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「――はーい、ちょっと上を向いて下さいねー」
そう言いながら、シムさんは俺の顎を持ち上げた。
カクンと頭が後ろに倒れ、そのまま体ごと転がってしまいそうになる。慌てる俺を掴みつつ、シムさんは俺に着せたシャツのボタンを留めていく。一番上までしめて、襟と袖を軽く直した。
「はい、終わりましたー。もういいですよー」
シムさんがそう言うと、部屋の隅っこにいたご主人とアイリーンさんが振り返った。でも二人共、俺と目を合わせようとしない。余所余所しい態度に、何となく不安になる。
思わずシムさんを見上げれば、シムさんは困った風に笑って俺の頭を撫でてくれた。
「ほらほら、お二人共ー。そんな所にいないでこちらへ座ったらいかがですかー?」
「う、うむ、そうだな」
ご主人はぎこちなく頷き、休憩用のテーブルへとやってきた。ソファーに座り、落ち着きなく体を揺らす。アイリーンさんもご主人の隣に座った。
俺もいつものようにご主人の足元へ行こうと、絨毯に付いた手を前へ出す。
「あ、駄目ですよーメータ様ー。人は四つん這いじゃなくてー、二本の足で歩くんですよー」
あ、そうっすよね。しばらく四足歩行だったもんで、つい。
俺はシムさんに両手を支えて貰いながら、両足に力を入れた。
ところが、全然上手く歩けない。
膝はプルプル震えるし、腰は凄ぇへっぴりになるし、自分で言うのもなんだけど、今の俺、超おばばに似てると思う。
そもそも、二足歩行ってどうやってするんだっけ?
膝ってどうやって曲げるんだっけ?
頭ってどうやって支えるんだっけ?
今まで考えなくたって出来てた事が、全然出来なくなっちゃった。羊生活満喫し過ぎたせいだなこりゃ。
まぁ、その内慣れるだろ。いきなり羊になってもどうにかなったんだ。人の姿での生活だってどうにかなるさ。
「はーい、到着でーす。お疲れ様でしたー」
シムさんに引っ張って貰って、どうにかソファーまで辿り着く。いつもはここで絨毯に伏せるんだけど、今日はソファーの方に座らされた。両手を足の間に入れて、倒れてしまわないように支える。
「……で、どうしてこんな事になったのですか」
アイリーンさんが、重々しく口を開いた。
「それが、妾にも、よく分からぬのだ。ただ、メータに本を取らせて、きちんと言う通りに出来たので褒めたら、あっという間にこのような姿に」
「普段と違う様子や行動などを、この生き物はしておりませんでしたか?」
「頭に羽を刺しておったが、それは人に変身する前からしておったから、あまり関係ないと思うぞ」
「では、姫様が、この生き物にいつもとは違う事をなさいましたか?」
「違う……強いて言えば、あまりに愛らしかったので、思わずキスをした位だろうか」
「キス、ですか?」
「あぁ。鼻のこの辺りに」
ご主人は自分の鼻筋を触ってみせた。
「という事はー、メータ様は、ミルギレッド様のキスで人間の姿になったという事ですかー? んー、なんだかおとぎ話のようですねー」
俺の隣に座るシムさんが、そう言ってニコニコ笑う。不安定に揺れる俺の体を支えて、肩をポンポンと叩いた。
そうっすね、と相槌を打ってみたけど、俺の口からは「メェ」としか出てこない。
どうやら見た目は人に戻ったけど、中身は羊そのままらしい。今も反芻したくてしょうがない。いや、やらないけど。流石の俺でも、この姿でゲロ食い直すのはヤバいって分かってる。
「……これは、本当にあの生き物なのですか」
アイリーンさんが、疑いの眼差しで俺を見る。
そうっす、という気持ちを込めて鳴いてみたら、眉を顰めて睨まれた。そんな顔しなくたっていいじゃないっすか。
「間違いない。妾はメータが変身する瞬間をこの目でしかと見た」
「ですが、姫様の目を盗み、誰かが入れ換わったという可能性もあるでしょう」
「入れ換わるならば、兵士なり使用人なり、もっと手頃な者がいるだろう。わざわざメータに成り済ます意味が分からんな」
「ありえないからこそ、あえてあの生き物を選んだのかもしれません。姫様のお命を狙う刺客であれば、我々の想像を超える手段を用いてくる事も考えられます」
「お言葉ですがアイリーン様ー」
不意に、シムさんが口を開く。
「私は、この方は間違いなくメータ様だと思いますよー」
「……その根拠は?」
「まずこちらの首飾りをしている事ですー。こちらはメータ様の為に特注で作られたものですから、同じものは二つと存在しないでしょうー。次に、仕草ですー。私を見上げる様も、ミルギレッド様のお傍へ行こうとする動きも、メータ様そのものと感じますー。何より、これ程独特な鳴き声を、果たして人間が再現出来るでしょうかー?」
「全く出来ない、という確証もないと思いますが?」
「可能性としてはそうかもしれませんがー、しかし、それでも私はこちらの方はメータ様だと思いますー。だって」
と、シムさんは俺の頭を撫でる。
「この毛の色と感触は、間違いないですよー」
自信満々に言って、シムさんは俺の髪をかき混ぜた。クルックルの天然パーマが、目の上辺りで蠢いている。それをアイリーンさんは、しかめっ面で眺めた。
「ほらほらー、ミルギレッド様も触ってみて下さいよー。絶対メータ様ですからー」
「え、い、いや、妾は、その」
ご主人は両手を胸の前で広げ、押し止めるような仕草をする。俺と目が合うと、頬を赤くしてそっぽを向いてしまった。そんなあからさまに無視しなくてもいいじゃないっすか。
「もう、ミルギレッド様ー。お気持ちは分かりますけど、それでももう少し心を落ち着けて下さいよー。一番困惑しているのはメータ様なんですからー」
「う、うむ、そうだな。こういう時程、飼い主がしっかりしなければ、いかんな」
ご主人はソファーに座り直し、喉を二・三唸らせた。泳がせていた目を俺へ向け、ゆっくりと手を伸ばす。若干震える指先を見つめていれば、それは俺の髪を狙っていた。
『どうぞっす』
撫でやすいようにと頭を突き出すと、ご主人は一瞬ビビったような声を上げる。でも、手を引っ込める事はしなかった。呻き声を上げながら、俺の天然パーマの中にゆーっくりと指を突っ込む。
もしゃもしゃと動く髪とご主人の腕。恐る恐るなぞられる感覚に、思わず『くすぐったいっす』と訴えた。
「……メータだ」
ご主人の呟きが、部屋に落ちる。
「この手触り。この仕草。何より妾に撫でられた時に纏う空気が、メータ以外の何者でもない」
頭に触れる指が、掌に変わった。確かめるような、でもいつも通りの動きで、俺の頭を撫でていく。
嬉しくなって、俺は勢い良く顔を上げた。
「あ、いや、も、もう少し下を向いていろ」
頭を鷲掴まれ、思いっ切り押し戻される。痛いっす。不満一杯に「メェ」と鳴いて身を捩れば、ご主人は、
「な、慣れるから、慣れるからもうしばし待つがいい」
と言って、優しく撫でてくれた。それだけで不満が消えていって、代わりに嬉しい気持ちが込み上げる。俺はニヤニヤする口を隠す事なく、ご主人の手を堪能した。
「……では、姫様。姫様はこの者を、あの生き物と断言なさるのですね?」
「あ、あぁ、そうだ。妾はこの者を、我が愛オヴィスであるメータと認める」
「そうですか……」
アイリーンさんは顔を顰めたまま、考えるように視線を落とした。
「なんだアイリーン。納得がいかぬか?」
「……正直に言いますと、その通りです。亜種とは言え、オヴィスが人間に変身するなど、どう考えても可笑しいですもの」
「まぁ、そうだろうな。妾とて、実際に見ていなければお前と同じ考えをしていただろう」
『俺、本物の日辻芽太っすよ?』
「分かっておる。お前を疑ったりはしていないさ」
ご主人は苦笑しながら俺の頭を撫でていく。
「アイリーン。こういった事例について、おばばは何か知らないだろうか?」
「どうでしょう。ですが、何か手掛かりは掴めるかもしれませんね。シム、本日おばば様はいつ頃いらっしゃるのですか?」
「予定では、いつも通り昼餉後ですねー」
「では、その際に相談してみましょう。私の方でも、城にある文献を調べておきます」
「あぁ、よろしく頼むぞ」
「畏まりました。シム。私はしばらく席を外しますので、その間姫様の事をお願いします」
そう言って、アイリーンさんはソファーから立ち上がった。軽く頭を下げ、扉へ向かい歩き出そうとする。
と、突然俺の鼻が、ムズっとした。
あ、と思っている間に顔が歪み、思いっ切り息を吸い込む。
そして、
「めっぷしっ」
くしゃみを一発、吐き出した。
途端、体の中が一気に熱くなる。
体を支えていた腕の力が抜け、頭の重みで前にのめる。
バランスを崩した俺は、そのまま椅子から転げ落ちた。絨毯の上だったから痛くはないけど、でもテーブルの間に挟まって上手く起き上がれない。
驚いているシムさんへ向けて、『助けてっす』と言いながら両手を必死で伸ばした。
つもりだった。
しかし、俺の視界に入ってくるのは、余りに余った服の袖のみ。俺が幼稚園の頃、父ちゃんのシャツをふざけて着た時みたいに、全然手が外に出てこない。足も、ズボンの真ん中辺りで蠢いている。
可笑しいな。さっきまでちゃんと着れてたのに。
不思議に思い首を傾げれば、首周りが妙にモサっとした。
首だけじゃない。シャツとズボンの下にも、モサモサっとした感触が広がっている。
しかも、尻尾らしきものが、ズボンの中で揺れ動いた。
……あれ?
「メ、メータ、お前……」
ご主人がテーブルの上から顔を出す。
目を見開いて、驚いている。
『ご、ご主人。さーせんけど、起こして欲しいっす』
メェメェ鳴いて両手をバタつかせれば、ご主人はポカンとしながらも手を伸ばしてくれた。
そして、俺の胴体を掴み、軽々と持ち上げる。
ご主人は俺を抱えつつ、じっと俺の顔を見つめた。
「……メータ」
『うっす』
「お前……戻った、な?」
あ、やっぱそうっすか。そうじゃないかなーとは思ってたんすよね。
俺は「メェ」と返事を返し、余りに余った袖をプラプラと揺らしてみせた。
そんな俺を、ご主人もシムさんも、アイリーンさんまでもが、口を開けて凝視する。
『そんな馬鹿な』、みたいな顔っすね。皆さん。
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