「――やはり、ミルギレッド様でなければ人には変身しないようですね、おばば様」

「んだぁねぇ~」


 向かい側のソファーに座ったエマさんは、おばばと何やら話し合っている。


「『……となると、やはりミルギレッド様とメータ様の間には、何かしらの特別な繋がりがあるのではないか』、とおばば様はおっしゃっております」

「特別な、ですか。姫様、何か心当たりは?」

「そう言われてもなぁ、精々妾が飼い主だという事位しか思い付かないが」


 ご主人とアイリーンさんも話に参加し、四人であーだこーだ言っている。


 そんな中、俺は人の姿で泣きながらシムさんにへばり付いていた。ご主人にチューして貰った事も分からない位、おばばのインパクトは凄かった。

 目を瞑れば甦るおばばのキス顔。

 途端、身震いと涙が込み上げてくる。


『うぅ、す、凄ぇ怖かったっす。今夜はきっと眠れないっす』


 鼻水を啜り、俺はメェメェ鳴いてシムさんの膝に顔を埋めた。本当に辛い。

 これはもう拷問っす拷問。羊虐待っすよ皆さん。

 何が悲しくておばばなんかとチューしなきゃいけなかったんっすか。メイドさんとかエマさんの時点じゃラッキーとしか思ってなかったけど、よりによっておばばって。それならシムさんの方がまだ良かった。シムさん見た目は姉ちゃんだか兄ちゃんだかよく分かんないから、気分的には大分楽なのに。


「はーい、もう終わりましたよー。もう何もしないですよー。だから泣き止みましょうねー」


 シムさんはぐずる俺をあやしつつ、毛布的な布越しに背中を軽く叩いていく。反対の手では俺の頭を撫で、もしゃもしゃと天然パーマを揺らした。完全なる子供扱い。でもいいんだ。だってシムさんは俺の父ちゃんだもん。父ちゃんに甘やかされて何が悪い。寧ろこっちから甘えてくれるわ。

 俺は天然パーマを振り乱して、これでもかとシムさんの太腿にデコを擦り付けた。笑い声と共に、手付きが更に優しくなる。それが何だか嬉しくて、思わず甘えた声を出した。


「ん坊やぁ~」


 ら、どこからともなく不吉な呻き声が聞こえてくる。


 恐る恐る顔を上げれば、もにゅもにゅ口を動かすおばばと目が合った。


「ん可愛いねぇ~」


 ウィンクを食らわされた。


「んおばばぁ~、好みよぉ~ん」


 投げキッスもされる。


 自然とせり上がってくる涙。俺は情けなく体を震わせて、シムさんに必死でしがみ付いた。

 悲痛な羊の鳴き声が、部屋の中に響き渡る。


「随分と怯えているな」

「そうなのですよミルギレッド様。メータ様はおばば様を見ると、すぐに逃げようとなさるのです」

「大方、嫌な事をされると覚えてしまったのでしょう。姫様も、昔はお医者様を見ると逃げ出していらっしゃいましたし」

「む、妾は関係なかろうが」

「ただの一例です。私が言いたいのは、子供とは総じてそういうものだ、という事です」


 子供だけじゃないっす。大人でも、おばばのチューを受ければ誰でもこうなるっす。

 うぅ、まだ鼻の上の辺りにおばばの唇の感触が残ってる……何となくこのまま爛れそうな気がして、俺は甘えるフリをしてシムさんの腹に鼻筋を擦り付けた。消えろっ、消えるおばばっ。


「う、メ、メータ様ー。ちょっと、強いですよー。もう少し優しく、あ、鳩尾はちょ、うぅ」


 上からシムさんの呻きが聞こえた気がしなくもないが、気にせず顔を押し付けていく。


 と、


「めっぷしっ」


 不意に、くしゃみが飛び出した。口から垂れた涎を舐め、鼻を啜る。


 シムさんの腹から顔を離せば、俺の腕はクルクルな黒い毛に覆われていた。体も縮まり、完全にシムさんの膝へ乗り上げている。


「おぉ、戻ったかメータ。ほれ、妾の所においで」


 ご主人は俺の体を持ち上げると、自分の胸に凭れさせた。

 ドーンとした柔らかい感触に、思わず顔から突っ込んだ。おばばにチューされた箇所を、重点的に押し付ける。


「よしよし、よく我慢したな。偉いぞ。褒美に妾が慰めてやろう」

「姫様。そうやって何でもかんでも甘やかすのは止めて下さいと申した筈ですが」

「良いではないかアイリーン。メータは頑張ったぞ? 嫌な事をきちんとこなしたのだ。それ相応の報酬が必要だろう。なぁ、メータ?」

『そうっすよっ。俺頑張ったっすっ。ちょっとは甘やかして欲しいっすっ。お願いっすっ』


 メェメェ鳴いて訴えれば、母ちゃん、もといアイリーンさんは眉を顰めて溜め息を吐いた。


「……次からは禁止ですからね」


 ちらとご主人に視線を送る。ご主人はうむと満足げに笑い、俺を両手に抱え直した。シムさんとは違う柔らかな胸と腕が、俺を優しく包んでくれる。

 うぅ、やっぱりご主人が一番っすっ。俺の傷付いた心が凄い勢いで癒されていくっすっ。

 甘えた声を出しながら、俺はこれでもかとご主人に顔を擦り付いた。


「おぉ、そんなに怖かったか。よしよし、よく我慢したな。褒めてつかわすぞ」

『うぅ、あざっす。でも俺、もう二度とやりたくないっす。おばばはもう勘弁っす』

「そうかそうか、お前は本当によく頑張ったな。どれ、褒美に菓子の一つでもやろうではないか。おい、アイリーン」

「今はお茶の時間ではございません。余計な間食は控えるべきかと」

「良いではないか。これは褒美なのだ。褒めるべき時にやらずしてどうする」

「ですが、あまり与え過ぎるのも、健康に差し支えますので」

「今日だけだ、今日だけ。飼い主の妾が許可しておるのだ。だから今日だけは良いのだ。なぁ、メータ?」

『うっす』


 それに、アイリーンさんもシムさんも、毎日隠れてお菓子くれるっす。メイドさん達もくれるっす。この前なんか、兵士的なマッチョメンもくれました。だから今食べたところで何も変わんないっす。

 だからお菓子下さい、という気持ちを込めて、アイリーンさんを見つめる。ここで騒いじゃいけない。偏屈なじいちゃんに菓子をねだる時は、「腹減ったなー」という雰囲気を醸し出しつつ、でも決して主張せず、只管静かにその時を待っているのが一番効果的なのです。やれそうなら、腹を鳴らしてみるのもありだ。


 そうすると、


「し、仕方ありませんね。今日だけですよ?」


 こんな感じでムスっとしつつも何かくれる。じいちゃんの場合はせんべいが多かったけど、アイリーンさんは蒸しパンみたいな菓子が多いと思う。今も水で描いた模様の中から、蒸しパン的な奴を召喚した。ついでにカップとかポットとかも呼び出す。ここらで一服するつもりなんだろう。


「ほれ、メータ。食べろ」

『あざっす』


 差し出された蒸しパン的な菓子に齧り付く。モチモチした噛み応えと甘さが口の中に広がった。


「どうだ、美味いか?」

『美味いっす。最高っす』


 ビブラート付きでそう答えれば、ご主人は楽しげに笑い、俺の背中を撫でた。


「ところでミルギレッド様ー? 結局メータ様の体の変化に付いてはー、何か分かったのでしょうかー?」


 シムさんが、茶を注ぎながらご主人を見る。


「取り敢えずは、妾のキス以外では変身しないという事しか分かっていない。そうだな、おばば?」

「んだねぇ~」

「『その通りだ』、とおばば様はおっしゃっております。また、関連のありそうな書物はいくつか発見したのですが、断定するには些か時間も足りず、まだまだ研究の余地はあるかと」

「ならば、今は引き続き調査をして貰うしかないな。幸い命に別条もないようだし、まぁ、焦らず原因を究明していけばいいのではないかと妾は思うぞ」


 ご主人は俺にモリモリ菓子を食わせながら答えた。


「では、私とおばば様は屋敷にある文献を洗い直してみますわ」

「私は城に残る資料や、似たような事例がないか調べて参りましょう」

「うむ。頼むぞエマ、アイリーン。おばばも、よろしく頼む」

「ん任せなぁ~」


 おばばはプルプル震えながら、親指を立ててみせた。それにうむとご主人が頷くと、シムさんがテーブルに人数分のカップを置いていく。俺の飲み水も用意してくれたらしい。『あざっす』と礼を言えば、ニコニコと笑ってくれた。

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