「ほれっ、取ってこいっ!」


 ご主人が投げた縄の塊が、回転しながら空を飛んでいく。俺はそれを追い掛けて、芝生の上を駆けていった。

 落ちた縄を咥えて、持ち上げる。そしてご主人の元までまた走った。

 両手を広げて待つご主人。その胸に飛び込む為、俺は中庭を突き進む。


『ご主人、取ってきたっすっ』

「よしよし、よく持ってきたな。偉いぞメータ」


 ご主人の足元に縄の塊を置けば、ご主人はこれでもかと抱き締めて撫で回してくれる。

 その後ろでは、メイドさん達も凄ぇ褒めてくれてた。


「流石メータ様ですわ」

「お上手ですよ」

「凄いですメータ様」


 美人な姉ちゃん方に言われて、まぁ調子に乗らないわけがないですな。

 俺は尻尾をご機嫌に振って、得意げに鳴いてみせた。


「ではメータ。次はもっと遠くへ投げるぞ。出来るか?」

『うっすっ。任せて下さいっすっ』

「よし、その意気だ。では行くぞ。ほれっ、取ってこーいっ!」


 ご主人は体を反らして、勢い良く縄の塊を投げ飛ばした。縄は真ん中にある噴水を越えて、その先の茂みへと向かっていく。

 流石にやり過ぎじゃないっすかね? とは思いつつも、俺は元気良く走り出した。噴水の横を通り過ぎて、茂みの方に進んだ。茂みの中に体をねじ込み、この奥に落ちた縄を探していく。


 どこかなーと辺りを見回すと、左の方に落ちているのを見つけた。俺は小走りで近付き、無事に縄を回収する。

 後はご主人の元へ戻るだけだ。そう思い、意気揚々と振り返って茂みにまた頭を突っ込もうとした。


 ら、俺のすぐ近くで、筋肉ムキムキの馬の尻が揺れ動いた。


 そいつは茂みに生えた葉っぱをモリモリ齧っていて、時々「ベェ」と鳴いている。


 ……うん、俺は、何も見てない。そうだ、俺は何も見つけてないんだ。さ、早くご主人の元へ行こう。そうだ。それがいい。

 必死で自分に言い聞かせつつ、俺は静かに後ずさっていく。


 と、不意に、そいつの耳が揺れる。


 長い角を生やした山羊顔が、こっちを向いた。


 瞬間、俺は素早く踵を返し、走り出した。


『ご、ご主人っ、ごしゅじぃぃぃぃーんっ!』


 茂みから飛び出してきた俺。

 その後ろから、続けて何かも飛び出してきた。

 追い掛けてくるパカランパカランという音に、俺の中の恐怖はどんどん膨れ上がる。「ベェベェ」という鳴き声も、徐々に近くなってきて超怖い。


 必死に走る俺と追い掛けてくるそいつに、ご主人は目を丸くしていた。メイドさん達はキャーキャー言いながら渡り廊下の方へ逃げていく。待って、俺を見捨てないで。


 助けを求めてメェメェ鳴いてたら、突然、首の後ろを思いっきり引っ張られた。

 地面から蹄が離れて、俺の意志とは関係なく体が持ち上げられてしまう。ブラブラ揺れる足が、凄ぇ不安っす。


「おぉ、なんだ。楽しそうだなメータ」


 ご主人が笑いながら近付いてきた。

 全然楽しくないっす。早く助けて欲しいっす。そんな気持ちを込めて見つめてみたけど、ご主人には届かなかったらしい。なんでか「可愛い可愛い」と言って頭を撫でられた。どこが可愛いんすか。苦しくないっすけど、いつ落とされるのか超ヒヤヒヤっす。


「しかしオフィーリア。お前、なんでこんな所まで脱走してきたんだ?」

「ベェ」

「飼育舎から中庭まで、かなりの距離があるだろう。よく誰にも見つからなかったな。いや、見つかったがその強靭な足で蹴り倒してきたのか?」

「ベェ」

「そうか。元気なのは結構だが、あまりうちの兵士を苛めてくれるな。お前に蹴られて自信を失くしたという奴らは、結構いるのだからな」


 宥めるようにご主人が言うも、馬鹿にするみたいな鼻息が、俺の後頭部と首に掛かった。あまりの生温さに身震いすれば、ご主人の視線が俺に移る。


「ん、どうしたメータ? 寒いのか?」

『さ、寒くはないっすけど、ある意味悪寒はするっす』

「そうか、寒いか」


 ご主人は両手を伸ばして、宙ぶらりんな俺を抱き締めた。


「おいオフィーリア、メータを離してやってくれ」

「ベェ」


 掴まれていた首の後ろが解放される。下に下がる体を、ご主人が支えてくれた。

 当たる胸の感触とご主人の匂いにホっとする。俺はハフゥと息を吐き、ご主人の肩に顎を乗せた。


「ベェ」


 と、後ろから声を掛けられる。


 気のせいかもしれないけど、何となく、何となーく、呼ばれた気がした。


 恐る恐る振り返ると、そこには立派な角の生えた山羊顔が、思いの外近くにいた。


『……う、うっす。リーダーさん、ちわっす』

「ベェ」

『あの……いい天気っすね』

「ベェ」


 ……何言ってんのか、全然分かんねぇ。

 でもリーダーさんは、只管俺を見てくる。時々「ベェ」と鳴いてはおばばみたいに口をもにゅもにゅ動かした。多分、反芻してんだと思う。人の顔見ながら反芻とか、結構失礼だと思いますよ。いや、いいんすけどね。


「ではオフィーリア。妾達はこれより日向ぼっこをしてくる。太陽の日を浴びながら寝転がっておれば、すぐに温かくなるだろう。メータの毛もフワフワとなり、正に一石二鳥だ」

『そ、そうっすかっ。なら、早く行きましょうっ。ね、ね。俺、超寒いっすっ。今すぐ日向ぼっこしないと、凍えちゃうっすっ』

「そうかそうか、お前もそう思うか」


 ご主人は俺を抱え直して、俺のクルクルな黒い毛に頬ずりをした。


「まぁ、そういうわけだから、オフィーリア。お前もあまりフラフラしていないで、程良いところで飼育舎に戻るが良い。兵士達も心配しているだろうし、お前の子供も母親が傍におらず不安だろう。脱走を楽しむのもいいが、程々にな」


 ご主人がそう言うと、リーダーさんは鼻息を荒く吐き出し、どこかへと行ってしまった。

 筋肉モリモリな馬の後ろ姿がなくなり、俺は無意識に止めていた息を大きく吐き出した。


「ん? どうしたメータ。なんかお前、急に重くなったな?」

『うぅ、さーせん。でも、今はちょっと大目に見て欲しいっす。力が抜けちゃったっす』


 メェメェ言い訳して、ご主人の上半身に凭れ掛かる。ドーンと飛び出た胸に包まれ、俺の心は少しずつ癒されていく。擦り寄れば、「寒いのか?」と更に抱き締めてくれて、更にドーンな胸が押し付けられる。あぁ、ここは天国っす。


「ミルギレッド様ー」


 ご主人と頬ずり合戦を繰り広げていると、渡り廊下の方からシムさんが現れた。メイドさん達も一緒に戻ってくる。


「そろそろお仕事に戻りましょうー。まだ片付いていない書類が山ほどありますよー」

「妾は戻らん。妾はこれよりメータと昼寝をする」

「駄目ですよー。アイリーン様に怒られますよー」

「大丈夫だ。アイリーンはどうせおばばの看病で忙しいだろう。今日明日はこっちへこない筈だ」

「それはそうかもしれませんけどー、執務室に書類やら何やらが残っていれば、すぐにお仕事をしていないって分かっちゃいますよー?」

「別にやらないとは言っておらぬ。ただ今は、メータと日向ぼっこをするのだ。そう約束したのだ。なぁ、メータ?」

『でもご主人。お仕事はちゃんとやらなきゃ駄目っすよ? またアイリーンさんに怒られちゃいますって』

「そうかそうか。お前も早く妾と昼寝がしたいか」


 ご主人は俺をギュムっと抱き締めると、得意げな顔でシムさんを見た。


「そういうわけだシム。妾は行くぞ」

「いやいやー、行くぞじゃないですよー。困りますってー、私がアイリーン様に叱られますってー」

「たまには良いではないか。お前らだって、いつもメータの躾と称して遊んでおる癖に」

「別に、私達は遊んでいるわけではありませんよー。メータ様が立派な飼いオヴィスになるよう、色んな事を教えて差し上げてるんですー」

「嘘を吐け。では何故、水の柵を飛び越えたり、水で作った玉を追い掛けたり、お前らから逃げ切る必要があるのだ。そんなもの、何の役に立つと言う」

「それは、そのー、こちらの指示をきちんと聞く、且つ、ご自分でも考えながら行動するという訓練でしてー」

「ならば何故、どんどん柵の高さや玉の速さを上げるのだ。何故二人掛かりでメータを追い詰めるのだ。オヴィス相手に挟み打ちや水責めをするなど、えげつないにも程があるだろう」

「う、そ、それはー」

「大体、何故いつもお前とアイリーンの二人でやるのだ。妾を退け者にして、お前らだけでキャイキャイ楽しみおって。ずるいではないか」


 ご主人に睨まれ、シムさんは困った顔をした。言い返す言葉もないのか、うーとかあーとか唸っている。目をあちこちに泳がせて、三つ編みをモジモジ弄った。


「だから」


 その隙に、ご主人は俺を肩に担ぎ上げる。


「今日は妾だけが楽しんでやるのだっ」


 そして、走り出す。

 ガクンと揺れた拍子に、ご主人の背中に顎ぶつけた。肩も腹に食い込んでくる。超痛いっす。

 後ろでは、シムさんとメイドさん達が慌てて追い掛けてくる。でもご主人は、空いた片手を振り上げ、シムさん達を叩くように振り下ろした。


 直後、噴水の水が、波みたいに飛び出してくる。

 シムさん達の頭の上に広がったと思ったら、そのままバシャーンと落ちてきた。


 悲鳴と水しぶきが、中庭に響き渡る。


「ふははははっ! どうだっ、妾とてこの程度は出来るのだぁっ!」


 ご主人の高笑いも響いた。

 凄ぇ悪役っぽいなぁとか思いつつ、俺はご主人の肩にしがみ付く。一応体を支えて貰ってるけど、ガクンガクン揺れるから正直心もとないっす。


 その体勢のまま堪える事数分。

 突然、ご主人は立ち止まった。

 どうやら裏庭まで逃げてきたようだ。俺がシャンプーして貰う時に使ってる池が見えるし、黒い綿花をモフっと咲せているメータの木もある。


 ご主人は辺りを見回しながら茂みの中に入っていき、丁度メータの木の裏側で止まった。


「ここまでくれば、もう大丈夫だろう」


 地面に俺を下ろすと、ご主人も隣に座る。一度大きく深呼吸をして、俺を撫でた。


「どうだ、メータ。ここは中々心地が良いだろう」

『そうっすね。木漏れ日がいい感じっす』

「そうだろうそうだろう。なんせここは、妾の秘密の場所なのだからな。アイリーンさえ知らぬ妾の隠れ家だ。だから誰にも教えてはならぬぞ? 妾とお前だけの秘密だ。いいな?」


 そう言ってご主人は、俺の鼻の頭を指で突く。

 了解っす、と小さく鳴けば、ご主人は笑って俺の顎をくすぐった。それから寝転がり、伸ばした片腕をポンポンと叩く。


「ほれ、ここにこいメータ。妾が特別に腕枕をしてやろう」


 お美しい顔を更にお美しく輝かせて、ご主人は俺を誘う。

 そこまで言われて断るなんざ、男が廃るってもんですよ。

 というわけで、俺は遠慮なくご主人の腕に顎を乗せた。ついでに傍で存在をドーンと主張してる胸にも、さり気なく顔をくっ付けといた。大変至福でございます。


 目を瞑って大満足の「メェェ~」を零せば、ご主人は笑いながら俺を抱き込む。背中や腹を撫でられて、しかも太陽の日差しが暑過ぎず寒過ぎず丁度良く降り注いで、物凄ぇ気持ちいい感覚に包まれた。


「……なんでお前は、人の姿になるのだろうな」


 ウトウトしていたら、そんな呟きが聞こえる。

 ちょっとだけ目を開ければ、ご主人が俺の顔を眺めていた。


『どうしたんすか?』


 って聞いたつもりだったけど、俺の口からは出来損ないの「メェ?」しか出てこなかった。それが可笑しかったのか、ご主人は口元と目を緩ませて俺の頭を撫でる。腹に乗せた手はのんびりとしたリズムで上下して、優しく俺を叩いた。


 俺の呼吸はどんどんゆっくりになっていく。体はポカポカして、もう動きたくない。

 ご主人の心臓の音を感じながら、俺は寝る体勢を整える。


「まさかな……」


 意識が飛ぶ寸前、そんな声が聞こえた気がした。

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