冷たい川

ツヨシ

本編

もうすぐ鮎釣りが解禁になる、ということで、誘ってきたのは保坂久雄のほうからだった。


鮎釣りはおもしろいから、ぜひやってみるべきだ、と。


三宅幸二は鮎釣りを得意とはしていない。


実はその昔、一度やったことがあるきりだ。


その時は、「俺は鮎にかけては、名人の域だぜ」と豪語する人に連れて行ってもらったのだが、釣りは海も川も池や湖も数をこなしてきた三宅から見ればその人は、鮎はおろか釣り自体がど素人で、世間によくある口だけは、という残念な男だった。


その後は彼の誘いにのったことは一度もなく、そのうちに連絡してこなくなった。


鮎釣りは簡単ではなく、適切な指導書がいないと、手を出すのは難しい。


それでも自己流で手を出す人もいるが、変な癖がついたりして、結果があまりおもわしくないことが多い。


三宅はそのことを知っていたので、本物の鮎釣り名人が現れるまでは、と控えていたのだ。


そこに現れたのが、保坂である。


付き合い始めてそんなに時間がたっていなく、少々声が大きくおしゃべり好きで、いわゆる騒がしいタイプの男だったので、最初はこれまたビックマウスの一人だとふんでいたのだが、よくよく観察してみれば、自分の言ったことは最後まで責任を取る誠実なタイプの男だということが、わかった。


その彼が「鮎釣りは得意」「ちゃんと指導してあげるよ」と言うのだから、信頼しても問題は無いだろう。


「もう一人ぐらいなら、なんとかできるよ」


と、保坂は言う。


なんとかとは、道具とか仕掛けとか指導とかのことだ。


明るい性格にくわえて、人に教えたがりでもあるようだ。


もう一人と言うことで、三宅の頭に真っ先に浮かんだのは、土屋忠という男である。


この男も付き合いは一年ぐらいのものだが、釣りの腕は確かである。


そして三宅と同じく鮎釣りは未経験で、前に「いっしょに鮎釣りができたら、いいよなあ」と話し合っていたことがあったのだ。


ところが四ヶ月ほど前に、結婚を考えていたという彼女と別れてから、彼からの連絡が途絶えた。


三宅も気にはしていたが、そんな事情と、最後に会った時の土屋の態度があまりに普通でなかったこともあり、それ以来、疎遠になっていた人物である。


三宅も経験はあるが、とにかく男というものは女に対してうじうじと未練がましく、なかなか立ち直るということが、できないでいるものだ。


その点に関しては、女のほうがはるかに立ち直りは早い。


あなただけよ、と言うその舌の根も乾かないうちに、さっさと新しい男に乗り換えたりするのだ。


あの時のあの態度も頭にあり、四ヶ月ぐらいではちょっとまだ早いかな、とも考えたが、いつまでもこのままというわけにもいかず、ちょうどいい機会かもしれないとも思い、土屋を誘うことにした。


とはいえ、お互いに仕事のある身だ。


三宅の休日は土曜と日曜、保坂は水曜と日曜というやや変則なシフトで、土屋は日曜日が固定休日で、それ以外は二週間に一回の休みがあるが、日程は直前にならないと決まらない。


どちらにしても三人に共通する休みは、日曜日だけである。


ということになれがば、泊まりがけで釣り旅行としゃれこむことは、物理的に無理な話で、車による日帰りの釣りツアーしか考えられない。


その場合、行きも帰りも車による移動時間は、せいぜい二時間が限度というところか。


それくらいが、時間的にも運転手の体力的にも望ましい。


土屋に電話をすると、四ヶ月ぶりの会話にもかかわらず、三宅がなるべくなに事ともなかったかのように注意して話を進めたこともあってか、思ったよりもスムーズに話が進んだ。


そして、鮎釣りに関しては詳しくないので、詳しい人に全てお任せするということだ。


大の大人二人が、保坂一人におんぶに抱っこという形となった。


保坂に聞くと


「うちの市から車で二時間くらいまでと言うことなら、鮎釣りのスポットとしては、北東にあるN川か、北西にあるE川か、この二つしかないな。あとは、二、三時間どころか、四時間以上かかってしまう。この二つにしぼられたな」


とのこと。


保坂がそう言うなら、素人二人は、お任せするしかない。


この時、三宅は、保坂に連絡し、土屋に連絡し、そしてすぐさま保坂に連絡し、再び土屋に連絡するというふうに、二人の間に立つメッセンジャーボーイのような役目をはたしていた。


「で、どっちがお勧めなんだい?」


三宅がそう訊くと、保坂は受話器の向こうから自信の塊となって、答えた。


「そりゃあ、断然N川がお勧めだね。本来ならE川だろうけど、E川は、解禁日からしばらくは、特に土日は、人であふれかえるんだ。そんなところに慣れてない人がいたら、自分も窮屈な思いをするし、なによりまわりの人間に迷惑をかける。解禁日をしばらく過ぎれば混雑もなくなるが、鮎があらかた釣られてしまい、数が少なくなって、初心者にはつらい結果となる可能性が高いな。その点N川は、E川よりももともと鮎の数が少ない。そのおかげで、釣りに来る人の数が、鮎の数以上に少ないんだ。みんな、どこが釣れるかよく知っているからね。そのおかげで気づかいなく釣れるので、初心者にはお勧めだよ。僕一人なら、E川に行くけどね」


話は決まった。


細かいことは前日に三人でファミレスに集まり、そこで話をすることになった。




当日、土曜日の夕方、三宅と保坂が男二人、ファミレスで待っていると、土屋が少し遅れてやってきた。


四ヶ月ぶりに見る土屋は、以前よりかなり痩せていた。


やはり彼女との別れが、こたえたのだろうか。


三宅がそんなことを考えているうちに、土屋は二人の対面に座った。


社交的な保坂がすかさず言う。


「はじめまして、保坂久雄です」


「……はじめまして、土屋忠です」


やはり昔と比べると、少々覇気が少ないか。


三宅はそう思ったが、初対面の保坂は、この人はこんな人なんだ、と思ったのだろう。


気にはしていないようだ。


簡単なあいさつが終わると、さっそく鮎釣りの話となる。


「道具は全部あわせると、四、五人分はあるから、二人には貸し出しと言うことで。でも一番いい道具は、僕が使わせてもらうけどね」


最初に保坂がそう言った。この屈託のなさが、この男の長所だ。


他人に対して、今回なら初対面の土屋に対して、いいかっこうをしたり見栄をはったりしない。


正直で信頼できるタイプだと、三宅は考えていた。


飲み物や軽い食事の注文も終わり


「では、よろしくお願いします」


と土屋が言い、保坂先生による鮎釣り講義がはじまる。


最初は道具のことである。


保坂の説明は、とにかく親切ていねい。


鮎釣りはだめでも、釣りに関してはけっこう経験も実力もある二人にとっては、釣りという行為自体初心者の人間に話すような保坂の説明は、電車結びとか回転リリアンとか、わかりきったことや不用の部分も多かったが、二人ともその点についてはふれずに、神妙な顔で聞いていた。


三宅はいまさらながら、あらためて思った。


これが保坂久雄という男なのだ。


おしゃべり好きで、世話好き。


常に相手のことを考える、誠実だが、一言多い教えたがり。


もちろん仕掛けを中心として知らないことも多く、十分勉強になった。


仕掛けは製作時間の関係で、川に着いてから作るという人はベテランでもいないそうで、あらかじめ予備も含めて何十本も、保坂が作っておくそうだ。


と言うより、解禁日の一ヶ月以上前には、もう作ってあったとのこと。


「じゃあ、これで道具の説明は終わり。次は、鮎釣りの極意というか、コツというか注意すべきこととか、そんなことだな」


保坂の経験にもとづく話である。


これは今まで以上に聞く価値がある。


三宅も少し身体を前にして聞いていたが、それにもまして土屋の態度は真剣だ。


身を浮かし気味に前のめりになって聞いている。


眼も、三宅がいままでに見たことがないほどに力が入り、保坂をくいいるように見ている。


そのうちに飲み物や食べ物も運ばれてきて、飲み食いしながらの講習会は、さすがにそのペースは落ちたものの、保坂の話は止まるということを知らず、飲み物や食べ物をすっかりたいらげてしまった後も、まだ続いていた。


――いったいいつまで続くんだろう?


三宅はそう思っていた。


経験をもとに、少々大げさに語る保坂の話は、おもしろくないことはないのだが、いかんせん長い。


それにそんなにいっぺんに言われても、とても全部は覚えきれるものでもない。


わからないことがあれば、実際に道具を持って釣りをしながら教えてもらったほうが、はるかわかりやすいし効率的だ。


そんなことを考えていると、ようやく保坂の話が終わった。


あとは集合時間と移動手段の話になり、土屋が三宅の家へ行き、二人を保坂が車で拾うということで、話はおさまった。


もう目の前に飲み物などもなくなり、いい時間になったこともあって、勉強会は解散。


お会計の時になって、土屋が保坂に訊いた。


「で、いったい、どの川で釣るんですか?」


保坂は、わかりやすい驚きの表情をつくると、土屋の顔を見て、そして三宅の顔を見た。


てっきり土屋が行き先を知っていると、思っていたのだ。


だが知らなかった。


三宅が言うのをすっかり忘れていたし、土屋もその件に関しては、訊いてこなかった。


保坂は、もう一度土屋の顔を見た。


「N川ですよ」


土屋の面相が、瞬時に変わった。


尋常じゃないと言うか異様と言うか、普段は誰の顔の上にも見ることがないような異常な表情となり、少しの間をおいたあと、腹の底から搾り出すように言った。


「N川だと! なら、俺は行かない。行くもんか!」


三宅は土屋を見ていた。


保坂は、土屋、三宅、土屋と忙しく視線を動かした後に、ぶっきらぼうに言った。


「行かない? どうして?」


それに問いに対して土屋は、さらに激しい表情となった。


三宅はそのあまりの異常さに、何も言えないでいた。


そこには狂気すら含まれている。


逆に保坂は土屋に対して、おまえちょっと待てよ、といった感じで、なにか言いたくて仕方がないふうだったが、なにも言わなかった。


そのまま三人そろっての沈黙の行が続いていたが、ようやく土屋が口を開いた。


「どうしてもだ! それ以上訊くな。……ここは俺が会計する」


財布から一万円札を引っ張り出すと、それを三宅に押し付けた。


「つりはいらない」


と言うが早いか、まるでなにかに追われるように、ファンミレスを出て行った。


三宅が、すでに誰もいなくなったファミレスの出口を見つめていると、保坂が、三宅の腕を軽く肘で突いた。


「おいおい、いったいなんなんだ、ありゃあ。あれがおまえの〝お友達〟と言うわけなのか?」


「……とりあえず、明日は二人で行くか」


今の三宅には、そう言うのでせいいっぱいだった。




当然のことながら、明日の鮎釣りは、土屋抜きで行くことが決まった。


土屋は「つりはいらない」と言ったが、そういうわけにもいかないので、一万円ではあまりすぎるほどのお金は、明日釣りから帰ったあとで、三宅が土屋に返すこととなった。


今日はもう遅い時間だし、明日は早い。


「まあ、今日のことはなかったことにして、明日は明日で、楽しもうな」


保坂はそう言うと車のドアを閉めた。ブルンブルンとエンジンがかかり、保坂の大型4WD車は、はでに騒音をまきちらしながら、公道へと出て行った。


「とりあえず、帰るか」


誰も聞いていないのに、自分に言い聞かせるように口に出してそう言うと、三宅は自分の車に乗り込んだ。




家に着いてからも先ほどのことが頭から離れない。


特に土屋のあの顔、あの表情。


あんな面相は、四十年近く生きてきて、二度しか見たことがない。


しかもその二回ともが、土屋なのだ。

――どうして、あんな顔をしたのか?


三宅はそのことが、気になっていた。




三宅が土屋と知り合ったのは、ほぼ一年前のことである。


いきつけの釣り道具やで、何回か顔を見かけたことがある。


そのうちに、三宅のほうから声をかけたのが、きっかけだ。


話をしてみると、三宅と同じく、海でも川でも池でも湖でもという、守備範囲の広いタイプの釣り人であることがわかった。


範囲が広いということは、ある特定の魚の専門家になることは難しいが、逆に、一年を通していつでも釣りが出来るという利点もある。


知り合った当初は、ほぼ毎週のように二人で海だの川だのと出かけていたが、三ヶ月ほどたった頃、そのペースが落ちた。


原因は世間でよくある理由だった。


土屋に彼女が出来たのだ。


三宅も男である。


今は独身で――昔はこれでも、結婚していた時期もあった――彼女もいない身ではあるが、男にとって彼女は、それも出来てから間のない彼女は、だいたいにおいて趣味や男友達よりも優先順位において上位にランクされることは、十分知っている。


「まあ、空いたときでいいから」


と三宅が言うと、二人そろっての釣りは月に一回より少ない、というペースに落ちた。


そのころ知り合ったのが保坂久雄である。


あっと言う間に自然と、まるで昔からの竹馬の友のような間柄となり、三宅の釣りは、保坂、保坂、土屋、保坂、一人、保坂、というくらいの日程となっていった。


保坂は、子供の頃から川専門というだけあって、川に関しては、当然三宅よりも上である。


三宅にとって保坂は、気の合う釣り友達でもあり、同時に師匠と呼べる存在でもあったのだ。




そんな折、突然に土屋から「彼女に会ってくれないか」と言われ、二つ返事で了解したのが、いまから五ヶ月ほど前である。


会ったのは、その三日後で、場所は土屋のアパートだった。


行ってみると土屋のアパートは、すっかり様相が変わっていた。


とても男の一人住まいとは思えない雰囲気。


むしろ、若い女の一人住まいの雰囲気近いと言っていい状態なっていたわけは、二人が同棲をはじめたからだ。


おまけに結婚にむけて、彼女は仕事もやめたそうだ。


プロポーズももうすませてある、とのこと。


「おーい、美奈子」


土屋に呼ばれて、奥の部屋から恥ずかしそうに顔を出したのが、沢口美奈子という女性だった。


大きな目の、人形のように整った顔立ちで、スタイルも細く、特にデニムの短パンからすらりと伸びた長い足は、見事な曲線美を描いていた。


そして長い黒髪に反するかごとく、肌がぬけるように白い。


話してみると正確も明るく、見た目はすっかり〝女〟だが、まるで少女と話しているような錯覚を相手に与えるほどの、純情な女性だった。


三宅は、自分の理想の女性像そのままだと思った。


土屋が憎いらしいほどに、うらやましい。


ちょっとだけ人見知りはするようだが、打ち解けるのも早く、話上手で聞き上手。


どちらかといえば無口な土屋とは、ある意味お似合いかもしれない。


中でも印象深かったのは、土屋がトイレに立った時だ。


三宅にすり寄ってきたかと思うと、深く真剣なまなざしで言ったのだ。


「私、忠が大好きなんです。彼と一つになりたいんです」


そんなことを。


もちろん三宅と土屋が親しい間柄であるということも、頭の中には当然あったことだろう。


それにしても、初対面の相手にいきなりそんなことを言うなんて。


彼女の激情というものを、強く感じた。


見た目はどちらかといえば柔らかく涼しい感じだが、中身はどうして、高温の溶鉱炉のように熱い。


一つになりたいと言うのは、もちろん身体もそうだが、精神的にもそうなのであろう。


文字通り、身も心も、というやつだ。


――一つになりたいか。


三宅は、女性からそんなことを言われたことは、一度もなかった。


唯一結婚したことのある女性でさえも。


男なら死ぬまでに一度はそんなふうに言われてみたい、と想うこともできるのだが、その時三宅が美奈子から感じたのは、激しいほどの所有欲だ。


背筋をなにか冷たいものがむずむずはい上がっていくのを、三宅は感じていた。




それから一ヶ月ほど経った頃に、土屋から電話があった。


前々から少しばかり聞いてはいたが、美奈子と二人で釣りに行く件についての、話しだ。


土屋は、彼女といっしょに釣りを楽しみたいと思っていたのだが、彼女がいい返事をしないのだと。


釣りというものが、しょうに合わないのだそうだ。


美奈子は、一人で山登りをしたり、お友達とキャンプをしたりと活動的で、自然に親しむことも大好きな女性なのだが、釣りはいけないと。


あの、釣り糸をたらしてひたすらじっと待っているという行為が、どうしても生理的に受けつけないと、そう言い張るのだそうだ。


三宅は、それなら無理に進めることはない、とさとしたが、土屋は


「夫婦になったら、同じ趣味を持つのが当然だろう」


と、言う。


それが土屋の理想の夫婦像なのだ。


その意見に、三宅は賛成しかねた。


趣味がまったく違っていても、うまくいっている夫婦は珍しくない。


中には、趣味が違うからこそうまくいっているのではないか、と思える夫婦もあるのだ。


逆に趣味が同じで、それがきっかけで結婚したのに、離婚の憂き目に会う夫婦もいる。


なにをかくそう、三宅自身がそうなのだ。


三宅の元妻は、三宅に勝るともおとらない釣りマニアの女性だったのだ。


その昔、ふとした思い付きで釣りのサークルに入り、そこで知り合った若い女性と結婚した。


一生涯愛し続けるつもりで結婚し、最初の頃はそれなりによかったのだが、結果的には五年ともたなかった。


実質的に夫婦だったのは、ほんの二年くらいのものだろう。


外で会うだけの恋人ならともかく、一緒に暮らし、子供をもうけて――三宅にも、今は元妻と一緒に住んでいる子供が一人いる――その子供を育て、お互いの親類同士の付き合いもあり、といった生活環境においては、趣味などというものよりも比べものにならないほど重要なことが、いくつもあるのだ。


その点も含めて話をし、今まであえて黙っていた自分の恥ずかしい過去をさらけ出してまでも、美奈子に対する強要を止めるように説いたのだが、土屋は全く聞き耳を持たなかった。


その日は土屋が一方的に電話を切り、終わった。


ところが次の日、昨夜の荒れようとはうって変わった調子の土屋から、連絡があった。


「美奈子がようやく、うん、と言ってくれた。で、今度の日曜日に、二人で釣りに行くことになったんだ」


だそうだ。


それでも三宅は、あまり無理強いはするなとしつこく忠告したが、土屋のうかれまくった耳は、やはり他人の話を聞く状態ではなかった。




その日曜日、三宅は何故だかわからないが、朝からなにか妙な胸騒ぎがして、落ち着かない気分でいた。


保坂に野暮用があったため、本当は一人で釣りに出かけるつもりだったのだが、それもやめてしまった。


そのくせ用もないのに出かけて行き、コンビニに立ち寄って中でうろうろするだけで何も買わず、そのまま帰ったと思えばまた出かけて行き、理由もなく本屋に入り、一冊の本も手にとることなくそこを出て、家に帰る。


といったことを、何度も無駄に繰りかえしていた。


普段は立ち寄ることのないパチンコ屋にも顔をだし、二万円ほど負けた。


夕方ごろ、さすがに疲れてソファーで横になり、いつのまにか寝てしまっていたところを、携帯の着信音にたたき起こされた。


画面を見れば、土屋からである。


「もしもし」


返事はない。


「もしもし、土屋か?」


やはり返事はなかった。


やがて電話は、ぷつん、と切られた。


ツー、ツーという耳障りな音を聞きながら、三宅は土屋に何事かがあったと思った。


急いで車に乗り込み、土屋のアパートへ直行した。


二階の部屋まで階段を含めて、一気に走り着いた。


ドアをノック、と言うより殴りつけると、ドアが開き、土屋がのっそり顔を出した。


強引に中に入る。


土屋の顔は、死人のように血の気をなくしていた。


「どうした?」


土屋は答えない。


「おい、どうした?」


土屋はやはり答えなかった。


しかし、携帯の時とは大きな違いがあった。


それは相手が目の前にいるということだ。


三宅は土屋のむなぐらをつかむと、激しくゆさぶった。


「おい、いったいどうしたんだ。……なんとか言えよ!」


土屋が、身体から何か不純なものを搾り出しているかのように、答えた。


「美奈子と……別れた……」


三宅の動きが止まる。


土屋が胸ぐらをつかんでいる三宅の手を、振り払った。


三宅はおもわず訊いた。


「……どうして?」


その時だった。土屋があの異様な面相になったのは。


深くて強烈な恐怖、とてつもなく大きな不安、それと相反する激しく荒れる怒りとか憎しみ。


そしていきどおり。そういったものを集め、濃縮させ、それを長い年月をかけてじっくりと発酵させたものを、面の皮の下から外に向けて強く押し出したような。


なんとも言えず薄気味悪く、見る者の背筋を凍りつかせるような異形の表情。


あのファミレスの会計場で見せたのと、同じ顔。


あまりの空気に思わず一歩下がった三宅の胸を、土屋が強く押した。


押されて三宅が外に出ると、土屋は勢いよくドアを閉め、鍵をかけた。


それが、四ヶ月前である。


あの時の土屋の顔は、愛しい人と別れた男の顔ではなかった。


だったら何だ、と訊かれたとしても、三宅にも、なにがなんだかわからなかった。




目覚ましの叫びで目が覚めた。


いつの間にかソファーで眠ってしまったようだ。


身支度を整え、保坂を待つ。


時間ぴったりに、外でクラクションが鳴った。


保坂だ。


相変わらず時間には正確だ。


「よお、おはよう」


「おはよう。ご苦労さん」


三宅が助手席に乗り込む。三宅がドアを閉めると保坂が


「さてと、行きますか」


と小さく呟いた。




いつもは運転しながらも、口とその他の身体が全く別のものでもあるかのように、テンション高くしゃべり続ける保坂も、今日ばかりはさすがに口数が少なかった。


気分転換の天才ともいえるこの男も、昨夜のことはやはり気にしているようだ。


三宅は努めて平静な調子を保って、保坂に話しかけるようにした。




途中、看板は大きく派手だが、店自体は小さいオトリ屋に寄って、オトリ鮎と三宅用のN川の入漁券を買う。


入漁券とは、「今日一日その川で釣りをしてもいいよ」という、協会のお墨付きだ。


これがないと、監視員と呼ばれる人に捕まり、入漁券プラス違反金の代金を払わないといけないのだ。


保坂の話では、「N川は釣り人がすくないので、監視員も来ない時が多い」そうだが、解禁日でもあることだし、念のため。


そう言う保坂は、N川の年券を持っている。


オトリ鮎を、保坂自慢の〝高性能クーラーボックス〟に入れる。


何万円もする値打ち物だそうだ。そのころからようやく、保坂の口が柔らかになった。


「高性能クーラーボックスには、やっぱり、融けにくい氷を入れないと、宝の持ち腐れだよな」とか「融けにくい氷は、荒塩を入れて一度沸騰させたものを使うんだ」とか「容器の下に発砲スチロールを敷き、プチプチ(割れ易いものなどを包む、ビニール製のあれのこと)でくるんで製氷機に入れ、二日間かけて凍らすといい」とか、何故か話題は延々と〝融けにくい氷〟の話ばかりで、そのてんは三宅も多少閉口したものだが、保坂がいつもの保坂に戻ってくれたことに、ほっとしたのも事実だ。




そのうちに、車は目的地に着いた。


釣り場に着くと、二人とも無理なく笑顔になる。


谷を降りるルートを捜して、二人してああでもないこうでもないと、川べりの崖の上をうろうろする。


ある意味一番楽しい時間だ。


ようやく安全に下ることが出来そうな足場を見つけ、川の上流特有の大きな石がごろごろ転がる河原に降りたった頃には、気分高揚。


夕べのことなど、もうどうでもいい、といった思考となっていた。


さっそく二人並んで釣り始める。


本当は人間が二人でかたまっていると、魚がより警戒し、釣りにはよろしくないのだが、三宅が慣れるまでは保坂が横に立って指導する必要がある。


三宅もそのへんのところは、当然よくわかっている。


早くこつをつかもうと努力した結果、わりに短い時間で、一応一通りのことができるようになっていた。


「なんとか一人でできそうだな。じゃあ、このへんでしばらく釣ってから、上流にむかうといい。僕は先に行ってるからね」


「わかった、ありがとう」


「それにしても、今日はどうしたんだろう? もともと釣り人は少ないと思っていたが、ここに来るまで、誰にも会わないとは思わなかったな。解禁日だというのに。こんなのは初めてだ」


「……」


三宅は、なにも言わなかった。


ただ川を見つめていた。




人間の痕跡をなるべく残さずに魚を釣るには、徐々に上流に上っていくほうが賢明だ。


しかも二人いる場合は、より離れて釣るほうが、効果的である。


上級者の保坂が先に上流へ行くのは、二人が離れるための他に、釣りにいいポイントを見つけた場合に、その場に石を積み上げて、三宅に知らせる役目があるからだ。


保坂の大きな背中を見送ったあと、三宅は釣り糸を川に投げ入れた。


何度か試み、しばらく粘っていたが、やはり釣れない。


慣れていないこともあるが、それ以上に、さきほどまで男二人で、ああだのこうだのと騒いでいたからだ。


川魚は素人が考えるよりも、数段賢いのだ。


――もうそろそろ、いいかな。


見切り時が来た。


保坂はかなり上まで行っているはずだ。


川べりを歩けるところは歩き、そうでないところはなるべく浅いところを渡り、それでもだめなら胸まで水につかりながら、上流を急いだ。


一箇所は川が急に細く深くなっていて、両側は切り立った崖に挟まれていたため、川の中に飛び込んで、泳いで先の河原まで渡った。


鮎釣りでなくとも川の上流での釣りならば、よくあることだ。


三宅はそんなことには慣れている。


さらに進むと水深が急に浅くなり、片側が岩と石だらけの河原に出た。


ここで川が大きく曲がっているようだ。


見れば岩だらけの河原が途切れる手前、ひときわ大きな岩の上に、小さな石が三つ重ねて置いてあった。


――ここがポイントか。


この岩の上から釣り糸を投げ入れろと、保坂が言っているのだ。


当然保坂はここでは釣りは行わず、さらなるポイントを求めて、上に進んでいるはずだ。


誰かが荒らした場所は、少なくとも半日は、魚を釣ることが出来ない。


三宅は岩の上に立ち、釣り糸を投げ入れた。


――チャラ瀬だな。


チャラ瀬とは、浅い瀬のことである。


深い瀬よりも、初心者向きだ。


オトリ鮎のようすをずっと観察しなければならない鮎釣りは、特にそうである。


上級者は、鮎が目視できなくとも永年の経験とカンでわかるが、初心者にはそれは望めない。


三宅は保坂の気遣いに感謝した。


ここから先はまた河原がなくなり、川の水と左右の崖だけとなっている。


ここから見る限り、水深も途中は深そうだ。


そこの部分は、また泳がなければならないだろう。


三宅は、水温が高くてよかった、と思った。


いつもの六月よりも、かなり高い。川釣りでもっともいやなことは、冷たい水で体温を奪われることだ。


ある程度奪われてしまったら、それ以上釣りを続けることができなくなる。


無理をすれば身体が満足に動かなくなり、へたをすれば死んでしまう。


三宅は防水袋に入れた携帯電話が大丈夫かどうかを確かめた後、ふと、先の川を見た。


川幅が急に狭くなり、左右のほぼ垂直な崖が迫ってきているせいだろう。


そこだけ、沈んだように暗い。


その不透明な闇を見ていると、三宅の思考は、いつのまにかよくない方向へと進んでいた。


川の上流は事故が多い。


崖の上の東側には道が一本通っているが、そこから何かの間違いで下に落ちれば、まず命はないだろう。


そして誰にも発見されず、誰にも知られることなく、一人朽ちていくのだ。


おまけにこの先の松の森は、今は森林保護地域に指定されているために伐採が行われることはないが、江戸時代から戦前にかけて、建築資材として重宝されていたそうだ。


当時は林業がさかんだった場所だ。


だとすれば、それらに従事している男たちの中で、不幸にもこの川で命を落としたものもいるかもしれない。


いや、おそらく何人もいただろう。


そんな人たちは遺体も引き上げられず、葬式もなく、お墓もつくられることがなかったはずだ、と想像することは、たやすい。


水の中に落ちて死ねば、文字通り魚のエサとなる。


残った骨はばらばらになって下流に流され、石と水の研磨作用によって、より細かく粉砕されて、さらに流される。


血も肉も骨も、なに一つ残らないのだ。


人間一人がこの世から完全に消えてしまう。


それはN川に限ったことではない。


川で誰にも知られることなく、一人孤独に死んでいった人の数は、普通の人間が考えるよりもずっと多いというのが、ベテランの釣り師たちの共通した意見だ。


現に川に出現する怪しいものの噂は、あとをたたない。


S川では、上流から流れてくる男の首を、何人もの人が見たと言う。


薄気味の悪いことにその首は、下流に向かって流れている間、ずっと釣り人を見つめて続けているのだそうだ。


T川では、女の幽霊が出るという噂がある。


長い黒髪で、肌がぬけるように白い白装束の若い女が、深い瀬の水面の上にふわりと浮いているのを、これまた何人もの人が見たと言う話だ。


三宅は想像した。


――美奈子に似ているな。


美奈子に似た、長い黒髪で、肌がぬけるように白い女が、水面の上にふわりと浮かんでいる。


浮かんでいた。


ついさっきまで確かに誰もいなかったはずなのに、長い黒髪で肌がぬけるように白い美奈子が、浮かんでいた。


いや、浮かんでいるのではない。


白いTシャツを着て、麦藁帽にデニムの短パンの美奈子が、川の中ほどに、膝から下を水につけて、普通に立っていた。


「美奈子さん!」


思わず叫ぶ。


なんでこんなところに、美奈子がいる?


「あらっ、三宅さん、お久しぶり。お元気そうでなによりです」


明るい声だ。


生命力に満ちた。


「……なによりって。……なんでこんなところにいるんですか?」


「なんでって、忠といっしょに、釣りにきたんですよ」


――忠といっしょ? あいつ、俺たちに黙って、美奈子といっしょにここに釣りに来ていたのか?


「……忠といっしょって。あいつ、そんな話はしてなかった。……たしか、四ヶ月前に、別れたって」


三宅はあまりの意外な展開に、言いにくいことをあっさり口に出してしまった。


言ってから、しまった、と思ったが、もう遅い。


しかしそれを聞いた美奈子は、突然笑い出した。


けたたましく下品に。


そんな美奈子を見るのは、少なくとも三宅は初めてだった。


「いったい何言ってるの。三宅さんも知っているじゃないの。その年で、もうボケたの。忠が三宅さんに電話してたじゃないの。私と釣りに行くって。私、聞いてたのよ。横にいたから」


「でもそれは、四ヶ月も前の話で……」


「へえーっ、もう四ヶ月もなるの。知らなかったわ。なんせよくわからないの。ここにきてから、時間の感覚というものが、なんだか今までとまるで違っているみたい」


「……すると、四ヶ月も前から、ここにいると言うのか……」


「四ヶ月かどうかはともかく、あの日以来、ずっとここにいるわ。たった一人でね」


その時、三宅は気がついた。


美奈子の白い首まわりに、黒いような紫色のような濃くくっきりとしたあざが、一匹の蛇がまきついたかのように、ぐるりととりかこんでいることを。


――なんだ、あれは? あれは、まるで……


美奈子がひときわ大きな声をあげる。


「それでねえ! 三宅さんに、どうしても頼みたいことがあるのよ」


「頼みたいこと、とは?」


美奈子はなにも返さなかった。


ただ笑っていた。


が、突然、まるで石が沈むかのようにずぼんと垂直に、水の中に沈んでいった。


あっという間のことだった。


三宅は慌てて、川の流れに逆らいながら、美奈子の沈んだあたりに駆け寄った。


そこは、さして深くないところ、三宅の膝下くらいの深さしかない場所だった。


こんな浅い場所に、人間が垂直に沈んで姿を消してしまうなんて、ありえないことだ。


もしも、人間ならば……。


不意に、三宅の右足首を何かがつかんだ。


その感触は、どう考えても、人間の手。


一瞬、躊躇したが、三宅は思いきって自分の右足を見た。


水の流れは清らかで透明度が高く、自分の足がはっきりと見える。


ところが自分の足以外、そこには何も見当たらない。


しかし足をつかむ力は、さらに強くなる。


三宅は思わず、見えない手から足を引き抜こうとした。


その時、右足を強い力が引っ張った。


その力に負け、三宅は前に倒れこんだ。


顔面から川に突っ込み、反射的に両手でカバーしたが、それでも鼻を川底の石で打った。


慌てふためきながらも、両手をついて起き上がろうとしたが、今度は後頭部を何かに押さえられた。


これも人間の手だ。五本の指先がはっきり感じられる。


トカゲのように踏ん張っていた両手も、見えない手によって左右に一気に引っ張られた。


左足も手が取りつく。そして背中にも、二つ、三つ。


全身を何本もの手によって、身動き取れなくされていた。


膝下くらいの深さとはいえ、顔のすぐ下に川底があるのだ。


当然、息は出来ない。


もがきながらも三宅は、あることを痛烈に感じていた。


川の水が冷たい。


ここの手前を泳いで渡ってきたのだ。


すぐ近くを。


いくら少し上流とはいえ、それに比べてこんなにも冷たいわけがない。


それほどまでに、川の水は冷たかった。


肌を刺すほどに。


まるで氷のようだ。


三宅は必死に抵抗したが、手の群れのほうが強い。


そのうちに、体内に残った空気も使い果たし、冷たい水が口から入ってくる。


水を飲むという状態なのだが、水を飲むというより、川の水がまるで生きているかのように、意思を持って無理やり口から身体の中に進入してきている。


そんな感覚だ。


もちろん、そんなバカげたことが、あるはずもない。


しかし実感としては、間違いなくそうなのだ。


苦しい。


ひたすら苦しい。


そして全く動けない。


――もうだめだ。


と思ったとき、声がした。


「三宅!」


顔は水につかっていたが、はっきりと聞こえた。


続いて、水をばしゃばしゃとかき分ける音。


その音が止まると、自分をつかんでいる小さな手よりも大きくたくましい手が、三宅の腕をつかんだ。


そのとたん、三宅を捕らえていた何本もの手が、三宅を解放した。


三宅は引き上げられ、近くの河原に引っ張っていかれた。


「おい、大丈夫か?」


保坂だ。


三宅には、保坂のいかつい顔が、天使の顔に見えた。


よく見ると、羽まで生えていそうである。


三宅はそのまま気を失った。




三宅は目覚めた。ぱちぱち音がする。


見れば自分の横に焚き火があり、保坂がそこに枯れ木をくべている。


「おお、気がついたか」


むっくり上半身をおこすと、保坂が寄ってきた。


「大丈夫か? まあ、息はしていたから、死ぬことはないとは思っていたが」


「俺は……気を失っていたのか?」


「ああ、小一時間ばかりな。で、気絶状態から起こす方法を知っている限りあれやこれやとやってみたんだが、まるで効果がなかった。意識がかなり深いところまで行っていたみたいだな。それなのに呼吸を脈も、おどろくほど安定している。こんなわけのわからないのは、見たことも聞いたこともないぜ」


三宅はゆっくりと立ちあがった。


腹がやけに重い。


保坂がまた訊いた。


「大丈夫か?」


「ああ、なんとか大丈夫みたいだ」


「そうか……。で、いったいなにがあったんだ?」


「なにが……って?」


「おいおい、とぼけるなよ」


保坂は、川の中央あたりを指さした。


「そのあたりで、両手両足を広げて、うつぶせになってただろう。一瞬、死んでいるのかと思ったが、引き上げてみると、死ぬにはまだまだって感じだった。もう一度訊くが、なにをどうしたら、あんな状態になるんだ? いったいなにがあった?」


三宅は少し考えてから答えた。


「ちょっと、立ちくらみしたんだ」


本当のことを言っても、信じてもらえるはずもない。


というより、美奈子は本当にいたのか? 


四ヶ月もこんなところに一人で。


おまけに異様に冷たい川の水。


見えないいくつもの手。


あんなことが現実にあるのだろうか?


――溺れかかって、そのショックで夢か幻覚でも見たんだ。


三宅はそう思うことにした。


必死でそう自分に言い聞かせていると、なんだか本当に、夢か幻だったような気がしてきた。


「……そうか」


しばらく黙って三宅を見ていた保坂が、ようやく口を開いた。


保坂もその答えに納得はしていないようだが、それ以上深くは聞いてはこなかった。




保坂の運転で、家路へとむかう。


腹が重い。


たらふく水を飲んだ覚えはあるが、それにしても違和感がありすぎる。


まるで鉛の塊が、その中に入っているようだ。


河原で指を突っ込んで、無理やり吐こうとしたのだが、唾液以外はなにも出てこなかった。


強い尿意感があったので、途中のコンビニのトイレでようをたそうとしたのだが、全くの空振り。


水などという普通の液体ではなく、何か別のものが、その中に存在しているかのよう思える。


腹がおおげさに言えば、妊婦のように膨らんでいた。


気分まで重く沈んでしまいそうだ。


保坂も気になるのか、運転しながら三宅の腹を、何度もちらちら盗み見る。


三宅はそれに気がついていたが、なにも言わなかった。保坂も黙ったままだ。




車が三宅の家の前に着いた。


「今日は、ありがとう」


三宅が車を降りようとした時、保坂が言った。


「そういえば、土屋さんに夕べのおつり、返しといたほうがいいんじゃないのか?」


三宅は考えた。


とにかく気が重い。


腹が重いためだろうか。


腹が重いと、こんなにも気が重くなるものだろうか。


どこにも行きたくない。家に帰ってゆっくりと休みたい。


それしか頭になかった。


しかし、そういうわけにもいかないだろう。


おつりをかえすのは常識だし、なによりも言ったことを必ず守る保坂に、帰ったらすぐに土屋におつりを返すと、すでに告げているのだ。


保坂との約束は、できれば破りたくはない。


三宅は、返事を待っている保坂の顔を見ずに、答えた。


「そうだな、今から行って、返してくるよ」


「それがいいな。じゃあ今日はお疲れさん」


三宅が降り、保坂が助手席側のドアを閉める。


車はそのまま走りだした。




三宅は家に入り、居間でしばらく休んだ。


腹が重くてしかたがない。


それに、いろいろあって疲れていた。


普段なら釣りから帰ってきたときは、肉体的には疲れているが、精神的には逆に癒されて軽くなっているものなのに。


ところが今日は、心が体以上に疲労している。


だが、ずっとこうしているわけにもいかない。


保坂の顔が目の前に浮かんでくる。


三宅は家を出た。




土屋の家までは、そう遠くはない。


道もすいていて、あっさり着いた。


もし今日のことを聞かれたら、なんと答えるかを考え付く前に。


呼び鈴を押すと、土屋のやけに青ざめた顔が覗いた。


「昨日のファミレスのおつりだけど、保坂と話をして、やっぱりおまえに返すことにしたんだ」


返事がない。


三宅を、この世のものでないなにかを見るかのような怯えの色で、じっと見ているだけだ。


三宅は、自分でも不思議なくらいに苛立ってきた。


「とにかく、入るぞ!」


土屋を押しのけるようにして、部屋に入る。


勝手知ったる他人の家。


三宅は土屋の承諾なしに、いつもの場所にあぐらをかいた。


土屋がその対面に座る。


「はい、おつりと領収書だ」


土屋はそれを黙って受取り、確認もせずに、おしりのポケットにねじ込んだ。


しばらくの沈黙。


ようやく土屋が口を開いた。


「ご苦労様。……とりあえず、コーヒーでもいれるわ」


土屋が立ち、三宅の視界から消える。


奥の小さな台所の方から、食器棚からカップをとりだす音、インスタントコーヒーの容器を開ける音、ポットからお湯をそそぐ音、スプーンをかちゃかちゃかき回す音が聞こえた後、土屋がコーヒーカップを二つ持って、戻ってきた。


再び三宅の前に座る。


「はい……」


差し出されたコーヒーを、三宅は飲んだ。


土屋も自分の分を飲む。


さして広くない部屋に、男二人がずるずるとコーヒーを飲む音だけが響く。


三宅はあらためて、部屋を見まわした。


物が極端に減っている。


二人で住んでいた頃は、いかにもカップルの部屋、明るい希望に満ちた部屋、という印象があったが、今はどうだ。暗く寂しく沈んでいる。


ただ物が減ったというだけではない。


美奈子のほうが物持ちだったと言えば、それまでであるが、それ以上のわびしさを、この部屋からは感じられる。


三宅はふと思った。


土屋は美奈子という女の存在を、痕跡を、この世から完全に消し去ろうとしているのではないかと。


未練たらしい男なら、彼女との思い出の品を、後生大事にとっておいたりする。


逆に、そんなものは全て処分してしまう男もいるだろう。


土屋は後者のほうと言えるだろう。


だがこの部屋の風景は、それ以上の意志を感じた。


土屋の、美奈子を完全に消殺してしまおうとする、強い意志を。


三宅がなんの遠慮もなく、じろじろ部屋を眺めまわしていると、土屋が言った。


「その腹は?」


見事にふくらんだ三宅の腹を見ている。


「ちょっと食べ過ぎたんだ」


と、三宅。


土屋は、けげんそうな表情をその顔に浮かべていたが、再び口を開いたときには、話題が変わっていた。


「N川に行ったんだろう。……で、……なにか、見なかったか?」


――なにか、見なかったか?


三宅は土屋の言ったことを、頭の中で反芻した。


普通、釣りから帰ってきた人間に対して言うことは、決まっている。


〝どうだったか?〟とか、〝いいのが、釣れたか?〟とか。


それを、〝なにか見なかったか?〟だと。


いったいどういう意味だ?


三宅は見た。


夢か現実かいまだに判断しかねるが、確かに美奈子を。


だが、三宅の口をついてでたのは


「いや、なにも見なかったよ」


というひと言だった。


今日、N川であったあの事が、あらためて考えてみても、やはり現実のものとは思えない。


仮に百歩譲って、現実にあったことだとしよう。


それを土屋に、死人のような顔で三宅を覗き込んでいる土屋に、どう言えばいいのだ?


「……そうか」


土屋の言葉には、わずかだが安堵の響きがあった。


「じゃあ、もう帰るぞ」


あまりにも居心地が悪い。


もうここにはこれ以上、いたくはない。


三宅はそそくさと立ち上がろうとした。


その時だ。


「ぶぶっ、ぶごごごごっ」


三宅の口が中から、そう中からこじ開けられ、その口から、なにかが飛び出してきた。


水だ。


氷のように冷たい水が、三宅の身体から吐き出されてきたのだ。


放水車から放水されたかのような激しい勢いで、とても一人の人間の身体から出てきたとはおもえないほどの、大量の水が。


三宅のもともと大きな口は、あごがはずれる一歩手前まで、無理やり開かされていた。


いや、これは吐き出されたのではない。


三宅にはよくわかった。


自ら外に飛び出してきたのだ。


前にいる土屋に向かって真っ直ぐに放たれた水は、その手前で、まるで目に見えない容器にでもそそがれているかのように、徐々にある形を形成していった。


そしてあまりにも大量の水がはきだされ、それが終わった時、水の固まりは、あるものの形を完成させていた。


三宅が見たものは、後ろ姿。


細身で、長くすらりとした美しい足を持ち、長いストレートの髪の、裸の女。


水で形作られた一人の女が、透明な氷の彫刻のように、そこに立っていた。


後ろ姿でも見覚えのある女。


土屋の言葉が、それを裏付ける。


「……美奈子」


そう、つぶやいた。


すると水の美奈子が、甘えてじゃれつくかのように、土屋の身体に覆いかぶさっていった。


土屋は逃げようとしたのか、膝で立ったが、そのまま両手を大きくひろげると、まるで石の彫刻のようにぴたりとその動きを止めた。


石の彫刻に、水の彫刻が重なってゆく。


土屋の顔は、美奈子の胸部の中にあった。


顔面が完全に水に埋もれている。


口から、ごぼごぼと、小さな気泡を次々と吐き出していた。


すると今度は、ごぼぼっっ、ごぼぼっっと、大きな気泡をいくつか出した。


――肺に水が入ったんだ。


三宅はそう思った。


思わずかけよろうとした。


しかし三宅の身体は、床にへたり込んだままで、土屋と同じくぴくりとも動かなかった。


頭の先から足の爪の先まで、なにか強烈な力に押さえ込まれている。


小指の一本すら動かせない。


見れば、目に写る美奈子の身体は、土屋の身体にひっついたままで、塩をかけられたなめくじのように、どんどん小さくなっていく。


三宅は気付いた。


――土屋の身体の中に、入っているんだ。


三宅の見ている前で、美奈子は完全に土屋の中に入り込んだ。


土屋を押さえていた力がなくなったのか、不自然な姿勢で固まっていた土屋の身体が、ゆっくりと床に倒れこんだ。


膝を曲げた状態で、両手を広げてあおむけに、力なく寝転がっている。


三宅は土屋に歩み寄ろうとした。


さっきとは違い、身体が動く。


肘で歩き、土屋のそばまで行き、上から見下ろした。


土屋の顔は、引き上げられた溺死体のように、ぱんぱんにふくらんでいた。


黒く変色した唇の間から、水ぶくれした舌がだらりと垂れ下がっている。


目が完全に飛び出していた。


まるで目の上に、あとからピンポン玉でも乗せたようだ。


袖から出ている腕も、異様にふくらんでいる。


腕だけではない。


身体全体がふくれあがっているのが、服やズボンの上からでも、はっきりとわかった。


三宅の頭に、美奈子の言葉が浮かんできた。


〝私は、忠と一つになりたいの〟


そう、今、美奈子は、ようやく一つになれたのだ。

 


 

      終

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