たった一つしかない井村のベッドは、八雲が使うこととなった。


八雲がただ一人の女性と言うこともあって、最初からそんな雰囲気はあった。


こういう場合、間違いなく男女は平等ではなく、女性が圧倒的に有利だからだ。


だが、誰かがそう提案する前に八雲が「ベッドは一つしかないみたいね。じゃあ私が使うのが当然ね」と言い、誰も異論を唱えなかったのでそうなった。


ただ八雲が寝室に行った後、「なによこのベッド。ほんと臭いわね」と言う大きな声が聞こえてきたが、もちろんみんなそれは放置した。


残った男たちは、ソファーとかいろいろ。


奥野は床の上だ。


ただ井村のマンションは一人住まいにしては広いので、男どうしくっつきあって寝ることは避けられた。


おまけに初夏のこの気候。


風邪などの心配もなく、眠ることが出来るだろう。


――枕くらいは欲しかったな。


奥野はそう思いながらも、すぐに眠りについた。




奥野が起きると、男たちはみな起きていた。


井村が隅のほうで、これみよがしに咳きをしながら、どこかに電話していた。


おそらく会社だろう。


相手が目の前にいないのに、頭を下げながら電話をするという、一昔前の日本人にはありがちだった行動を、何度も繰り返していた。


井村が電話を切った途端、大きな声が響いた。


「おっはよう。みなの衆。朝だぞーー」


まるでアホな小学生のようだった。


もちろん八雲である。


「おはよう」


「おはよう」


「おはよう」


「おはよう」


「おはよう」


「おはよう」


みんな朝のあいさつが終わると、八雲が言った。


「それじゃあ、これから化け物退治に出かけるわよ。みんな遠出するけど、大丈夫ね。でもおやつは五百円までよ」


「あのう」


八雲の快心のボケを無視して、井村が聞いた。


「で、どこへ行くんですか?」


「そんなのあんたが落ちたところに決まってるでしょ。何言ってるのよ。まったく」


ちょっと怒っていた。




ほこらまでは、そう遠くはない。


幸い井村の車は大型のバンだ。


八人乗りなので、七人乗っても物理的にも法律的にも余裕がある。


八雲が聞いた。


「あなた独身なのに、なんでこんな大きな車を持ってるの」


「いや、将来に備えてと思いまして」


「結婚する予定でもあるの」


「いえ、彼女すらいませんが」


「……ふーん」


さすがの八雲もそれ以上は言わなかったが、何が言いたかったかは雰囲気でありありと伝わってきた。


奥野は改めて戦闘要員を観察した。


何も道具は使わないと聞いていたが、ほんとうに何も持っていないようだ。


――大丈夫なのだろうか。


持ち物といえば、八雲が奥野に買わせた大量のお菓子だけだ。


八雲は移動中、それを休むことなく食べ続けていた。


小学生の遠足か、これは。


もちろん五百円など軽く超えた金額だ。


基本的にはみんな黙っていたが、運転している井村だけは、聞こえるか聞こえないかの声で、ぶつぶつと何か言い続けている。


時折物騒な単語が聞こえてきたような気もするが、奥野は何も聞かなかったことにした。




そうこうしているうちに、ほこらの近くに着いた。


八雲がほこらの上に行くと言ったので、道なき道を登っていかなければならない。


「私は最後を歩くわね。乙女のスカートの中、のぞかれたら困るから」


そう言った八雲は、黒いTシャツと黒くて短めでひらひらのスカートに着替えていた。


これから人を食う怪物と戦う姿には、とても見えない。


ちょっと動いたら、少し風がふいたら、下着が丸見えになりそうだ。


が、たとえ見えたとしても、八雲本人は気にしないのだろう。


でなければ、あんなかっこうをするはずがない。


やがてほこらのある広場に着いた。


ここまで来るとさすがに、みなの顔の上に緊張の色が見える。


その場にいる全員の目が、自然と地面に開いた穴にそそがれた。


八雲が言った。


「ちょっと待ってね」


八雲は穴のふちまで向かうとそこに座り込んだ。


そしてゆらゆらと両手を動かし、なにやら呪文のようなものを唱えだした。


見たことがないその手の動きは、なんだか踊っているように見えた。


見ていると八雲は踊りを止め、こちらに戻ってきた。


「結界の修繕、終わったわよ」


「もう、ですか」


と青い二郎。


「ええ。壊れたといっても、積み木を崩したみたいな状態になっていたのね。あとは積み木を積み直すだけ。積み木を最初から創らないといけないのなら、大変だったし時間もかかったと思うけど、積むだけなら簡単よ」


八雲は井村を見た。


「まが玉出して」


八雲はまが玉を受け取ると、それを無造作に地面の上に転がした。


「じゃあ、私が重ねがけした封印を解くわよ」


八雲はまが玉の上に手をかざした。


それだけだった。


「あとはあれが、のこのこと顔を出すのを待つだけね」


八雲は地べたにぺたんと座り込んだ。


諏訪兄弟がすかさず座り込むと、残りの三人もそれにならった。


八雲はじっとまが玉を見ていた。


その眼は怖かった。




あれから一時間ばかりが過ぎた。


が、いまのところ、特にこれといった変化はない。


赤の一郎が言った。


「紅さん、あいつ出てきませんね」


「そりゃもう、もぐもぐ、得体の知れない連中が、くちゃくちゃ、がん首そろえて待ちかまえているのは、ばりばり、わかっているからね。なんせあいつは、もぐもぐ、三分の一は神様なんだから」


「じゃあ、待っても出てこないのかな」


今度は二郎。


「いや、出てくるわよ、だって、くちゃくちゃ、さっきも言ったけど、三分の一は神様なんだから。あいつのプライドは、かなり高いはずよ。残りの人間と蛇も、もぐもぐ、無駄にプライドの高い生き物ね。だから、もぐもぐ、このままおとなしく引き下がるとは、とても思えないわね。そのうち、くちゃくちゃ、必ず出てくるから」


八雲は菓子類を食べながらしゃべっていた。


というより、ここで待っていた一時間ばかりの間、ずっと食べ続けているのだ。


その八雲が、不意に食べるのを止めた。


地面におろしていた腰を、ゆっくりと浮かせている。


「噂をすればなんとやら。あいつ、とうとう出てくるわよ」


八雲が立ち上がり、つられてみんなが立ち上がる。


「矢崎さん、井村さん、奥野さんは下がっていてね。あんたたち、邪魔だから」


余計な一言を加えたが、八雲の言葉に異を唱える者はなく、三人ともおとなしくまが玉から離れた。


逆に八雲と諏訪兄弟の四人が、まが玉に近づきまわりを取り囲んだ。


が、何かを感じたのか、四人がいっせいに後方へとびのいた。


まが玉が振動するように小刻みに動いている。


奥野にはそれは、バイブレーターで着信を知らせる携帯のように見えた。


そしてまが玉があやしく光りだしたかと思うと、小さな爆発音のようなものが響いた。


まが玉のまわりは煙につつまれている。その煙も初夏の湿った風に流された。


そこに、あれがいた。


真っ白い顔をした髪の長い美しい女性。


というだけなら問題ないが、首から上だけしかないと言うのが問題だ。


おまけに耳まで裂けた口。その口の中には、蛇というよりサメのような尖った三角形の牙がずらりと並んでいる。


そして一番人間離れしているのは、その顔の大きさだ。


らくに三メートルはあろくかという巨大な顔。


口だけでも二メートルはゆうに超えるだろう。


その上目が赤い。真っ赤だ。


その首の後ろに、黒光りするうろこを持った太くて長い蛇の胴体があった。


森のせいで後ろのほうはよくは見えないが、その長さは十メートルや二十メートルではきかないだろう。


もっともっと長いようだ。


ただ頭と胴体には決定的な違いがあった。


顔のほうははっきりと見えるのに、胴体のほうは少し透き通っているのだ。


胴体と森の木々がいくつも重なっている。


どうやらそっちらのほうは、完全に実体化していないように思える。


「囲むのよ!」


八雲が叫ぶ。


四人同時に動き、あっという間に頭の前後左右を取り囲んだ。


真後ろの三郎は完全に胴体の中に入っている状態だが、なんともないようだ。


やはり実体化しているのは頭だけのようだ。


「いけーーーっ!」


八雲が再び叫んだ。


次の瞬間、四人同時に手のひらを前にして、両手をつきだした。


四人の手のひらから何かが放出され、怪物に当たった。


奥野にはそれがはっきりと見えた。


もともと奥野はニートだった。


それではいけないと定職につこうと思ったのだがなかなかうまくいかず、それでは神頼みとばかりに近所の神社にいったところ、神主の矢崎に目をつけられた。


「君には人並みはずれた才能がある」


矢崎はそう言った。


思い起こせば子供のころから、普通の人が見えないものが見えた。


幽霊とか、見てもなんだかよくわからないものとかが。


しかし神主に目をつけられるような才能とは、考えもしなかった。


しかし仕事が見つからないこともあって神社に就職したのが一年ほど前のこと。


そんな矢崎だから、四人の手のひらから飛び出す何かが見えるのだ。


それが何であるかはわからないが、怪物を攻撃していることは間違いのないようだ。


「ぎゃああああああ」


化け物が大きな叫び声を上げた。


顔は美女だが、この声は完全に獣だ。


顔を苦痛に歪ませている。


四人は第二、第三の攻撃をしかせた。


「ぎゃああああああ」


「ちょっと、あれなにやってるんですか?」


井村が聞いてきた。


ほこらの中では常人が見ることの出来ないまが玉を見る能力はあっても、手から出る太いビーム砲のようなものは見えないらしい。


というより、あんなとんでもないものが現れて、現在交戦中だというのに、何をのんきなことを聞いてくるのか。


いったいどこまで天然なのだ、この男は。


「もう少しよ」


八雲がそう言った途端、巨大な女の顔が空高く舞い上がった。


ものすごいスピードだ。


あれだけ大きなものが、一気に小さくなってゆく。


「!」


頭は宙で止まった。


そしてそのまま、とてつもないスピードで落ちてきた。


頭は八雲の後ろに落ちた。


「いかん!」


三兄弟が慌てて走る。


四人で囲っていないとまずい。


しかし顔にむかってくる兄弟たちを尻目に、あれは逆の動きをした。


逃げるのではなく、八雲に向かって行ったのだ。


「きゃっ」


恐ろしい速さで向かってくるあれを、女性とは思えないほどの機敏な動きでよけたが、そのまま地面に倒れこんでしまった。


すると勢いからして八雲の横を通り過ぎると思われた怪物が八雲の横でぴたりと止まり、その大きな口を開けた。


「紅さん!」


三兄弟があれに向かって両手を突き出した。


が、あれの裂けた口は、八雲のすぐそばにまで迫っていた。


――間に合わない。


八雲がもう食われると思ったその時である。


「ぐぎゃぎゃぎゃがぎゃーーーーーっ」


あれが今までと違う叫び声を上げた。


そして白い煙が現れ、あれを包み込んだかと思うと、それがどんどん小さくなってゆく。


――なんだ?


そのまま野球のボールほどの大きさに縮んだと思うと、まが玉にむかって真っ直ぐ飛び、そして消えた。


「助かったぁ」


八雲が不抜けた声を上げた。


気丈の権化みたいな女だが、まだ十九歳の少女と言っていい年齢。


さすがに怖かったと見える。


もしあれで怖くないというのなら、狂人のレベルではあるが。


「いったい何が起こったんですか?」


また井村が聞いてきた。


この男は、筋金入りの天然である上に、好奇心の固まりでもあるようだ。


「まが玉の封印が、また発動したのよ」


「また……ですか」


「そう、またね。まが玉の封印は壊れかけている。井村さんが結界の外に持ち出したから。だからあれも外に出ることが出来るようになった。でも完全に壊れてしまっているわけだはないわ。だからある程度時間が経つと、あれはまたまが玉の中に取り込まれる。今までも何回か同じことを繰り返していたようね。ところで」


八雲は諏訪兄弟を見た。


「あなたたちがしっかりしないから、もう少しで死ぬところだったじゃないの。死んだら化けて出てやるからね。ほんと、しっかりしてよね!」


「すまない」


「悪かった」


「今度は気をつける」


この女ならはったりではなく、本当に化けて出そうだ。


奥野は思った。


それにしても真っ先に一番戦闘力の弱い八雲を狙うとは。さすが三分の一が神の化け物だ。


一筋縄ではいかないようだ。


「もう、四人で囲んでも上が空いてたんじゃあ、次も同じことの繰り返しになるわね。どうしたものかしら」


「どうする」


一郎が聞いた。


「上を塞がないとね」


「上を塞ぐ?」


「そう、上を塞ぐのよ。一郎さん、魔王院に連絡して」


「えっ、あいつにか」


「そう、あいつによ」


「でもあいつ、バカだぞ」


「わかかってるわよ、そんなこと。確かにとんでもないバカだけど、その力は本物よ。いいから連絡して」


「わかった」


一郎は携帯を取り出して、どこかにかけた。


そして会話。


最初はおだやかにしゃべっていたが、途中から口調がきつくなり、最後は罵声を浴びせるような声で締めくくって、電話を切った。


「とりあえず、来るって」


「そう。でもケンカしちゃだめよ」


「もうしたよ」


とにかく誰かくるらしい。


明らかに厄介そうなやつが。


「じゃあ、今日のところはもう帰りましょう。あっと、その前に」


八雲はまが玉に手をかざした。


そしてそれを井村に渡した。奥野が聞いた。


「封印したんですね」


「そう、封印の重ねがけよ」


「でもえらく早いですね」


「こういうのはね、得意中の得意なの」


と言って八雲は笑った。


初めて見る十九歳の少女らしい笑顔だった。




井村家に帰ってきた。


いつの間にかここは全員の宿泊所になっている。


奥野が聞いた。


「魔王院って人は、どんな人ですか?」


八雲と諏訪三兄弟の四人が知っているようだが、答えるのはもちろん八雲だ。


「魔王院火車とかいう、ふざけた名前の男よ。もちろん本名じゃないわ。でもある時期まで、本名だと言い張っていたけど。今では「神様から直々に頂戴した、ありがたいお名前だ」とか言っているみたいだけど。もちろん、本気にする人はいないわ。だいたい一応神社仏閣の関係者なのに、魔王とか、火車とか縁起でもない名前、神様がくれるわけがないじゃない。そんな簡単なこともわからないバカなのよ。本名は山田紀彦。みんな知ってるわ。でもこれまでさんざん突っこまれているのに、いまだに神様がああだこうだと、言い張ってるの」


「そんな人、大丈夫なんですか?」


「バカだけど、神通力は本物よ。バカだけど。神通力を得るには、きびしい修行に加えて、ご立派な人格や知性とか教養とかが必要って、この業界のえらいさんは口をそろえて言うけど、そんなの全然関係ないってことが、あの男を見ればわかるわ。でも大丈夫かと聞かれれば、大丈夫よ。なんとかとハサミは使いようって言うでしょ。超がつくぐらい単純だから、うまくやれば人一倍働いてくれるわよ」


「そうですか」


一郎が言った。


「で、明日朝いちでくるそうだ。ここの住所は教えてある。「俺の力がどうしても必要なんだな。俺は日本一だから」とか「あんたら有象無象と俺とは、ものが違うからな、ものが」とか、いろいろ腹の立つことを、ずけずけと言いたい放題言っていたけどね」


「とにかく、ケンカしちゃだめよ」


「それは自信ないなあ」


三人がいっせいに同じことを同じ口調で言った。さすが三つ子だ。八雲はしばらく何か考えていたが、やがて目を輝かせて言った。


「あいつ、あえてケンカさせたほうが、いいかもね」


「えっ?


「えっ?」


「えっ?」


諏訪兄弟が思わず八雲を見たが、彼女はただ笑っているだけだった。




朝になった。


「八時くらいには着くと言ってたが」


「あのバカが言った時間に来るわけがないじゃない。普段から余計なことしか考えないから、もったいぶってわざと遅れてくるわ。宮本武蔵じゃあるまいし。この私のカンじゃあ、十時くらいじゃないかしら」


一郎が言った。


「紅さんがそう言うなら、それくらいだろう」


二浪が言った。


「ゆっくり待つか」


三郎が言った。


「で、ケンカふっかけてもいいんだな」


八雲が言った。


「ケンカふっかけるのは私よ。私がどんどんふっかけるわ。だからあなたたちは私に合わせてね」


「わかった。まかせた」


また三人同時に言った。




十時を少し過ぎたころ、玄関のベルが鳴った。


「はい、どちらさま」


家主の井村が対応に出る。


井村が玄関の戸を開けた。


すると何も言わずに井村を突き飛ばすようにして、男が入ってきた。


背が高くて筋肉質な男だ。


くわえてなかなかのイケメンである。


年齢は二十代後半と言ったところか。


そして奥まで歩いてくると、両手を大きく広げて言った。


「やあやあ待たせたな、みなの衆。お望みどおり、この魔王院火車様が直々に出向いてやったぞ。十分に感謝するのだぞ」


「……」


「……」


誰も返事をしなかった。


絵に描いたようなバカだ。


軽く平均以上の。容貌に加えて声もなかなかいい声をしているのだが、言っている内容があまりに残念すぎる。


魔王院はみんなの返事を待っているようだ。


八雲がその期待に答える。


「あら、来たの。じゃあお仕事してもらいますね」


「案の仕事か知らんが、俺様が来たからには、こんな連中の力なんか必要ない。一人で片付けてやるから、ありがたく思え」


何の仕事か知らないのに、よくもそんなことが言えたものだ。


八雲が笑いをこらえながら言った。


「あら、この人達は必要よ。でも今回の仕事、全員でかかっても、ちょっとだけ力が足りなかったの。だからちょっとだけ力を貸してね。あなた、もともとちょっとだけしか力持ってないんだから、ちょうどいいでしょ。みんなは適当にやるけど、あなたは全力を出してね」


魔王院の顔色が変わった。


みるみる赤く染まってゆく。


それが怒りからくるものであることは、その表情を見れば誰でもわかる。


「おう、俺様の力がちょっとしかないだと。ここにいる全員の力を合わせても、この俺様の力には遠く及ばないぜ」


「見栄はらなくてもいいのよ、魔王院ちゃん。あんた一人じゃ、諏訪兄弟の一人にも勝てないわ。あんたは頭数、頭数なのよ」


魔王院の赤が、さらに赤くなった。


「ふざけるな。諏訪兄弟なんぞ、この俺様一人でがん首そろえてたたきのめしてやるぜ」


「それじゃあ、そうしてくれる」


「えっ?」


声に出したのは魔王院一人だが、八雲をのぞく全員が同じことを思った。


これからみんなで力を合わせて化け物と戦おうというのに、その前に仲間内で決闘でもしようと言うのか。


「あなたと諏訪兄弟で、決闘よ」


どうやら八雲は本気らしい。


魔王院は一瞬ほうけた顔をしたが、すぐさま立ち直った。


「おもしろい。上等じゃねえか。表に出ろ!」


そう言うと、自分が表に出て行った。


その後を追うものは、誰もいなかった。


「あいつ、いったいどこに行くつもりなのかしら。とりあえず、ほっときましょう」


みなが八雲に同意した。


しばらく待ってると、魔王院が帰ってきた。


「おいおい、決闘するんじゃなかったのかよ」


心なしか声が震えている。


かっこつけて勢いよく飛び出したのに誰もついてこないので、さぞかし心細かったことだろう。


「こんな住宅地のど真ん中で決闘なんかしたら、警察沙汰になるわよ。そんなこともわからないのかしら。ほんと、おこちゃまね」


八雲にそう言われ、魔王院は小刻みに体を震わせはじめたが、結局何も言わなかった。


「あのう」


井村だ。


「ここから少し行ったところに、医者が夜逃げした廃病院があります。そこなら大丈夫だと思いますが」


どんな状況であれ流されない、空気を読まない。


井村のこのキャラクターは、この場においてはぴったりかもしれない。


奥野はそう思った。


「それ、よさそうね。そこにしましょう」


そう言うと八雲は一番に外に出た。




車だとそれほど時間はかからなかった。


井村の家からしばらく走ると、山に入る道がある。


そこを登ってすぐのところにあった。


一目で廃墟とわかる病院。


個人病院と言う話だが、それにしては大きい。


そして庭が広かった。


おまけに道からは塀と植木にさえぎられ、玄関以外は見ることが出来ない。


そもそもこの道も、車の通行がほとんどないようだ。


つまり奥に入れば、やりたい放題なのだ。


八雲が一郎に耳打ちしているのが見えた。


一郎が軽くうなずき、二郎と三郎を見た。


今度は二郎と三郎がうなずいた。


「そこ。なにこそこそやってんだよ。へたな小細工なんか、この魔王院様には通用しないぜ。さあ、さっさとおっぱじめようぜ」


奥野はいままで、映画やマンガ以外で自分に様をつけるやつは、見たことがなかった。


ある意味、新鮮ではあったが。


魔王院に答えるかのように、三人が魔王院を取り囲んだ。


「おいおい挟み撃ちか。せこいことしやがるぜ」


「そのとおりよ。三人いれば、小細工でもせこいことでもないわ。もろに正攻法よ」


八雲が小さく手を上げた。


間髪入れずに三人が手のひらを前に向け、両手を突き出した。


奥野には三方から気の塊が魔王院に向かっていくのが見えた。


魔王院はそれを右手と左手で受け、見事には弾き飛ばした。


しかし手は二本しかない。


残り一つを背中に受けて、魔王院がよろめいた。


三人が再び気を放つ。


魔王院が両手で受け、今度は残りを腹にくらった。


三人が三度気を放つ。


魔王院が両手で受け、一発が顔面に当たった。


奥野は不思議だった。


さっきからリプレイ映像のように同じことを繰り返している。


最初はともかく魔王院はなぜ、三つとも避けてみるとか、一つを避けて残りを両手で弾くとか。


あるいは、思いきって三人のうち誰か一人に攻撃を仕掛けてみるとか。


成功するかどうかはともかく、とにかくとりあえずやってみるべきなのだ。


なのに何度も両手で受けて、残り一つをどこかに受けるという行動を繰り返している。


奥野が見ている前で魔王院は十発ほどの気を受け、崩れるように地面に倒れた。


みえみえの結果だ。


奥野は考えていたが、結論が出た。


――こいつやっぱりバカなんだ。


魔王院は仰向けに倒れたまま、両手を挙げて小さく言った。


「まいった」


八雲が魔王院に駆け寄った。


「なにが三人に勝てるよ。でまかせもいいところだわ。これでわかったでしょう。あなたの力なんて、小さいものなの。これからは、私と諏訪兄弟の言うことよく聞いて、小さな力をめいいっぱい使うのよ。わかった、魔王院ちゃん」


「わかりました」


なるほど、バカにはこれが一番か。


同じ力でも賢いやつは、こうもあっさりとは負けないだろう。


たとえ負けたとしても、勝つためにはどうすればよいか、などといろいろ考えるのだ。


しかしバカは違う。


相手が強くて自分が弱いから負けた。


ただそれだけだ。


こっちが一人でむこうが三人という、数学的優位さえ頭にない。


そして自分よりも強いやつには素直に従う。


それについて何の疑問も持たない。


これが昔の人が言う、なんとかとハサミは使いようというやつか。


八雲にはこうなることが、わかっていたようだ。


魔王院が力なく立ち上がったところで八雲が言った。


「それじゃあ、お遊びはおしまい。これから家に帰って作戦会議よ。ほらみんな、急いで急いで」


八雲はまるで自分の家のように言っているが、もちろん八雲の家ではなく井村のマンションである。


みんないっせいに動き出した。


奥野はさりげなく魔王院に近づいた。


魔王院が何かぶつぶつ言っているのを、聞くためだ。


「痛い、痛い」


魔王院はずっとそう言っていた。


確かに体のほうは服を着ているのでよくわからないが、気の当たった顔面は、鼻を中心にあわれなほど真っ赤になっていた。


まるで空手家かボクサーにでも殴られたみたいだ。


奥野は気の塊を受けたことがなかったので、実際に人間が受けるとどうなるかが、よくわかった。


気は気に反応する。


気を持つ者が気を受けると、身体的ダメージをくらうのである。


それは放たれた気の大きさに比例する。


諏訪兄弟の気の力が半端でないことを、魔王院の顔が告げていた。




家路に着いた。


勝手知ったる井村の家。


全員が落ち着くと、八雲が言った。


「とりあえず、明日は練習ね。リハーサルと言ったほうがいいかしら。わかっているとは思うけど、あれとの戦いは命がけよ。私なんて前回は、もう少しで死ぬところだったんだから。だから徹底的にリハーサルを繰り返す。身体が覚えて、たとえ寝ぼけていても、お酒に酔っていても自然に正しく反応するくらいにまでね。いいわね。わかった」


「わかった」


「わかった」


「わかった」


「わかりました」


八雲の提案は受け入れられたようだ。


が、リハーサルとは何をどうするのだろうか。


それが奥野にはよくわからなかったが。




朝、朝食をとり身支度を整えると、八雲が言った。


「今日は一日リハーサルだけど、いつ終わるかわからないわね。念のため、昼食に加えて晩御飯も用意しとかないと。それと飲み物。あっ、当然間食もね」


八人分のそれは、けっこうな量となった。


コンビニから井村の車に運ぶまでの短い距離で、奥野の手は痛くなった。


だいたいコンビニの袋は、重い荷物になればなるほど、嫌がらせのように手にくい込んでくるのだ。


「あなたのひざの上しか、置き場所がないわね」


八人乗りのバンに八人乗っている。


トランクに入る余地があるようだが、奥野は全ての食料を持ったまま車に乗り込んだので、置き場所がなかったのだ。


奥野がコンビニ袋を両手で抱えると、車は走り出した。


いくらなんでも足が痛くなるほどの重量ではないが、なんとなく乗り心地は悪かった。




車を所定の位置停めて山に入る。


最初は奥野が全ての荷物を持っていたが、諏訪兄弟が気をきかせて一部を持ってくれた。


袋は四つあったので、ちょうどいい。


ほどなくして広場に着いた。


八雲が言った。


「井村さん、まが玉そこに置いて」


井村がまが玉を置いた。


井村は今のところ車の運転以外では、いつの間にかまが玉を運ぶ係になっていた。


八雲が諏訪兄弟と魔王院を見た。


「一郎さんは私の正面。二郎さんは右。三郎さんは左。魔王院は、そうねえ、一郎さんと次郎さんの間に立って」


五人がぐるりとまが玉を取り囲んだ。


八雲式フォーメーション完成。


八雲がまが玉を指差した。


「これをあれだと思って。まあ、あれなんだけど。まが玉じゃなくて、ここから出た化け物のことね。それでみんなで私の号令で気を放つのよ。せーの、はい、のはいのところでね。言わなくてもわかっているとは思うけど、諏訪さんたちはこのまが玉に向けて。魔王院は、まが玉の真上に気を溜めてね」


八雲が一人一人の顔を順に見た。


みんな無言でうなずいた。


「それじゃあ行くわよ。せーの、はい」


八雲と諏訪兄弟がまが玉に向けて気を放つ。


魔王院だけがまが玉の上に向けて、気を放った。


奥野には見えた。


放たれた気は、普通何かに当たるとすうっと消える。


気を持つものに当たった場合は、軽く爆発したような状態になり、それにダメージを与えてから消える。


現に前回の戦いでも、四人の放った気は、化け物に当たると爆発して消えた。


魔王院に当たったときも同じだ。今まが玉に当たっている気もそうだ。


本来石であるまが玉には気はないが、あれを封印したまが玉には気があるらしく、化け物のときと同じように爆発して消えている。


とにかく人体から出た気は、消滅するものだ。


ところが魔王院の放った気は、何もない空中で停滞し、消えずに残っている。


――こんなことが出来るのか、この男は。


何もない空中で気を留めておける人間がいるとは、思ってもみなかった。


実際に目で見ているにもここわらず、まだなんだかの疑いの気持ちがわいてくる。


魔王院のやっていることは、それほどまでに特異なことなのだ。


こんなことが出来る人間は、日本中どころか世界中探しても、そうそういないだろう。


――なるほど、これがふたをするということか。


バカにもかかわらず、八雲が魔王院を呼んだわけがわかった。


四方から気を放ち、上を塞いでしまえば、あれは気の弾丸をひたすら受け続けることになる。


「やめっ」


八雲の声で、全員が手を下ろした。


諏訪兄弟は両手を。魔王院は右手を。


「ちょっと魔王院。片手で気を出してたよね。手を抜くんじゃないわよ。ちゃんと両手で出しなさいよ」


「俺の気は右手からしか出ないんだ」


「えっ? あれだけの気を操れるのに、左手からは気が出ないの?」


八雲があからさまに驚いた。


諏訪兄弟もみな、驚きの表情を浮かべている。


奥野にはよくわからないが、片手からしか気が出せないということは、そんなにも驚くことなのだろうか。


「ほんと、あんた規格外なのはバカだけかと思っていたけど、それ以外も規格外なのね」


一郎が続く。


「ああ、何度か会ったことはあるが、気を出すところは初めて見た。まさか片手しか気を出せないなんて、想像もしなかったよ」


魔王院が言った。


「俺様が規格外なのは、天才だからだ。バカだからじゃねえ。ていうか、俺様はバカじゃねえ!」


わかりやすく怒っていたが、みんな無視した。


「まあ、フォーメーションは一通り出来たわね。あとは練習あるのみよ。じゃあ、もう一度。せーの、はい」


この話の流れで、こんなにも早く気を出すことになるとは思っていなかったのだろう。


諏訪兄弟がわずかに、魔王院がさらに遅れた。


「もう。やり直しよ。五人の息を合わせないと、誰か死ぬわよ。ほんと、リハーサルしといてよかったわ。それじゃあ、もう一度よ。せーの、はい」


今度は五人が同時に気を出した。


「それもう一度、はい」


五人の息はぴったりと合った。


「よし、とりあえず休憩ね」


八雲はコンビニ袋まで歩いて行き、中からおにぎりを一つ取りだし、地べたに座り込んで食べはじめた。


まだお昼までは時間があるが、そんなことは気にしていないのだろう。


みんながそれに続き、おもいおもいのものを袋から取り出して、食べはじめた。


すると八雲が突然立ち上がり、まが玉の前まで走った。


「せーの、はい」


八雲が気を放ったとき、諏訪兄弟がようやく立ち上がったところだった。


魔王院にいたっては、あんぱんにかぶりついたままで固まっている。


「もう。だから言ったでしょう。いついかなる時でも、みんなの気を合わせるリハーサルだって。気を放っているの、私だけじゃない。やる気あるの。これは命がけの戦いなのよ。注意一秒ケガ一生、じゃなくて注意一秒即死亡よ。わかった。次はちゃんとやってよね。まったく」


そう言うと八雲は戻ってきて、再びコンビニ袋をあさりはじめた。


がつがつ食べる八雲に比べると、四人の食べるペースはかなり遅かった。


それはそうだろう。再びいきなり「せーの、はい」をやりかねないからだ。


いや八雲なら、必ずやるだろう。


諏訪兄弟は片ひざをつき、やや前傾姿勢になっている。


そのポーズは三人とも全く同じだった。


魔王院にいたっては、ひざは曲がっているが、尻は地面から浮いていた。


ヤンキー座りの変形だが、ヤンキー座りよりも前かがみで、この姿勢を長時間続けることは困難と思える体勢だ。


その中で八雲一人が、ミニスカートにもかかわらず男のように胡坐をかいて、食べ物をほおばり続けている。


細かく口を動かすさまは、ハムスターを連想させた。


八雲の掛け声を待っている状態が続いたが、八雲は食べ続けていた。


魔王院がさすがにきつくなってきたのか、姿勢を変えようとした。


が、バランスを崩して尻もちをついてしまった。


その時、さっきまで胡坐をかいていたはずの八雲が立ち上がり、あっと言う間もなく走り出した。


いったいどうして胡坐をかいた状態から、あんなにも素早く立ち上がることが出来たのか。


諏訪兄弟は瞬時に反応したが、尻もちをついていた魔王院は出遅れた。


「せーの、はい」


四人が同時に気を出したとき、魔王院はようやく走りはじめたところだった。


「こら、そこのバカ。なに一人だけ遅れてんのよ。ほんとどうしようもないバカなんだから。バカバカバカ。もひとつおまけにバーカ」


奥野にはもはや、嫌がらせにしか見えなかった。




途中で休憩、正確には食事だが、をはさんで八雲の「せーの、はい」はランダムに続いた。


そしてお昼を過ぎたころ、食料がなくなったのを見て八雲が言った。


「よしもう完璧ね。それじゃあちょっと休んでから、帰りましょうか」


そのまま八雲は寝転がり、そのうち寝息をたてはじめた。


――まったく。


奥野はあきれた。


男七人女一人分の昼食と夕食がすでになくなっているが、そのほぼ半分を八雲一人で食べたのだ。


――あの小柄な体の、いったいどこに入るんだろうか?


奥野が空になったコンビニ袋と八雲を見比べていると、一郎が言った。


「よくあんなに食べれるもんだ、と思っているね」


「えっ、いや」


不意をつかれて返答に困っていると、一郎が言った。


「そりゃあ、食うさ。それだけ人一倍エネルギーを使っているからね」


「エネルギーですか?」


「そう、エネルギーだ」


「どこにですか?」


「たとえばだ。中途半端な運動をするよりも、テスト勉強のほうが腹がへる、と聞いたことはないかい」


「ありますが」


「実際そうなんだな。もちろん勉強する時間や集中力によって、大きく変わってくるけどね。仮に、極めて高い集中力と密度の濃い考察を起きている間、ずっと続けているとしたら、その人はどれだけ腹がすくだろうか」


「極めて高い集中力と密度の濃い考察ですか?」


「そう、それをずっと続けている。たとえば、まが玉の封印の重ねがけはちゃんと機能しているか。急に解けて、あれが飛び出したりはしないだろうか、とか。明日の朝は大丈夫だろうか。何か大事なことを見落としてないだろうか、とか。魔王院は最後までちゃんと言うことをきいてくれるだろうか。彼をその気にさせるには、どうしたらいいだろうか、とか。その他いろいろ。寝ているときでも無意識に思考は続いている。とにかく高い集中力や思考、推理力や千里眼。全てを使ってあらゆる角度から物事を見直している。もちろん神様じゃないから、ミスも限界もあるが。それでもより百パーセントをめざして、一切妥協はしない。それにここでは一番若い彼女が、四人もの男の中で中心として動き、全てをしきっている。そう言うこともあって、彼女の使うエネルギーは半端ではない。それであれだけ、食べられるんだ」


「そうなんですか」


「どうしてそこまでやると思う」


「気が強いから」


それを聞いて一郎が笑った。


「気が強い、もあるな。それ以上に重要なのは、彼女の責任感とプライドだ。とにかく気が強く、負けん気の塊で、偉そうで口が悪い。それは確かだが、彼女はそれだけの女ではない。紅さんの責任感といえば、尋常ではないからね。なにせ幼いころから世のため人のため、父の所有する神社のためにと、日本一を目指して一日も休むことなく修行を続けてきたんだ。と過去形で言ったが、紅さんは今でも、今日も、修行を続けている。自分の気をより高めたり、その能力を強くしたり、と。体を動かす修行ではないので、普通の人にはわかりにくいけど、彼女の気の高まりや変化で、それを知ることが出来る。私も一応気を操る能力を持っているから、それがわかるんだ」


今まで奥野はわからなかったが、言われてみてようやく気づいた。


見れば寝ている八雲の気は、彼女の額のあたりを中心に素早く全身を駆け巡ったかと思うと、ぴたりと止まる。


が、次には大きく広がったり、小さく固まったりしていた。


アスリートが体を鍛えて筋肉を強くしたり、練習を重ねて技術を身につけたりするのと同じだ。


それをずっと続けているのだろう。


現に寝ているはずの八雲の気が、そういう動きをしているのだから。


それは腹もへることだろう。


そう考えると、八雲を見る目も変わる。


ただの大食らいが、厳しい戦場へ赴く戦士に見えてくる。


そんなことを考えながら八雲を見ていると、何の前触れもなく彼女が立ち上がった。


つい直前まで地面に寝転がっていたはずなのに、気がつけば普通に立っている。


いったいどうやって動いたのか、まるでわからなかった。


八雲が目を開けて、奥野を見た。


「さっきから何、じろじろ見てるのよ」


確か彼女は、今眼を開いたはずだが。


いろいろ聞きたいことはあるが、とりあえず謝っておいたほうがいいようだ。


「いや、なんでもないよ。ごめん」


一瞬「あまりに寝顔がかわいくて」と言おうとしたが、やめた。


そんなこと言っても、怒ることはあれど、喜ぶことはないだろう。


「そう」


八雲は何事もなかったかのように空をぼんやり眺めた後、言った。


「さあ、みんな。きょうはもう帰るわよ。もう何もすることがないし。さっさとこんなへんぴなところ、おさらばしましょう。井村さん、まが玉忘れないでね」


みなそれに従い、車に向かった。




途中、井村が信号無視をして、冗談抜きで危ない場面もあったが、なんとか無事マンションに着いた。


「てっきり青だと思った」


とは井村の弁だが、この男、よくも今まで生きていたものだ。


運だけは人一倍あるようだ。


八雲に小一時間にわたって説教され、神妙な面持ちで聞いていたが、それもそのうち忘れてしまうのだろう。


奥野は井村を少しずつ理解しはじめていた。


とは言っても、たとえ完全に理解したとしても、何の役にもたたないのだが。




説教が終わると、八雲がみんなを集めた。


「さあ、明日は待ちに待った決戦の日よ。どういう形であれ、明日必ず決着が着くわ。それだけははっきりと視えたわ。もちろん私たちの完全勝利で終わるつもりよ。そうなるように、みんなにはがんばってもらわないとね。それじゃ、晩御飯食べてお風呂入ったら、みんなさっさと寝るのよ。夜更かしして、携帯ゲームなんかで遊んでちゃだめよ。わかったわね」


八雲はみんなを見渡しながら言っていたが、最後はしっかりと魔王院の目を見ながら言った。


「わかった」


「わかった」


「わかった」


「……わかったよ」


どうやら魔王院は、夜中に携帯ゲームでもするつもりだったらしい。


図星をつかれて心なしか小さくなっている。


――八雲さんの前で隠し事は出来ないな。


奥野はそう思った。




奥野はどうしても寝付けなかった。


人一倍寝つきはいいはずなのに。


やはり明日のことが気になる。


あんな化け物とやりあうのだから、当然か。


それにしても、気にしすぎだ。


自分が直接戦うわけではないのに。


何度試みても、いつまで経っても眠れない。


奥野は考えた。


何か忘れているような。


何か大事なことを見落としているような。


そんな気がしてならなかったのだ。


――ええい、なんなんだ、いったい。


こうなったら、無理やり寝ることにした。


無理やり寝るとは、文字通りの意味だ。


そして奥野は、本当に無理やり寝てしまった。




「起きるのよ。いつまで寝てるの」


よく通る高い声が響いた。


もちろん八雲の声だ。


さすがに頭が重かった。


やっぱり寝不足のようだ。


全員居間に集合した。


一人暮らしでは余裕の広さを持つこの部屋も、八人集まるとさすがに狭い。


みなが思い思いのところに腰を下ろすと、八雲が言った。


「奥野さん、朝飯と昼飯と晩飯と間食、買ってきた。朝飯は八人分でそれ以外は七人分、お願いね」


「七人分ですか?」


何か感じ取ったらしい矢崎が聞いた。


「そうよ。矢崎さんにはもう帰ってもらうから」


「私だけですか?」


「そうよ。このメンバーの中では矢崎さん、あなたが一番必要ないわ。はっきり言わせてもらうと、邪魔なの。足手まといなのよ。だからおひき取りください」


「……そうですか」


内容も言い方もきつい八雲の言葉に、矢崎は肩を落とした。




奥野がコンビニから帰ってくると、矢崎はもういなくなっていた。


朝食は矢崎の分もあるのだが。


「ごくろうさん。そのへんに並べてね」


とりあえず朝食。


八雲は例によってひたすら食べ続けていたが、奥野はもう驚きもあきれもしなかった。


むしろ微笑ましいくらいだ。


ここにきて初めて、八雲をかわいいと思った。


「なにじろじろ見てんのよ」


そんなにじろじろ見た覚えはないのだが、相変わらず人の視線には敏感なようだ。


奥野は何も言わずに目を弁当に移した。




朝食が終わった。


最後まで食べていたのは、もちろん八雲だ。


量は多いわ、食うのは遅いわ。


みんな静かに、少女が食べ終えるのをひたすら見守っていると、ようやく八雲が食べ終えた。


「ごちそうさま」


三人分は食べただろうか。


でも全て脳が消化するのだろう。


「それじゃあ、出発よ。みんな気合入れてね」


誰一人返事をせず、静かに立ち上がり、無言で部屋を出た。


最後に井村が部屋の鍵をかける。


ガチャ、という音だけが、やけに大きく響いた。




移動中もきわめて静かだった。


当然緊張はしているだろう。


直接戦闘に参加しない奥野の気の張り詰めようも、かなりのものだった。


――それにしても。


奥野は思った。


なぜ自分がいるのだろうか。


ベテラン神主の矢崎でさえ、外されたというのに。


ほかの六人には明確な役割がある。


自分だけが何もないのだ。


考え続けたが、いくら考えても思い当たるふしがない。


車がもうすぐ目的地というところで、どうにも我慢しきれずに、奥野は八雲に聞いた。


「ずっと気になってたんですが、矢崎さんは神社で待機なのに、どうして僕はみんなといっしょにあの場所へ行くのですか?」


「それはね。必要だからよ」


「必要? なんのために」


「カンよ、カン」


「カン?」


「そう、カン。矢崎さんは必要ないけど、あなたは必要なのよ」


「必要って。僕はいったい何をするんですか?」


「それはまだわからないわ。でも私の第六感がずっとささやくのよ。奥野は必要だ、とね、だからつれて行くのよ。わかった」


「……はい」


よくはわからなかったが、奥野はとりあえず返事だけはしておいた。




やがて車は所定の場所に着いた。


車を停めて、獣道とも呼べない場所を歩く。


その最中も、みんな無言であった。




ほどなくして広場に着いた。


八雲は穴のところまで歩いた。


男たちがそれに続く。


最後尾は奥野だ。


奥野は自分が必要だとは、とても思えなかった。


「井村さん、まが玉そこに置いて」


八雲が指す地面に、井村はまが玉を置いた。


「さあ、重ねがけの封印を解くわよ。あれはすぐに出てくるわ。さっきから、出たくて出たくてうずうずしているから。でもその前にフォーメーションを組まないとね」


練習しただけあって、みんな無駄なく所定の位置についた。


「出来たわね。それじゃあ封印を解くわよ。ええい!」


八雲が気合を入れたが何も起こらない。


何も現れないし、時折野鳥の声が聞こえてくるだけだ。


「おかしいわね。ちゃんと重ねがけは解いたのに」


「解けてないんじゃないか」


魔王院が持ち場を離れてまが玉の元へと歩き出した。


「バカっ、そこでじっとしていなさい!」


八雲が叫ぶと同時に、まが玉の上に何かが現れた。


それは耳まで裂けた口と、その中にずらりと並んだ鋭い歯を持つ、大きさが三メートル以上ありそうな真っ白い顔の女性の生首だった。


「もどって!」


魔王院は奥野が驚くほど、素早く戻った。


と同時に巨大な顔が、ぶるぶると小刻みに震えたように見えた。


「魔王院。例のやつ。早く!」


八雲に言われ、魔王院は右手を差し出した。


それは奥野にも見えた。


化け物の上に、丸く大きな気の塊が出来ていた。


化け物は、周りの状況を確認するような視線の動きをみせたが、それは一瞬のできごとだった。


次の瞬間、あれは空高く飛ぼうとした。


しかし魔王院が作った気の塊にぶち当たり、どすんと地面に落ちた。


「今よ、はい」


八雲と諏訪兄弟が、あれに同時に手のひらを向けて両手をつきだした。


「はっ!」


「はっ!」


「はっ!」


「えいっ!」


四人の手のひらから、赤い気の塊が現れ、化け物に向かって弾丸のように飛んでいった。


「ぎゃあああああああ」


あれが叫び声を上げた。


大音量の野獣の響く声。


叫んだということは、四人の攻撃が効いているのだろう。


「まだよ。完全に封印できるほど弱まるまで、気を抜いちゃだめよ」


四人がまた気を放った。


奥野は、常人には見えるはずのない気が、なぜ自分は当たり前のように見ることが出来るのか、あらためて不思議だった。


「もう一度、はい」


「ぎゃあああああああ」


「もう一回、はい」


「ぎゃあああああああ」


「まだまだよ、はい」


「ぎゃあああああああ!」


八雲の掛け声と化け物の悲鳴が、交互に聞こえてくる。


このまま続ければ、いずれあれは弱るだろう。


そうなればまが玉をちゃんと封印し、八雲が結界を直したほこらに収める。


それで終わりだ。


――思っていたより、簡単だったな。


奥野は思った。




あれがここに姿を見せてから、どれくらい時間が経ったのだろうか。


昼前にはここに着いたはずなのに、今は空が夕焼けの赤に染まっている。


「それ、それ、はい!」


「ぎゃあああああああ」


「それ。それ、それ、はい!」


「ぎゃあああああああ」


なのに八雲の掛け声とあれの悲鳴が、最初のときと同じように聞こえてくる。


つまり四人はすっとあれを攻撃し続けているのだ。


それにしても恐るべきは、あれの体力と四人の精神力だ。


化け物は四人の気の攻撃受け続けいる。


にも関わらず、まだ弱りきっていないのだ。


そして四人も、もう数時間もの間、気の攻撃を出し続けている。


中途半端な術者なら、たったの一回で疲れてしまうであろう、その攻撃を。


気の力と精神力は比例するのであれば、四人は極めて強い精神力の持ち主ということになる。


この法則は、魔王院には当てはまらない。


なぜなら魔王院は気をあれの上で固定しているだけだ。


気を留めるにもそれなりの力は使うが、放出続けることに比べれば、それほどたいしたことはない。


結局、魔王院が気を出したのは、最初の一回だけなのだから。


「ええい、しぶといわね。それ!」


「ぎゃああああああああ」


嫌と言うほど聞き飽きた怪物の悲鳴。


それを奥野以上に飽きていた者がいた。


「ええいっ。いつまで同じことをちんたら繰り返しているんだ。もういい。この魔王院様がとどめをさしてやる」


そう言うと魔王院はかざしていた手を下げると、怪物に向かって走り出した。


「バカっ。戻って!」


耳をつんざくほどの八雲の声が聞こえた直後、怪物が高く飛び上がった。


魔王院が力を抜いたために、上部の気がなくなってしまったからだ。


それをむざむざ見過ごすような怪物ではなかった。


全員が見上げるなか怪物の体はぐんぐん上昇し、豆粒よりも小さくなり、そして見えなくなってしまった。


「バカっ。バカだバカだと思っていたけど、ここまでバカだとは思わなかったわ。この役立たず!」


八雲の罵声に、魔王院は何も言い返せなかった。


ただ力なく下を向いているばかりであった。


「!」


八雲が魔王院から上空へ視線を移した。


「来るわよ」


怪物の姿が小さいながらも再び見えはじめた。


そしてそれがどんどん大きくなってゆく。


「みんな、気をつけて!」


みなが見上げていると、化け物はあっという間に落ちてきた。


ドドーーーンという大きな音が木霊して、大地が地震のように揺れた。


八雲以下全員がよろめく中、あれが動いた。


真っ直ぐ井村のところに向かって行き、大きな口を開けた。


見れば井村は、よろめいて地面にへたりこんだところだった。


「危ない!」


間に合わなかった。


八雲も諏訪兄弟も何とかしようと試みたが、人の顔を持つ大蛇は、奥野の目の前であっという間に井村を食ってしまったのだ。


化け物を唯一封印できる人間を。


奥野が固まったまま化け物を見ていると、化け物が大きな赤い目で奥野を見た。


そして奥野に向かってきたのだ。


「!」


奥野は思わず両手を前に突き出した。


その時、奥野は全身にいいようのない力を感じた。


今まで一度も経験したことがない、なんとも言いがたい力を。


その力は奥野の突き出した両手から放たれた。


「ぐっ、ぐぐぐわあああああ」


あれが今まで聴いたことのない悲鳴を上げた。


そして後ずさり、止まった。


「今よ! みんなフォーメーションよ」


八雲と諏訪兄弟が怪物を取り囲む。


だが魔王院は動かなかった。


ただ地面の一点を見つめていた。


「魔王院!」


八雲の声を聞いた魔王院は、はじかれたように丸めていた背筋を伸ばすと、走り出した。


そして怪物の前に立ち、その上部に手をかざした。


そこには先ほどよりも大きな気の塊が出来上がっていた。


再度気による攻撃をはじめた諏訪兄弟に、八雲が言った。


「攻撃はいいわ。気を使って化け物を抑えるだけにして。それと奥野さん」


「俺?」


「そう、あなたよ。うすうすは感じていたけど、確信が持てなかった。どこかに、まさか、と否定する気持ちがあり、それをぬぐいきれなかった。でもさっきあなたが化け物に気を飛ばすのを見て、ようやくわかったわ。あなたの役割に。もっと早く素直に認めていれば、こんなことにはならなかったのに」


「俺の役割?」


「そう、あなたの役割よ。さあ、化け物の前に立って」


「?」


「いいから早く!」


奥野は言われるがままに怪物の前に立った。


「それじゃあ、化け物の眉間に向けて、あなたの気をありったけぶつけてちょうだい」


「え?」


「わかんない人ね。言うとおりにしなさい!」


八雲の剣幕に押され、奥野は怪物の眉間に向けて両手をかざし、先ほどやった要領を思い出しながら、ありったけの気をぶつけてみた。


するとさっきまで気の包囲網の中でもがいていた怪物が、ぴたりとその動きを止めた。


「やっぱりね」


「……何がやっぱりだ?」


「私たちが何時間やっても、化け物を少し弱らすことは出来ても、封印できるほど弱らせることは出来なかった。それは私を含めた四人の中に、こいつのとどめをさせる人間がいなかったと言うことなの。そしてこの化け物にとどめをさせるのは奥野さん、あなただけだったのよ」


「……」


八雲はまが玉を拾って怪物に投げつけた。


まが玉が怪物に当たったと思われると同時に、怪物の体が淡く光はじめた。


そしてその光はゆっくりと小さくなってゆき、やがて消えた。


あとにはまが玉が一つ、ぽつんと転がっているだけとなった。


「まが玉への封印完了。あとはほこらの結界の中に収めれば、完璧ね」


一郎が声をかけた。


「ちょっと待って紅さん。ほこらに封印できるのは、その結界を解いた井村しかいないんじゃないのか」


八雲はにっこりと笑った。


まるで幼い少女のように。


「いいえ、本当は誰でも出来るのよ」


八雲はまが玉を手に取ると、ほこらの方へと歩き出した。


その場にいた全員が、八雲の後をついて行く。


八雲が言った。


「誰でも出来るのよ。誰でも。ただし、結界を解いた人間以外の者がやると、古の防御的な力が働いて、封印した人は封印が終わるとすぐに死んでしまうけどね」


「えっ」


何人かが声を出したが、一番大きな声は魔王院だった。


八雲は何事もなかったかのように、ほこらへと歩いてゆく。


「待て!」


魔王院だった。


八雲はその歩みを止めた。


「何かしら、おバカさん」


「何かしらって、決まっているだろう。井村が死んだのは、俺のせいだ。俺が勝手なことをしたからだ。それはおまえも、わかっているはずだ。だったら、おまえがやることはない。やるとしたら、俺しかいない。だから俺がやる」


「だからあなたはバカだって言うのよ。ほんとにバカね」


「えっ?」


「知ってるでしょう。ここの責任者は私よ。この私なのよ。責任者とは全てに責任があるの。それに、あなたを呼んだのは誰かしら。諏訪兄弟がしぶるのを押しのけて、あなたをここまで引っ張ってきたのは、誰かしら。私よ。あなたがバカだって知ってたけど、ここまでバカだと予想出来ずにあなたを指名したのは、ここの全権を握る私なの。だからあなたのバカを含めて、全ての責任は私にあるの。誰か一人死ななきゃならないと言うのなら、それは私以外にはいないのよ!」


「……」


八雲は極めて淡々と語り、語り終えると再びほこらへ歩き出した。


誰も止める者はいなかった。


奥野も八雲の責任の重さを知り、痛いほど理解した。


まだ二十歳にもならない少女が、仲間のミスを補うために命をささげようとしているのに、八雲の決意の固さを感じ取り、止めることができなかったのだ。


やがて八雲が穴の淵に着いた。


飛び降りるために体勢を低くする。


その時、誰かが猛烈な勢いで走り出した。


魔王院だ。魔王院は八雲に向かって、頭から飛び込むようなタックルをしかけた。


「きゃっ」


八雲の小さな体が吹っ飛ぶ。


八雲がなんとか起き上がった時、魔王院が八雲の前に立った。


「何す」


八雲は言いたいことを最後まで言うことが出来なかった。


魔王院の重いパンチをみぞおちに受けたからだ。


八雲はゆっくりと地面に倒れこんだ。


魔王院が八雲の手からまが玉を取り上げた。


そして言った。


「俺はバカだ。それは知っている。子供のころから親をはじめとして、同級生、先生、その上近所の人にも言われ続けていたからな。だから、ずっと見返してやろうと思ってた。バカじゃないと証明してやろうと思ってた。でもそうやって無理すると、余計にバカなことをしてしまう。そうすると、よけいにバカじゃないと、みんなに言わせようとして、それで……」


言葉に詰まった。


泣いている。


奥野は動こうと思ったが、動けなかった。


それは諏訪兄弟も同じだった。


魔王院が半ば泣きながら、言った。


「余計に無理をして、さらにバカだとおもわれて……。バカじゃないといきがる。それこそがバカなんだよなあ。うすうすわかってはいたけど、とうとう止められなかった。……バカの上塗り。バカのバーゲンセール。こんな見栄はりのバカのために、そんなかわいい女の子を死なせるなんて。それこそ最悪にして究極のバカだ。いくらなんでも、そんなバカにだけは俺はなりたくはない」


そう言うと魔王院は、穴の中に身を投げた。




どのくらい時間が経ったのだろうか。


ほんの短い時間だったような気もするし、長い時間だったようにも思える。


気がつけば、穴の淵に立って中を覗き込んでいた。


そこに魔王院が倒れていた。


誰かに肩をたたかれた。


一郎だ。


限りなく能面に近いその顔。


気づけば二郎も三郎もいた。


二人とも一郎と同じ顔をしていた。


「うーん」


八雲の声だ。


見れば八雲は、ゆっくりと起き上がっている最中だった。


そのままふらふらと穴の淵にたどり着き、中を覗き込んだ。


「魔王院」


八雲の目から涙が一粒こぼれ落ちた。


そしてぽつりと言った。


「ほんと、どうしようもないバカだわ。まったく。……でもその最後だけは、かっこよかったわよ」




封印は完了した。近々、穴を塞ぐ工事が行われる。


大きな自然石を使い、何百年経っても穴が開かないようにするそうだ。




魔王院の葬儀は、矢崎の知り合いの寺で行われた。


ごく少数の参加者のみで。


もちろん八雲と諏訪兄弟、奥野も参列した。


棺を覗き込んで、八雲が一言言った。


「このバカ」


葬儀に参加している間に八雲が言ったことは、その一言だけだった。




井村のことは、かわいそうだがなかったことにした。


あの怪物の存在を第三者に知られてはならないし、たとえ「人の顔をした、神の力を持つばかでかい蛇に食べられました」と言っても、警察はおろか誰一人信じる者はいないだろう。




葬儀の後集まった。小さな喫茶店。八雲が言った。


「これで終わりね」


「ああ」


「ああ」


「ああ」


諏訪兄弟がそう答えた。


「それじゃあ、お別れね」


「そうだな」


「そうだな」


「そうだな」


三人は飲みかけのコーヒーを一気に飲み干すと、そのまま喫茶店を出て行った。


八雲が奥野を見た。


「それであなた、どうするの」


「僕は神社に帰ります」


八雲が笑った。


なにかよくはわからないが、とっても悪い顔だった。


八雲は真顔に戻ると言った。


「矢崎さんには話をつけてあるわ」


「えっ?」


「あなたはこれから、この八雲紅のもとで修行するのよ」


「ええっ!」


「あなたには才能があるわ。それこそこの八雲紅のパートナーを勤められるほどにね。これだけの素材、そうそういるものではないわ。そんな逸材、この私が見逃すわけがないじゃない」


「修行……ですか?」


「ええ、修行よ」


八雲の真顔はかわらない。


どうやら本気のようだ。


でも八雲の修行とは、いったいどういうものなのか。


「あの」


「なんなの」


「修行って、どんな修行ですか?」


八雲は何も言わずに立ち上がり、会計をすますとそのまま店を出た。


奥野がその後を追う。


出ると、その少し先に八雲が立っていた。


奥野が追いつき八雲を見た。


八雲の視線は上のほうにあった。


そこには空しかなかった。


空を見ている八雲の横顔を、奥野は美しいと思った。


そのまま八雲を見ていると、八雲が奥野に視線を移した。


そして言った。


「どんな修行か、ですって。そんなの決まっているじゃない。ものすごくてとてつもなく厳しい修行よ。大の大人が泣いて逃げ出すほどのね。ああっ、今からとっても楽しみだわ。わくわくしちゃう」


八雲のその顔は、先ほどのとっても悪い顔になっていた。



      

      終

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