千年狩り外伝 かけらの神

ツヨシ

本編

会社から帰ると、いつものとおりだ。


食卓には、手間ひまかけた手料理が並んでいる。


これが本当においしい。


椅子に座ると妻も横に座る。


「はい、どうぞ」


ビールをついでくれた。


笑顔がかわいい妻。


起きてから寝るまでいつも笑っている。


ご近所でも評判がいい。


――ほんと、いい妻を持って、よかった。


ビールを一口すすり、料理に手をつける。


――うまい。


「おいしいよ」


と言えば、妻が嬉しそうにころころ笑う。


絵に描いたような新婚生活。


他人が見たら、甘ったるくて見ていられないような。


――ほんとにいい妻だ。かわいい。ものすごくかわいい。食べちゃいたいくらいだな。……そうだ。


立ち上がって玄関へと向かう。


「どこ行くの?」


返事は返さず、玄関に立てかけてあった金属バットを手にとり、食卓へもどった。


「……あなた、それ、どうするの?」


何も言わずに金属バットを振り上げる。


妻は大きく目を見ひらいていて、私を見ている。


状況がまるでつかめていないらしい。


その無防備な脳天めがけて、金属バットを一気に振り下ろした。


ガゴン


やはり頭蓋骨は、かなり硬いもののようだ。


手がしびれる。


床に倒れこんだ妻の後頭部に、もう一発、さらにもう一発振り下ろした。


のぞき込んでみると、妻はもう死んでいた。


――あっけなかったな。


頭部がはっきりとわかるほどに、陥没している。


血が床に流れ、その面積をゆっくりと広げてゆく。


流しへ行き、刺身包丁と出刃包丁を手にとり、食卓へもどって気がついた。


――さすがにここは、まずいか。


妻の体を抱え上げ、風呂場へと向かう。


浴槽にはお湯がはられていた。


いつもそうだ。帰ると夕食の用意がされ、お風呂も沸いている。


「あなた、お風呂にしますか、それともお食事にしますか」


毎日聞いていた。


何回聞いても、耳に心地よい。


今日は食事、と言ったのだろうか? 


なぜか記憶がない。


栓を抜き、お湯をすべて流す。


浴槽に妻の体を放り込み、自分も入った。


服やらスカートやらを引きちぎるようにして脱がし、生まれたままの姿にすると、台所へ戻り、包丁を二本持って再び浴室に入る。


――まてよ、包丁では骨は斬れないかもな。


日曜大工が趣味でよかった。


家の外に出て、玄関横の物置の中から、のこぎりと金づちとノミを取り出した。


もう一度、浴室へ向かう。


――まずは、解体だ。




本木慶介という男が自首してきたが、その男が口にしたことは、衝撃的な内容だった。


なんと、新婚二ヶ月の新妻を殺したうえに、その体をばらばらにして、骨以外はすべて食べてしまったのだという。


煮たり、焼いたりして。


自供にもとづき、家の裏庭を掘ると、人骨や髪の毛などが出てきた。


それら人間が喰うことが出来ないもの以外は、なにも見つからなかった。


すべて喰ってしまったからだ。


殺したのは二週間ほど前で、それから十日ほどかけて食べたのだという。


近所の人には「妻は実家に帰っている」と話していた。


見つかった人骨が妻のものであることは、行きつけの歯医者により照明された。


歯型が完全に一致したのだ。


「マスコミが喜ぶぜ」


一人の刑事がつぶやいた。


まわりにいた人たちはなんの反応もなかったが、それはその意見に同意したということだ。




本木慶介の取調べは、ある一点において難航した。


殺したことも認め、食べたことも認め、物的証拠もある。


人骨はもちろん、妻を解体した包丁やらノコギリやらを、血がついた状態で物置に押し込んでいたのだ。


動かぬ証拠。


ただ犯人に、罪を逃れようという気は、さらさらないが。


しかし動機が皆目わからない。


それは殺人を犯した本人でさえも。


なぜ殺したのか、なぜ喰ったのか、わからないとしか答えなかった。


うそを言っているようにも見えない。


うそ発見器にかけて、精神鑑定までやった。


うそはついていないし、精神状態に問題はない、との結果が出た。


ベテランの刑事も「あいつはうそを言っていない」と太鼓判を押すしまつ。


そして裁判が始まる前に本木慶介は、自分の着ていた服で作った紐を使って、獄中で首をつってしまった。


なぜこんな猟奇的事件を起こしたのか、その謎が解けないままに。




テレビを見ていた。


正確には食事をしていたと言うべきだろう。


ただテレビを見ながら食事をすると、その意識がほとんどテレビに吸いとられていることは、確かだ。


――これでは子供を、叱れないわ。


目の前にいる自分の娘も、テレビを見るついでにご飯を食べているような状態だ。


こんな変なところ、いくら親子でもにてなくてよかったのに。


ただうちの娘は五歳なのに、アニメやバラエティ番組といったものは、ほとんど見ない。


母親がよく見るニュースやドキュメンタリー系の番組を、同じように一生懸命見ているのだ。


今テレビでやっているのはニュースだ。


ある新婚家庭に起こった、まるで映画か小説のような狂気の事件。


あの日本中を震撼させた妻を喰った男が、獄中で自殺したという報道である。


それを懸命に見ている五歳の女の子。


世間一般から見れば、ちょっと変わっているかもしれない。


しかし自分もそうだったのだ。


よく覚えている。


小学校にあがる前から、ニュースとかドキュメンタリー系の番組が好きだった。


そして自分の娘も同じ。


やはり親子なのだ。


つくづく思う。


どこかの子供のように「ママ、こんなつまんないのじゃなくて、アニメにしてよ」なんて言わない。


それがいとおしくてたまらない。


――うちの子は、よその子と違って、頭がいいのよ。


単なる親バカ。


――ほんとにかわいいわね……食べてしまいたいくらい。


母は立ち上がると台所へ向かった。


台所を見回し、壁にかけてあったフライパンを手にとる。


食卓に戻り、娘の後ろでフライパンを振り上げた。


テレビに釘付けだった娘が、気配に気付き、振りかえる。


――せーーのーでっ!


振り下ろした。




大都会にわりと近いが、そう大きくはない、いわゆる地方の都市。


殺人事件など、ここ数年は年に一回あるかないかくらいのペースか。


だというのに、この大騒ぎ。二件連続しての動機なき殺人事件。


おまけに加害者が二人とも被害者を、こともあろうに喰っているのだ。


夫が妻を、母が娘を。




「いったいどうなってるんだ!」


峰山刑事がわめいている。


警察署内で、でかい声で騒ぐんじゃない。


ただうるさいだけだ。


「とにかく、これはただごとではないぞ」


おまえにわざわざ言われなくても、そんなことくらいわかってるさ。




徹底的に調べたみたいが、地方の警察ではこれが限界か。


東京の警視庁あたりだと、どうだろうか? 


内部は見たことすらないので、よくはわからないが。


結果として、娘を殺して喰ったことは確かなようだが、肝心の動機が出てこない。


本人もわからないと言っているし、うそをついているようにも見えない。


期待せずに行なった精神鑑定も、「正常」のひと言で終わってしまった。




峰山刑事がさきから、なにやらぶつぶつとつぶやいている。


あの男、追い込まれると、ああなるな。


知らない人が見たら、携帯で電話をしていると思うことだろう。


と思っていたら、こっちに歩いてくる。来なくていいのに。


「どう思う?」


訊いてきた。そんなこと、わかるもんか。


「さあね」


「……」


峰山は不服そうだが、自分もわからないので、なにも言わない。


とりあえず、もうひと言くわえておこうか。


「もう一度、周辺をあたってみたらどうだ?」


「それしかないか……」


それしかないだろう。今のところは。




女が死んだ。五歳の娘を喰ったあの女が。


この前の事もあったので、充分に監視していたつもりだったのだ。が、この女は自分で舌を噛み切り、その舌を呑んだのだ。


やろうと思っても、そう簡単に出来ることではない。


しかし女はそれを、やってのけた。


ただ注目すべきことが一つある。


床に血文字が残されていたのだ。


いわゆるダイニングメッセージと言うやつだ。


そこには〝ようなし〟と書かれてあった。



「ようなし、とは洋梨のことじゃあないよなあ、どう考えても。……用済み、と言う意味なんだろうか?」


峰山が訊いてきた。


いちいち俺に訊くな。


この事件の担当でもない俺に。


はっきりと答えた。


「そんなこと知るか!」




マスコミは予想通り大喜び、じゃなくて大騒ぎだ。


市長は市のイメージが悪くなり、観光客が減るのではないかという不安にとらわれているようだ。


そのつけは、全部警察にまわってくる。


利子も含めて。




「ぶっそうな世の中になったもんだ」


父がテレビを見ながらつぶやく。


いつもは朝早くから仕事にいく父だが、今日はお休みだ。


テレビのニュースは、今回は母親が娘を喰った事件でにぎわいでいる。


たしかに二つ連続してのカニバリズムは、日本においてはなかったことだろう。


日本犯罪史に詳しいわけではないが、そう思う。


でも今は、今やらなければならないことがある。


学校に行くことだ。


「行ってきまーす」


父を残して部屋を出た。




学校でも話題のトップはあのニュース。


地方の高校生には刺激たっぷりだ。


「人間って、食ったらうまいらしいぜ」


人など喰ったことのないバカが、不謹慎なことを言う。


「私、こわーい」


さして怖がっていない強心臓の女子が、男の子の前では怖がってみせたり。


低レベルの会話が、はいて捨てるほどの花盛り。


その中で一人私だけ、その話題を口にしなかった。


口すると、よくないことが起こりそうな気がしたからだ。


なぜそう思ったのかは、自分でもよくわからないけど。




雪崩のように降りかかってくる、くだらない話の山をすべてスルーして、なんとか一日やり過ごした。


家に帰る。


家に帰っても実のある話は、学校以上に期待できない。


なにせ年頃の娘と、いい年の父親の二人暮しなのだ。


会話はほとんど成り立たない。


父親のほうは世間一般の父親と同じで、娘となんとかコミュニケーションを取りたがってはいるものの、娘にはそれは、ひたすらうざいだけ。


適当に相手はするが、長続きはしない。


娘の気のない返事攻撃に、父親のほうが玉砕しまう。


ただ敵もすんなりとは引き下がらない。


再挑戦しては敗れ、また挑戦してはまた敗れる。


そんなことの繰り返し。


ほんと、いいかげん、やめたらいいのに。




「ただいま」


一応、言うだけ言って、家に入る。


見れば父は、リビングのソファーでうたた寝の真っ最中だ。


休みの日はいつもこうだ。


普段は仕事が朝早く、私が起きるころにはもういないが、そのかわり帰ってくるのも早い。


夜は八時くらいには寝てしまう。


生活のリズム自体、違うのだ。


テレビはつけっぱなしだが、私の見たい番組ではない。


リモコンでチャンネルを変え、ついでに音量も上げた


「ううん? ……ああ、おかえり」


返事はしない。


ただテレビを見る。


「そうだ、晩御飯の準備をしないと」


独り言なのかそれとも私に言っているのか、父のつぶやきは、いっしょに住んでいる私にも、よくわからない。


気にもしていないけど。


父は台所にむかった。


私はそのままテレビを見る。


ついでに携帯を操作しながら。


しばらくすると、メールのやりとりにも飽きてきた。


コミュで知り合った、会ったこともないメル友。


おそらく一生、顔を見ることもないだろう。


携帯をソファーの上に放り投げる。


するとなにかのはずみなのだろうか、いつもならソファーのうえに落ち着く携帯が、ぽんと跳ね上がって床の上に落ちた。


あわてて拾おうと身をかがめた直後、頭のすぐ上を、ぶん、となにかが通り過ぎた。


思わず振り返ると、父がゴルフのドライバーを持って立っていた。


見た瞬間の父の体勢は、ドライバーを強く横なぐりに振った直後の姿勢に見えた。


父はドライバーを上段に構えなおすと、それを私の脳天めがけて振り下ろしてきた。


――うそっ!


うそではない。


とっさに避けたので、ドライバーはソファーを叩いただけとなったが、その軌道は、明らかに私の頭を狙っていた。


父が再びドライバーを構える。


私を見るその眼に、まるで生気というものがない。


もう一度振り下ろしてきた。


すんでのところで、床を転がりながら避けた。


私は女子高生だが、そのへんの男の子よりも反射神経はいい。


でなければ、確実に二回、死んでいたはずだ。


素早く立ち上がり、父を見る。


むこうも見ていた。笑っている。


なにかはわからないが、なにかの欲望が強く全面的に表れている。


にもかかわらず、死んだような眼。


相反する二つの要素を持っている眼。


少なくとも、いつも見なれた父の眼ではない。


――いったい、なんなの?


ふたりでお見合いしていると、突然玄関の扉が荒々しく開いた。


そこに立つ背の高い男。


その身長は二メートル近くありそうだ。


手足が長く、スタイルが抜群にいい。


そして細身ながら、そうとうに体を鍛え込んでいることが、服の上からでもひと目でわかった。


「さがって」


男は言った。


どちらさまですか? なんて訊いている余裕なんか、まるでない。


素直に走り、男の横を通って外に出た。


外に出て振り返ると、勝負はもうついていた。


父が床にだらしなく倒れていて、男が横に立っている。


男は座り込み、父の顔をのぞきこんだ。


「逃げたか」


さらにのぞきこむ。


「また、来るかもしれんな」


男は立ち上がり、私のほうへ歩いてくる。


胸がどきどきしてきた。


端正な顔立ちながら、同時に力強い野性味を感じさせるその風貌。


極めつけの美男子だ。


年齢は二十歳をすこし超えたくらいだろうか。


年齢も含めて、完全に私の理想どおり。


こんなにも素敵な人は、リアルな知り合いはもちろんのこと、芸能人でも見たことがない。


まさにどまん中のストレートだった。


――これって、ひょっとして……一目ぼれ?


信じられない! 


この年になるまで男の子や男の人に一度も興味を持ったことのない私が、こともあろうに普段「そんなことあるわけないじゃないの」と否定し続けた一目ぼれなどという摩訶不思議なものに陥ってしまうなんて。


ありえない。


……でもこの強い胸の高まりは、激しい練習をした時よりもさらに激しい胸の鼓動は、恋? そう恋以外には考えられない。


でも、まさか、そんなことが。


私の頭の中がぐるぐる回っているうちに、男は私の前に立った。


背が高すぎて、まわりの女子よりも低い私は、見上げないと顔が見えない。


「今のところは大丈夫だが、またなにかあるかもしれない。その時は、ここに連絡してくれ」


名刺大の紙をふところから取り出し、私に差し出した。


そこには携帯の番号だけが、小さく印刷されてある。


「……あのう」


「それじゃあ」


二人同時に言った。


私の言葉などまるで聞いていないかのように、男はそのまま立ち去った。




気がついた父は、いつもの父だった。


いつもどおりの表情にいつもどおりの口調。


態度といいやることといい、正真正銘私の父だ。


何事もなかったかのよう。


「なんで、あんなところに倒れていたんだ?」


なんにも覚えていないらしい。


平和なことおびただしい。


「知らないわ。帰ってきたら、倒れていたんだもの」


男は「なにかあれば連絡してくれ」と言ったが、またなにかあるのだろうか? 


その前に、たった今、いったいなにがあったのだろうか?




次の日、学校から帰ると、さっそく男に連絡した。


「なにかあったのか?」


第一声がこれだ。


もっとあいさつなりなんなり、お話がしたいのに。


「いや、なにもないんですけど、……訊きたいことが、いろいろあって……」


「そうか。実はこっちも、言い忘れていたことがある。そうだな……とりあえず近くの喫茶店で会おう」


「言い忘れたこと」と聞いたとたん、私の頭の中に「君のことが好きだ」という言葉が浮かんできた。


思わず首を横に振る。


考えるまでもない。


そんなことが、あるわけがない。


それでも鏡の前でていねいに髪を直し、着たきりのセーラー服にきれいにブラシをかけた。


約束の時間に、少し遅れた。




男は一人座って待っていた。


立っている時よりも、やや小柄に見える。


やはり足が長いのだろう。


「来たな」


男と向かい合わせに座る。


「で、訊きたいこととは? だいたい想像はつくが」


「あのう、昨日のことなんですが、いったいなにがあったんですか? 父はどうしたんですか?」


男は体を前に傾け、顔を近づけてきた。


一瞬、心臓が跳ね上がる。


そして小さな声でしゃべりはじめた。


顔を近づけてきたのは、小声で話すためだ。


キスをしにきたわけではない。


「こないだからこのあたりで、家族を殺してその肉を喰うという事件があっただろう。知っているか?」


もちろん知っている。


この殺人事件すら珍しい町で、猟奇的事件があったのだ。


しかも二つも。


知らないわけがない。


男は私の返事を待つことなく、話を続けた。


「君のお父さんは、それだったんだよ」


「……?」


ただでさえ大きな目をさらに見開いている私に、男が言った。


「君は、オカルトとかそういうたぐいのものを、信じるほうかい?」


「……どちらかといえば、信じるほうですけど」


「なら話がはやいな。簡単に言うと、とりつかれたんだよ。よくないものにね。お父さんだけでなく、前の二人もね。お父さん、いやお父さんにとりついたものは、君を殺して喰うつもりだったのさ」


「……」


オカルト肯定派の私でも、とうてい信じられる話ではない。


でも信じかけている。


男の態度は自信たっぷりだったし、それよりも私が生まれて初めて恋をした相手なのだ。


今ならなにを言われたとしても、信じるだろう。


おまけに、昨日の父のこと。


あの時の父は、あの眼は、どう考えても私の父ではない。


とりつかれていると言われれば、そうとしか思えないほどの変貌ぶりだったのだ。


「で、言い忘れていたことだが。昨日、あいつは俺の〝気〟を受けて、いったんお父さんの体から抜け出した。むこうも、まさか気そのものをぶつけてくるとは思っていなかったようで、不意をつかれたんだろうな。慌てて出て行った。出ては行ったが、やっつけたわけではない。でもやつは自尊心が強いんだ。無駄にね。だから、やられっぱなしでおとなしく引っ込んでいるような、タマじゃない。ところが自尊人が強いがために、逆にすぐにとりつきには来ない。たぶん、余裕のあるところを見せたいんだと思う。こんなオヤジ、別になんの執着もないよ、って感じだな。そんなわけで、しばらくは大丈夫だと思うが、また必ずやって来る。その点を注意していてくれ。その時はまた襲われるぞ」


「……」


「なにかほかに訊きたいことはないか?」


男は初めておだやかな顔になった。


それがさらに、いい。


心臓のばくばくは止まらない。


でも命がかかっている。


ちゃんと訊いておかないと。


「……あのう、気をつけるって、なにか特に気にすることとか、ありますか? 父とはいっしょに住んでますから、ずっと警戒するにしても、限界はあります」


男は天を仰ぎ、それから私を見た。


「そうだな。不意や寝こみを襲われたら、普通の人間ではやられてしまうだろう。それなら気をつけることは、一つしかないな」


――なんだろう?


「なんですか?」


「目をはなさないことだ」


一瞬言葉に詰まった。それだけなの?


「それだけですか?」


「ああ、それだけだ。ほかに方法はない」


絶句している私を見て、男が笑った。


優しい笑顔だ。


こんなさわやかな笑顔ができるなんて。


ますます好きになる。こんな時なのに。


「大丈夫だよ。君なら出来る。自信を持って」


それだけ言うと男は立ち上がった。


立つと急に大きくなる。


ちょうど注文したコーヒーが二人分、来たばかりだ。


「お金は払っとくから。そのままゆっくりと、飲んでいるといいよ。ついでに俺の分も飲んでおいてくれ」


そのまま会計へ行こうとする。思わず言った。


「あのう、ちょっと待ってください」


「なんだい?」


「あのう、とりついたやつって、いったいなんなんですか?」


「うーん、それは今はいえないなあ」


「どうしてですか?」


「それも今はいえない」


「……じゃあ、とりついたやつのこと、どうしてそんなに知っているんですか?」


「お友だちじゃあないが、知り合いといえば知り合いかな。実は昔、やりあったことがあってね。その時は決着がつかなかったが、今度こそは必ずけりをつけてやろうと思って、ずっと狙っていたんだ」


「そうですか」


「じゃあ」


再び会計に行こうとする。また呼び止めた。


「あのう」


「うん、今度はなんだい?」


「……あのう、また会ってくれますか?」


きょとんとしている。私をじっと見ている。


しまった。


変なことを言ったかもしれない。


きっと私のことを、おかしな女子高生だと思っているだろう。


黙っていればよかった。


知らず知らずのうちに、自分の足元を見ている。


肩を優しく叩かれた。


「ああ、また会えるさ」


完璧ともいえる笑みを残して、男は去って行った。


私はそのまま喫茶店の椅子に座っていた。


ふと気がつけば、コーヒーは二つとも冷めていた。




寝転がっていると、いきなり背中になにかが、どんと当たってきた。


「おばあちゃん」


孫だ。


孫はかわいい。


実の子よりもかわいい。


「なんだい?」


「ねえねえ、お買い物行こうよ」


お買い物行こうよ、と言うのはお店へ行って、お菓子を買ってくれという意味だ。


「ああ、いいよ」


娘にはよく言われる。


「子供を甘やかさないで」と。


でもつい甘やかせてしまう。


おばあちゃんとはそんなものなんだ、と自分に言いきかせる。


お店まではそう遠くない。


いつものとおり、さびれた神社の前を通る。


ふと立ち止まった。


「どうしたの? おばあちゃん」


神社を指さす。


「ちょっと、あそこへ行ってみようね」


「えーーっ、なんでえ? 早くお買い物に行こうよ」


「いいからいいから、ちょっとだけ」


孫の手を引き、半ば強引に神社へむかう。


もう赤くなくなっている鳥居をくぐり、本堂へと足を向けた。


孫はあきらめたのか、素直についてくる。


――ほんとうに、かわいい。食べちゃいたいくらいに……。




「三人目だな」


峰山が言った。


そんなこと改めて言われなくても、わかっているって。


「そうだな」


もはや非常事態と言っていいだろう。


こんな小さな市で、三人連続して食人殺人。


三人目の犯人は、なんと八十九歳の老婆だ。


常軌を逸している。


市長も署長も、とっくに平常心というものを失くしていた。


古い歴史と町並みを持つ町、おだやかで美しい町、神社仏閣が多くて宗教色の強い町、そして町の収入の大半を占めているのが観光事業だ。


それに従事する人間も、当然多い。


イメージダウンは町にとって、死活問題なのだ。




バイクを停めて、二メートルちかい長身の男が道におりたつ。


田んぼのあぜ道に毛の生えたような道だ。


夕日を背中に受けて男は、まわりを見わたした。


――おかしいな。すぐ近くには民家はおろか、人っ子一人いないぞ。


その男に近づいてくる影がある。


大型の犬、グレートテンだ。


歯をむき出して、ぐるぐる唸っていた。


――そうか、おまえ、人間以外のものにもとりつけるんだったな。久しぶりなんで、忘れていたぜ。


男が片手をあげた。


そのとたん、男の手から左右に光りが走る。


光りと言っても、赤黒く暗い光りだ。


その光りが消えると、男の手になにかが握られていた。


六角形の棒である。


渋い銀色で一見金属製に見える、


二メートル近い長さを持つ棒。


いったいどこからわいてでたのか。


その棒を、男が握りなおした。


両手を肩幅くらいに広げて持っている。


構えた。


そのとたん、グレートテンが突進してきた。


「ギャン!」


男が棒を横なぐりに振った。


速い。


瞬きをしていたら、振る瞬間を見ることはできなかっただろう。


グレートテンの巨体は、大きく飛ばされた。


まるでゴムまりのように。


地面に叩きつけられたグレートテンにむかって、男が走った。


「とどめだ!」


六角棒を猛烈な勢いで突き出した。


が、棒は犬の眉間からほんの数センチ手前で、ぴたりと止まった。


男が犬を見る。


「また逃げられたか」


振り返り歩き出した。バイクのほうへとむかう。


ついさっきまで持っていたはずの長い棒が、どこにも見当たらない。


――やはりこのままでは、だめか。


男はバイクにまたがり、その場を去った。




捜査はものの見事に進展がなかった。


三つの事件には、なんだかの関連性がある。


それはほぼ間違いないだろう。


証拠はまるでないが。


ところが三人の犯人には、一切関連性がないのだ。


さんざん調べた。


これも間違いはないだろう。


おまけに今日、孫を殺して喰った老婆が、獄中で死んだ。


前の二人と同じく。


死因は表向きでは心臓発作である。


とはいっても、あれは自殺だ。


もともとここ数年、心の臓が弱っていたそうだ。


そこで監視体制に医療体制を、思いつく限り整えた。


いわゆる、万全の体制、というやつだ。


少なくとも裁判が終わるまではなにがなんでも生かせておけ、という署長の血の叫びを、署員は一人残らず聞いている。


いつもの署長ではないと、みんなが感じたものだった。


その署の威信をかけた万全の体制は、一瞬でくずれた。


自殺の方法は、普通の人ではありえないやり方だ。


それは牢獄のベッドの角にむけて、思いっきり倒れ込むというもの。


看守が倒れ込む瞬間を見ていた。


硬い角はちょうど老婆の左胸に当たり、――老婆がそこに当たるように倒れこんだのだ――それだけで八十九年間休まずに働き続けた心臓が、止まった。


あわてて蘇生措置をほどこしたものの、一度止まった心臓が再び動き出すことはなかった。


署長の緘口令により、マスコミには〝単なる不幸な病死〟と発表した。


ばれたらそれこそ、署長といえども首が飛びかねないが、そのまま正直に発表した場合でも、そこまではいかないにしても、立場はかなり危ういものになることだろう。


署長の一世一代の賭けである。


署員全員が、それに乗った。




高校からの帰りに、一ヶ所だけど人気のないところを通る。


両側が大きな倉庫にはさまれているところだ。


ただ距離は短く、毎日通っているが、今までは何事もなかった。


ところが今日、道の出口に男が一人、仁王立ちで立っていた。


市で一番評判のよくない高校の制服を着ている。


見た目もなんだかやばそうだ。


こちらを舐めまわすような目で、じっと見ている。


――なんなの、あの人。


無視して通り過ぎるにかぎる。


道は狭いが、人間二人がすれ違えないほどではない。


男の前まで行くと、男はあいかわらず狭い道の真ん中に立っている。


左右の幅は、あまり広いとは言えない。


強引に通りぬけようとした時、男が両手をひろげた。


「おねーさん、どこいくの?」


顔や体のわりには幼い声だ。


たぶん頭が悪いのだろう。


「なにすんのよ!」


「ここは、通せんぼだよ」


「バカなこと言わないで!」


男はなにも言わない。


ただにやけているだけだ。


もし本気でむこうが止める気なら、体力的に劣る私では、強行突破は難しいだろう。


――振り返ろうか?


来た道を戻ることを考えた。


でもそれは、この男に背を向けることになる。


それはそれで、怖い。


でも意を決して振り返った。


――うそっ。


もう一人の男が立っていた。


先の男と同じ制服だ。


「おねーさん、どこいくの?」


で、同じせりふだ。どうしよう。


「おい、なにやってるんだ」


突然聞こえた、聞き覚えのある声。


今、一番聞きたくてしかたがなかった声。


あの人の声だ。


振り返ると、最初の男の後ろにあの人がいた。


二人の男はひるんだ。


細身だががっちりとした体格の男が、こっちに近づいてくる。


しかもその身長が、二メートル近くある。


あの人が出口をふさいでいる男の肩を、ぐいと押した。


そこに人一人が通れる幅が、できていた。


男は押されたままで、抵抗しない。


「さがって」


「はい」


あの人は、私が外に出ると逆に中に入り、二人の男の間に立った。


最初はびびっていた二人の男も、その態勢に自信を取り戻したのだろう。


いわばはさみうちだ。


がらりとその態度を変えた。


「おいおいおいおいおい、いいとこだったのに、じゃましてんじゃねえよ!」


「そうだ! てめえ、いったいなにもんだ?」


あの人が笑った。


まるで少年の笑み、そのままだ。


「なにもんだ、だって? たとえ名乗っても、おまえたち知らんだろう。別に有名人じゃないもんでね。ただ俺は、男二人でかよわい女の子をいじめるような奴が、とことん嫌いなだけさ」


「うるせえ!」


「ふざけるな!」


二人の男が、お互いに目で合図した。


同時に飛びかかるつもりだ。


飛びかかった。


次に私が見たものは、二人の男が左右に大きく吹っ飛んでいるところだった。


一人は私のすぐ横を飛んで行き、先の地面に落ちた。


見れば憧れの人は、その場に普通に立っている。


いったいなにが起こったのか、まるでわからない。


二人の男は倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。


私が男達を見ていると、あの人が言った。


「心配しなくてもいい。気絶しているだけだ。ほっといてもそのうちに、目をさますさ」


あの人が歩み寄ってきた。


「大丈夫か?」


「……はい」


涙がこぼれてきた。


いろんな感情がうずまいている。


――泣いたのは、何年ぶりだろう?




喫茶店で一息つく。


あの人が目の前に座っている。


コーヒーを一口飲むと、とりあえず落ち着いた。


ようやくあのひと言が言える。


「ありがとう」


笑った。


何度見ても素敵な笑顔。


「いいさ。別に君を助けたくて助けたわけじゃないんだ。ああいった連中が、大嫌いなだけだ」


「……」


照れ隠しなのだろうか? 


わからない。


ただこの人が、正義感が強くて優しい人だということがわかった。


ますます引かれていく。


でも疑問は残っている。


「でもどうして、あそこにいたんですか?」


「それはね、君をずっとストーカーしてたのさ」


「……!」


「その言い方は、誤解を招くな。俺が狙っているのは、あくまでもあいつだ。人にとりついて、人を殺して、人の肉を喰うやつだ。ただ、闇雲に捜しても見つからない。なにせ俺は、気を探る能力が、中途半端なものでね」


「気……ですか?」


「そうだ、気だ。生きているものには気というものがある。正確に言えば、死んだものにも少しはあるが。もちろん人間にもあいつにも、気はあるんだ。ただあいつの気は、人間のものとは違う。それで、あいつの居場所を探っている。ただ……」


「ただ?」


「あいつの気を俺が感じることができるのは、あいつの気が高まった時だけだ。それはあいつが人を殺す時だ。だが問題がある。君は運よく助かったが、普通身内に不意をつかれたら、殺されるまではあっと言う間だ。ほんの短い時間にすぎない。おまけに俺はどっかのヒーローとは違い、高速で空を飛ぶなんて芸当はできないし。気を感じたとしても近くにいないと、助けようにも間にあわないんだ。そのうえ遠くにいて気をかんじた場合は、その正確な位置がわからない。近づけばわかるが、そこにたどり着いた時には、もう探れるような気を発していない。結局誰にとりついているのか、わからないままなんだ。誰かを助けられるのは、あいつが人を殺そうとした時に、俺がたまたま近くにいる場合だけだ。今までに一回だけ、そういうことがあった。つまり君のことさ」


「……そうだったんですか」


あの人がコーヒーを一口飲んだ。


私もそれにならう。


話を聞いているだけで、のどが渇いてくる。


「きわめて低い確率だが、偶然そうなった。こんなチャンスはおそらく二度とないだろう。それで君をストーカーしている。理由はわかるな」


「あれが私のお父さんに、またとりつくから」


「正解だ。あいつは必ず君のお父さんにとりつく。あいつはそういうやつだ。いったん狙った獲物を取り逃がしてそのままにしておくなんて、あいつの自尊心が許さないんだ。それに……」


「それに?」


「あいつは俺との決着をつけたがっている。俺が目障りでしかたがないのさ。だから近いうちに、君のお父さんのところへ来るはずだ」


「だから私をストーカーしていると」


「そうさ。とりつくのは父親だが、狙われているのは君だ。だから君のそばにいるほうが確実なんだ」


「そうですか。……それでどうやって、あんなものをやっつけるんですか?」


あの人の顔が一瞬曇った、ように見えた。


が、よく見直してみると、いたって普通の顔をしている。


――見間違いかしら?


考えていると、あの人が言った。


「それは企業秘密だよ。おっと、もうこんな時間だ。早く帰らないと、お父さんが心配するよ。送ろう」


立ち上がって歩き出す。私はついていく。


「ストーカーがいますって、警察に通報するなよ」


ちょっぴり笑った。




部屋の前で別れた。


去り際にあの人が言った。


「お父さんから目を離すな。おそわれたらとにかく逃げろ。時間をかせぐんだ。近くにいるから、その隙に必ず駆けつける」


そして去って行った。


その姿が見えなくなるまで、見送った。




署長の顔を見るのも嫌になった。


気持ちは充分わかるが、それにしても取り乱しすぎだ。


担当でもない俺まで、吊るし上げをくらっている。


峰山刑事一人だけでも、十分にうっとうしいというのに。


あの事件はいまだに解決の糸口すらつかめてないようだ。


だいたい、いつかつかめる時が来るのか? 


そして一番大事なことは、これはいつになったら終わるんだ?




署長をなだめたおし、ストーカーのようにまとわりつく峰山を振り切って、ようやく警察署から自分のアパートに帰り着いた。


玄関前で一息つき、鍵を開けようとしたその時、隣の部屋からどたんと大きな音が響いてきた。


――なんだ?


なんだか嫌な予感がする。


急いで隣へ行くと、ドアノブに手をかけた。


開いた。


「ごめんください」


中をのぞくと、目があった。


まだ小学二年生の男の子と。


金属バットを振りかざしている。


その足もとに転がっているのは、母親だ。


「おい、なにをしている」


すると男の子がこっちにむかって走り出した。


体で止めようとしたが、軽くふっとばされた。


――まさか?


体重が百キロ近いこの俺が、あんな子供に、しかも片手一本で弾き飛ばされるなんて、考えられない。


起き上がって男の子を追う。


速い。


とても小学二年生とは思えない走りだ。


追いつくどころか、その距離が徐々に広がってゆく。


――なんて子供だ。


すると、目の前を走っていた子供が、急に止まった。


見ればその前に、若い男が立っている。


二メートル近い大男。


野獣のように鋭い眼光で、男の子をにらみつけている。


――あいつ、ただものではないな。


見た瞬間、そう思った。


体の大きさだけではない。


あまりにもその存在感がありすぎる。


男は手ににぶく銀色に光る棒を持っていた。


男の身長ぐらい長さのある棒だ。


それをだらりとさげた両手でつかんでいる。


男が言った。


「意外だったな。こんな子供にとりつくなんて」


「ふん、どうせおまえとは、決着をつけなきゃならないからな。できたら早いほうがいい。おまえが生きているというだけで、気分が悪いぜ」


若い男の声は、惚れ惚れするほどに力強く魅力的な声だが、若い男の声にはちがいない。


しかし子供のほうはどうだ。


どう聞いても人間の子供の声ではない。


――なんだ、あの声は。まるで、巨大な獣の雄叫びのような……。


男の子が金属バットを構える。


男が棒を構えた。


「まっ、待て」


目の前で起こっていることがあまりにも現実離れしすぎて、理解できない。


が、すくなくとも今は、子供と男が武器を持ってやりあおうとしている。


刑事としては止めるのが当然だ。


その時、男の子が不意に、その場に倒れた。


男が棒で殴ったわけではない。棒が届く距離ではないのだ。


男が子供に駆け寄り、のぞきこんだ。


「いない。いくらなんでも離れるのが、早すぎる」


そう言った。意味がわからない。


「しまった! この子はおとりだ」


びくっとするほど大きな声を出すと、男は走り出した。


「おっ、おい。待て」


慌ててあとを追う。




男を追った。


俺は、身体はいかついが、走るのは速い。


足には自信がある。


だというのに、男との距離がみるみる離れてゆく。


――うそだろう。さっきの子供といいあの男といい、いったいなんなんだ。あの男のスピードは間違いなく……


オリンピックの百メートル走で、ぶっちぎりで金メダルを取れるスピードだ。


それも、信じられないほどの世界新記録で。


ありえないにも、ほどがある。


それでも男がアパートに入るところは、なんとか見ることが出来た。


階段を上っていく音が聞こえる。音を頼りについて行った。




突然父に襲われた。


警戒していなかったら、確実にやられていただろう。


とにかく逃げる。


前と同じくゴルフクラブを振り回す父から、逃げまくった。


しかしいつもの父とは違う。


運動らしい運動は、たまのゴルフだけ。


会社でも事務仕事で、大きなお腹の中年男は、座って立ち上がるだけでも、よいしょと気合をいれなければならないくらいなのに、あの身の軽さはいったいどういうこと。


でも私だって身の軽さには自信があった。


あれこれあって今はやめているが、中学時代は体操部でエースだったのだ。


全国大会でも、あと一息で個人優勝というところまでいっている。


あのまま続けていたら、オリンピック選手も夢じゃない、みたいな。


でもその私が今、愚鈍な父に追いつめられている。


うそみたい。


前の時は、なにがなんだかわからずに、ゴルフクラブは必死で避けていたが、父自身から離れることまでは頭が回らなかった。


しかし今回は、ただ物理的に離れることだけを考えているのに、それができないでいる。


玄関にも近づけない。部屋の中を右に行ったり左に行ったりするのでせいいっぱいで、その余裕がない。


逃げるだけなら簡単だと思っていたのに、とんだ思い違い。


頭ばかり狙っていると思っていたら、不意に足を払われた。


大きく振り回したドライバーのヘッドが足首に当たる。


痛い。


思わずよろけた。


そこへ、上からドライバーが振り下ろされる。


体をひねってなんとか避けたが、床に倒れ込んでしまった。


父が再びドライバーを振り上げる。


――もうだめ。


その時。


「待て!」


玄関から聞こえてきたのは、あの人の声。


よかった。間にあった。


あの人が走る。


父も走った。


二人の距離は遠くない。


二人がぶつかったかと思うと、父がどうと背中から倒れた。


あの人が倒れた父をのぞきこむ。


「もう逃げたのか。あいつ、逃げ足が確実にはやくなってるな」


あの人が私を見た。私を気づかう優しい目。


「大丈夫か?」


「……うん」


涙があふれてきた。


つい数日前に、数年ぶりに泣いたばかりだというのに。


あの人が近づいてきた。


目の前にいるあの人に、抱きつく。


あの人が優しく背中をなぜてくれる。


その最高にいい時に、


「おい! おまえたち、いったいなにをやってる?」


玄関から無遠慮な声が響いてきた。


同じアパートに住む、高村刑事の声だ。




四人掛けの食卓に、四人座っている。


あの人と刑事、父と私だ。


今までの経過を、あの人と私で二人に話して聞かせた。


それが今、終わったところだ。


父も刑事も黙っている。


あまりのことに、話の内容がすぐには信じられないのだろう。


しかし頭から否定も出来ない。


確かに現実離れしたことが起こっているのだから。


それは二人も知っている。


誰もしゃべらなかった。


その沈黙を破ったのは父だ。


「それにしても、そんなものがこの世にいるなんて」


あの人が答える。


強い説得力のある、態度と表情と言葉の響きで。


「います。信じないというのならしかたがありませんが、信じなければ、あなたは確実にお嬢さんを殺して、その肉を喰らうことになるでしょう」


父が返事をしないでいると、高村刑事が言った。


「で、相手はいったい何者なんだ。人間でないことくらいは、想像がつくが」


――それは私も聞きたい。まだ聞いていない。あの人が答える。


「私は、かけらの神と、勝手に呼んでいますが」


「かけらの神?」


「ギリシャ神話に出てくるヘルメスという神を知っていますか?」


「知らんなあ」


「それのかけらです」


父が口をはさんだ。


「いや、それにしても、神話の神様がこの世にいるなんて」


「います。神話や民話などに出てくる神や悪魔や妖怪などといったものは、そのほとんどが実在します。昔の人は、先祖代々の経験と科学に毒されない直感によって、それらの存在を知り、伝えてきたのです」


今度は高村が聞いた。


「で、そのヘルメスというのは、いったいなんだ?」


「ヘルメスは、オリンポス十二神の一人ですが、その中でも一番異色の神と言っていいでしょう。なにせ産まれたその日に、アポロンの牛小屋から牛を盗んだのですから。おまけにゼウスやハデスの伝令役と言うか、下働きもやっています。オリンポスの十二神は、ゼウスを筆頭に一応の上下関係はありますが、同じ十二神でありながら、ほかの神に仕えているのはヘルメスだけです。表面上はいかにも忠実そうですが、内心ではゼウスもハデスもバカにしています。ゼウスは父で、ハデスは叔父ですけど。そして肩書きの多い神としても知られています。というよりも、肩書きが多いほど偉いと思っている神、と言ったほうがいいでしょう。有名なところでは、泥棒、うそ、ばくちの神です。このあたりはヘルメスの、その性格をよくあらわしていると言えるでしょう。あとは死んだ者の魂を、冥界の王であるハデスのもとに連れて行く役目をおっています。つまり、死神です」


「で、そのかけらとは」


今度は父。


「神にも寿命があります。永遠に生きるわけではありません。神は、一見肉体を持っているようにも見えますが、その実態はエネルギー体です。そして体の中心にある力が、エネルギーをつなぎとめて、自らの体としているのです。しかし神が老いると、その中心の力が弱まります。すると、わかりやすく言えば、体の一部が剥げ落ちるんですね」


「剥げ落ちる?」


と高村刑事。


「はい、今までにもいくつか剥げ落ちました。人間で言えば、皮膚の一部とか髪の毛一本とか、その程度のものですが。そのほとんどはいわば死んでいる状態なので、なんの問題もありませんでした。ただ一つの例外を除いて」


「その例外が、例のやつね」


と、私。


「そう、それだけが思考を失うことなく、動きまわっているんだ。しかも厄介なことに、ヘルメスの欲望の一部を受け継いだままにね」


私と話をするときだけ、ざっくばらんな言い方になる。


もちろん私が年下だと、まだ子供だということなのだろうが、それでも私にはそれが、なんだか嬉しい。


「で、その欲望とはなんだ?」


高村の語義が強まる。


いろいろあって、いらついているようだ。


「それは食欲です」


「……」


あの人が続ける。


「実は最初は動物にとりついていたんです。大きな犬にとりついては小さな犬を襲い、カラスにとりついてはスズメを襲う。私と最初にやりあった頃は、そんな状態でした。ところがいつのまにか、ある程度予想はしていたことなのですが、人間にとりつくようになったのです。それは……」


あの人が口ごもった。


みんななにも言わずに、次の言葉を待っている。


しばらくして、ようやく口を開いた。


「それは、人間が一番美味いと気付いたのです」


今度は父が声を荒げる。


「冗談じゃない。だいたいヘルメスの本体とやらは、どうした? いるんなら、なぜ何もしないで、ほおっておくんだ。人間を助けるのが、神の仕事じゃないのか?」


「ヘルメスは、泥棒と詐欺師とばくち打ちの守護神です。助けるのは、泥棒と詐欺師とばくち打ちだけです」


「……」


高村が、改まったように聞いた。


「二人目の犯人、犠牲者といったほうがいいが、それが床に血で〝ようなし〟と書いて死んだ。ようなしとは、どういう意味だ?」


「それは言葉通りの意味です。ほんのかけらとはいえ、元が神です。そのエネルギーの力は、かなりのものでしょう。そのエネルギーに人間の体は耐えられない。短い時間ならいいのですが、長くとりつかれた人は、身体ががたがたの状態になるのです。そうなると、もう二度ととりつくことは出来ない。だったら処分しようと。人間がいらないゴミを捨てるのと同じ感覚です。ただ生きているだけで、邪魔なのです。このあたりはヘルメスの、死神としての性格が現れているように思われます。それで死ぬように仕向けて、自分は死ぬ直前に体から出る。ところがあの人はすぐには死にませんでした。おまけに長い間とりつかれていたので、かけらの神の思考というか記憶の一部が残っていたのです。おまえはもう、用なしだと。それで床にメッセージを残したのです」


「……」


あまりにも想像を絶する悲惨な話ばかりだ。気がめいる。


――私、どうなるの?


あの人を見ていた。


あの人がなにか言ってくれるのではないかと。


しかしあの人は私ではなく、父の手をとった。


「お父さん、聞いてください。お嬢さんを生かすも殺すも、あなたしだいと思ってください。神の力は強大です。しかしあなたにとりつこうとしているものは、そのごく一部、ただのかけらです。ただのかけらであれば、すべては無理でしょうが、多少ならそこに人の意志を加えることができるのです。あなたが気をしっかりと持って、たとえとりつかれてもお嬢さんを守りたいと強く念じれば、そこになにかが起こるかもしれません。なにかは私も、よくはわかりませんが。ただなにかを起こすのは、あなたの意志なのです。そのことを忘れないでください。わかりましたか?」


父が真剣に聞いている。


「わかりました」


きっぱりと言った。




話は一応そこまでだった。


一応と言うのは父が「三人だけで話をしたい」と言い出したからだ。


私は自分の部屋にこもり、一人待った。




話が終わった。


呼ばれて、みんなのところへ戻る。


「何の話なの?」


無駄だと思ったけど訊かずにはいられない。


しかしやはり無駄だった。


私をわざわざ外して行なわれた話し合い。


その内容を教えてくれるわけがなかった。


それはあの人も父も高村刑事も同じ。


少なくともその時の三人には、話は墓の中まで持っていくという強い決意を感じたものだった。




父と私を残して、二人は部屋を出た。出てすぐ戸の前で、高村があの人に声をかけた。声だけが私に聞こえてくる。


「で、おまえさん、どうする?」


「このあたりで見張っています。」


「わかった。でもなるべく近所の人に、見つかるなよ」


「それは大丈夫です。で、あなたは?」


「俺はほかに仕事を抱えている。この事件の責任者は、峰山という男だ。あのバカに、それとなく声をかけておくよ。肝心なことは隠してな」


「お願いします」


「で、もうひとつ質問がある」


「なんですか?」


「あいつ、おまえさんには、とりつかないのかい?」


あの人が自信たっぷりに答えた。


「俺にはとりつけませんよ。そんなこと、させやしません」


「そうか。それを聞いて安心した。じゃあな」


足音から判断して、あの人は右に高村は左に歩いていくようだ。しかしすぐに高村が、また声をかけた。


「で、おまえさんはいったい、なにものなんだ?」


あの人はなにも答えなかった。




家の中に父と二人。


いつ、ヘルメスのかけらがとりついて、自分を殺して喰ってしまうかわからない、父が。


本音を言えば逃げ出してしまいたい。


しかしあの人が言った。


「ヘルメスのかけらは目的の人間、つまり君がどこにいてもわかるんだ。かけらとはいえ元は神だから、そういう能力がある。たとえ地球の裏側まで逃げたとしても、どこまでも追いかけて来る」


一度狙った獲物、つまり私、は逃さないのだそうだ。


あいつが身内にとりつく理由は、喰っているとき、身内の肉が一番美味く感じられるからなのだそうだ。


かといって、たとえ父を殺人未遂かなにかで拘束したとしても、そうなったら少々味が落ちることなどかまわずに、だれかれみさかいなしにとりついて、私を狙ってくるという。


そうなれば余計に危険が増すことだろう。


とにかく私を喰うことが最優先だということだ。


それならば、父だけを警戒するほうがやりやすいと言うのが、あの人の意見なのだ。


それは、わかる。


それはわかるが怖い。


死にたくない。


ましてや喰われるなんて。


部屋の隅に座る父の後ろ姿を見る。


けっして私のほうを、見ようとしない。


父にすれば、自分がいつ娘を殺して食べてしまうのか、わからないのだ。


私と違う意味で怖いにちがいない。


あの人の説得で同じ部屋にはいるが、できれば父のほうこそ逃げ出したいのだろう。


肩が小さく震えていた。




その身長が二メートルちかい男がアパートの裏にある雑草が伸び放題の空き地で、にぶく銀色に光る棒を振り回している。


いざという時に、最大限の力を出さないといけない。


軽いウオーミングアップを、ずっと続けているのだ。


男の携帯がなった。


「もしもし、どうした?」


「………は、………」


「そうか。それはいつだ?」


「………の、………」


「それは、間違いないな」


「………ん。………」


「わかった、おまえが言うのならな」


「………て、………」


「うん、そうする。心配するな」


携帯をきる。


「いよいよか」


小さくつぶやいた。




夜が明けた。


ほとんど寝てない。


父は仕事にでかけたようだ。


今は出来るだけ、娘のそばにいたくないのだろう。


父の作った朝食を食べ、私も学校へ行く。


一日中授業が、全く耳に入らない。


先生がしゃべっているが、その口が、水槽で苦しがって口をぱくぱくさせている金魚の口にしか、見えなかった。




学校から帰ると、父がいた。


あいかわらず背を向けて座っている。


一度もこっちを見ない。


「私を縛り上げたらどうだ?」


不意に父が言った。


「それはだめよ。お父さんがだめならほかの人にとりつく。そのほうが危険だと、あの人が言ったでしょう」


「……そうだな」


「それにここで終わらせないと、私、一生おびえて暮らすことになるのよ。いつ、どこで、誰に襲われるかもわからない。いきなり殺されて、喰われてしまうかもわからない。ずっとそんなことを考えながら毎日生きてくなんて、そんなの絶対に嫌だわ」


怖い。今はとても怖い。


でもいつもおびえて震えながら生きていくなんて、そっちのほうがもっと怖い。


父もその辺のところはわかっているようだ。


だが私は、恐怖のあまり父にさらに追い討ちをかける。


「お父さんが一番しっかりしなくちゃ。あの人も言ったでしょう。お父さんが気を引き締めておかないと、だめだって。しっかりしてよ!」


「……そうだな。わかった。おまえのためだからな」


少しは力強い言葉になった。


背中をむけたままだが。




しばらくすると、さすがにお腹がすいてきた。


こんな時でも、人間ははらがへるんだ。


でも父は食事の用意はしないし、私も催促なしだ。


「……」


「……」


二人とも無言でいると、あの人が部屋に入って来た。


二メートル近い巨体なのに、足音を全くたてずに。


「いきなりでなんですが、お父さんは部屋の一番奥に座ってください。君は反対側の、入り口近くだ」


言われたとおりにする。でも一応訊いてみる。


「あれが今から来るの?」


「ああ、今夜間違いなくここに来る」


「どうしてそんなことが、わかるの?」


「俺にはわからないが、知り合いにそういうことがわかる人間がいる。あの子が言うことなら、間違いないだろう」


――あの子? あの子って、どういうこと。どういう人?


もちろん口には出さない。


出さないが気になる。


父の顔には極度の緊張が、私の顔には激しい嫉妬が表れていた。


「そのまま静かにしていて」


言われなくても静かにする。


いま口を開いたら、言うことは一つしかない。


あの子って、誰?




そのまま何事もない。時の歩みがやけに遅い。


愛しい人は父のほうを向いて座っている。


父は目を閉じて座っていた。


あの人が言ったからだ。


「いくらなんでも目を閉じていては、人を襲えません。とにかく目を閉じていてください。不用意に開けてはいけません。目が開いた時は、あいつがとりついたのだと、判断しますから」


さっきから私に背を向けたままだ。


とても強いあの人。


でもあの背中は、あまりにも無防備だ。


今なら勝てるかもしれない。


髪留めを抜く。


長くて硬い。


うれしいことにプラスティック製ではなくて、今どき珍しい金属製だ。


これで首を刺せば、あの男もさすがにくたばるだろう。


あの男は背を向けて、おやじは目を閉じている。


やるなら今だ。


大きな針のような髪留めを構えて、一気に飛ぶ。


この女、女にしては抜群の脚力だ。


俺はとりついた人間の身体能力を上げることができるが、もともと高い人間のほうがより大きく上がる。


この女にとりついてよかったぜ。


これであいつももう終わりだ。あと数センチ……。


はじき飛ばされた。


首にぶッ刺す前に。


俺の壁にたたきつけられて、床に落ちた。


あわてて立ち上がると、あいつが言った。


「気を感じた。おまえの気を。……まさか娘のほうにとりつくとは……まったく考えていなかった」


娘のおやじが目を開けた。


最初は状況をつかみかねる目をしていたが、やがて気付いたようだ。


目の前の現実が信じられない顔となった。


――くそっ!


部屋から飛び出した。


しかしこいつは今までにないほどに、俊敏で軽い体だ。


これならいけるかもしれない。


あいつが迫ってくる。


わざと追わせる。


今夜こそ決着をつけてやる。


アパートの裏にまわった。


草だらけの空き地、そしてその向こうには、もはや廃墟となった工場がある。


――あそこなら、邪魔が入らない。


破れた窓から飛び込んで、中に入る。


中にはわけのわからない機械や道具、製品の材料などがそのままになっていた。


手ごろな鉄パイプを拾う。


長さも重さもちょうどいい。


まるであつらえたみたいだ。


こいつをあのいまいましいやつの脳天めがけて、思いっきり叩き込んでやる。


あいつが来た。


床にはボルトやらナットやら金属の破片やら、さまざまな細かいものが一面に落ちている。


それを踏みしめる音でわかる。


振り返ると、あいつが立ってこちらを見ていた。


なぜかはわからないが、わずかだが戸惑いの表情が見てとれた。


しかしそれを振り払うかのように、右手を強く差し出した。


握った手の左右から、棒状の光りが飛び出す。


黒に近い赤色の光り。


そのうちにそれが、にぶく銀色に光る六角棒になった。


それを両手で構えた。


――なんで人間が、あんなことができるんだ?


いまだにわからない。


一部とはいえ、神であるこの俺が。


だが今は、そんなことはどうでもいい。


この女の体なら、このスピードなら、あいつに勝てるかもしれないんだ。


やってやる。


ようすをうかがう。


あいつもようすをうかがっているのか、動かない。


といいつつ俺も、すんなりとは動けない。


あいつは強い。


とても人間とは思えないほどの強さを持っている。


それはいままでのやりとりで、嫌というほど知っている。


また音がした。


床に散らばるありとあらゆるものを踏みしめる音。


誰かが入ってきたのだ。


それは、とりついた娘のおやじだ。


気持ちはわかるが、おまえが来てもなんの役にも立たない。


父親が娘を殺せるわけがない。


それにたとえ二人で襲いかかってきたとしても、あいつの力と比べれば、百の力をせいぜい百一にする程度のものだ。


それでは逆に、邪魔にしかならない。


あいつが言った。


「どうします?」


おやじが返事をした。


「行きます」


おいおい、うそだろう。


あいつではなくて、おやじのほうが一人でこっちにむかってくるぞ。


本気か? 


身体能力の塊の娘さんには、この俺がとりついているのだ。


おまえがたとえ十人いたとしても、右腕一本で勝てるぜ。


だがおやじは止まらない。


俺のすぐ前まで来た。


するとあいつも動いた。


俺から見て右の方向へ移動している。


――挟み撃ちか? にしては戦力の差がありすぎる。


あいつが先に走った。


俺に真っ直ぐむかってくる。


おやじを無視して、俺はあいつに体を向けた。


鉄パイプを構える。


――やはりあのおやじは、おとりだな。弱すぎておとりにもならんけどな。


横目でおやじを見る。


――いない?


次の瞬間、後ろから誰かが抱きついてきた。


――なに?


と思うひまもなく、すぐ目の前まで来ていたあいつが、六角棒を振り下ろしてきた。


鉄パイプで受ける。


カン


大きな音が響き、俺の両の手がしびれた。


見れば太い鉄パイプも、くの字にぐにゃりと曲がっている。


「いいんですか?」


あいつが言った。


「かまわん、やってくれ。娘のためだ」


と、俺に抱きついていたやつが返した。


おやじだ。


あいつはその声に答えるかのように上から押していた六角棒をくるりと回転させると、下から鉄パイプをはねあげた。


俺の持っていた鉄パイプは、おもしろいように宙に舞った。


――しまった!


するとあいつはなにを思ったのか、持っていた六角棒を地面に落とした。


そして両の掌を俺の、いや女の小柄な体に似合わない豊かな二つのふくらみに、ぴたりと当てた。


――まさか?


「ハッ!」


そのまさかだった。


強烈な気が飛んできた。


あいつの両の掌から。


あいつが気を操れることは知っていたが、まさかこれほどまでとは、思ってもみなかった。


俺の体、神のエネルギー体は押し飛ばされ、すぐ後ろにいたおやじの体にすっぽりと入ってしまった。


生物の体と重なれば、俺は意識しなくてもそれにとりついてしまう。


とりつくときはいつも、自分から重なっていたのだが、強制的にとりつかされたのは初めてだ。


力の吹けた女の上半身が、がっくりとうなだれる。


するとあいつはおやじの胸を、いつのまにか拾い上げた六角棒の先で、軽くとんと突いた。


それだけで俺はおやじの体とともに、あわれなほどふっとんだ。


地面にたたきつけられた。あわてて立ち上がる。


――くそう、このままではやられてしまう。逃げるしかないか。


おやじの体から抜け出そうとした。


人間の体から出てしまえば、あいつに俺を殺すすべはない。


――うん?


抜け出せない。


なんということだ。


おやじの体から出られないのだ。


なにかが邪魔をしている。いったいなにが?


気がついた。


それは意志だ。


――絶対に逃がすものか!


おやじだ。


おやじの意志が、俺をここから抜け出せないようにしているのだ。


――でも、何故だ?


一部とはいえ、俺は神だ。


本体とは比べものにならないくらい力は小さいが、人間と比べれば、これまた比べものにならないほどに、その力は大きい。


人間一人の力で俺の動きを封じるなんて芸当は、とても出来ないはずだ。


しかし強靭な意志を、巨大な力を感じる。


それが俺をここに止めつけている。


恐ろしいほどに迷いのない真っ直ぐな想い。


それがなんであるかが、わかった。


それは愛だ。娘を想う父親の愛がなせるわざ。


「人間の愛の力を、みくびってはいけないよ」


思い出した。


確か、あの白い羽の生えた愛の神を名乗るガキが、そう言っていた。


聞いたときは鼻で笑ったものだが、今なら信じられる。


――これが、エロスが言っていた、人間の愛の力というやつか。


やつが近づいてくる。


どうやら体のほうは自由に動かせるようだ。


おやじは俺をひき止めることのみに集中していて、それ以外のことには頭がまわっていない。


逃げてやる。


でもこの体で、逃げられるのか?




ふと、目が覚めた。


――あれっ、いままでなにをしていたのかしら?


思い出せない。


今いるところは、どうやらアパートのうらにある廃工場のようだ。


でも、なんでこんなところに?


音がする。


なにかが動きまわっている音。


見れば、父が父とは思えないほどの速さで逃げ回り、それをあの人が追い掛け回している。


父も信じられないくらいに速いが、あの人も速かった。


太鼓腹の中年男と二メートル近い大男が、全盛期の私よりもはるかに素早い動きをしている。


それはもはや、人間の動きではない。


窓から漏れる満月の明かりでよく見える。


――あれは?


窓の外に人が立っている。


男が一人。


高村刑事だ。


二人を見ていた。


とうとう父が、隅に追いつめられた。


もう逃げ場はない。


あの人が棒を構える。


そして突き出した。


棒の先は父の顔面に当たった。


父の顔のあったあたりから、赤い霧が舞い上がる。


その霧が晴れた時、父の首から上がなくなっていた。


私は小さく悲鳴を上げ、気を失った。




目を開けると、見慣れた天井が見えた。


どうやら自分の部屋にいるらしい。


あの人と高村刑事が、私をはさむようにして座っていた。


「気がついたか」


あの人の声。とてもやさしい響き。


「……お父さんは?」


ゆっくり首を横にふった。


本当に悲しそうな顔で。


高村が立ちあがった。


「それじゃあ俺は、後始末をしてくるから」


「お願いします」


――後始末! なんのことか、わかってしまった。


そのまま出てゆく。あとはあの人と私の二人っきり。


「……お父さんは、死んだのね」


「……そう。そのとおりだ」


「あいつも?」


「いっしょにな。……これしか方法がなかった。……君のお父さんに頼まれたんだ」


一言一言、絞り出すように言う。


とてもつらそうだ。


「お父さんに?」


「あいつを倒す方法は、一つしかない。あいつがなにかにとりついた時、そのとりついたものを殺すことだ。それ以外の方法はない。……しかしあいつは、昔はそうでもなかったが、最近はそれに慣れてしまったのか、あっと言う間に逃げてしまうようになった。できれば人間以外のものにとりついた時がよかったんだが、それも望めそうにない。……そこで、君のお父さんが名乗りをあげたんだ」


「お父さんが?」


「逃げられない方法は、ただ一つだ。とりつかれたものが、あいつを逃がさないように、強く想うことだ。だが、かけらとはいえ、神だ。なまはんかなことではその自由を奪うことは出来ない。すると君のお父さんが言った。私は娘を心の底から愛している。娘のためなら自分の命など、惜しくはない。だから私ならできる、と。ぜひ私にやらせてくれ、と。強靭な意志と、自分の命をあっさり捨てられる覚悟、この二つがないと、あいつを抑えておくことは出来ない。君のお父さんは、見事にそれをやりとげたんだ」


知らず知らずのうちに、涙があふれてきた。父がそこまで私のことを、想っていてくれていたなんて。知らなかった。最近はずっと、うざいと思っていた。じゃけんに、あつかっていた。


――ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい。


抱きついた。あの人は優しく抱きしめてくれた。涙はとめどなくあふれてくる。


「泣きなさい。今は好きなだけ泣くといい」


泣いた。


おんおん泣いた。


そしてそれは、嗚咽へと変わっていった。




目覚めると、もう朝だった。


泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったらしい。


あの人はもう、いなかった。


あの人が泣く私を抱きかかえてベッドまで運んでくれたことは思い出したが、その先の記憶がない。


学校へも行かずに、また横になった。




再び起きた時は、お昼を過ぎていた。


そのまま誰もいない部屋で、独り、すごした。




夕方ごろ、呼び鈴が鳴った。


出ると、高村刑事だ。


「あんたのお父さんの捜索願、出しといたから」


小さくうなずく。


「それと、お母さんはもう亡くして、ご親族の方も近くには住んでないようだね。……まだわからないが、ひょっとしたら、施設に入ってもらうことになるかもしれんが、それでもいいか?」


また小さくうなずく。


「そうか、わかった」


立ち去ろうとした高村を、呼び止めた。


「なんだい?」


「あの人に、もう一度、会いたいんです。どうしても訊きたいことがあって」


高村は、わかりやすく困った顔をした。


「ちょっと、待ってくれ」


私から少し離れて、誰かに電話をかける。


あの人だ。


しばらく話をした後、戻ってきた。


「会うそうだ」


場所と時間を告げる。


「それじゃあ」


そのまま立ち去った。


部屋に戻り、携帯を手にとる。


ア行のイのところ、〝愛しい人〟。


その携帯番号を削除した。

  



待ち合わせ場所は児童公園だった。


ベンチに座って待つ。


目の前の砂場で、小さな子供達が無邪気にはしゃいでいる。


あまりにも平和なその風景。


平和すぎて、涙が出そうだ。


いつの間にかあの人が、横に立っていた。


大きな体なのに、まるで気がつかなかった。


「やあ」


言いようがないほど、複雑な表情だ。


当然だ。無理もない。


私はあの人が殺した男の娘なのだから。


私もつらいが、あの人も充分につらいんだ。


それが痛いほどわかる。


私と会うだけで、あの人はとても苦しい想いをしている。


――やっぱり会わないほうが、いいんだわ。


「高村さんから聞いた。なんだい? 訊きたいことって」


「名前」


「名前?」


「私まだ、あなたの名前、聞いてないわ」


あの人が近づいてきた。


心臓がはり裂けそうだ。


私の耳もとで、ささやくように言った。


「九龍神夜だ」


離れた。


そして背中を向けて歩き出す。


私はそのたくましい背中を見ていた。


――くりゅう しんや。どんな字を書くのかしら?


背中が止まった。背中のままで、言った。


「一つだけ、お願いがある」


「……」


「強く生きろ」


私は返事を返さなかった。


が、心の中で「はい」と答えた。


背中が再び歩き出す。そして見えなくなった。


それでも私は、見えない背中を見送っていた。


――さようなら、私の初恋の人。




知らないうちに、砂場に入りこんでいた。


そこに座りこむ。


子供たちは砂遊びに飽きてしまったのか、もういない。


指で砂をなぞる。


自分で書いたものを見つめた。


そこには〝くりゅう しんや〟と書かれてあった。


また涙が一粒こぼれた。




     終

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千年狩り外伝 かけらの神 ツヨシ @kunkunkonkon

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