「では話も一段落した事だし、ここらで一休みしようではないか」


 ご主人はカップを手に取り、一口飲む。アイリーンさん達も茶を啜り、おばばはコントみたいに手を震わせて中身を零していった。


「おいおばば、零れてるぞ」

「ん気のせいだぁ~」

「ミルギレッド様。おばば様は、『お気になさらず』、とおっしゃっております。最近では歳のせいか手の力も弱まっていらっしゃるようで、度々こういった事があるのですよ」

「おばば様ー。どうぞこちらをお使い下さーい」

「あぁ、ありがとうございますシム殿」

「んあんがとよぉ~」


 シムさんの差し出した布巾的な布を受け取ると、エマさんはおばばの手や服を拭いていった。その間もおばばはプルプル震えて、皺だからの口をもにゅもにゅ動かしている。


「シム。申し訳ありませんが、厨房の方にもう少し軽いカップはないか聞いてきて貰えますか? あればそちらを使って茶を淹れ直して下さい」

「んいらねぇ~」

「姉さん。おばば様が、『結構だ』、とおっしゃっているわ」

「ですが、おばば様」

「んおばばぁ~、舐めんなぁ~」

「『そこまで気を使う必要はない』、と」


 いや、言ってねぇだろ。と思っているのは、この場で俺しかいないようだ。他の人は「おばばがそう言うなら」みたいな顔で、ソファーに座っている。


「しかし、そうか。おばばもそんな歳なのか」


 ご主人は俺を膝に下ろすと、背凭れに体を預けた。


「妾が幼い頃は、大臣として数々の祭祀を執り行い、隠居後もモファットの賢者としてその知識を遺憾なく発揮しておったのにな。今やカップの一つも持てぬとは。いやはや、あの女傑がなぁ。時の流れとは恐ろしいものだ」

「姫様。失礼ですよ」

「だが、アイリーンもそう思わないか? 昔はほんの少しばかり悪戯をしただけで、それはそれは恐ろしい形相で折檻をしてきたというのに、今や見る影もないではないか」

「姫様の場合は自業自得でしょう。おばば様をあれだけ怒らせたのは、私の知る限りでは姫様以外いらっしゃいませんよ」

「それでもだ。ほれ、昔ならばこんな軽口を叩こうものならば、すぐさま拳骨が飛んできただろう? だがそれがないところを見ると、妾はおばばの衰えをひしひしと感じるのだよ。いやぁ、老いは怖いなぁ」


 と言った瞬間、おばばは持っていた杖を振り上げ、ご主人の頭を叩いた。


 巻き添えで俺にもちょっと当たった。


「な、何をするかおばばっ。そんなもので叩いたら痛かろうがっ」

「ん黙れぇ~、じゃじゃ馬ぁ~」

「『口を慎むように』、とおばば様はおっしゃっております」

「誰が慎むかっ。見ろっ、メータにも当たっているではないかっ。何も悪くないというのに殴られて、なんと可哀そうな事かっ。大丈夫かメータ? 痛いか? ん?」

『だ、大丈夫っす。ちょっと掠っただけっすから』

「そうか痛いか。可哀そうになぁ。どれ、妾が撫でてやろう」


 ご主人は俺を撫で回しては、おばばに文句を言っている。

 ご主人、撫でてくれるのは嬉しいっすけど、俺が殴られたのはそこじゃありません。


「大体、おばばは乱暴なのだ。何でもかんでも力で解決しようとして。おばばに殴られる度、幼い妾がどれだけ傷付いた事か」

「ん馬鹿はぁ~、殴らにゃ直らねぇ~」

「『口で言って分からぬ者には、体に言い聞かせる他はないだろう』、とおばば様はおっしゃっております」

「嘘だ。妾は物心付いた時からずっとおばばに殴られてきたぞ。口で教えられた事など一度もなかった」

「んお前ぇ~、ずぅっと馬鹿だからぁ~」

「おばば様も、初めから手を上げていたわけではないようです。しかし、いくら言ってもミルギレッド様は繰り返すので、仕方なく、とおっしゃっております」

「なにが仕方なくだ。妾とて言って分からぬ女ではない。納得のいく説明であれば、きちんと言う事も聞いただろう。そうでなかったと言うのならば、それはおばばの説明が悪かったのだ。妾のせいではない」


 ご主人は唇を突き出して、プイっとそっぽを向いた。

 途端振り下ろされたおばばの杖。殴られるご主人。そして俺。今度は結構がっつりヒットして、思わず「メェェッ」と悲鳴を上げた。


「お、おのれぇっ、一度ならず二度までも……っ。この暴力ばばあがぁ……っ」

「ん黙れぇ~、じゃじゃ馬ぁ~」

「『お黙りなさいミルギレッド様。口が過ぎますよ』、とおばば様はおっしゃっております」

「ふんっ、暴力ばばあを暴力ばばあと言って何が悪いっ。妾の頭をポコポコ叩きおってからにっ。妾が馬鹿になったらどうするのだっ。傷物になったらどうしてくれるっ」

「ん心配すんなぁ~」

「『この程度では馬鹿にも傷物にもならない』、とおばば様はおっしゃっております」

「んそれ以上馬鹿にはならねぇ~」

「『そもそも、傷物になる事を心配する暇があるのならば、さっさとご結婚相手を選んでしまいなさい』、とおばば様はおっしゃっております」


 エマさんの通訳に、ご主人は言葉を詰まらせた。


「お、おばばに言われなくとも、分かっておる。妾とて、何もしていないわけではないのだ。ただ、相性というものがあってだな」

「……なにが相性ですか。それ以前の問題でしょう」

「な、何を言うかアイリーン」

「おばば様。どうかおばば様からも言って差し上げて下さい。姫様ときたら、面会相手にも他国の使者にも、全く興味をお持ちにならないのですよ? こちらが一生懸命場を設けているというのに、その苦労を無碍にされるような態度ばかりとって」


 アイリーンさんは前のめりになって、これみよがしにご主人を睨んだ。


「先日だって、クライヴ王子とのお茶会を勝手に取り止めにして」

「し、仕方ないだろう。あの時は、その、急に腹が痛くなったのだ」

「その後すぐに、メータ様と遊んでいらしたのは、一体どこのどなたでしたかしら?」


 ご主人は目を泳がせると、罰が悪そうに俺の黒い毛を揉んだ。ブツブツ言いながら、指で毛を挟んではゆっくりと引き伸ばしてくる。


「いいですか姫様。この話ももう何度もしておりますが」

「分かっておる。どうせ真剣に婿を探せとでも言うのだろう。聞き飽きたわ」

「私も言い飽きました。ですが、言わずにはいられないのです。なにも姫様が憎くて言っているのではありません。ただ、私は心配なのです。このままでは、本当に姫様はご婚姻を結べずに一生を終えてしまうのではないかと」

「妾だって、それがどれ程マズい事かは分かっておる。そうならぬよう、妾は妾なりに努力しておる。だから心配するな、アイリーン。大丈夫だ。愛しの幼馴染を悲しませたりはしないさ」


 ご主人は顔を上げると、俺の頭に掌を置いた。


「それにだな。妾には秘策があるのだ。もしもの時はそれを使うつもりよ」

「秘策、ですか?」

「あぁ。ある日ふと閃いてしまってな。それを使えば、婿などあっという間に見つかるわ」

「ではその秘策とやらをさっさと使って下さい。あまり悠長な事をしている暇もないのですから」

「しかしなぁ。妾の力を考えると、焦ってはいかんと思うのだ。気持ちを落ち着かせ、慎重に調節をせねば、もしかすれば失敗するかもしれぬ」


 そう言ってご主人は、俺用の飲み水に手をかざした。ヨタヨタと動き出す水の縄が、机の上をのた打ち回る。


 何かの模様を作ろうとする水の縄を、俺達は無言で眺めた。


「……姫様」

「ん、なんだ?」

「念の為お聞きしますが、姫様のおっしゃる秘策というのは、一体何なのですか?」

「いやなに。こうやって妾の気に入る相手を召喚してしまえば、話は万事解決するのではないかと」


 おばばの杖とアイリーンさんの拳が、ご主人の頭を襲う。

 もれなく俺にも当たっていく。


「な、何をするっ。同時攻撃とは卑怯だろうっ」

「……馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、これ程馬鹿だとは思わなかったわ」


 アイリーンさんはご主人の頭を鷲掴むと、真顔で見下ろした。

 これはヤバい。

 咄嗟にそう判断した俺は、ご主人の膝から逃げ、シムさんの元へと向かった。寄り添う俺の頭を、シムさんは苦笑いで撫でていく。


「いい? 召喚っていうのはね、そんな簡単に出来るものじゃないの。物でさえ色々手順があるっていうのに、それが生き物となると、相当な技術と集中力が必要なの。分かる?」

「い、痛い、痛いぞアイリーン。そんな、ちょ、揺らさないでくれ」

「私でさえまだ上手く扱えないのに、あなたが出来る筈ないでしょう?」

「めり込んでるっ、指がめり込んでるぞっ。もっと力を抜けっ」

「大体、何なのそのふざけた発想は。そんなくだらない事を考える暇があるなら、さっさと結婚してくれる? こっちもね、暇じゃないの。レッディが気にも止めない細かーい仕事をこなしてね、レッディのお世話もしてね、その上自分の仕事もあってね、本当に大変なの。分かる?」

「イ、イリーナッ。取り敢えず離せっ。そして落ち着けっ」

「落ち着いてるわよ、凄く落ち着いてる。えぇ、私は落ち着いてるわ」


 と言いながら、アイリーンさんの手の甲には更に筋が浮き出た。ご主人の悲鳴も大きくなる。

 まるで俺が小さい頃に見た母ちゃんと父ちゃんみたいな光景に、思わずシムさんの影に隠れてしまった。ビビる俺の背中を、シムさんは只管撫でていく。


「兎に角、そんな馬鹿らしい秘策とか考えてないで、さっさと相手を選びなさい」

「ば、馬鹿らしいとはなんだっ。妾は真剣に考えてだな」

「あぁ、ごめんなさい。そうよね、馬鹿は馬鹿なりに考えたのよね。でも所詮は馬鹿の考える事なんだから、どうにも使い物にはならないのよ。早々に諦める事ね」

「貴様っ、さっきから聞いておれば失礼な事ばかり言いおってっ」

「だってしょうがないじゃない。事実なんだもの。馬鹿を馬鹿以外の言葉でどう表現すればいいのかしら? 是非とも教えて欲しいものだわ」

「馬鹿馬鹿うるさいわっ。妾が馬鹿ならばっ、お前など行き遅れではないかっ」


 ご主人がアイリーンさんの手を払うと、勢い良く立ち上がった。


「自分の方が力が強いからと偉そうにしおってっ。そうやって人の気持ちを踏み躙る真似を平気でするから、お前はいつまで経っても結婚出来ないのだっ。この行き遅れめっ」

「な……なんですって……っ!」


 アイリーンさんも立ち上がり、真っ向からご主人を睨み付ける。


「私はっ、あなたの為を思って言ってるのよっ! それを何っ? 都合が悪いからって私を貶したりしてっ。昔っからそうよねっ! そういうところがあなたの結婚出来ない原因なんじゃないかしらっ?」

「ふんっ、何を言うかっ。妾はあえて相手を選んでおらぬのだっ! 出来ぬのではなく、自らの意志でしておらぬのだっ! お前のように、相手もいる癖にダラダラと先延ばしにしているわけではないっ!」

「わ、私だってっ、好きでこうしてるわけじゃないわよっ! でも仕方ないでしょっ? こっちにだって都合ってものがあるのっ!」

「そんな都合など知るかっ! するならさっさとしてしまえっ! メータを子に見立てて遊ぶ暇があるのなら、本物の子でも作ってしまえっ!」

「な、なんで、それを……っ」


 動揺するアイリーンさん。シムさんもびっくりしたみたいで、三つ編みにした髪を飛び跳ねさせてご主人を振り返った。


「妾が知らぬとでも思っておったのかっ! はっ、お生憎様だなっ! 妾は全て知っておるのだっ! なんせ使用人や兵士から、お前らが楽しげにはしゃいでいる姿を逐一報告させていたのだからなっ!」


 二人のリアクションに、ご主人は勝ち誇った悪どい笑みを浮かべる。


「おいおばばっ! そういうわけだから、妾よりも先にこいつらの式を挙げるがいいっ! おばばとて、死ぬ前に孫の晴れ姿を見ておきたいだろうっ?」

「な、何を言うのよっ! おばば様、おばば様はレッディの花嫁姿を見たいですよねっ? 出来るならばレッディの結婚式を執り行いたいって、昔からおっしゃってましたもんねっ?」

「いやっ! 妾よりも血の繋がりのある孫の方が大事であろうっ!」

「いいえっ! 幼い頃より見守ってきた姫の方が大切ですよねっ!」


「ん黙れぇ~、馬鹿共ぉ~」


 おばばの杖が、大きく振り落とされた。

 いい音を立てて、ご主人とアイリーンさんの頭を殴っていく。


 崩れ落ちた二人を、おばばは溜め息を吐いて、エマさんは苦笑いを零して見下ろした。


「ぐぅ……っ、な、何をするか……っ」

「ん馬ぁ~鹿ぁ~」

「ミルギレッド様。おばば様が、『少しは落ち着くように』、とおっしゃっております」

「んそして馬ぁ~鹿ぁ~」

「姉さんもよ。『そうムキになるな』、とおばば様はおっしゃっているわ」

「うぅ、も、申し訳ありません」


 アイリーンさんは、頭を押さえながらソファーに腰を下ろした。ご主人も、唇を突き出したぶすくれた顔で座り直す。

 おばばはそんな二人を見比べると、もにゅもにゅ口を動かしてから、


「んどっこいどっこいぃ~」


 と言った。

 隣に座るエマさんは、更に苦笑いを濃くして、ご主人とアイリーンさんを見た。


「お二方。おばば様が、『どちらもどちらだからどちらも早くしてしまいなさい』、とおっしゃっております」


 ご主人とアイリーンさんは、どっちも罰が悪そうにそっぽを向いている。気のせいか、シムさんも居心地が悪そうだ。誰も何も答えない。


 おばばは鼻を鳴らせて息を吐くと、エマさんを振り返った。


「ん帰るぞぉ~い」

「あ、はい。分かりました。ミルギレッド様。おばば様が、『そろそろお暇する』、とおっしゃっております」

「う、うむ、そうか。では、本日はここまでとしよう。ご苦労だったな、おばば、エマ」


 ご主人が立ち上がると、アイリーンさんとシムさんも腰を上げた。


「シム。帰りの車の手配を頼む。アイリーンは、おばばとエマを客室に案内しろ」

「畏まりました」

「あ、はーい、畏まりましたー」


 シムさんはおばばに一度頭を下げて、部屋を出ていった。俺も一応立ち上がり、見送る体勢を取ってみる。


「ではおばば様。参りましょうか」

「んあいよぉ~ん」


 アイリーンさんに促されて、おばばがプルプル震えながら重い腰を持ち上げた。


 直後、おばばの震えが、止まる。


 開ける顔のパーツを全部開き、そのままゆっくりとソファーに倒れた。

 持っていた杖が、床にカラーンと落ちる。


「お、おばばっ!?」

「おばば様っ、一体どうされたのですかっ」

「んあぁ~、こぉ~」

「なんですかっ? 何をおっしゃりたいのですっ?」


 慌てるご主人達に、おばばは皺だらけの口を静かに開けて、


「ん腰がぁ~、ぎっくりぃ~」


 と言った。


「腰ですか? 腰を痛められたのですか?」

「んそうだぁ~」

「それは大変ですわ。すぐに客室へ参りましょう。エマ、おばば様を運んでちょうだい」

「分かったわ」


 アイリーンさんに指示されて、エマさんは俺用の飲み水に手をかざした。水は空中に薄く広がり、ハンモックみたいな形となる。


「おばば様。少々動かしますよ」


 アイリーンさんは、テーブルの上に置かれた茶をろ過して水に戻すと、それを縄状にした。おばばの体に巻き付けると、ゆっくりと持ち上げ、ハンモック型の水の上へ乗せる。


「では姫様。私はおばば様を客室へ送った後、お医者様の手配やら何やらを致しますので、執務の際はシムに用事を言いつけて下さい」

「あぁ、分かった。おばば、お大事にな」

「んあんがとよぉ~」

「『ありがとうございます』、とおばば様はおっしゃっております」

「それではおばば様、参りましょうか」


 アイリーンさんとエマさんは、おばばを運びながら部屋を出ていった。

 扉が閉まり、部屋には俺とご主人だけが残る。


「……いやはや。おばばも歳を取ったものだ」


 しみじみとした溜め息が、落ちた。

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